復讐は私のする仕事
ゼームス坂物語
復讐は私のする仕事
武蔵小山の児董館に移動した弘は、つくづくと子供団のあるゼームス坂と遠く離れてしまった不便さを痛感するのだ。
子供たちは土曜日の団会だけではなく、なにか問題があるとすぐに児童館にかけこんできた。子供たちの目と鼻の先に児童館があって、そこに弘がいた。子供たちの親たちともつねに接触できた。その親密な関係のなかに子供団活動があったのだ。子供たちやその親たちが呼吸している空気と同じ地域のなかにいたのだ。
それが同じ品川区内とはいえ、なんだかずいぶん遠い距離ができてしまったように思える。そういう点でも高木の登場に救われた。彼が弘の空白を埋めてくれたのだ。高木は夏のキャンプでも大活躍してくれた。指導員としてのちょっと乱暴な対応があって、そのことが子供たちの反発を招いたりしたが、しかしそれも互いの気持ちがわかりあえると子供たちとの関係も深くなった。
高木が児童館から連れてきた子供たちも子供団に加わったりしたものだから、今年の夏のキャンプは、結成以来最高の参加者だった。そんな大きなキャンプ活動を高木は支えてくれたのだ。
夏休みが明けて一週間もしないうちに、その高木から電話が入ってきた。
「弘さん、ちょっと大変なことが起りましたよ。どうも健太が先生を殴ったらしいんです。それでいま城北中は大揺れだというんですね」
「健太が!」
と弘は絶句した。
その日、児童館の仕事が終わると、雨のなかを自転車をとばしてゼームス坂に向かった。ゼームス坂の中腹にある喫茶店《馬酔木》で高木と待ち合わせたのだ。弘がその喫茶店のドアを押すと、高木のすわるテーブルに徳子と繁の母親が座っていた。弘はあらためて彼らにその事件のことをたずねた。
「大矢という先生を殴ったというんですか」
「そうなのよ、あの先生を」
「生活指導をしている先生でしょう」
一時、中学校が全国的に荒れていた時代があった。生徒たちの暴力事件が頻発し、学校の窓ガラスが何十枚も叩き割られたといったことがしばしば新聞記事になっていた。それはゼームス坂界隈の子供たちが通っている城北中学や南品川中学でも同じような事態が発生していた。何度も父母会がひらかれ、父母たちによって組織された、もうそれは監視団と呼ぶべきものが、朝から学校のなかをパトロールするということまではじまった。そしてその決定版として、生徒たちを力でおさえこむ体育会系の先生が送りこまれてきた。大矢はそういう先生の一人だった。
一時の騒然とした状態が去ったいまでも、大矢は生徒たちを徹底的に力でおさえこんでいるようだった。子供たちにとってかぎりなく恐れられている先生だった。その先生を殴り倒したというのだ。
「いったいどういうことだったんでしょうかね」
「なんでも廊下で、大失先生に態度が悪いって、突きとばされたらしいのね。それで健太は大矢先生の顔にパンチを叩きこんだということらしいの」
「それで争いになったんですか」
「いや。争いもなにも、その一発で、大矢先生は吹き飛んだらしいの。なんでも鼻の骨が折れたという話よ」
「それは凄いパンチだったんだな」
「健太のいままでたまっていた怒りが爆発したんでしょう。だって健太はあの先生に、それはもう一年生のときから、徹底的にやられてきましたからね」
「そうらしいですね」
「とにかく大矢先生は、健太をまるでうじ虫のように嫌っていたから。健太がいつも反抗的で、健太もまた大矢先生をゴキブリのように嫌っていたでしょう。いままでずうっと大矢先生にやられてきた。しかしとうとう健太が逆襲にでたということなのよね」
「もう健太は大矢先生よりも背が高いですからね」
「いま彼の身長は百七十四、五センチあるでしょう」
「しかし大矢先生だって柔道の有段者でしょう」
「全国大会に出たというぐらいの実力者なのよ」
「その人を一発で打ち倒すなんて」
夏のキャンプでの健太の像が弘のなかによぎった。今年のキャンプ活動は、子供団の小屋をたてるための整地作業と、基礎のコンクリートを打つ作業だった。傾斜している地面を平にならし、溝を掘り、そこを木枠ではりめぐらせ、鉄骨を組み立て、砂と砂利でたっぷりとかきまぜたセメントを流し込むという作業だった。その作業を、健太は子供たちを指揮しながら、指導員や父母たちよりも情熱的に取り組んでいた。灼けた浅黒い肌、無駄のない筋肉、ひきしまったしなやかな肉体。それはもう少年の肉体ではなく、なにかが炸裂するような青年の肉体だった。
「いま健太は家にいるんでしょうか?」
「いや、まだ学校にいて、反省文とか書かされているんじゃないでしょうか」
「守の話では、警察につれていかれたとか」
「まさか!」
「暴力事件はみんな警察に持っていかれますよ」
「先生が病院に運びこまれましたからね。これは立派な刑事事件になりますよ」
そんな話を聞くと、弘はあらためて事の重大さに呆然となるのだった。
弘はみんなと分かれると、一人健太の家にむかった。国道の裏にたっている古いマンションの四階に彼の一家は住んでいた。その部屋を訪れてベルをならしたが、なかから応答がなかった。弘は仙台坂から暗闇坂辺りをぶらつきながら時間をつぶして、再び健太の部屋をたずねると、ドアが開き母親がでてきて、その奥から健太が顔をのぞかせた。
二人はマンションの非常階段に座った。隣のマンションの壁が重くのしかかっている。二人はその壁に顔をむけたまま、しばらく無言ですわっていた。そしてやっと健太が口をひらいた。
「弘に話したいことがあるけど、いまはなにも話したくないんだ」
「いいんだ。無理に話さなくたって。話したくなったら話してくれよ。ぼくたちは、いつでも君の味方だからね。どんなことがあっても、君の味方だからね。そのことを言いたくてきたんだ」
すると健太はふと言った。
