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森の生活・ウォールデン 佐渡谷重信



森の生活・ウォールデン  佐渡谷重信


 本書は『森の生活ウォールデン』の日本語訳であるが、今日にいたるまで世界的名作としてよく知られている。その理由は原作者ヘンリー・デイヴィッド・ソローの現実的体験を通して人間の在るべき姿を、格調高い文章で明快に語り、すべての時代、すべての人間に人生をいかに生きるべきかを教えてくれるからである。トルストイがソローを師と仰ぎ、インドの哲人ガンジーがソローに学んだのも故なきことではない。

 名作とはその中に《生命エネルギー》を貯えていて、いつの時代にも、人々にそのエネルギーを放射してくれる著作をいう。人間は常に己の愚かさの故に災禍と苦悩にさいなまれていることに気がつかない。今日の時代において、ソローの《生命エネルギー》を感得しない者は人生の半分も生きなかったことになる。否、君は精神の堕落を救済することができず、最後は、人生を見失うであろう。

 このような名作であるから、明治期以降ソローは日本に紹介され、神吉三郎訳(岩波書店)をはじめすでに数点の翻訳が出版されているが、借しむらくは満足のゆく内容ではなく、日本の読者はいままでソローを本当に味読することができなかった。私がここに新訳を世に贈る所以である。浪費社会と自然破壊によって地球が破局を迎えようとしている今日の時代に、われわれがソローに耳を傾け、その知恵と人生哲学を真に学ぶべき時であると信じ、私は賢明なる読者諸氏に本書を捧げたいと思う。

 「ソロー」の精確な発音による表記はむしろ「ソーロウ」に近いが、「ソロー」が伝統的に定着しているのでこれに従った。鳥、魚、樹木などの動植物の名は原則として漢字を採用した。一般的にカタカナ書きが行なわれて学名とされているが、カタカナ文化への堕落を正し、漢字表記の味を読者に満喫してもらいたいからである。

 活字(漢字)は思想の眼である。そして、言葉は一語一語の中に魂を宿し、読者の肺腑をえぐるのである。それ故に、私はなによりも訳語を慎重に選び、明断な文章の完成に力を注いだつもりである。
 私のソローヘの共感は「アメリカ精神と日本文明」(学術文庫収録)にその一端を表明しておいたが、これが一つの契機になって本書を訳出する決心がついた。これも奇縁というべきだろう。しかも、今回のこの翻訳は長年蓄積されてきた私の情熱の結晶であると同時に、ソロー自身の放つ生命エネルギーの結果だと思われる。

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ヘンリー・D・ソローの生涯 (その一)

 ソローは人生の舵手である。そして彼を想えば、自然の讃美者、博物学者、超絶主義者、合理的現実主義者、奴隷解放主義者など、さまざまなイメージが追いかけてくるだろう。要するに現在の人生を最も愛した思索家であった。ソローの師ともいうべきラルフ・エマソンは、ソローが病死した直後、『アトランティク・マンスリー』誌(1862年8月号)で、ソローが選んだ道は「思索と《自然》の学士」になることであり、彼は「富を手にする才能はなかったが、精神が貧困に堕ちない方法」を説いたし、また「想像力が精神的向上と人類の慰藉にとって如何に価値あるものであるかを十分に認識していた」と述べていた。貧富を問わず、ソローが『ウォールデン──森の生活』の中で述べた至言は、一つの肉体であり、一つの精神としてわれわれに働きかけてくれる。それは朝の陽が朝靄をキラリと輝かせてくれるような美しさでもある。その朝靄はわが人生の、はかない一瞬の《時》であるから、自然と共に自由な魂をさらけ出すがよい。そこに自由な愛を求めるがよい。イカルスの愚を再び繰り返さないためにも。

 また、ソローが「市民の不服従」を発表したとき、ウォルト・ホイットマンが「ソローはとらえどころのない驚くべき男であるが、彼は土着の力の一つ、つまり、一つの事実、一つの運動、一つの激動を代表している。(略)ソローはエマソンの人格的偉大さとやさしさをもっていないが、一つの力だ」と明言している。このようにエマソンとホイットマンによる評言こそソローの独自性とその知見の偉大さを物語るばかりか、ソローの存在そのものは一人のアメリカ人にとどまらず、人類を代表しながら、真理の光を永遠に放っていると思われる。では、《真理の光》とは何か。ソローの生涯を語りながら、それを解明してみよう。

