見出し画像

愛しき日々は──洞爺丸事故 菅原千恵子

画像5


線香の一本も上げてやって下さい

 洞爺丸事故で亡くなったのは、私の家から二百メートルほど行った新しい家のお嫁さんだった。生まれて一年も経たない赤ん坊がいて、私は毎日のようにそこへ行って赤ん坊を抱かせてもらったり、背負わせてもらったりしていた。私の赤ん坊好きは有名で、小学校の中学年になるまで、私は夜寝る前に「妹か弟を授けて下さい」とお祈りして寝ない日は一日とてなかったくらいだ。

 人形のように、嘘とすぐわかるような小ささや軽さは気に入らなかった。抱けばずっしりと手応えのある本物に近い重さと大きさがなければ人形でも満足しない。ママー人形とよばれる、仰向けにそれをおいた時に甘く泣く人形もいくつか持っていたけれど、やはりそれは人形でしかなかった。私が欲しかったのは本物だ。

 そしてその本物に一番近いのが、水枕だった。適当な重さととともにぐにゃっともたれかかるような感触は本物に近い。そこで、水枕に自分が赤ちゃんだったときの着物を着せ、五才の私は、本物の母親になりきって遊んでいた。

 身を挺して子を守る母親の話など、どれだけ聞いても飽きることはない。私はそれをやってみたくて、姉が使っている大きな机の上から水枕の赤ん坊を必死に抱きかかえて転げ落ちる遊びを何度となくくり返した。水枕の子供に何の怪我もさせないよう、うまくかばって落ちていたつもりだったが、何度目かには、ついに水枕の止め金が外れてしまったのである。部屋中の四方八方に水が飛び散り、襖もタタミも水浸しとなった部屋を見た母は金切り声を上げて立ちすくんだ。以来、子供の私に水枕を触らせてもらう機会は一切なくなってしまった。

 木の香も快く匂う新しい縁側で、無口なお嫁さんが赤ん坊に乳を飲ませている。その側で、姑がゆで上げて水に浸してあるマユ玉から糸をつむいでいた。
 少し色が浅黒く無口なお嫁さんのお乳は、褐色につやつやに光って、今にもはちきれそうだった。丸々と太った男の子は、チュパチュパと音を立ててお乳を吸っている。

「おいしいのかな?」
 自然に出て来た言葉だった。そして私は急にその赤ん坊がうらやましくなってきた。つい二、三年前まできっと私も飲んでいたのだろうか、どんな味がしたのかどうしても思い出せない。飮んでみたいという気持ちをストレートに出して言うには、やはり恥ずかしかった。五才とはいえ、もう赤ちゃんではないというプライドと、その子をあやしたり抱いたりさせてもらっている立場からも、オッパイを飲みたいとは決して言えない。

「おいしいのかな?」
 私は何度も何度もそれだけを言った。お嫁さんは、口元を少しほころばせて笑うが、それには何も答えない。かたわらにいる姑が、何回目かの私の質問に答えた。
「ああ、うまいよ。このオッパイには砂糖が入っていて、あまーいあまーい味がするんだ」
 姑の手は祖変わらず休むことなく、ぬれたマユ糸をたぐっていた。

画像1

 夏の夕暮れ、私たちが家の前の道路で花火をしていると、子供達がみんな集まって来た。その中にお嫁さんが赤ちゃんを背負って立っている。涼みがてら、赤ん坊に花火を見せてやろうかと思ったのか、子供達の輪の外から赤ん坊をあやしながら眺めていたのを覚えている。

 そのお嫁さんが亡くなったのだという。悲しいとか、気の毒だ、などという感情は私たちには一つも存在しなかった。ただ、大人が声をひそめて語る大事件に、子供達は興奮しきっていたのである。

 お嫁さんが遺体のままで戻ってきたのか、それとも荼毘に付されてお骨で戻ってきたのか、そしてそれは事故のあと何日ぐらいしてからのことなのか、そのあたりは全く定かではないが、とにかく、通夜の準備が同じ町内の者達の手でとり行われた。