「あいつに、また、明日も見舞いにいけって言われたけれど」
「病院にか」
「そう。毎日毎日、見舞いにいけって言われたけど」
「それはいいことじゃないか」
「でも、おれはいやなんだ」
健太はその目を暗く鋭くひからせてそう言った。
「どうして?」
「おれが病院にいったら、あいつは言いやがったんだ。いいか、おれはてめえに手加滅してやったんだからなって。おれは教師だからな、お前と喧嘩はできねえようになっているんだ。いいか、本気でやったら、お前の鼻をつぶして、その腕をへし折ってたんだからな、ありがたく思えよって。それで、今度のことだって、もしおれが警察にくちれば、お前は確実に少年院送りだ。お前の将来のために、いまは黙っててやるからありがたく思えよって。おれはそのときもむかついて黙ってたけど、またあの病院にいってそんなふうに言われたら、おれはあいつをぶっ殺すかもしれない」
そんなことを話す健太に、弘は複雑なショックを受けるのだった。あやまりにいった健太に対する大矢のその言い分に。そして大矢に対する健太の深い怒りと憎悪に。教師と生徒の関係は、どこにも解決の糸口のないほど悪化しているのだ。
健太という子供は、彼の間近に立っているはずの子供団の父母たちからも嫌われていた。たしかに彼のやることなすことが、社会の道徳や常識からちょっと逸脱しているようなところがあった。手のつけられない悪ガキそのものに映ってしまうのだ。ひとたびそんな険しい視線をむけられると、健太はその大人にたいして、それに倍するような険しい攻撃的な視線をむける。それはおそらく学校でもそうだったのだろう。彼をきらった教師たちには、激しい敵意の視線をむけていたはずだった。
そんな健太を、大矢は入学したときから徹底的に弾圧してきたらしい。大矢の目には健太という子供は、確実に不良分子として学校を荒らす子供になっていくと映っていたにちがいないのだ。悪い芽はできる限り早く摘みとらなければならない。大多数の子供たちはその圧倒的な権威と暴力の前で、仕方なく自らの背骨をひとまず折って、恭順の姿勢をしめすものだ。ところが健太という子供は背骨を折らないのだ。どんな力の制裁をうけても、抵抗と反発の態度を崩さない。そんな健太が、大矢にはいよいよ面白くなかったのだ。
目の敵にされた健太は、大矢に何度も床に叩きつけられたらしい。それは健太が一年生の時だった。左目に眼帯をしてきた。その眼帯はなかなかとれることはなく、一か月近くも着けていた。なんでも体育館の裏でタバコを吸っているところを発見されて、大矢の怒りの鉄拳を浴びたというのだ。それは一瞬意識を失うばかりの痛烈な殴打で、医者は失明するかもしれないと宣告したほどだった。健太はそのことをいっさい大人には喋らなかった。親にもむろん弘にも言わなかった。弘はその出来事を大分あとになって、別の子供から知るのだった。健太はその子にこう言ったらしい。
「大矢はおれの片目をつぶしたから、中学を卒業するまでにおれもまたあいつの片目をつぶしてやるからな」
健太が空手の道場に通うようになったのもその頃からだった。彼はずうっと復讐の斧を研いでいたということになる。その斧がとうとう炸裂したということなのか。
大失の怪我は鼻梁を複雑骨析して、全治一か月を要すると診断されたようだった。大矢の顔に叩き込んだ健太の復讐のパンチが、どんなにはげしい怒りのこもったものだったかがわかるのだ。
その事件は、子供団に複雑な波紋を広げていった。父母たちは緊急父母会を開くことを要求してきたのだ。しかし弘は、緊急父母会など開かなくても、毎月一度開かれる定例会議で十分だと突き放してみたが、しかし父母たちの声ははげしくなるばかりだった。なるほど父母たちの危機感にはそれなりに十分な理由をもっている。健太の処分をめぐって学校は、とりあえず自宅学習という指導方針を打ち出してきたのだが、そのなかに自宅から一歩も外に出てはいけない、もし必要があって外出するときは必ず学校に連絡し承認をとるといった条件があった。
ところが健太は毎週子供団の団会にやってくるばかりか、健太軍団の子供たちを引き連れて、あちこち徘徊しているらしい。これでは子供団は、学校の処分を平気で破る健太に荷担していることであり、これは絶対に許せないことだと父母たちは主張するのだった。
なるほど父母たちのこんな困惑は十分に理解できる。しかし弘が父母たちの要求する緊急父母会を避けたのは、父母たちの目的がわかっていたからだった。父母たちの目的はただ一点にあった。健太をもう子供団から退団させること、悪の分子である健太を子供団から追放すること、父母たちの要求はその一点にあった。だから緊急父母会なるものを開けば、そのことで弘と父母とのあいだではげしい議論になることは目にみえていた。だからしばらくこの問題は冷却期間をおきたかったのだ。
しかし結局弘が折れて、緊急父母会を開くことに同意したのは、その事件以来、団会に来る子供の数が極端に少なくなってしまったのだ。子供団にいってはいけないと親にストップをかけられたからだった。
父母会は児童館で開かれたのだが、ふだんめったに顔をみせない父母たちもやってきて、会議の行われる部屋の椅子はすべて埋まってしまった。そんな光景を目にして弘はいまさらながら、この事件が父母たちにあたえた衝撃の深さを思うのだった。
それはいままでにないような父母会になってしまった。いままでどんなに難しい問題があっても、どんなに感情的対立があっても、どこか相手を思いやり気づかうやりとりがあって会議が進行していくのだが、この日はいきなり子供団の攻撃からはじまっていったのだ。