 ヘンリー・ディヴィッド・ソローが生まれたのは1817年7月12日、マサチューセッツ州コンコードにおいてである。ボストン市街から北西約二十六マイル、当時二千名ほどの人口の町であった。イギリス産業革命の嵐をまともに受けつつある時代ではあったが、そのように物質主義や、金権主義に支配されることを嫌って、エマソンをはじめ、後の知識人がこのコンコードにいたことはソローの運命を決定していった。ソローの父親はコンコードの北十マイルにあるチェルムズフォドで食料品店を経営していたが、破産してボストンに出ていった。ヘンリーが一歳の時である。その後、1823年再びコンコードに戻って鉛筆製造業になったものの、一家の生活は必ずしも裕福ではなかった。

 しかし、1828年、ヘンリーが十一歳のとき、兄ジョン(十三歳)と共にコンコード・アカデミーに入学するや、ヘンリーの向学心と学力優秀さのため、奨学金を得て十六歳でハーヴァード大学に入学した。ソローは学生時代にギリシャ文学(ホメーロス、アイスキュロス、アナクレオン、シモニデス)、ラテン文学、イギリス文学(ジョン・ガウアー、チョーサーなど)を愛読して頭角をあらわしていた。

 1836年、大学三年生の時、エマソンが『自然論』(Nature)を発表し、物資主義や合理主義を排して、《直観》を重視する超絶主義を提唱し始めていた。そして1837 年、ソローが大学を卒業する年に、エマソンが大学のフラタニティの一つ《ファイ・ベータ・カッパ》に招かれて、「アメリカの学徒」と題して講演、その話を聴いたソローが、アメリカの知的独立を要請するエマソンの熱誠に感銘していった。

 エマソンの『自然論』への共感と、この新鮮な講演によって、人間に最も必要なことは人格の育成にあると信じ、大学を卒業後、九月からコンコードの小学校の教師に赴任した。ところが、当時の教育方針は児童に対して肉体の鞭を打つ教育であった。ソローはその非を教育委員会に申し出たが受け入れられず、二週間で教師を辞職、翌1838年、自宅で私塾を開き、まもなく、昔、通学していたコンコード・アカデミーの名称と建物を借用して、兄ジョンと共同で生徒の全人教育を開始した。

 同時にソローは「ライシーアム」と呼ばれる文化団体が主催する成人のための教養講座で「社会」と題して講演を行った。ソローは二十一歳の若さである。この「ライシーアム」はアリストテレスが哲学を教えたアテネの園《リユケイオン》から命名されたもので、この小さなコンコードの町にもようやく知の種が蒔かれつつあった。ソローが、このライシーアムの書記に選出されたことから、多くの先輩、知己を得る機会をつかみ、1839年にはエマソンと親しくなり、マーガレット・フラー、エイモス・B・オールコット、ジョージ・リブリらの超絶主義者らと交際し、自らも自然に親しむような生活を試みた。

 その最初が1839 年8月31日から二週間、兄ジョンと共に行ったコンコード川とメリマック川の探索の旅である。小舟で激流と断崖、天空の星を包む夜の静寂、天体に結びつけられている生命あるものの運命に目覚めるのである。そのとき、ソローは旅人であり、詩人となった。その頃、ソローはエマソンの邸宅でエレン・シュアール嬢を知り、彼女を秘かに愛していたが、驚いたことに兄ジョンもエレンを愛していたのだった。しかし、勇を鼓して求婚したものの、兄弟そろって断られてしまった。人の愛に失望したソローは、《自然》を恋人のように愛することとなり、以後、若き女性に心を奪われることはなかった。

 1841年、兄ジョンの病気によって、アカデミーはわずか三年で閉鎖した。それに代わるかのように、1840年に創刊された超絶主義者たちの機関誌『ダイアル』に詩やエッセイを寄稿し、エマソン宅に寄寓して編集助手を勤めたり、コンコードの成人教養講座での講師として活躍、同時に孔子やアナクレオンの研究に取り組み、エマソンの『エッセイ─第一集』を心読して、《自己信頼》と《大霊》への想いを深めていった。自己を信頼することは、たんなる空理空論であってはならぬ。自然の中に宿る魂と直接霊的に交流すること、《自然》の中に己を放げ出してみることである。

