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私たち全員、廊下に正座させられた  菅原千恵子

あいこの14


愛しき日々はかく過ぎにき   菅原千恵子 

 私たちの学年をはさんで、その前後の人数が、多分歴史始まって以来の最も多いといわれた世代である。五十年後の人口分布図というのを社会の教科書に載っているのを見たときの、私たちの驚きは並みではなかった。まるできのこの傘のように膨らんでいる上のほうが、私たちで、その後の世代はきのこのが細くなっている枝の部分である。しかし、驚きながらもまだ十一歳の私たちが、五十年後を想像することなどできるわけがない。先生はしみじみといった。

「君たちは、どこまでいっても高い競争の中で生きていかなければならないんだ。まず、高校受験もそうだが、結婚も、葬式も、お墓さえも競争に勝たなければ自分のものにできないかも知れない。私は、心から同情するよ。君たちが、平和で、心穏やかな生活ができるようにと願わない日はない」

 私にしても自分たちの世代が多いのは、生まれたときからそうなのであって、そのことを特別多くて困ったことだなどと思ってみたこともなかったし、人数が多いために将来激しい競争が自分たちを待ち受けているとも思わなかった。渦中にあれば自分たちのことはかえってよく見えないものなのだ。

 むしろそれよりも人数の多さゆえに、私たち世代が持っているエネルギイが、いつも訳のわからない熱気をかもし出していて、悪戯もこぜりあいも、ちょっとした乱暴も、先生の目に届くことは少なく、思う存分大人にじゃまされずに自分たちの思うままの学校生活ができたように思う。ある意味では、あまりの人数の多さから手が届かずに放って置かれたようなものだったかも知れない。

 当然職員室にもある種の活気がみなぎっていた。先生達は、今まで経験したこともない児童の数を抱えて、毎日が試行錯誤だったのだと思う。先生同士も私の目から見れば、和気あいあいとして仲が良かったように思われた。ただし、職員室の中で、女の先生が、私たちの受け持ちの先生を、なれなれしくケンちゃんと呼んでいるのを聞いて、ひどいショックを受けたことがあった。というのも、私たちの担任の先生は、とても厳しいので有名だったからだ。ひどい悪戯やごまかしをした子には容赦せず殴ることもあった。いつも悪戯ばかりしていたTやSなどの男子などは、坊主頭にこぶができて、卒業するまで消えなかったくらいなのだ。

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 私たちの先生は軍隊から帰ってきただけのことはあるのだと、私はかってに一人思っていた。それというのも、私は父に連れられて、「二等兵物語」という映画を何本か見ていたからかも知れない。ストーリーは確かに子供にもわかるような面白さで作られているし、この映画を喜劇として大人は観ていたのだろうが、私には軍隊が陰険で悲惨な所にしか思えなかった。

 位の低い兵士は、上官の思い通りにならなければビンタを受け、目茶目茶にされる姿は理不尽そのものに思われた。映画を通して知った軍隊とは、私にとって恐怖でしかなかった。もちろん一人一人の心の中には、人間臭い感情が流れていることも映画の中では語られている。しかし、軍隊という組織の中は、ある意味で無法地帯といってもいいような傍若無人が許される所に思えたのだ。そんな中で生き抜いてきたからこそ先生には、げんこつやビンタぐらいはまるで平気なのだろうとそんなふうに思っていた。そればかりか、先生も、その組織の中でどれだけ殴られていたのか計り知れないとさえ思って、むしろ先生に同情していた。

 しかし、私は殴られていたわけではない。先生のそうした行為に対して、恐怖を抱く生徒もいたし、実際に恐いといって、親に訴える生徒も後をたたなかった。実際、こんなこともあった。私たちが、先生の注意を守らず、あまりにもだらしない振舞をしたというので、机を教室の後方へ下げさせられ、私たち全員、教室の前で正座をさせられたことがあった。確かに悪かったのは私たちである。全員、下をむいて神妙に先生の説教を聞いた。

 先生は細いムチのような棒を持って、並んで正座している私たちの周りを、ゴツゴツと足音を立てながら回って歩いた。まるで私たちが軍隊に入りたての二等兵か何かのようで、先生が上官に思われた。Gという女子生徒が、消え入りそうな声で、「先生」と囁いたが、先生には聞こえなかった。Gはもじもじと体を動かしていたが、やがて、すすり泣きだした。と同時に、近くにいた男子生徒がいっせいに騒ぎ出したのだ。

「あっ、きったねえ、ションベンたれた。」
 全員が立ち上がり、Gの近くから離れたが、Gの座っているところは、明らかに床を濡らし、Gだけが悲しげに一人座っていた。私は先生を見た。先生は、ひどく気まずそうに不機嫌な顔で教室を出て行った。女子生徒たちが、先生がいなくなるなり、いっせいに先生を批判し始め、Gを励まし、誰ということなく雑巾を持ってきて、濡れた床をふきだした。

 私はGの気持ちを考えると、いても立ってもいられないような気がして、Gにいった。
「保健室に行こう、きっと先生がなんとかしてくれる、あっ、それより、給食の栄養士の
先生の所に行ってみよう、あの先生なら間違いないから」
 私は、おびえているGをゆっくり立たせて給食室のほうへ誘った。