「学校は自宅謹慎という比較的軽い処分を出しましたよね。それが子供団の団会にやってくる。これはいったいどういうことなんですか。自宅謹慎というのは自宅で今回の事件を引き起こしたことを深く反省しなさいということでしょう。それなのに子供団の団会には出てくる。これでは学校側の指導に冷水をかけるようなものじゃないですか」
と重田が言った。その重田の発言を受けて大村が言った。
「いや、それ以前の問題です。はっきりと言わせてもらうけど、子供団として健太を断固処分すべきです。断固処分するということは、子供団を退団させるということです。先生を殴るなんてとんでもないことです。こんなことが許されていいわけがない。これはもう議論の余地なんかありません。子供団でもはっきりと彼を処分しなければいけません。彼を処分しなければ、子供団は暴力を許したことになる。ああいうとんでもない事件をおこした子を子供団としては絶対に許してはいけないんです」
そしていつも指導員の側に立ってくれる直也の母親までこう発言した。
「健太君が問題になったのは、これが最初ではありませんよね。いままで健太君はいろんなことで問題になった。そのたびにみんなで見守っていこうという対応がなされてきた。それはそれでよかったと思うんですよ。でも今回は以前と同じではないと思います。いままでの問題とは全然違う性質のものだと思いますよ。犯罪なんですから。人を傷つけるというおそろしい犯罪ですよね。健太君はずうっと子供団で育ってきました。ということは子供団がああいう子供を育ててしまったということになるんじゃありませんか。ああいう暴力をふるう子供にしてしまったということに。世間はそうみていますよね。子供団は先生を殴るような子供を育てていくって。こういう非難から子供団を守るために、これはしっかりとした対応が必要ですね」
父母たちは次々に立って、意見を放っていた。一通り父母たちの怒りや非難の声が吐きだされると、やっと父母たちの間にも弘の話を聞こうという余裕がでてきた。司会をしていた斉藤が、弘の意見を求めてきた。弘は立ち上がって、緊張した雰囲気を和らげようと「なんだか、みなさんに吊し上げられているような気分ですが」と言って、父母たちを笑わせようとしたが、だれも笑うものはなかった。
「まず最初に、なぜ土曜日の団会に健太が出てくるのかということですが、実はこれは学校側から要望があったことなんです。戸塚教頭から相談したいことがあるという電話がありまして、それで戸塚先生とお会いしたんです。学校も健太にどう対応していいかわかっていなかったんですね。それで子供団に救いを求めてきたというか、協力を求めてきたわけなんです。学校は一応自宅学習という処分にするけれども、どうもそんなものだけで健太を縛るのはよくないし、またできるわけがない。そこで土曜日の子供団の団会には思いっきり活動させて下さいと、戸塚先生のほうから切り出してきたんです。ぼくは当然ですとこたえました。学校側に子供団にいくことまで禁じる権限なんてありませんからね。そんなわけですから健太が子供団にくることは、なんの問題もないことなんですよ。むしろ学校の指導方針の一つでもあるんです」
と言って父母の誤解を解こうとしたが、しかしそんな発言もさっぱり効果はなかった。むしろとげとげしい雰囲気はさらに濃くなっていった。
「それでですね、今度の問題になっている事件ですが、結論から先に言わせてもらえば、こういうときこそ健太を守ってやらなければならないと思うんですよ。まして今度の事件は子供団の外で起こったことですね。それを子供団まで裁くという理由はまったくないわけです」
父母たちのあいだから一斉にどよめきがおこった。非難のどよめきだった。父母たちの怒りを代表するかのように、父母たちが血相を変えて発言に立った。
「守るっていったいなにを守るんですか。先生を殴ったんですよ。殴ったという暴力行為を守るということは、いったいどういうことですか。先生を殴ったその行為は絶対に許されない。守るなんていったいなにを言っているんだ。そんな馬鹿なことが許されていいものか」
「いや、ぼくが言っているのは、暴力を擁護するなんていうことではないんですよ。健太はいまいろんなところで反省を迫られているし、償いをさせられている。その上また子供団まで、彼を裁くなんて理由はどこにもないと言っているんです。健太にとって子供団は最後のよりどころです。彼にとっていま唯一の居場所なのです。この場所から追放したら彼はいったいどこにいけばいいんですか」
「問題をすりちがえないで下さい。私たちは健太君が引き起こした暴力のことを言っているんです。この暴力にきちんと対応して下さいと言ってるわけですよ。子供団に所属している健太が事件を引き起こした。本来ならば、その責任者である方が辞任して償なわなければならないほどの大事件ですよね。それだけ指導者の責任は重いはずですよ」
こうして父母たちははげしい攻撃を浴びせた。弘もまた負けずにやりかえす。するとまたその言葉尻をとらえて、何倍もの攻撃が放たれる。弘も次第に感情的になっていって、
「ぼくはどんなに非難されても、健太の処分には反対です。あくまでもみなさんが健太をやめさせるというなら、ぼくはもう子供団からおります。だれかさっきぼくに責任をとれとおっしゃったけど、ぼくがやめるというかたちで責任をとれというならそれでもいいですよ」
と売り言葉に買い言葉でそう言ってしまった。弘と父母のあいだに溝はさらに深くなるばかりだった。
弘と高木は大井町の駅前の居酒屋に入った。なんだか酒でも飲まなければやりきれない気分だったのだ。弘は非難され罵倒された悔しさを吐きだすように高木に言った。
「まったく父母たちはなにも分かっていないんだな。どうしてこんな単純なことがわからないのだろうか。いまぼくたちがしっかりと健太に身をよせて守ってやらなければならないということが」
すると高木は言った。
