クリスマスの贈物
クリスマスの贈物
私の朝ははやい。四時に起きなくてはいけないのだ。まだ人々が眠りについている町のなかを自転車をとばして販売店にむかう。私の受持ちは荏原五丁目から六丁目にかけて七十軒。全部を配り終わるのが七時半ごろだった。それから急いで家にもどると、ご飯をたべて学校にいく。そしてまた午後、学校から帰るとすぐに販売店にいく。タ刊を配らなければならないのだ。
新聞配達って、雨がめちゃはげしく降っている日とか、この間のようにどかっと雪が降った朝などちょっと大変だけど、仕事そのものはたいしたことはない。それよりも一番つらいのは、なにかいつも時間を気にしていなければいけないというか、いつも時間にしばられているということだった。放課後なんかも友達とおしやべりに熱中していても、すぐに時間がたって、
「あ、大変、もう時間だ!」
と言って、大急ぎで家に帰るのだ。
夜もまた見たいテレビが九時からとか十時からとかにある。それを見たいと思うけれど、明日また四時に起きなければならないと思うと、ついがまんしてしまう。だから新聞が休みの日などは、ああ、明日は休みなんだと思うと、からだの底からにこにこしてしまうのだった。
私がどうして新聞配達などはじめたかと言うと、一年生のとき、ともえちゃんという子と同じクラスだった。放課後、みんなでぺちゃくちゃと話していたら、突然ともえちゃんが、いま何時、いま何時って騷ぐので、みんなで職員室の前にある時計をみにいった。すると四時だったのだ。ともえちゃんはいま私がよくやっているように、
「あ、大変、時間だ!」
と叫んであわてて帰ろうとする。私はどうして時間なのときいたら、なんでも最近配達する人がいなくて、私がバイトで新聞を配っていると言った。
そのとき私は突然、ともえちやんに、私にもそのバイトさせてと言ったのだ。そしてその日のうちに、ともえちゃんのお父さんに会って、新聞配達することにきめてしまった。
その夜、仕事から帰ってきた母に私は言った。
「私、あしたからアルバイトするから」
母はその意味がよくわからなかったからか、軽くうけ流すかのように、
「なんのバイトするわけなの」
「新聞配達の」
母ははじめて事態の大きさに驚くと、
「どうしてそんなことはじめるの。そんなことできないわよ。あなたはまだ中学一年生になったばかりでしょう」
「でも、ともえちゃんだってしてるんだから、私にだってできるわけよ」
母はそのときなんだか急に顔をくもらせたかと思うと、その目に涙をにじませている。私の家には父がいなかった。父は三年前になくなったのだ。だから私の家は、母がパートで働いているお金で生活をしている。だからなのか母はしめった声でこう言った。
「私の家は貧乏だけど、でもまだよっちゃんに働いてもらうほど、おちぶれてないと思うけど」
私はなんだか母を悲しませまいと、あわてて言った。
「そうじゃないのよ。ほら、お父さんの美術館の話」
「うん、うん」
「あれって、ものすごくお金がかかるでしょう。私もいまからお金をためなくちゃいけないと思うのよ。ともえちゃんの話をきいて、ああ、そうなんだ、もう私にだって、お金をかせげるんだってことに気づいたわけだから」
それは母と私と妹、つまり私の一家の夢だった。どこか森のなかに小さな美術館をつくるというのが。
でもそのとき私がアルバイトをしたいと思ったのは、やっぱりなんといってもお小遣いがほしかったからだ。中学生ともなるといろいろとお金がかかる。シャーペンとか、手帳とか、ノートとか。もちろん洋服だとかCDとか。原宿なんかにいくと買いたいグッズがいろいろとある。でもそんなことは母にたのめないことだから、やっぱり自分でバイトする以外にないと思っていたのだ。
でも私がその新聞配達のバイトではじめてお金をもらったとき、それははるかにお小遣いの範囲をこえていたから、みんな母に差し出すと、母はそのお金を貯金してくれた。その貯金通帳の口座名が、