 そのことを実験しようと決意して、1845年、3月からウォールデン池畔に小屋を建て始め、7月4日、アメリカ独立記念日の日に入居して、以後二年二ヶ月間をそこで暮らした。このウォールデン池畔での生活がソローにとって一つのクライマックスであり、人間生活における経済理念をはじめ、人生のあるべき姿、自然界の動植物への愛情を語りながら、古代史からその知恵を借用して当時のアメリカ社会と人間、政府と権力などを考察し続けた。もちろん、この二年二ヶ月の生活記録が1854年に出版された本書であるが、その間に自己修練に全力をあげると同時に畑仕事、訪問客との歓談、凍結した池や森林の観察などの他、早朝の沐浴と古典文学の読書(特にホメーロスの『イーリアス』をギリシャ語で愛読)を怠らず、そればかりか現代社会にも関心を抱き、エマソンの親友トーマス・カーライルなども愛読していた。そのため、コンコードに出向いて、例の成人教養講座で「トーマス・カーライル」と題して講演したり、森の生活の体験を「私自身のこと」と題して、町の人々の知的向上のために努力していた。

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  ヘンリー・D・ソローの生涯 (その二)

 1846年7月23日(または24日)に修繕を頼んでおいた靴をコンコードに取りに行ってソローは1840年以来、人頭税を支払わなかったという理由で、サミュエル・スティブルズ(収税使兼警察)に逮捕された。ソローの論理によると、自分はメキシコ戦争と奴隷制度に反対である。故に納税することは流血を認め、黒人への不法な弾圧に協力することになるから納税しなかったのである。つまり税金の使われかたも知らぬ人間が最後は政府を堕落させる。ソローは孔子の言葉「国家が道理によって治められている場合に、貧しく、かつ賎しいのは恥である。国家が道理によって治められていない場合に、金持ちで身分の高いのは恥である」を引用して、マサチューセッツ州に対する忠誠を拒否した。その結果、ソローはミドルセックス郡刑務所に収監された。こうして事情は後にコンコードでも講演したが、1849年5月に創刊された『審美文集』誌に「市民政府への抵抗」(後に「市民の不服従」と改題)として詳しく発表した。このようなソローの良心的不服従の理念がトルストイやガンジーに感銘を与えたことはよく知られている。

 ところがソローが刑務所に投獄されたというニュースは当然のことながら、コンコードの町の話題となり、賛否両論の議論が沸騰、大勢はソローに不利であった。驚いたエマソンは刑務所を訪ね、「ヘンリー、君はなぜこんなところに入っているのかね?」と問うと、ソローは「あなたこそ、なぜこの中に入っていないのですか?」と答えたという。翌朝、スティブルズが現われ、ソローを釈放した。昨晩、叔母のマライアがソローに代って税金を納めたらしい(エマソンによるとソローの友人が支払ったという)。この話を聞いたソローは立腹し「私が税金を支払ったのではないから、ここに留まる権利が私にはある」とスティブルズに噛み付いたが、口論しても時間の無駄だと思い、靴屋に赴き、修繕してもらった靴を受け取ってウォールデンの小屋に戻った。

 ソローはこうした行動は1960年代に無抵抗主義に徹した黒人運動の指導者マーティン・ルーサー・キング、あるいはヴェトナム戦争のとき、反戦運動の先頭に立って投獄されたノーマン・メイラーやコネティカット州クエーカー農園の一団にさえ強い影響力を与えている。「人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間のいるべき場所も、また牢獄なのである!」というソローの言葉は、いまなお独裁政治を行っている国々にとっては至言である。その意味ではソローの言動は平和を願い、真の民主主義を個人が奪還するための見事な実践的行動だったのである。

 ソローがウォールデンでの生活に終止符をうった理由は本書の「結び」でも述べているように、「私は生きるためには、もっと別な生活をしなければいけないように思えた。だから、森の生活のためにのみ時間を割くことは出来なかった」し、さらに「人は知らず識らずのうちに、あるきまった生活にはまり込んで、自分自身の慣れ親しんできたやり方を踏襲する」ことは愚かだと信じたからである。常に変化を求めて前進することが、自分の認識力を鈍化させない賢明な生き方であろう。