「しかし父母たちの言い分もわかりますがね」
「君はああいう父母たちの意見がわかるのか」
「いや、わかるというか、あんな風に感情的になってしまうということが」
「あんな意見が出てくるのは、予想されたことだよ。しかしぼくは今度のことでは絶対にゆずらないつもりだよ」
「しかし‥‥」
と言って高木はちょっと言い澱んだ。このときはじめて、高木は自分とちがった意見を持っているのだなと気づくのだった。
「しかし、どうなの?」
「望月さんのおっしゃってることはよくわかるんですよ。しかし現実には、たとえば守も洋子も紀子も俊雄も、団会にこなくなりましたね。あれは親の命令なんですよ。健太のいる子供団にいくなって。どうもいまのままの状態を続けていると、親たちは次々にそんな態度をとるようになると思うんですよ」
「だからって、健太をあの父母たちの言うように追放しろということになるのかな」
「いや、ですからこの問題は正面からぶつかるのではなくて、互いに妥協するというか、両者のあいだを取るというか、そんな決着もあると思うんですよ」
その発言に弘は意外な思いに打たれてさらにたずねた。
「どんな決着があるのかな」
「ですからこの問題のほとぼりが冷めるまで、健太をしばらく団会を休ませるということにして」
「休ませるって、団会にくるなっていうこと。それじゃ学校と同じことをすることじゃないか。そんなことしたら、健太はもう子供団にこないよ。永遠に袂を分かつよ。あの子は感受性の強い子だから、それがすなわち退団させられた、クビにされたと思うに決まっているじゃないか。いいかい、高木さん。いま彼のかたわらに立っているのは、ぼくたちだけなんだよ。いまここでぼくたちが見捨てたら、いったい彼はどこにいってしまうんだ。子供団はどこまで彼を守る。そのことを貫こうと思うんだ。それは子供団の存在理由がはげしく問われていることでもあると思うんだよ。今度ばかりは父母たちにゆずることはできないな」
と弘はちょっとはげしい調子で言った。弘のなかにその思いが新たに立ちのぼってくるのだった。健太がどんなに子供団を生きがいにしているか。そしてまた子供団が健太によって、どれほど豊かな生命力を吹き込まれたかを。彼を追放するなんて絶対にできないことだった。
その週が明けて、月曜日の午後だった。健太が彼の軍団の昇や和男を引き連れ、ゼームス坂から長躯して小山の児童館にやってきた。そして弘にこう訊くのだった。
「おれ、子供団をやめさせられるんですか」
「やめさせるって、だれが言った?」
「父母会でそんな話がでたって」
「そういう話が一部の父母たちから出たことは事実だけど、でもそんな結論にならなかったよ。どうして健太が子供団をやめさせられるんだ。そんな理由はどこにもないじゃないか」
「この間の事件の責任があるからとか、いろいろと言われてるわけでしょう。おれはべつにやめさせられたってかまわないけど。弘が困るならば」
「どうしてぼくが困るんだ」
「弘を子供団からやめさせるという噂もでているし」
「ばかなこと言うなよ。いったいそんな噂、どこからでたんだ。そんなばかげた噂を信じてはいけないよ」
こんな奇妙な噂がながれていることに驚くと同時に、健太がこんな風に苦しんでいることにも驚くのだった。健太はこういう子だったのだ。こんな風に他人にやさしい心をむける子なのだ。どうして大人たちは、このやさしさに目をむけないのだろうか。
「ぼくは健太をやめさせないよ。だって健太は子供団の子だもの。健太は子供団のなかで生きる子だもの。それはたしかに、父母たちのなかで、今度のことを問題にしてやめさせろなんていう人がいるけど、それはやっぱりまちがっているんだ。そのことをぼくは時間をかけて説得していくからね。だから健太もそんなばかげた噂に惑わされてはいけないよ。そんな噂に少しも苦しむことはないよ。ぼくはどこまでも健太と一緒にいくからね。子供団の子供たちだってみんなそう思ってるんじゃないか」
健太は心につかえていたものがとれたかのように、なにか曇っていたものが晴れ渡ったように明るい笑顔をみせて帰っていった。いま健太は苦難の道をたった一人で歩いているのだ。その健太の側に、もっとしっかりと立っていなければならないと弘は思うのだった。
その夜だった。自宅に徳子から電話が入ってきた。徳子はちょっと奥歯にものがはさまったような言い方をするのだ。
「ちょっと変なことを訊くけど、高木さんとはなにかあったの?」
「いいえ。なにかあったってどういうことですか」
「対立があったとか、そんなことよ」
「そんなことはありませんよ。彼とはうまくやっていますよ」
「でも健太のことは高木さんときちんと話がついているんですか」
「もちろんですよ。それは先週の会議のあとでも子供団の指導方針を確認しましたから」
「高木さんも弘さんと同じ考えなのね」
「どうしたんですか。なんだかおかしいですね。なにかあったんですか」
ちょっと徳子の声が途切れたが、逆にたずねかえしてきた。
「新しい父母たちが動いているってことは知っているわよね」
「それはこのあいだの会議の延長でしょう。父母総会を開くことになったわけだから、熱心に動いてくれる父母がいるってことはたのもしいですよ」
「それがどうもいままでにないような動きをしているのね。それも高木さんがつれてきた宮田さんっているでしょう。あの人が中心になって活発に動いているらしいのね。あの人はずうっと政治活動してきた人でしょう。だからそのへんの動き方が、いままでの子供団にはないような動き方なのよ」
二人の子供を子供団に入会させた宮田は、どうももうひとつ弘にはよくわからない人物だった。父母会などにもあらわれて理路整然とした発言をするのだが、その議論は空論のたぐいだった。彼の子供団にたいするかかわり方もなんだかそんな空論の延長のようにみえた。夏のキャンプも夫婦でやってきたのだが、ただビールを飲んでもう夕方には帰ってしまったと他の父母から非難轟々だった。