《黒木俊雄の美術館をつくる会》
となっていた。
そのとき母はしみじみとした口調で言った。
「毎日の生活がきりきりまいでそんな余裕がなかったけど、よっちゃんのおかげでとても現実的になったわね。なんだかほんとうにできるように思えてきたわ」
すると妹までも、
「あたしもお姉ちゃんみたいに中学生になったらバイトするから」
「そうね。東京じゃとても無理だけど、どこか小さな村の森のなかならば土地だって買えるし。この通帳、私たちの希望ね。ありがとう、よっちゃん」
そうなのだ。それは私たち一家の勇気なのだ。
私の父は無名のままに倒れた画家だった。わずか三十八歳の命だった。その早すぎる死が、父にとってどんなにくやしく無念だったかということが、いまでも鮮やかに思い出すことがある。
それは私が小学校三年生のときのことだった。私は父に連れられ、鳥取の小さな町にある父の実家にいった。父はほとんどそこに帰ることがなかった。なんでも実家では、ずうっと父の結婚を反対していて、父の父、つまりおじいさんが死んだときだって、母が葬儀に出ることを父の兄、つまりおじさんに反対されたぐらいなのだ。そんなわけで私がその大きな家にいくのははじめてだった。
その家には、私とちょうど同じ年の景子ちゃんという子がいて、父が私を連れていったのは、その子と遊ぶためという口実だったが、いまはっきりと思うのは、父の用事は子供を連れていったほうが、うまく運ぶと考えたのではないかと思うのだ。子供をだしにつかわなければならないほど、そのときの父は、つらいぎりぎりのところに追いつめられていたのだ。
そのとき私は景子ちゃんと喧嘩してしまって、二階の景子ちゃんの部屋からおりてきて、居間のとなりにある広間で絵本を開いていた。居間では父とおじさんがひそひそと話しをしていた。そのとき、
「五百万だって!」
というたたきつけるような、おじさんのはげしい声がとんできた。私は大人の話はきいてはいけないと思ったけれど、おじさんの声はだんだん荒く大きくなるから自然にきこえてくる。
「五百万なんて金がどこにあるんだ」
「ですから、おやじの遺産があるわけでしょう。ぼくの取り分があるはずです。そのなかから五百万を賃して下さいと言っているんです」
「そんな金はないよ。あってもだせないね。それはおやじの遺言でもあるわけだよ。おやじはあれほど、お前が絵を画いていることを、嫌っていたじゃないか。腐ったような生活から足を洗うまで、この家の敷居をまたがせないと、いったい何度言ってたと思う」
「そうじゃありませんよ。おやじは最後にはわかってくれましたよ。病院のベッドのなかで、ぼくを励ましてくれました。だからぼくはさめざめと泣いたのです」
「あれはおやじが、もう正常な思考力を失っていたからなんだ。いつもお前の生き方には反対していた。結局どこまでいっても同じじゃないか」
「ですから、いままでの生活におとしまえをつけるというか、一つのけじめをつけるために個展を開きたいんです。そのためにどうしてもその金がいるんです」
「そんな金は自分でつくればいいじゃないか」
「ぼくの取り分というものがあるはずですよ。ぼくにはその金がいま必要だからまわしてほしいと言っているんです」
しかしおじさんの声は激高して、父をはげしく罵倒するのだ。一円の金にもならないガラクタばかりを描いているとか、生活をぜんぶ女房にまかせているお前は人間失格者だとか、どこまでいったら目覚めるのだとか、お前の生活そのものが腐っているからだとか。私はおじさんのそのはげしい罵倒に、だんだんこわくなってピアノの下にどんどんもぐりこんでいくのだった。
父はじっとその罵倒にたえているかのようだった。父は黙りこんでいる。その深い沈黙は、もう完全に打ちのめされてしまったのかと思ったほどだった。やがてそのこわいほどの沈黙をやぶって、父がぼそりと言った。