 学齢前の子供達は、当然のように母親について行って、邪魔にされながらも、祭りのようにあわただしく人が出入りする家の中をのぞいたり、家の前の道で遊んでいたりした。
「北海道にいるらしいという噂を聞いて、なんぼしても行って探して来るっつうて出ていったんだって。そこで台風にあったんだと」
「残された安坊と婆さまが気の毒でとても見ていらんねえね」
「どうやって安坊を育てて行くんだろ」
 炊き出しをしている女の人の話が聞こえてくる。奥の座敷に姑のお婆さんが赤ん坊を膝の上にのせて座っていた。

 私は赤ん坊をあやすふりをして、こっそり部屋に入っていった。まだ歩けるほどではなかったが、安坊は盛んに伝え歩きをしようとしている。
 お婆さんは気の抜けたような目をして私の方を見ると、一瞬、無理したような笑いを浮かべたが、安坊の立ち上がっては倒れる動作を支えるため、再び赤ん坊の方に手をかざしながら座ったまま、膝だけで移動している。そこへお嫁さんによく似た若い女の人が入ってきて、安坊を抱いて出て行った。お婆さんは再び放心したような目をして座ったまま身動き一つしようとしない。私は場違いなところにいるような気がして、そっとその場を離れ、外に出た。

 どれくらい外で遊んでいただろうか。朝から曇っていた空からは雨が降り出し、私たちが玄関の軒端に避難していると、傘もささず、濡れるのにまかせながらこちらに向かって歩いてくる男の人の姿が見えた。上には茶色の背広を着ていたが、足にはカーキ色のゲートルを巻いている。その姿には何か尋常ではないものがあって、私たちはその男の大が玄関前に立った瞬間、戸口の両側に開いて道をあけた。

 男は静かに玄関の戸を開けたが、何も言わず、ただ立っているだけだった。そこで私たちは、
「誰か来たよ! お客さんだよ!」
 と、大声で奥の人達に告げた。横の廊下からヒョイとのぞいた女の大が、ぎょっとした顔になって奧へ走っていくのを私たちは見た。

「息子さん帰って来したよ。早く節さんに伝えてけさいん」
 その声とともに、すぐ飛び出してきた中年の女性が、玄関に立っている男の人を見るなり、ワッと泣き崩れた。お嫁さんの実母である。
「許さねよ。私は許さねよ。民子がどれほど苦しんだか。苦しんで、そして死にした。あんたみたいなろくでない男を亭主にしたばっかりに。なんぼろくでなくとも、子供の父親だべ。民子は探しに行ったんだよ、はるばる北海道まで」
 切れ切れに泣きながらも、その女の人はぶつけるように若い男に言い続けた。
「今頃何のために帰って来た。帰ってこないつもりなら、ずっと帰ってこなければよかったんだ」

 あとは激しい嗚咽で垓きこんだ。私たちは玄関に立ちつくしている男の人の両脇に立つたまま、一体何が始まったのかかたずを呑んで見守っていた。男は泣き崩れている女の人を前に、深々と頭を下げ、無言のまま勳かない。
 家の中には今にも破れそうなほど張りつめた空気が漂い、玄関までは出てこなくとも、集まっている手伝いの人達が、中で息をこらして、このあとの成りゆきを見守っているのが、玄関にいる私たちにもピンビン伝わってきた。

 そこへ足音も立てず、すっくと顔を上げて背筋をぴんと伸ばしたお婆さんが現れた。男の人が少し動いたが、姿勢はそのままである。お婆さんは玄関のたたきに正座すると、真っ白いかっぼう着を脱いだ。それを横にたたむや、深々と頭を下げて、
「どこのどなたか存じませんが、家の大切な嫁の死を聞いて駆けつけて下さったのでしょう。行きずりの方とはいえ、どうぞ、線香の一本も上げてやって下さい」
 
 お婆さんは、口を真一に結んで、玄関に立ち尽くしている男を見据えた。男は一瞬肩を震わせたような気がしたが、頭を下げたままでその表情はよく見えなかった。動こうとしない男を見ているうち、お婆さんの息づかいか次第に荒くなり、その瞬間、大きな叫び声が上がった。
「どれだけ待たすつもりだべ。ここに来てもまだ待たすつもりか。早く上かって線香をつけでば」