「私にもよくわからないけど、今度の父母総会、弘さん、ちょっと気をつけた方がいいわよ、なんだかおかしいことが起こるような気がするから」
前日の健太の話といい、この徳子の話といい、どこかひっかかるので弘は、その翌日、高木に電話をいれてみた。父母総会にむけてもう一度指導員としての意見を確認しておこうと思ったのだ。そして高木が子供団に入会させた宮田という人間のことをもっと深く知りたいと思った。すると高木はなんだか弘を避けるような言い方をするのだった。
「今日はちょっと用事がありまして、すみません」
「じゃあ、明日はどうかな」
「あ、明日もちょっとまずいんですよね。すみませんが、ちょっと今週は用事が重なっていましてね。土曜日までだめなんですが」
「それならばしかたがないな。土曜日でもいいよ。団会の後で、ちょっとじっくりと話したいんだ。父母たちも動いているみたいだから」
「そうですね。それは必要でしょうね」
「じゃあ、土曜日」
「わかりました」
その土曜日になって、高木から電話があった。
「すみません。どうしても片付けなければならない私用がありまして、今日の団会には出れないんですが、よろしくお願いします。そのかわり明日の父母総会にはかならず出席しますから」
人をあまり疑ったことのない弘は、またこのときもその電話に別に不審なものを感じてはいなかった。高木は抜き差しならぬ用事をかかえているのだろうというぐらいにしか思わなかったのだ。
その日の団会に、弘はちょっと早めに体育館に入っていった。団長になっている中学一年生のまゆみが集合を呼び掛けた。団長の前に子供たちは床にぺたりとすわりこむ。いつもは四十を越える子供たちがやってくるのだが、その日顔をみせたのは、二十人そこそこのメンバーだった。
「これから子供集会をはじめます。今日の議題は清水君のことです。ええと、清水君はみんなも知っているように、ちょっとした事件というか、騒ぎというか、そんなもんを起こした清水君を、父母たちは清水君をしばらく休ませるとか、はっきり言ってやめさせるとか、そういう話がでているみたいですが、この問題を子供団で考えようと思うので、意見のある人は言って下さい」
子供たちから手が上がった。たくさん上がった。最初に由美がさされた。彼女が立ちあがって発言した。
「父母たちは、健太を子供団からやめさせるって言っているけど、私は反対です」
康夫が発言した。
「親に、健太がやめなければ、子供団にいってはいけないって言われてるけど、これはおかしいと思います」
おれの家も、あたしの家もという声が上がった。弘はそんな声を聞いてこれはただならないことだな、とんでもない状況がいま子供団のなかにおきているのだなとあらためて思うのだった。しかしこういう問題は今までにだって何度もあったことだった。そのたびに乗り越えてきた。今度だって乗り越えていくことができるのだ。
しばらくそのざわめが静まらなかったが、今度は中学一年生の葉子が立ち上がって言った。
「だから、大人はそう言っているけど、私たちがどう考えるかだと思います。そのことを話すべきだと思います」
「あ、そうです。いま高村さんが言ったことです。みんなはどう思うかですが、意見のある人は言って下さい」
子供たちはまた次々に意見を放つ。小学五年生の紀子が言った。
「清水君はときどき乱暴なことがありますが、でも親切なときがいっぱいあります。だからぜったいにやめては困ると思います」
小学三年生の由美が言った。
「健太は夏のキャンブのとき私を助けてくれました。私のリュックを持ってくれました。それとかヤケドしたときとかに助けてくれました。だからやめてはいけないと思います」
中学一年生の広幸が発言する。
「丹沢の子供基地でいちばん働いたのは健太です。あの小屋づくりは健太の力を必要としています。とにかく健太はずうっと子供団を支えてきたのです。その健太がいない子供団なんて考えられません」
といった声がどんどん発せられる。子供たちはもちろん健太の悪いところもしっかりとみている。そのこともしっかりと指摘する。しかしだれ一人として健太にやめてもらいたいなどと思っている子はいないのだ。子供団はどんな子供でも受け入れてきた。どんなに問題があるといわれた子でも、この子供団は飲みこんできた。あふれるばかりの子供たちのエネルギーの渦のなかに巻きこんできたのだ。もちろん喧嘩があった。憎みあうこともあった。陰口を飛ばしての中傷があった。いじめだってあった。そんな争いでとげとげしくなったこともあった。しかしそれらのすべてを子供団は飲みこんできた。子供たちが子供たちを追放するなんてことは一度だってなかったのだ。
かおりが立った。彼女は子供団創設以来のメンバーだった。健太のことをだれよりもよく知っている子だった。かおりはちょっと顔を赤くして話しはじめた。
「今度の中学校での事件のことですが、私は大矢という先生が大嫌いでした。どうして嫌いかというと、なにか気にいらないことがあると、すぐに怒鳴ったり、けとばしたり、ときどき派手に生徒を殴ったりするからです。私は殴られたとか、けとばされたことはありませんが、何度も怒鳴れました。そんなことが何度もあって、いまでも大矢先生は嫌いです。だから今度のことが許されていいかということではないのですが、でも健太にはああいうふうに先生を殴ってしまう理由があったというか、そういう過去があったからなんです」
そしてかおりは、驚くべきことを、みんなに話していくのだった。