「兄さん。ぼくはもうだめかもしれないんだ」
「なにがだめなんだ」
「どうも胃がやられているようなんだ。なんだかガンのような気がするんだ」
するとおじさんは、ばさりと何かを投げつけて、火がついたように叫んだ。
「お前という男は、そこまで成り下がってしまったのか! そんな嘘までついて、金を無心にくる哀れな人間に成り下がったのか! ガンなどといえば、だれかが哀れみをみせてくれると思っているのか。もしそれが本当ならば、それはいままで自堕落な生活をしてきたお前にくだった天罰というものだ。そこまでお前は腐っていたということなんだ!」
それは後でわかったことだけど、父の友達に斉藤さんというやっぱり絵をかいている人がいて、その人は絵の世界でデビューするために銀座で個展を開いたらしい。その個展が新聞記事になったりして、ちょっとした成功をおさめた。父はその人のアドバイスを受けて、銀座の画廊で個展を開こうと考えていたのだ。その個展にそれまで父の描いた作品を展示する一方で、作品のカタログを作ったり、案内状を配ったりする。そんなことをするにはものすごくお金がかかる。父がおじさんの家にいったのはそのためのお金をつくるためだったのだ。
私の家はたしかに貧しかった。いつもお金に困っているところがあった。その原因が私にもだんだんわかっていた。とにかく父は絵ばかりかいている。でもその絵はさっぱり売れないのだ。というよりも売るためにかいているわけではなかった。だから私の家は、母がパートで働いているお金だけでやっていた。だからそのときおじさんが父のことを罵倒したことも少しはわかっていた。でも私はそのときも、そしていまでも、父をあんなふうに罵倒したおじさんを、心の底では許してはいないのだ。
私は父の絵が好きだった。父の絵はなにか人の心をはげしくかきたてるものがある。それは母も同じで、いつも私たちはこんな会話をかわしていた。
「お父さんは世界一の画家よ」
「天才ということ?」
「そう。天才なの。そのうちお父さんの絵をみんな買いにくるのよ」
「そうしたら私の家、貧乏じゃなくなるのね」
「そうなの。世界一のお金持ちになるのよ」
いつも絵の話が、お金の話になっていくのは、やっぱり私の家がいつもお金に困っていて、生活がとても大変だったからなのだ。だからといって母は、売れない絵をかいている父を非難したりしたことは一度もなかった。母はいつも父を励ましているのだった。父の毎日はおじさんが言うように堕落などしていなかった。だれよりも勤勉だった。だれよりも一生懸命だった。それは一番私たちが知っていることだった。
その鳥取への旅が、父にとってどんなにおいつめられた旅であったかが、いまになってよくわかるのだ。そして拒絶され罵倒されて列車に乗った父の深い絶望が。父は沈みこんだまま、私の手をじっとにぎっていた。なにか心がばらばらになるまいとするかのように、私の手をにぎっているのだった。
その旅からもどった父は、母が心配するほど、はげしい意気込みでまた絵をかきはじめたのだ。朝早く、まだだれも眠りこんでいるときに工事現場に出かけていく。そして、お昼すぎに家に帰ってくると、三畳の部屋にひきこもって夜中まで絵を描いているのだ。
父の絵の主題になっているのが、ほとんど建設工事だった。高速道路とか、橋とか、巨大な高層ビルとか、鉄道の高架線の工事とか、ダムとか、鉄塔とか、タンカーの建設とか。その建設途中の様子を、それは大胆な構図のなかで、細部がまた細かくりベットの一つ一つまで克明に描いていく。父の絵は、ちょうどいま私たちの美術の教科書にのっているレンブラントのような色調だった。全体が暗い色調だから、鉄の赤さびだとか、青い旗とか、黄色いへルメットがいっそう鮮やかだった。巨大な建物、巨大な鉄の桁、巨大なクレーン車の下にいる人間が、いまにも動きだすのではないかと思われるほど、リアルに描いている。圧倒するばかりの巨大な建造物と、たたかっている人たちの表情がまた素敵だった。
