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目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ     第19章 (その一)



      目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ

        第19章(その一)

 その頃、渋谷から十二時すぎの終電間際の電車に乗ることが多かった。大倉山の駅前の商店街を抜け、ひっそりとした住宅街に入っていく。街灯のあかりがぼんやりと路上に落ちているばかりでもう人影はたえている。ある夜、いつものようにその通りをちょっと重い足どりで歩いていると、ぼくの背後に何か濃密な影を感じたのだった。しかしその影は同じ方向に帰る人間のものであり、ぼくの思い過ごしなのだと思うことにした。
 しかしその夜もまた尾行されているような影を感じるのだった。気味が悪くなってちょっと歩調を速くしてみた。するとその影もまた歩調を速めるようなのだ。その影の正体を見届けてやろうと、挑むように立ち止まって背後を見た。するとその影はぼくの視線から逃げるように、ふいと構道に姿を消したのだった。ただそれだけのことだった。それもまた思い過ごしかもしれなかった。しかし何かひどく気味が悪かった。
 部屋は真っ暗だった。宏子はまだ戻っていなかった。彼女がいないということも不安にさせた。横浜のマンションに電話をいれてみたが、むなしく呼び出し音が鳴るばかりだった。まだ彼女は大学の図書館でのアルバイトを続けていていた。なんでも膨大な資料の整理が期限を決められていて、できるなら何時間でも残業してほしいとたのまれているようだった。そんなこともあってしばしば帰ってくるのが遅かった。それにかつての大学院の研究室の仲間たちとのつきあいもあって、ぼくよりも遅く帰る日があった。しかしそれでも十二時を過ぎたことなどなかったのだ。
 宏子が戻ってきたのはもう三時に近かった。
「どうしたんだ。電話ぐらい入れてくれよ」
 ぼくは不機嫌に怒りをむきだしにして言った。彼女は酔っていた。なんだかずいぶん飲んできたようだった。
「ごめんなさい。すっかり忘れてしまったのよ」
「帰るのを忘れるほど飲んでいたのか」
「そう、忘れてしまうほど、なつかしい人たちに会ってきたのよ」
「いったいどこで飲んだというわけだ」
「横浜のホテルで、剛たちと会ったの」
 剛とはかつてただならぬ関係にあった男ではないか。レストラン《西洋軒》の若いシェフだった。ぼくのなかに猜疑と嫉妬の渦がわきあがった。
「剛ったら、昔の仲間を呼び出しわけ。なつかしい顔がそろってちょっとした同窓会っていう感じになったの。みんな一人前になって、もう子供が二人もいるなっていう人もいたりしておかしかったわ。それで、みんなでドライブしようということになったの」
「それで君もそのドライブにつきあったわけか」
「そうなの。昔みんなでよく三浦半島を一周したのよ」
「今夜も三浦半島を一周してきたわけだ」
「そうなの。あの頃のことが蘇ってきて、なんだかすごく悲しくなったわ」
 彼女はなにかうきうきした調子だった。そのことがぼくをさらにいらだだせるのだ。
「それで、彼がここまで送ってきてくれたのよ」
「そいつはよかったな」
 とぼくは毒づいた。怒りがそこまて迫ってきた。
「電話を入れなかったのは、あやまるわ」
「男とドライブしてたら、電話なんてできないだろうよ」
「ただドライブしただけでしょう。それだけのことでしょう」
「時間を考えてみろよ。夜中の三時だぜ」
「でもあなただっていつも遅いでしょう。あなたの帰宅はいつもいつも夜中じゃないの」
「それは、ぼくのは仕事じゃないか」
「仕事だけなのかしら」
 こうしてよくある犬もくわない喧嘩になっていったのだ。しかしその喧嘩は、ぼくらの新しい危機の一つのシグナルだったのかもしれない。このところぼくらの間に透間風のようなものが吹いているのだ。あんなにぼくたちは近くなり、ふたりは溶けあったようにみえたが、またなにかが変わってきていた。彼女がまたぼくから離れていこうとしているようにも思えるのだった。その原困の大半はぼくにあったのかもしれなかった。そのころ雑誌の編集は、ニューヨークにむけて最後のコーナーを曲りかかるという山場にさしかかっていた。明けても暮れてもニューヨークだった。週の半分はタクシーで朝帰りだし、日曜日もほとんどが仕事でつぶれた。そんなことの罪ほろぼしもあって、その日の昼下がり宏子を千鳥ケ淵のFホテルに呼びだした。
「ここ、思い出すわね」
「うん」
「なんだかとても心がしめつけられるところなの」
「どうして?」
「だってあのとき旅立つ五日前だったの」
「よく覚えているな」
「なんでも覚えているわよ。あなたとあったことは」
「君の就職祝いに、なにを贈ろうかってずっと考えていたんだ」
「この前もあなた、ここで同じことを言ったのよ」
「そうだったかな」
「そうよ」
「それで、これから君にプレゼントしたいんだっていう台詞も同じなのかな」
「そう、同じなの」