 このようにしてソローはコンコードに帰ってから講演とエッセイを書く仕事に熱中した。また旅行を親友のチャニングと行ない、そして『ウォールデン』の執筆に精進を重ね、1854年8月4日、ついに本書は出版された。
 1850年代はホーソンの『緋文字』(1850) 、メルヴィルの『白鯨』(1851 )、ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』(1852)、さらに、翌1855年にはホイットマンが『草の葉』を発表するに及んでアメリカ文芸復興の機運がいよいよ興隆し始めていた。しかも、その思想的中核をなしていたものはたエマソン、ソロー、ホイットマンを結ぶ人間中心主義の文学であり、『ウォールデン』はそれを代表していた。

 まさしくソローは清冽な文体を駆使しながら、時代を先取りしてゆく含蓄のある問題意識を提出してくれる。たとえば次のような一文がある。
「記念すべきことが起きるのは朝、大気に包まれた朝である、と言っておこう。ヴェーダの経典には『すべての知恵は朝に目覚める』とある。詩歌も芸術も、人間の最も美しく、記念すべき活動はこの朝の刻限に始まる。メムノンのようにすべての詩人、すべての英雄は曙の女神の子孫であり、日輪が昇る頃、その音楽を奏でるのだ。快活で、活力に溢れた思想が太陽と共に歩む者にとって、一日はいつも朝である。時計が何時を刻んでも、人々がどのような生活をし、仕事をしょうとも問題ではない。私が目覚めているのは朝であり、心には曙が輝く。睡魔に打ち克つ努力こそ道徳向上の始まりである」
 これは私の最も好きな部分であるが、読者よ、朝の目覚めと共に本書を読む者のみが真に《生命エネルギー》を放射することが出来るのである。ソローはその実践者であった。

『ウォールデン』を出版した後、ソローは東洋思想に関する研究を怠らず努力を重ね、また奴隷解放運動の尖兵をつとめたジョン・ブラウン大尉を激励した。それは1857年のことである。その七年前の1850年には逃亡奴隷取締法が制定され、ソローは断固反対して「マサチューセッツ州における奴隷制度」と題して1854 年に講演した。当時ネブラスカ州には一人の奴隷もいなかったのに、マサチューセッツ州には百万人の奴隷がおり、そのような州権力は破廉恥だ! 奴隷制度と奴隷根性を葬れ! とソローは叫ぶのだった。同じ年に行った講演「何の得になる」(後に「無原則な生活」と改題)においても奴隷解放論を展開して、政治的自由と精神的自由の必要性を問うのである。その意味でソローは人間の平等と幸福を追求する真の現実主義者であった。
 
 奴隷解放主義者ジョン・ブラウン大尉が十数名の同志を引率して、ヴァージニア州ハーパーズ・フェリーの武器庫を襲撃し、10月18日に逮捕された。時に1859年7月のことである。このような決死の蜂起に奴隷制反対論者たちからは非難の声があがった。無抵抗主義を主張してきたソローはブラウンの実力行使には必ずしも賛成しなかったであろうが、友人たちの反対を押しきるようにして、10月30日ソローはコンコードで「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」と題して講演し、ブラウンは「良心の命じるままに反抗」した。彼ほど「人間性の尊厳を擁護した者はいなかった」と讃え、このコネティカット州出身者の行動と勇気は、合衆国の政府権力やマサチューセッツ州の認めている逃亡奴隷法や無知な州民にとって「光の天使」だと喝破した。

 ソローはブラウンの絞首刑の判決にふれ「あらゆる北部人にとって、その刑の執行は本当に必要なのか」と疑問を投げかけながら、紅涙をほとばしらせつつ、ブラウンのために泣いた。しかし、哀れにも12月2日、ブラウンは処刑された。当日、ソローは追悼集会に出席し「ジョン・ブラウンの死後」と題して講演し、さらに、彼のために哀悼詩を朗唱した。