父が死んだあとに、父の仲間が追悼集をつくってくれた。そのなかで、父と一番なかよしだった金子さんが、風景画という甘い自然ばかり描かれるそんな風潮に反逆するかのように黒木俊雄は、哲学的な思考と意志を、その絵画のなかで重層的に重ねていったのだと書いている。がっしりとした画面の構成、息苦しいばかりのゆるぎない構図。暗から明に、明から暗に転調していく色彩は、深い精神のリズムを刻みこんでいると書いている。そんなむずかしい言葉が、私にはいまではぼんやりとわかる。父の絵はどれも大きかった。それだけに、一枚の絵を描き上げるのに、とても長い時間がかかる。何度も何度も描きなおしながら構築していく。工事さながら絵具を厚いタッチでぬりこめていくのだった。
そのとき父は、あせるように何点かの絵を同時に進行させていた。なにか急いでその絵を完成させようとするかのように、一日中、部屋にとじこもっていた。そんなはげしい仕事のせいか、父はどんどん痩せていく。母はそんな父のことが心配で、口をひらけば、お父さん無理しないでと言うけれど、父はその仕事のペースをかえることはなかった。なにかこわいばかりの表情で、いつもいらいらしていて、私たちを叱ってばかりいるのだった。私はそんな父がとても嫌いだった。ときどき憎くなった。しかしいまから思うと、父は自分の運命というものをもうはっきりと知っていて、とにかく手がけているものをことごとく完成させたいと、あせっていたにちがいなかった。
とうとう運命の日がやってきた。それは暑い夏がようやく過ぎ去って、秋の気配がただよいはじめていた日だった。父は、その夜、野獣のような声をあげてのたうちまわった。はげしい痛みが、とつぜん父に襲いかかってきたのだ。父はその次の日に入院した。
父の容態は悪くなるばかりだった。あんなに痩せていたのが、もっと痩せいった。もしかしたら父はもう家に帰ってこれないのではないかと思えた。そんなふうに考えるのが、とてもこわかったから母に言った。
「お父さんは、もうだめなのかな」
「そんなことないわよ。どうしてそんなふうに思うの?」
「お父さんはもうだめかもしれないって言ったよ」
「そんなことないのよ」
「だから私、言ったの。そんなこと言ったら、ほんとうにだめになるんだからね。お父さん、がんばってよ。がんばってくれなくちゃいけないんだからって」
「そうよ。お父さん、ぜったいにもどってくるんだからね」
「お父さんね、それからクリスマスプレゼント、なにもあげられなくてごめんねって」
「そのかわり今年は、お母さんがお父さんの分まで、よっちゃんとちゃこちゃんにあげるから心配しないでよ」
「でも私、お父さんに言ったの。今年はなんにもいらない。そのかわりお父さんが元気になってくれればいいのって」
「そうよね。それがお父さんの最高のプレゼントなのよね」
母はたちまち涙ぐんでしまったから、私はすばやく言った。
「私ね、すごいこと思いついたのよ。今年は、私たちがお父さんにプレゼントするわけ。そんな年もあっていいと思ったのよ」
「それは素晴らしいわね。それ、いいわよ」
と母は指をぱちんと鳴らして、もう明るく笑って言った。ほんとうに母のほほえみは世界一美しいと思うのだ。
しかし父は、おそろしいばかりにぐんぐん痩せていく。それはなにか父に悪魔かなんかがとりついたかのようだった。父の顔がかわって、げっそりと頬がくぼみ、老人の顔のようになり、目ばかりがぎょろりとしているのだ。そのうち足がむくみはじめ、とうとう起きて歩くことができなくなってしまった。それは父にとってものすごいショックだったようだ。