「それじゃもうわかってしまったんだね」
「わかった。あなたの贈り物」
 と彼女はうれしそうにいった。
 そのホテルの前からタクシーを巣鴨まで走らせた。待ち合わせた場所の安っぽい構えの焼肉レストランに入っていくと、店の奥から日本チャンピオンは飛びだしてきた。そして宏子に一輪の薔薇を差し出して、「おめでとうございます」と言った。
「あら、どういうこと」
「あなたがくるってきいたものですから」
「うれしいわ。ありがとう」
「高校の先生になるそうですね」
「そうなの」
「ぜったいにあなたはいい先生になれますよ」
「あら、なんだかずいぶんお世辞がうまくなったのね」
「いえ、まだだめですよ。女の人の前にでるとあがっちゃって」
 彼の姿を最近しばしばテレビでみかけるようになった。コマーシャルに出ているのだ。それを最初に見たとき、なんだかぼくの知っている真吾ではないように思えた。しかししばらくぶりに会った真吾は以前と同じだった。割り勘にしてくれといった素朴さは少しも消えていなかった。そのことがとてもうれしかった。
「あなたのコマーシャル、とてもいいですね」
「ああ、あれですね」
「落ちこぼれだったぼく。いつも落ちこぼれだったぼく。しかし負けないものがあった。これだけは人に負けてはならないものがあった」
 とぼくはコマーシャルの声を真似て言った。
「あれは、あなたのことなんでしょう?」
「そんなことはなかったですね。自分はわりと勉強できた方なんです。わりといつも成績はよかったです。でも、あんなものに出たくなかったですよ」
「あら、どうしてなの。とっても素敵なコマーシャルじゃないの」
「ああいうことをやれば、それで駄目になっていくって先輩からきかされていましたしね。本当はやりたくなかったんです」
「お金が駄目にしていくってことかしら」
「金なんて、ほとんどぼくのところには入ってこないみたいですよ」
「どうして?」
 とぼくたちはびっくりして訊いた。
「全部会長にまかせていますから」
「それはまずいな」
「仕方がないんです、この世界は。いまは金のことはなにも考えたくないです」
「それはよくわかるけど」
「あれでなんだかぼくの生活は、ぜんぜん狂っちゃって。どこにも出ていけないですからね。気軽に歩けなくなっちゃったんです」
「そういうことで駄目になっていくのかもしれないな」
「負けたら終わりですからね。この世界って負けたらもう最後なんですよ。負けない自分をつくることで、あんなことは関係ないことなんですよ。いつも負けない自分にしておかなければならないってことがずっと頭にあるんです」
「でも日本チャンピオンだからね。それだけあちこちで騒がれるのは仕方がないことだと思うな。そういう騒ぎから逃げるんじゃなくて、そういうことも飲み込んで、超然としているってことができればいいんだよね」
「なんだが自分でないものがつくられていくようで、そのことがとてもいやですね」
「うん、よくわかるな。ずいぶんつらいところにいるんだな」
「自分は、思うんですよ。自分が敗れるときっていつかあるわけでね。それはいつか必ずくるわけです。そのときまで自分はぜったいに忠誠を誓おうと思ってるんです。自分に悔いの残らない生活をしようって。それで負けたらそれだけのものだったって、あきらめもつくはずですから」
 無口だと評判の彼は、ぼくらの前ではよく喋ってくれた。この日もまるで彼のなかにずっとためこまれていた言葉を、一つ一つ吐き出すように話したのだ。彼はとても宏子のことが気に入っているようだった。別れるのがとても借しいというように宏子にむかって、
「実藤さんから、あなたの就職祝いにぼくの話をきかせてくれなんて言われたけど、ぼくには話すものなんてなにもないんですよ」
「そんなことないわ。あなたと会っていることだけで素晴らしいことなの」
「自分にはボクシングしかありませんから。今度一月にやるんです」
「ええ、知っているわよ。どんなことがあっても見にいきます」
 彼はとうとう世界チャンピオンに王手をかけたのだ。彼はいつも言っていた。日本チャンピオンではだめです、日本チャンピオンなんてこの世界ではゴミみたいなものです、世界チャンピオンにならなければほんとうの勝者とは言えないんです、と。真吾は世界の頂点の立つ日がもうすぐそこに追っていたのだ。
「ぜったいにきてください。そこであなたにぼくの就職祝いをプレゼントしますよ」
「ほんと、うれしいわ。ぜったいに見にいきますよ」
 彼と別れると、宏子はぼくに言った。
「ボクシングって、一番神に近いスポーツだと思わない?」
「それはいえるよ」
「あの人すごく真面目なのね。息苦しいばかりにひたむきに神さまとむきあっている。緊張の糸をぴんとはって。あんな生き方もあるのね」
「うん、彼はひたむきだ、ひたむきに生きている。戦いの糸が切れないようにね」
「あの人は敗れる日がわかっているのよ。敗れる日にむかって走っている。だからひたむきに走っているのよ」
「もっと楽にして、楽しみながら走ればいいのにな」
「でもそれができないんだと思うわ」
「そうなんだ」


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