「それは中学校に入って、最初の集会のときでした。一年生がずらりとならんでいて、それでいろんな注意とかがあって、その集会が終わりかかったときに、大矢先生が健太をみんなの前につれていって、服装が乱れるといってこづいて、それで健太がなにすんだよという風に手で避けようとしたら、大矢先生はもうすごい勢いで健太をつきとばして、健太はもうふっとんでひっくりかえってしまいました。それでもまだ大矢先生は許さないで、健太の襟をとってつかみ上げて、いいか、ここは中学校だぞ、甘ったれんじゃねえぞって、もうヤクザみたいな乱暴な言い方でまた投げ飛ばしました。
私たちはそれを見てもうびっくりして、中学ってすごく怖いところだなあと、ほんとうに怖くなってしまいました。それから健太はいつも大矢先生に殴られていました。それは健太がいつも反抗するからです。健太は一度も大矢先生にお辞儀したことがなくて、いつもガンづけるとか、それと反対に全然無視するとか、そういう態度が大矢先生には気に入らないのだと思いました。健太はいつも大矢先生の標的になっていたというか、いつもやられていて、健太ってすごいなあ、こんなことにくじけないでたえているというか、反抗しているってすごいなあと思っていました。
健太が、ずうっと目に眼帯をしてきたことがあったことをみんな知っていると思いますけど、あれは健太がトイレの裏で煙草を吸っていたということで、美術室につれこまれて思いっきり目を殴られたからです。そのことを健太はだれにも言いませんでしたが、私がそのことを知ったのは、今年の夏のキャンプのときでした。大矢先生の話になって、そのとき健太が冗談っぽく、おれはかならず大矢に復讐すると言いました。おれが学校をでるときまで、かならず復讐すると言いました。おれはかならずあいつの左目をめくらにしてやるんだと言いました。
私が驚いてどうしてって訊いたら、美術室で殴られたときもう少しのところで失明するぐらいの重傷だったのです。いまでもそのときの傷がもとで、すごく視力が悪いらしいんです。おれはぜったいにこの恨みを晴らしてやるんだと言いました。私はそんな話を聞いていたから、今度の事件がおこったとき、ああ、とうとう健太は復讐したんだと思いました。私はなんだかものすごいショックでした。なんだかものすごく男たちって怖いなあと思いました。男ってこんな風にして生きていくのかなあっていう驚きでした。私は今度の事件で、とくに大人たちは、みんな健太が悪いことにしていますが、それは私はちがうと思います。私だけではありません。私の学校には健太の味方がたくさんいます。私はぜったいに健太の味方です」
そしてその声が、いきなりそこから泣き声に変わってしまった。
「だってそうでしょう! いつもいつも暴力で私たちをおさえこんできたのです。だから暴力でやられたって仕方がないでしょう。暴力で私たちの心をおさえこんできたんだから、おさえこまれていつも殴られていた子が、あるとき爆発したって仕方がないでしょう。健太は私たちに暴力をふるいましたか。それは時々乱暴なところもあったりして泣かされた子もあると思います。でもそのたびにみんなに批判されて、だんだん乱暴なところはなくなっていきました。いまではほとんど暴力をつかわないでしょう。健太は自分より小さい子たちに暴力をふるいましたか。女の子たちに暴力をふるいましたか。一度もありません!
健太はいつでも私たちのそばにいました。私たちの友だちとして立っていました。私たちが困っていたときは、いつも黙って助けてくれました。健太は私たちの友だちなのです。いま健太は学校にもいっていません。いま健太にあるのは子供団だけです。子供団がなかったら健太はどうするんですか。もし子供団をやめろといわれたら、健太はどこにいけばいいのですか。健太を子供団から絶対にやめさせてはいけないのです」
とかおるはなんだか叫ぶように言った。
健太はみんなの背後で、取り残されたように、ぼつんとすわりこんでいた。両腕で膝をかかえこんで、かおりの発言をうつむいて聞いていたが、その健太の顔が次第に膝のあいだに埋まっていくのだった。彼は泣いているようだった。
弘の心にも子供たちがつくりだす波動が響き渡っていく。そしていよいよこの子供たちを守り抜かねばならないと思うのだった。
日曜日の一時から、父母総会があった。いつもはひどく父母たちの集まりが悪くて、役員たちがあちこちに電話をいれて召集をかける。しかしこの日の総会は、開始時間前にすでに用意されていた椅子が埋まるほどだった。このことからしても異様だったが、部屋に入ってくる一人一人の表情がひどくかたかった。あんなにいつも陽気にふるまう会長も黙りこんで椅子に座っている。いつもなら弾けるような笑いがあちこちからわき上がるのに、その日は笑いもない。なにか異様な緊張が漂っているのだった。
弘がなによりもおかしいと思ったのは高木だった。話しかけても彼はかたい表情で相槌を打つだけだった。このときはじめて、弘のなかに得体の知れない黒い雲が湧きたっていくのだった。
この日の会議を仕切るかのように宮田が立ち上がって、満足げに会場をみまわし、では今日の会議の進行役をさせてもらいますと言った。それもずいぶんおかしな話だった。まだ子供団にはいって半年もたたない人間が、なんの役職にもついていない人間が、父母総会の司会をするなんて。彼は切り出した。
「ええと、それでは今から父母総会をはじめますが、私のほうからちょっと今度の事件のあらましというものを報告して、それから質疑応答に入っていきたいと思います。みなさんも今回の事件はよくご存知のことですから、そこは割愛しまして、この問題に樫の木子供団はどのように対応してきたか、そして今後どう対応すべきかという本題に入りたいと思います。この事件が発生して父母会でも何回も会議がもたれ、やはりこの問題は子供団としてもきちんと対応しなければならない、それが子供団としての社会に対する責任であり、もしここではっきりとした処分をしなければ、子供団の将来に禍根をのこすという結論になり、先々週の水曜日に子供団を指導している望月先生と高木先生をお招きして会譲をもったわけです。