その日はとてもあたたかくて明るい日だった。痛みから顔をこわばらせていたり、暗く沈んだ顔をしているのに、その日の父は不思議に明るい顔をしている。父はちょっとほほえんでから、そして思い切ったように、ベッドのわきに立っている母と私と妹に言った。
「もうぼくの生命が、わずかだということがわかるんだ」
父は妹の手をとると、その手をにぎりしめて、
「ぼくはもう長くはない。もうすぐぼくの生命は終わる。だからもうこんな管などをつないで、いたずらに長びかせることもないのだ」
「そんなことないわ!」
と母は小さく悲鳴をあげるように言うと、妹から父の手をうばいとるようにして父の指に自分の指にからめた。そして抗議するかのように、
「どうしてそんなふうに考えるの」
しかし父は、苦しみを突き抜けた人のようなやさしさのなかで言った。
「もういいんだ。ぼくは決心した。こう決心するまでとても大変だったけれど。やりたいことがまだ山ほどある。しなければならないことはいっぱいある。くやしくて、くやしくて、このままあの世にいくなんて、ほんとうにくやしかった。しかしもうこうなった以上、君たちをこれ以上苦しませたくないし、これ以上のことはむだなんだ。だから生命維持装置をはずしてくれとお医者さんにたのんだのだ」
母は必死に泣くまいとしているかのようだった。しかし鳴咽がからだの底からたちのぼってくるのだ。
「ぼくはだらしない夫だった。夫の役目をなにも果せなかった。すべてを君に背負わせてしまった。いつかいつかと思うばかりだった。それだけでぼくの人生は終わってしまうなんて」
そして私と妹にむかって、
「よっちゃんにも、ちゃこちゃんにも、なにもしてやれなかった。買いたいものがいっぱいあったろうに、なにも買ってやれなかった。ずうっと貧乏なままだった。ぼくはだめな父親であり、夫だった。ガラクタばかりの絵をかいてきた。あんなものに実はなにもなかったのだともっとはやく気づけばよかったのだ」
「そんなことはないわ。あなたの絵は、あんなに素晴らしいじゃないの。そんなのおかしいわよ。そんなことどうして言えるの」
「ただの一点も売れなかった。一枚の絵も売れることはなかった」
「これから売れるわよ。あなたの絵が売れないわけはないのよ。あなたは世界一の画家なんだから。私たちは信じているんだから」
「ぼくの人生は失敗だった。なにも生みだすことはなかった。君にただ甘えているだけの人生だった。こんな生活能力のない、こんなだらしないぼくにずうっとついてきてくれた君に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。どうか許してほしい」
私たちは重い気持ちで、その夜、病室をでた。母はぐいぐい私たちの手をとって歩いていくと、
「ねえ、みんな。これからブランコに乗りにいきましょう」
「ブランコに?」
母はこのあたりがちょっとかわっているのだ。その病院から裏通りをはいったところに小さな公園があって、そこにブランコが三つならんでいた。私たちはそれぞれそのブランコに乗ってぎこぎここいでいた。するとそのとき突然、母が大声で泣きだしのだ。私と妹はもうびっくりしてブランコをとびおりてしまった。
「どうしたの?」
と母のそばにかけよったが、母は、
「ちょっと泣きたいの。だから泣かしてちょうだい」
と言ってまた声をたてて泣いた。そうやって母がわあわあと泣くので、私たちまで悲しくなって、私も妹もまたわあわあ泣いて、その夜の公園はわあわあ泣く公園になってしまった。
そのあとだった。母はもう十分に泣いたからなのか、ちょっとさっぱりとしたような明るい声で、
「ねえ、よっちゃん。今年は私たちがお父さんにクリスマスのプレゼントすることになっていたでしょう」
と言った。
「うん。そうだよ」
「お母さんね、いま素晴らしいことを思いついたのよ」
「どんな?」