 お婆さんの顔がたちまちゆがみ、お婆さんはきつく目を閉じた。それでも顔は上げたままである。閉じられた一本の細い線のような目から涙がとめどもなく流れ、そのまま流れ落ちるにまかせている。そばにいる者たちも、前掛けやかっぼう着の裾や袖で、みな涙を拭いた。
 男は上がりかまちに腰を下ろすと、片方づつゲートルを巻きとっている。丸い眼鏡の下の鼻筋に沿って、しずくが流れ落ちて、鼻水のようにたれているのを私は見逃さなかった。

画像2

 人の噂も七十五日というが、この時のことはいつまでたっても小さな町の話題に上った。
「お節さんは立派だったよ」
「なかなかあんなふうには振る舞えねえでば」
「お節さんにすりや、息子が帰ってきてうれしくないはずはねえんだもの。それを最初から最後まで他人のままで貫き通したんだから偉いよ」
 当初はお嫁さんへの同情が語られていたのだが、いつのまにか、お婆さんのとった態度のいさぎよさに皆、深く感動した。

 お婆さんは若くして未亡人となり、たった一人の息子が手元に残された。その子を女手一つで苦労しながら育て上げたあげく、今度は息子の徴兵である。彼女は黙って遠い戦場に息子を見送った。そして終戦、もう帰ってこないと諦めていたその息子が戻ってきた時のお婆さんの喜びようを、町の人達はまだ誰もが覚えている。

 しかしお婆さんの喜びは長く続かなかった。戦場から戻った息子は岩出山から一歩も出なかった頃の純情な若者とはまるで違う人間となっていたのである。彼は、どこでどう知り合ったものか、子持ちの人妻と何年間か一緒に暮らしていたらしい。ところが人妻の夫が復員して外地から戻って来たために人妻と息子は泣く泣く別れざるを得なくなり、息子のほうは故郷の岩出山に戻って来たのだという。しかし息子は落ち着かず、別れた人妻か忘れられないことを母親に打ち明けた。母親はその人妻の夫がもうこの世にいないのであれば、何人子供がいても結婚は構わぬが、夫が元気でいる限り、その女性は諦めなければならないと説得を重ねた。

 そのうち、
「なあに、若い嫁さんでも与えれば、男なんちゆうものは落ち着くのだから」
 と笑って世話してくれる人があり、息子は嫁を迎えたのだった。
やがてお嫁さんは身ごもり、出産のために実家へ帰った頃、息子は失踪して消息を絶ってしまうのである。
             
 夫が北海道にいるという風の便りを聞いたお嫁さんは、北海道まで単身探しに行ったが見つけることもできず、失意のうちに帰途についたあげくの遭難事故であった。
 こうした話を私は大人からじっくり聞いたわけではない。大人たちが子供達に聞かせまいと声をひそめて話していたことをつなぎ合わせると見事なまでの物語が完成するのである。私たちはこうして大人の世界を全身耳にして探っていた。

 そして私たちといえば、庭先にゴザを広げて「お客さんごっこ」をするたび、「どなたさんか存じませぬが、どうぞお入り下さい」
 と言いながら、子供ながらに脚色された残酷な遊びを飽きもせず続けたのであった。

画像3


菅原千恵子さんについて
それは1994年だった。一冊の驚くべき本が読書社会に投じられた。菅原千恵子著「宮沢賢治の青春」である。おびただしいばかりの宮沢賢治を書いた本がでているが、菅原さんが投じたその本は、いままでだれも書いたことがないことが書かれていた。まったく新しい宮沢賢治が現れたのだ。この本を契機に、「草の葉」と菅原さんとの交流が始まり、彼女の作品が「草の葉」で連載された。そして一千枚になんなんとする大作「愛しき日々はかく過ぎにき」が投稿されるのだ。その数年後に御夫君から葉書が届けられた。「妻千恵子は数十万人に一人の難病を患い、読み書きが不能になりました。これまでの妻とのご交誼、深く感謝いたします」。彼女は驚くべき作品を私たちに託して立ち去っていった。「愛しき日々はかく過ぎにき」は昭和の時代を描いた、永遠に読み継がれていく名作である。

画像4


いいなと思ったら応援しよう!