その席で、これは私たちには思いもよらぬことだったのですが、望月先生が辞意をもらされたのです。この健太の問題にはひどく心をいためている。子供団のなかからこういう暴力を生みだしてしまったのはまことに遺憾であり、自分はこの責任を取って指導員をやめたいと漏らされたのです。この突然の辞意の表明に、私たちは驚き、何度も慰留につとめたのですが、望月先生の辞意はかたく、子供団結成以来ずうっと第一線で指揮をとってきたが、相当疲れもたまっているし、しばらく子供団の指導から退きたいという発言があったわけです。そのことに父母会は大いに戸惑いましたが、不幸中の幸いというか、今年から高木先生が子供団の指導員として加わっていますので、その指揮を高木先生にお願いすることにして、望月先生はしばらく休息してもらうという形をとることが一番ベターではないかという結論になったわけです」
これはいったいなんなのだ。いったいだれがどこでこんな結論を下していったのだ。弘は呆然として奇妙な言葉を展開する宮田をみつめていた。たしかにあのとき、あまりの父母たちの強硬な意見に、弘もちょっと感情的になって、もしそんな結論を押しつけるなら、ぼくは子供団から退きますと言った。しかしそれは売り言葉の買い言葉であって、むろん弘の本心ではなかった。それほど自分は、この問題に対してはゆずれないという強い意見の表明であった。それがこんな風に解釈されていくのか。
「高木先生もいろいろと忙しい毎日でありますが、望月先生なきあとの子供団の指揮をとっていくことを快諾なされまして、我々もほっとしたところであります。そこでまず子供団が直面しているこの健太の問題を、高木先生と父母会でじっくり話し合いまして、学校とリンクさせた処分というか、対応をとるという形で決着することになりました。学校があくまでも主体です。学校は子供団の上級機関であり、その上級機関の決定に下級機関である子供団も従うというのは当然のことだと思います。学校はいま健太の暴力を自宅学習という処分で対応している以上、子供団もその学校側の対応にリンクさせて、しばらく子供団を休ませるということに意見の一致をみました。このあたりの経過を高木先生より報告してもらいたいと思います」
弘から離れてすわっていた高木が、宮田にさされて立ち上がった。
「今回の事件は望月先生にはずいぶん辛い事件だったろうと思います。健太はずうっと子供団で育ってきしまた。いわば健太は子供団で育ってきたようなものです。その健太が今回のような事件を引き起こして、望月さんには裏切られたように思えたはずです。そのことで今回の責任をとるというか、しばらく子供団育成の仕事から退いて休息をとりたいという望月先生のお気持ちはよくわかるんです。たしかに今度の事件は子供団活動のあり方を根底から問いかける重大な事件であったと思います。ある意味では子供団に襲いかかった最大の危機かもしれません。望月先生の後をまかされるぼくには、この重大な危機を乗りきる力があるなどと言いきる自信はありませんが、しかしぼくは責任をもって子供団の指揮をとっていきたいと思います。それがいままで子供団に打ち込んできた望月さんへの恩返しであり、また子供団の未来を切り開いていくことでもあると思います」
これは果たして人間の言葉なのだろうか。こんなふうに人間は変化をとげるものだろうか。弘はなにか世界が真っ二つ割れたような衝撃で青ざめているのだった。
みんなの視線がこっちを向いていた。宮田は今度は弘に発言をうながしているのだった。呆然としている弘にむかって宮田はさらに言葉をついで言った。
「望月先生からも一言お願いします。これから子供団を高木先生に引き継いでいくわけですが、その上での励ましとか、アドバイスなどを」
弘のなかですさまじい早さで、これはすべてペテンであり、自分のまるで知らない所で画策された恐るべき裏切りなのだとまくしたてようとする思いが走っていった。しかし弘はそんな発言をすることができる人間ではなかった。彼はゆっくりと立ち上がると、なにか疲れきったような表情で、
「なにもかもはじめて聞くことで、いまは自分の意見をのべることはさしひかえたいと思います。少し時間を下さい」
そのあとでちょっとした混乱があった。この夜の会議の進め方に非難の声が上がってちょっと紛糾した。しかしおそらくこういう修羅場を何度もくぐりぬけてきたのか、宮田の対応は手馴れたものだった。その混乱も巧妙におさめられていった。かつて体験したことがない悪夢のような総会が終わった。弘が部屋を出て階段をおりはじめると高木が駆けよってきた。
「あの、望月さん。ちょっと飲みませんから。これから」
弘は静かにむしろ悲しみをたたえて言った。
「飲むことなんて、いままで何度もできたじゃないか。今日は君とは飲みたくもないし、しゃべりたくもない」
「それならば、仕方がありませんが‥‥」
「君はこういう男だったんだね。君がはじめてわかった」
弘は高木の目を見つめて言った。高木はついに弘の目を見ることはなかった。
弘はその夜まったく眠れなかった。彼の胸のなかに怒りと悔しさがはげしくかけめぐっていった。彼の人生のなかではじめて体験する恐ろしい裏切りだった。これが裏切りでなくていったいなんであろうか。子供団は裏切りとか策略とかいったものとはいっさい無縁の世界だった。その世界にこんな醜い企みがいつの間にかまぎれこんでいたのだ。
その翌日の夜、徳子が電話をかけてきた。