「どんな、どんな?」と妹も急いで言った。
「ぜったいに、お父さんが喜ぶことなの」
その翌日、母は大きな絵を、私は中ぐらいの絵を、そして妹は小さな絵をかかえて銀座通りを歩いていた。あのきらきらした通りを、母と二人の子供がキャンバスをかかえて歩いているなんて、ちょっと不思議な光景だったにちがいない。
母は通りにある暗い感じの建物の前でとまり、それからまたちょっとあともどりしたりして、その建物の前でしばらくいったりきたりしていたが、
「さあ、勇気をだしてここに入ってみましょう」
「このお店に入るの?」
「そうよ。人間はこんなとき勇気をださなくちゃあ」
と母は言ったが、それはぜったいに自分を勇気づけるために言ったのだ。
ドアをあけてなかに入ると、部屋はふわっとした暖かさにつつまれていたが、私にはなんだかひんやりとする外より寒い、なにか心がもっと冷たくなるような部屋だった。たくさんの絵が壁にかけてあったが、それらは絵ではなくものすごく高い商品のようにみえた。
「あの、実はちょっとお願いがあるのですが」
と店の奥の椅子に腰かけて新聞を読んでいる男の人に言った。その店にはその人一人しかいなかった。あごひげをはやしていて、紫色のワイシャツにくすんだ茶色のネクタイをしめていた。さすがに銀座の人はおしゃれだなと思った。その人はおそるおそる入っていった私たちを、眼鏡ごしにじろりとみていた。
「あの、ちょっと絵をみていただけないでしょうか」
と母がおずおずと言った。
「絵をみるって、だれの絵なの?」
「主人の絵なんです。素晴らしい絵なんです」
「ご主人の?」
その人はあきれかえったような、馬鹿にしたような笑いを口元にうかべたが、母はさらに勇気をだして、
「素晴らしいんです。私たちが何度みてもあきません。みるたびに力がわいてくるような絵なんです。それはだれもが言います。いままで日本にはなかった絵だとも言ってくれる人もあります」
その人は、母のかたわらに立っている私と妹にまた視線をむけた。こんな小さな子供を引き連れてきた母を哀れに思ったのだろうか、
「まあ、みるだけなら、みますがね‥‥」
「ええ、とにかくみて下さい」
母はきれいに包装していた紙をばりばりと引き裂いた。私もまた妹もびりびりと破ってしまった。
父の絵のなかでもとりわけ傑作だと思われる作品を母はもってきたのだった。私たちのまわりにはたくさんの絵がおいてあった。それはきっと有名な人たちの絵で、一点何百万円とか何千万円もする絵にちがいなかった。しかしそんな絵に取り囲まれていても、父の絵は力に満ちた輝きを放っているのだ。父の絵の放つ輝きで、なんだか自分たちが偉くなったように思え、なにもこの人の前でおどおどすることはないのだという気持ちになるのだった。
その人はしばらく父の絵をながめていた。私にはその人もまた父の絵に心打たれていくように思われたのだ。
「この絵をかいた人は、いくつぐらいなの?」
「三十八です」
「どこか、美術展に入賞したといったことぐらいあるんだろうね」
「いいえ、それはありません。そういうものには出さない主義の人です」
「この世界に出ていくにはね、そういう展覧会で、何度も賞をとらねば話にならないんだけどね」
「でも素晴らしい絵には、そんな賞なんていらないと思うのですが」
「絵かきなんてね、それこそ腐るほどいるんだよ」
「でも主人の絵はちがいます。どうか他の絵もみて下さい。家にいけばもっと素晴らしい絵があるんです。大きな絵ばかりをかいた人ですからとても持ってこれませんでした。一度家にいらしてその絵もみて下さい」
と母はすがりつくように言ったが、その人は冷たく、
「まあ、時間があったらそうするがね、ちょっといまは忙しいのだよ」
しかしその人は本当はとても心の優しい人だったちがいない。私たちが絵を包装してきた紙をばりばりと破ってしまったものだから、古新聞を机の下からとりだして、