 そして1860年を迎えた。ブラウン大尉の死が脳裡に去来していたが、予定されていたコンコード成人教養講座で2月8日、「野生の林檎」と題して講演し、古代における林檎の歴史や野生の林檎の成育、果実の風味にいたるまで解説し、博物学者の面目躍如たるものがあった。しかし、晩春の頃から健康を害し、7月4日に予定されていたジョン・ブラウン大尉の記念集会に欠席し、その記念講演「ジョン・ブラウンの最期の日々」を代読してもらった。ブラウンが処刑される最後の六週間、彼の獄舎の日々、それは「闇のなかを閃光のように走る流星のようだった」とソローは胸を熱くして、その死に想いを馳せていた。このように「市民の不服従」にはじまる国家権力への抵抗と奴隷制度反対というソローのヒューマニズムは、百年後のアメリカ黒人運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師の指導原理となって復活したことは銘記しておくべきだろう。

 ソローの声は、アメリカ合衆国全体の中では、小さなものであったかもしれない。1860年4月3日、幕府使節新見正興を主席とする一行が、ワシントンで日米修好通商条約の批准書を交換し、そして6月16日には一行がニューヨークの歓迎会に出席し、ブロードウェイを行進する。その姿を群集の中に混じって見物していた一人の偉大な詩人がいた。彼こそウォルト・ホイットマンである。さらに11月6 日、共和党から立候補していたエイブラハム・リンカーンが大統領に当選、ようやくアメリカにも自由と民主主義の光が射し始めていた。このように1860年は、アメリカ合衆国における国内政治と対日外交にとって記念すべき年であったが、ソローにとっては不運の年であった。

 12月3日のことである。北風が悲嘆の叫び声を出しながら吹雪を運ぶなか、ソローは樹木の年輪を数えていた。ウォールデンの生活に耐え抜いてきた自信から、思わず風邪を引いてしまった。しかも気管支炎になり、休養を必要としていたのに、医師の反対を押しきって11日には以前からの約束であったウォータベリー(コネティカット州)での講演に出掛けて、ますます体調をくずしてしまった。新年を迎えても衰弱がひどく、ついに転地療養を余儀なくされた。

 1861年5月11日、春の花が咲き始める頃、コンコードを出発してミネソタ州に向かった。同伴者は十七歳のホスラ・マンという青年であった。ミシシッピー川の上流にある保養地までは長途の旅であったが効もなく、7月9日に帰省して自宅で静養していた。そして12月に肋膜炎を併発し、ふたたび1862年の新年を迎えた。すでにコンコードは銀世界に覆われ、ウォールデン池は凍結していた。月が流れて五月にはウォールデンの森に新芽がふきだす頃、この町からひとつの清らかな魂がすーッと天界に昇って、ふたたびこの大地に戻ることがなかった。時に5月6日、午前9時のことである。ソローは東雲きたる前に、心の中で沐浴をすませ、なつかしいウォールデンの池を道づれにしてこの世を去った。四十五歳という若さを誰もが惜しんだのである。病名は結核であった。

 5月9日、午後3時、コンコードの第一教区教会はしめやかに弔鐘を鳴らし続けた。かつて、コンコード成人教養講座でソローの話を聴いたことのある人々が続々と弔問の列をつくり、エマソンが弔辞を読み、ソローの知見を讃え、またオールコットはソローの詩「人生はかくの如し」を朗読した(この詩は人生を一束のむなしい茎に譬えている)。

 このように間引かれた茎はやがて自分の時間を取り戻すだろう、
 それからまた歳月を重ねて、
 《神》が知り給うように、もっと自由な空気を吸うことで、
 豊かな果実と美しい花々が
 咲き乱れるだろう
 その間に、ぼくはここで、しなだれるのだ。

 ソローの棺がニューベリイング・グランドの墓地にしずしずと降され、埋葬者たちが一人ずつ姿を消した。しかし、ソローの精霊は孤独ではなかった。いま、ソローは《大地》に身を捧げることで、認識者として復活したからである。徳を求めず、権力に逆らい、美しく没落していったソローは、『ウォールデン』の中で語ったように、より高き法則をかかげながら、喜悦と情熱の生涯を終えた。ソローこそ、コンコードの生んだ『知の戦士』である。なぜならば、大地を包む夕映えのように、死に臨んで、その精神と徳が輝き、私たちに「黄金の矢」を投げつけたからである。

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