「あんなふうに話が展開していくなんて、だれも思わなかったのよ」
「そうですか」
「そうですかって、あそこで弘さんがはっきりと自分の意見を言えばよかったのよ。最初は、みんなもすっかり弘さんは、ああいう決断をしていたと思ったのよ。ああいうふう決まっていったのは、弘さんの承知の上でと思ったわけでしょう。だからみんなあの宮田さんの言いなりになったわけよ」
「ぼくがあの場で、自分の意見を言ったら、もっと紛糾すると思いましたからね」
「だけどあんなことでいいの。あんな結論を許してしまって。これからの子供団はどうなるの」
「しかしあそこでぼくが発言すれば、さらに子供団は混乱するだけですからね。醜いドロ試合になってね」
「じゃあ、これで弘さんは子供団をやめるわけなの。そんなことできないわよ。幸治なんかすごいショックを受けてる。孝治だけじゃなくて、子供たちはみんなショックで、おれたちも少年団やめるなんていってるらしいわよ」
「いや、それは‥‥」
「あのね、弘さん」
徳子はなんだかじれったそうに言葉をついだ。
「いつか弘さんに言ったことがあるでしょう。あの高木さんという人のこと。あの人はあっちこっちで子供会をつくろうとして失敗した人だって。それで今日もあんまり腹がたったから、よく知っている北品川の児童館の人に会って、高木さんてどういう人ですかって聞きにいったのよ。そしたら驚くじゃないの。過去にも同じことをしているのね。同じように途中から子供会の活動に加わって、乗っ取ろうとしているのよ。どうしてそんなに子供会がほしいかというと、あの高木さんという人はなんでも子供の組織をつくる東京センターとかいうところの幹部なんですって。でもその組織センターというところで偉くなるには自分の子供会を持ってないと駄目らしいのね。それで高木さんは自分の子供会がほしくてほしくてたまらなかったらしいのよ」
弘はその話も知っていた。児童館の仲間からもずいぶん注意をうけたものだった。しかしそれが現実に彼の目の前で起るなどとは思いもよらぬことだった。徳子の話は続いた。
「あの宮田さんは、高木さんが連れてきた人でしょう。あの宮田さんと高木さんは同じ党員で、だいぶ政治活動もしてるらしいのね。私たちはそういうことにまったくうぶだからわからなかったけど、いつのまにか子供団にはそういうプロの政治屋たちが入りこんでいたのよ」
そして徳子はなんだかくやしそうに、
「ねえ、弘さん、まだ遅くないの。あれはおかしいと弘さんが言えば簡単よ。弘さんの味方はたくさんいるし、簡単にひっくりかえせるわよ。あの人たちと戦いましょうよ。こんなこと許されていいわけがないのよ」
弘だってこの裏切りに復讐を加えたいと思う。その衝撃は深く、そこから立ちのぼってくる怒りと憎しみもまたたとえようもなく深かった。それなのに彼は、
「いや、いまぼくが事を荒だてたら、子供たちはさらに混乱しますからね。ちょっと時間を下さい」
と言った。そんなふうに応えて、彼のなかに立ち上る怒りや憎しみをごまかす自分に、弘はまたはげしい嫌悪を感じるのだった。
弘のもとに子供団の子供たちが、入れ替わり立ち代わりやってきた。
「弘は子供団をやめるんですか」
とか、
「お母さんたちがって言ってるけど、子供団をクビになったんですか」
とか、
「高木が子供団を乗っ取ったわけですか」
とか言った。そんな声をぶつけてくる子供たちに、弘はまたしても、
「そうじゃないんだ。クビになったとか、高木さんが乗っ取ったとか、そういうことじゃないよ。ぼくは子供団をずうっとやってきて、ちょっと疲れたんだな。ここでちょっと一線から退いて、子供団を脇から見てみたいんだよ。ぼくのかわりに、子供団をしっかりとみてくれる高木さんがきたから、こんなことができるんだな。だからぼくがクビになったわけでも、高木さんが子供団を乗っ取ったわけでもないよ」
と言って、子供たちの動揺を静めてみた。少しでも彼の本心をあらわにしたら、子供たちもまた混乱に陥ってしまうだろう。
しかし弘の別の心は、この悔しさと憎しみのすべてを子供たちにぶつけたいとも思うのだった。いままでこんなにはげしく人を憎んだことはなかった。こんなにはげしい裏切りというものに出会ったこともなかった。まるで背後からいきなり切りつけられたような裏切りだった。それは許すことはできない裏切りだった。そのことの一切を子供たちに話して、怒りの炎となって復讐したいとも思うのだった。しかし弘にはできないことだった。そういうことができない自分をまた呪うのだった。
来る日も来る日も悶えのなかにあった。子供団がどんなに深く彼の生命のなかに根をのばしていたかを知るのだった。苦しかった。どこかでこの苦しみから抜け出したかった。彼は聖書を手にしていた。そしてある言葉を探していた。以前その不思議な言葉に触れたことがあったが、そのときその言葉がよくわからなかった。しかしなにかひどくひっかかる言葉だった。その言葉はロマ書のなかにあった。
《‥‥愛する人たち。自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい。「復讐はわたしのすること。わたしが復讐すると主は言われる」と書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい‥‥》
彼はその言葉にふれた。何度も何度もそのぺージを開き、その言葉にふれてみた。やっぱり彼にはその言葉は謎であった。しかし時間がたつにつれ、なにか不思議なやさしさで、それは彼のなかに広がっていくのだった。そしてあんなに深く、大きく、彼のなかに渦巻いていた怒りと憎しみの塊が、少しづつ溶けていくのだった。
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