「ほれ、この新聞で包装しなさい」
そして包装した新聞はりつけるガムテープも貸してくれてこう言った。
「ご主人にこう伝えなさい。この世界に入ってくるには、とにかくどこかの展覧会に入選すること。そこで画家としてのしっかりとした経歴をつくりなさいって」
私たちはその店をでると、母はまた自分を勇気づけるように、
「さあ、また挑戦しましょう。あんな人は、私のほうからお断りよ。銀座には百ぐらいの画廊があるんだから大丈夫よ。お父さんの絵を評価してくれる画廊はどこかにちゃんとあるんだからね」
「そうだ、そうだ」
と妹が言った。ぜんぜん様子などわからないくせに、こういうときの妹はみんなを元気づけるのだ。
しかしそれから五つの画廊を訪ね歩いたが、どこも同じだった。だんだん私たちへの応対がひどくなり、ひどく迷惑なものがまぎれこんできたものだというけわしい表情で、ゴミかなにかを掃き出すように迫い払うのだった。
そして私たちの背中に投げつけるように、けたけたと笑いをひびかせる。私たちはすっかりおじけづいてしまった。もうだめなのだとはっきりわかるのだった。手にしたキャンバスがどんどん重くなり、まぶしいばかりの銀座通りは、私たちをいよいよみじめな気持ちにさせるのだった。
その次の日だった。学校からもどってきた私に、母ははしゃぐように言った。
「よっちゃん、きいて、きいて。すごいことよ」
「どうしたというの?」
「これを見てよ」
母は封筒をかざして、そのなかから一万札の束を取り出した。
「お父さんの絵が売れたの」
「うそ!」
と私は思わず大きな声で叫んだ。なにかからだの芯にずきんとするような喜びが走っていった。
「ほんとうなのよ。あの最初に入った画廊があるでしょう」
「ひげをはやした人でしょう」
「そう。あの人が、今朝、お父さんの絵をみにきたのよ。そしてぜんぶお父さんの絵をみてくれたの。そしてね、お父さんの絵を私のところで売り出したいと思うから、とりあえずこのお金を、手つき金としておいていくと言ったのよ」
私はそのときはやっぱりそうなったのだという思いだった。とにかく父は世界一の画家なのだ。そうなるのは当然なのだと。
「さあ、みんなでお父さんに報告にいきましょう。お父さんの絵が売れたのよって報告しましょう」
「お父さん、よろこぶね」
「よろこぶわよ」
「これで貧乏でなくなるね」
「貧乏どころか、私たちは世界一のお金持ちになるのよ。さあ、いきましょう」
私はそのとき母の様子が、ちょっとおかしいと思った。いつもとちがっているのだ。なんだか心の平行を失っているかのようだった。それはそうだった。父の絵がとうとう売れたのだ。あんなに待ちのぞんでいたことが、とうとう実現したのだ。おかしくなるのは当たり前だったかもしれない。
私たちは病室にむかう廊下を元気よく歩いた。いつもはほんとうに心の重くなる廊下だった。いつきても暗く重くなる。でもそのときはその廊下がちがった印象だった。
父はいたましいばかりに痩せおとろえたからだを、ベッドに横たえていた。ぜいぜいと苦しそうな息づかいだ。母が父をゆりおこすと、父は目を開いて、にこにこしている私たちをまぶしそうにながめた。
「どうしたんだろうね。みんなにこにこして」
と父もかすかにほほえんで言った。
「あなた、今日はなんの日だかわかる」
「なんの日だい?」
「メリークリスマス!」
と私と妹は、声を合わせて歌うように言った。
「そうか。クリスマスか」
「あなたにプレゼントがあるの。すごいプレゼントなのよ」
「なんのプレゼントなんだい」
「よっちゃんが言って」
と母は言った。私はそのうれしい言葉を妹にまかせようと、私はもうにこにこして、
「ちゃこちゃんが言いなさいよ」
妹は父の耳もとに顔をよせると、大きな声で、
「お父さんの絵が売れたのよ。あたしんちこれから大金持ちになるんだよ」