 栄養士のM先生は、私たちのクラスの女子が給食室付近の掃除当番で知り合って以来、一番親しくしていた先生だった。若くて大柄の美人で、女子はみなこのM先生を慕い、憧れていたのだ。私がスカートを机の横に出ているランドセル掛けの釘に引っかけてかぎざきを作って困っていると、白糸をインクで染めて繕ってくれたことがある。先生は親しくて優しいお姉さんという感じだった。Gはその前に、お便所に行きたいといって入り、出てきたときは少し気持ちが落ち着いていた。

 M先生は私の話を黙って聞いていてくれたが、Gの肩に優しく触れながら、今下着の持合せがないのでどうしてあげることもできないけれど、待っていてくれれば下校時間までなんとかするからと約束してくれた。しかしGは、早退をして帰っていった。先生がひどい叱り方をしたためにこんなことになったのだと、私はそのとき初めて担任の先生に怒りを感じた。

 Gがどんなに恥ずかしい思いをしたか、彼はわかっているのだろうかと、下校前の掃除の時、私たち女子は肩寄せあい、固まって悪口をいいあった。私たちが出した結論は、あんなふうに叱られているときは、恐くて言い出せないものなのに、それを先生がどうしてわからないのだろうかということだった。「先生失格」という激しいことばさえ出たほど私たちは興奮してしゃべった。

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 今、大人になり、自分の子供を持ってみていろんなことが見えてくる。自分より幼いものを叱っていると、何かよくわからない快感がある。しかも自分のほうに正当性がある場合はなおさらだ。叱りながら、どんどん高揚していく自分がどこかにいる。そうなると、叱りながら相手のことが見えなくなるのだ。叱ることに酔うというのだろうか。酔っている自分だけがそこにいて、その世界はそれなりに結構心地よいものなのだ。

 先生も多分その落とし穴に入っていたのだろう。何か違う事件なり、出来事が突然闖入してきてびっくりでもしない限り、なかなかその世界から抜け出られない。せっかんが行き過ぎて自分の子供を殺めたという話を最近耳にすることが多いけれど、そうした事件を起こすのは多分この罠にはまった人たちではないだろうか。叱ることは、ある意味で恐いことだと思う。叱りながら、エスカレートして行くことを知っていなければ、相手が傷つくまで知らずに叱ってしまうだろう。

 先生は、Gによって初めて事の大きさに気づかされ、現実に引きもどされた。叱ったものが当然受けなければならないことだとしても、後味の悪さは残ったはずだ。それは自己嫌悪でもあり、相手に対するすまなさでもあったろうし、後悔がないはずはない。彼が不機嫌に教室を出ていったのは、そうしたやりきれないことをしでかしてしまった自分に腹が立っていたからではなかっただろうか。

 そして、私が今一番強く感じるのは。軍隊で体験してきた記憶が彼の中に根深くあって、私たちが感じるほど彼はひどい叱り方をしていたと思っていなかったのではないかということなのだ。彼の意識の中にも、再生日本、民主主義日本の子供たちを教育するという理想がなかったわけではない。にもかかわらず、それは観念であって、彼自身の中にはは重たく軍国青年の意識が残っていたのだと思う。

 私はこんなことも記憶している。国語の教科書で、山本有三の「いつも心に太陽を」というのを習ったとき、先生がこれからの日本を背負ってたって行くのは君たちだということを情熱を込めて語った日のことを。先生の目は、教室の窓を超えて遠くのほうに流れ、こころなしか潤んでいるようにさえ私には見えた。私たちが経験することもないような南方での激戦を体験し、一命を取り留めて帰国した先生は、どれほどたくさんの戦友の死を見てきたことか、やはりそこには想像を絶するものがあったのだと思う。

 先生を非難しながらも、一方では先生という人物に、私は、大きな関心を持ち続けていた。六十人ちかい生徒を抱え、担任教師は私たちをなんとか中学へ無事手渡して行くために、精一杯勉強を教え、人間として生きて行くための知恵と勇気、そして誠実というスパイスをたたき込んでいた。彼は多くの失敗もしたと思う。私たち生徒と何もかも心を通じあっていたかといえばそれは違うかも知れない。世代間のギャップも確かにあった。それでも彼は試行錯誤の中で、私たちに何かを伝えようと彼なりの人生を一生懸命努力していたことは、私なりに認めたいのだ。

 先生は、家庭や、本人に問題がある生徒に、目配りすることを忘れなかった。お好み焼き屋に連れていって食べさせたり、夜逃げ同然で転校してきたSを自転車の後ろに乗せて自分の家に連れて帰り、泊めたりしていた。Sはそれを自分が特別扱いされているかのように私たちに自慢するものだから、私たち女子はそれをことのほか羨ましいと思っていた。

 先生は、当時南にあった市の公務員住宅から、東にあるH小学校まで自転車で通っていたのだ。それを種にして「先生、私たちもどこか自転車で連れていってよ」とある子がいいだすと先生は、今度の日曜日に行きたいものは誰でもサイクリングに連れていくといって約束してくれた。私は前日は眠れないほど興奮し、母に飛び切りおいしいお弁当を頼んで朝を迎えた。

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