壮大な史劇にして雄大な政治劇に取り組むための素材集 15
イプセンの「民衆の敵」を翻訳した笹部博司氏は、この劇についてこう評している。
「民衆の敵」は、エンターメントとしても申し分なく、コメディとして最高で、人間ドラマとして一級で、なおかつ政治劇、社会ドラマとしてもきわめて深く、本質的である。人間の愚かさ、醜さ、いい加減さをあますところなく描き尽くし、なおかつ突き放していない。そしてそのどうしょうもなさからこぼれおちるのは、人間という生き物の魅力である。生きているということは、嘘をつき、間違いを犯し、罪を犯し続けることだ。イプセンはそのことを厳しく断罪しながら、少しも否定はしていない。強く告発しながら、容認してもいるのだ。
ストックマン
今、ここで権力にしがみつく者たちをやり玉にあげることが僕の本意ではない。彼らをやりこめても、大して意味がない。そんなもの放っておけばいい。こちらが手を下さなくても、片足を棺桶に足を突っ込んだ老人どもは、勝手にくたばっていく。医者が出て行って、わざわざその命を縮めるのに、力を貸すこともない。彼らを過大に評価すべきではない。社会を害するほどの力は彼らにはないのだ。われわれの心を毒し、この大地に疫病をまき散らすのは、もっと別のところにあるのだ。
あらゆるところからの叫び
それは誰だ? 言ってくれ!
ストックマン
今からそれを言おう。それこそが僕が昨日見つけたものだ。人間の尊厳と自由を損ない、踏みにじるのは、数を頼りにした者たちだ。もっともらしい理屈を掲げ、健全さと堅実さを標榜し、絶対多数という数に心を麻痺させ、驕り高ぶった化け物だ。つまりあんたたちだってこと。ああ、やっと言いたいことを言った。これですっとした。
いま私たちの目の前に出現したドラマは、なにやらイプセンの「民衆の敵」をお子様ランチのようにしてしまうかのようだ。百条委員会という怪しげな委員会によって退職させられた斎藤元彦と、政治的リングでヒール役であった立花孝志によって、日本の民主主義、日本の政治、日本のマスコミ、そして日本人が鋭く深く暴かれていく。