と言ったのだ。
「ほんとうなの。お父さんの絵が売れたのよ。これみてちょうだい。ここに二十万円がはいってるのよ。画廊の人が今朝、あなたの絵をみにきて、あなたの絵を売ってくれって」
父は驚きの目を母にむけていた。母は詳しく説明していった。
「昨日ね、あたしたち銀座にでかけていったの。あなたの絵をみんなでもって。そうしたら、銀座画廊というところの人がとても興味をもって、あなたの絵を全部をみたいって言うのね。いつでもいらして下さいと言ったら、その人、今朝あたしの家にやってきたのよ。いままでのあなたの絵を全部みてくれたの。その人すごく感動して、これこそ絵だって言ったのよ」
私はおかしいなと思った。そのことをすぐに直感した妹が、
「お母さん、あのさ‥‥」
と言った。私はすぐに妹の言いたいことがわかった。妹は母の間違いを訂正しようとするにちがいなかった。だから私は妹の腕をおもいっきりつかんだ。妹はなにすんのようと言ったが、私はもうこれ以上はないというこわい顔をして妹をにらみつけ、
「いまお母さんが大事な話をしてるんでしょう。黙っていなさいよ」
と言った。私にはわかっていた。いま母は父に最高のプレゼントをしているということが。
「これはかならず売れる。いいえ、売れるどころか歴史に残る絵だって。とにかくこれから、この絵を私のところからぞくぞくと売り出していくからって。それでそのための契約料の一部として、いまもちあわせているお金をおいていくと言ったの。私はお金なんか結構ですからと言ったのに、このお金をおいていったの」
「そうなのか」
「よかったわね。あなたのいままでの努力はけっして無駄ではなかったのよ。あなたは人々に勇気をあたえる絵を描きつづけた人なの。あなたの人生は失敗なんかじゃなかったのよ。あなたは素晴らしい絵をかきつづけたじゃないの」
父はくくくくくと喉のおくで泣いていた。涙があとからあとからくぼんだ目にわきあがって、茶色になった頬から流れ落ちていった。
父はその二日後に亡くなった。最後の父はとてもやすらかな顔をしていた。その激烈な痛みからくるのか、くやしくて無念だった気持ちからくるのか、父の表情はいつもけわしかったが、そのときはほんとうに満ち足りたようなやすらかな表情だったのだ。そんな風におだやかな気持ちで天に召されていったのは、母があのとき考えたつくり話のせいだったのだろうか。
そうではなかった。父は母が一生懸命つくり話をしていることを見抜いていたのだ。それがどうしてわかったかというと、父が亡くなったあとに、看護婦さんから一通の封書が私たちに渡された。それは父が力の限りをつくして書いた手紙だった。字がゆれている。字がゆがんでいる。字が苦しんでいる。しかし便箋をつら抜きかねないばかりに、がっしがっしと一字一字が書きつづられているのだ。
「ぼくはこのまま倒れるのが、くやしくてくやしくてしかたがなかった。人生にしっかりと決着をつけられないで。すべてがこころざし半ばで、あの世に旅たたなければならないことを仕組んだ天をうらんだ。ぼくの人生は失敗だと思った。なにも生みださないだめな人間だと思った。しかしそうではないことにたったいま気づいたのだ。ぼくの絵はたいしたことはなかった。しかしぼくが愛した人はすばらしい人だった。ぼくと愛した人とのあいだに生れたこどもたちもまたすばらしいこどもたちだった。ぼくはこんなにすばらしい人たちと家庭をつくっていたのだ。ぼくの人生は失敗などではなかった。ぼくはすばらしい人にかこまれていたのだ。そのことがいまはじめてわかった。ありがとう。ぼくはとても幸福だった。この幸福にいだかれて旅だっていきます」
「クリスマスの贈物」草の葉ライブラリー刊
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