配達は愉しい 山崎範子
谷根千三十九号が刷り上がって今日で五日目。さすがに配達の自転車を漕ぐ足取りが重くなってきた。
MとOと、今は名古屋に住むTとそして私の四人が、熱病にうなされたように毎晩雑誌作りの話をして、出会ってから四ヶ月後に地城雑誌「谷中・根津・千駄木」は創刊した。夢と勢いだけが売るほどあった当時から、丸十年がたつ。
三十九号の特集は「坂」。上野台地と本郷台地が、それぞれ私たちの活動範囲の東端と西端で、その中央が昔、藍染川と呼んだ川筋の低地となる。だから、どこに行くにも何をするにも坂の上り下りに明け暮れる毎日。
ナルホド、坂をテーマに話を聞けば、人の出会いや別れ、そして再会。「天空に口を向けた壺のような空間」「坂のある町を歩くと空がきゅうに近くなったり、遠くなったり」と町に住んだ画家の棚谷さんや詩人の諏訪さんは語ってくれた。ロマンがあるなあ。
ケレドモ、今の私たちはそんな甘いことを言っていられないものね。今回、特集を担当したOはリードの文章に、
ジャガイモ下げてズッシズッシとのぼる坂
谷很千の配達はいつも坂で苦労する
生活するためにこんなやっかいな道はない」
と書いた。
さあ、配達! と仕事場を出るとき、およそ七百冊の谷根千を自転車に積む。たった四十八ページの小冊子だけれども、これだけ集まるとけっこう重い。最初のうちは車体がブルブル震えて、ハンドルを取られそうになった。よく急ブレーキをかけては派手に自転車ごと倒れた。その頃から比べれば、名人の域に達するくらい、荷物満載の自転車乗りは上達したような気がする。
この十年間で最悪という倒れ方は、上野駅前の昭和通りを渡っている最中だった。うしろから私の横をすり抜けようとした子どもの自転車が、私の車輪にぶつかってバランスを崩した。あいにく上野を配達はじめにして、浅草、入谷、根岸、三の輪を回るつもりで目一杯積んでいたものだから、荷台のゴムがちぎれて雑誌の包みが道路に飛び出した。信号は赤になる、子どもは泣く、車はクラクションを鳴らすで往生した。まず子どもにけががないのを確かめて泣くんじゃないといい、次に雑誌の包みを拾って路肩に置き、最後に子どもと私の自転車を脇に寄せた。そうそう、クロネコヤマトのお兄さん、手伝ってくれてアリガト。
もうひとつ。東大農学部前の通りを走っていたとき、尾長が顔をめがけて飛んできた。「あ、鳥!」と上を向いた瞬間に右目上に火花が散った。どうしても目が開けられないので配達を中断して仕事場に戻る。「これでモシモのことになったら、Yはいい奴だった。最後まで馬車馬のように走っていたって皆に言ってあげるね」などと笑いながらMがタオルで冷やしてくれた。
十年間の間に雑誌を委託する店は少しずつ増えて、現在は三百ほどの場所に手分けして配る。新しく開店する店もあれば、閉じる店もあり、たった十年でもひと昔、栄枯盛衰があるのだなあ、と町を走りながら感じる。
私は今、地域内の九十軒、地域外の七十一軒の配達を受け持っている。そのうちの十数軒は「夜の店」。子どもの寝静まった十時すぎ、おもむろにジーンズ、スニーカー姿で夜の町に出る。この辺りは私が育った町に比べると驚くほど風紀がよくて、静かなものだ。冬の寒い日などは、私ばかりが貧乏くじ引いて配達しているような気もしないでもないのだけれど、これはこれで楽しい仕事。
今晩の一軒目、映画狂の店主の居酒屋〈天井桟敷の人々〉に向かう途中、学童保育で顔見知りの父母達に出会う。
「ナニしてんの? 一緒に飲みに行かない? もしかして仕事、大変ね」
なんて看護婦のお母さんに言われるとかえって恐縮してしまう。
洋食の店〈スマイル〉のお兄さんは雑誌をよく読んでくれて、店の空いている日はつい話込んでしまう。根津の辺りを数軒まわり池之端へ。〈楽屋〉というシャレた看板が取り外されていた。どうしたんだろうか。
〈オウ・ド・ヴィー〉というバーに向って谷中の坂を下る。ここさえなければ夜に坂をのぼらなくてもいいのに、と少しくさるけれど、実はここのマスターの新田さんのファンでもあるのだ。帰りは車の絶えた坂道を、手離しジェットコースターで下る。最高。 お金の無さそうな人で満席の〈あかしや〉、お金のたくさんありそうな人で混む〈美奈子〉。お店とお客さんて、いつの間にかよく似合ってくるから不思議。店の混み具合や雰囲気で、いろいろなことがわかってくる。この店、続くかな? と思った次の配達の時、「閉店」の貼り紙を見て胸が痛む。やさしいおかみさんは雑誌を精算したあとに、いつも台所脇に私を呼んで、ちょっとした料理をつまませてくれた。
さて、夜の配達の最後は〈ココナッツ〉。このスナックは夜の十時頃から明け方まで閧いていて、千円札一枚でもなんとかなる店。ジュークボックスがあって百円で四曲、大好きな石川セリの「八月の濡れた砂」も聞ける。ここで私の住むD坂マンション仲間の安達さんが、配達の終るのを待っていてくれる。谷中墓地脇に住むキクちゃん、静かに話す太田さん、谷中でカレー屋さんをしているハルさん、建築家で酔っぱらいの吉田さん。谷根千三十号の映画特集を作る時、ここで映画や町の映画館の話を皆に聞いた。飲みながらの取材が終ったらもう外はうっすらと明るくなっていたっけ。でも、この時の取材ノートは解読不可能な文字が延々と続くだけで役立たずになってしまった。
「お疲れさま」と安達さん。オシボリに冷えたビール。あーあ極楽。
こうして遊んでいるのか働いているのかわからない一日が暮れ、明日もいかに坂を上り下りせず配達するか、思案するのだ。
ただいま山崎範子「谷根千ワンダーランド」鋭意制作中。彼女のエッセイは魅力あふれている。相棒のMORIは何十冊の本を刊行しているのに、どうして山崎範子の本が一冊もないというのはどういうことなのだろうかというのが、この数十年もの疑問であったのよ。