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蔵の活用法を考えよう 山崎範子

 十一月二十二日土曜日、風は冷たかったけれど、空気は澄み、よく晴れた日だった。バケツに雑巾、軍手の用意もある。よし、掃除の準備はできた。
 この日、文京区千駄木五丁目十七番地にある「社団法人東京派遣看護婦協和会」の所有する、小さな蔵の掃除に、近所の人たち十数名があつまった。
 さて、なぜ蔵の掃除をすることになったのか。ちょっとしたワケがある。

「協和会」は、[派遣看護婦の専門的教育及び社会的地位の向上を図り、もって都民の生命の保護、健康の保持増進に寄与すること]を目的として、一九五四年(昭和二十九年)、この千駄木に設立された。ここは派遣看護婦さんの研修の場であり、宿舎である。

 この秋、谷中大円寺の菊まつりに、理事の福田洋子さんがみえた。相談があるので寄ってほしい、という話かきっかけとなって、私たちははじめて「協和会」の扉を開けた。そして会長の木下安子さん、事務局の飛田昭俊さん、看護婦の海老根(えびね)マツさんたちと知り合った。

 前を通るたびに、いったい何だろう、公園の奥から見える蔵は誰のものなんだろう、といつも不思議に思っていた。そのナソがようやく解決するのだ。

 一時は百四十名もいた「協和会」の会員は現在三十四名。この宿舎で暮らしているのはそのうちの約半数である。平均年齢も七十五歳を超えている。看護の仕事も身体がきつくなって、現在現役として働いているのは三名。長く看護の仕事を続けてきた女性たちが、自立した老後を過ごす場所として、「協和会」は今ある。だがそれだけでなく、今後もできうるかぎり地域の健康に寄与する事業を行なっていくつもり、という。そうした活動をしていかないと、社団法人としての法人資格がなくなり、看護婦として働いてきた人たちの、終の住み家までも失うことになりかねないのだそうだ。
 
 話を戻そう。「蔵」である。
 この土蔵は、外側は大谷石、内側が木造になっている。内部は太い木組、斜めに渡した筋交いが、地震対策であるところから、関東大震災直後の建築ではないかということだった。ゆるやかな階段のついた二階建、屋根は瓦ぶき。
「協和会」ではこの蔵と、蔵の横にある平屋の家(六畳と八畳の和室、廊下がある)を地域に解放して、会の目的に沿った事業をしていこうと考えている。都民の(すなわちご近所の)広い意味での健康に寄与する何かである。

 そこで、とりあえず蔵のほこりを払い、晩秋の風を通し、近所の人に蔵の存続をアピールしてみよう、ということになった。そして「蔵をどうやって使おうか?」を、掃除をしながら考えてみた。
 
 コンサートホール・ギャラリー(これはすぐに出てくる)。図書館、それも健康に関する専門の子ども図書館もいい。自由で、音楽も流れていて、ここを拠点にして、小児科病棟などで本を読むボランティアをする(なかなかいい調子)。中学生くらいの子の溜まる場所がない、コンビニ前でたむろしている子たちの居場所にならない?(ふんふん)。絵を描く場所は、音楽を作る場所でもいい(フリースクールのようなイメージ?)。思い切って喫茶店、レストランっていう手もある(本格的だね)。ボランティアを募って肩もみハウス、肩もみながら昔話を聞くの(それ、いいねえ)。

 と、アイデアはいろいろ、また、第二弾で、十二月五日には「クラ(蔵)シックギターの音色」を聴くミニコンサートが行なわれた。シーンとした音色が、心の中まで響いてくる。ギター奏者は同じ千駄木の後藤嘉子さんだった。

「協和公」設立までの背景を、会で行なわれるセミナーの資料から見てみよう。
 派遣看護婦の歴史は明治にさかのぼる。

 一八九一年(明治二十四)、帝大病院を退職した鈴木雅子が「東京看護婦協会」を創設したのがはじまりとなって、その後、たくさんの看護婦紹介所が設立された。派遣先は入院中の患者や自宅療養中の人などの個人が対象で、契約中はほとんどが住込みの就労だった。(この鈴木雅子は大関和(ちか)と同様、明治十九年に創立した桜井女学校のキリスト看護婦養成所の卒業生である。桜井女学校(女子学院の前身)はミッションスクールで、まだ日本には少ない看護婦の養成所となった。看護婦の歴史に詳しい鈴木俊作さんによると、ここには後年、平塚らいてうのお母さんも通ったという)

 一九四七年(昭和二十二年)。「職業安定法」が施行され、翌年GHQは、看護婦会会長のボス的性格、中間搾取、労働の強制を理由に、すべての看護婦会に解散命令を出した。これによって、新たな自治運営にもとづく、民主的な派遣看護婦会の設立が望まれるようになる。当時、病院の内勤看護婦は医師の診療の補佐が主で、患者のベッドサイドケアは付き添い看護婦が行なっていた。そのほかにも、病人の世話や出産後の産婦・新生児の世話に派遣看護婦を頼むことはよくあり、需要はとても多かった。

 しかし、社会的地位は安定しておらず、なかでも、泊まり込みの看護のため、仕事のないときの宿泊場所の問題は大きかった。病院の一室を何人かで使っていたこともあったという。

 こんな状況の中で、本郷森川町にあった八千代看護協会の看護婦であった番トメは、新しい時代の派遣看護婦を紹介する事業所づくりに奔走した。このトメさんが「協和会」の初代会長である。

「協和会」のあるところは以前、佐野東大教授の邸であった。トメさんは、東大病院の眼科婦長であった村上さんを通じて、佐野教授を知ったという。ちょうど自宅の処分を考えていた佐野さんは、派遣看護の事業に共鳴して、土地を譲ることにしたそうだ。

 一坪約五千円でおよそ三百坪。土地家屋の購入に出資者を募り、昭和三十年に取得。資金は協和会への入会希望の看護婦の他に、病院勤務の看護婦や友人、知人であった。看護婦不足への懸念や、収入の二割を徴収するという旧来の看護婦会とは異なり、会員の自治運営によるという理念が賛同されたのだろう。

 当時の佐野家は、立派な門のある屋敷で、広い庭には井戸があったという。当所は屋敷をそのまま使っていた。協和会の新年会の写真に、屋敷の内部が写っている。看護婦のひとりの海老根マツさんは「庭に大きな枇杷の本があって、その木の下で大正琴を聴いたことがあった」と教えてくれた。海老根さんは六十年以上看護の仕事をしてきた方だ。時代の流れに翻弄された頃のお話を聞き、戦中戦後の看護婦の苦労が尋常でないことを知った。

 看護婦試験に合格したとき、海老根さんはまだ十七歳。看護婦免許は二十歳にならないと得られないため、二年間を見習い看護婦として働く。満州事変後、陸軍軍医学校診療部に勤務し、第二次世界大戦中は中国に渡り関東軍の病院で働いた。終戦後、中国八路軍の捕虜となり、八年間のあいだ行動をともにして、日中の兵士の治療看護にあたった。この八年の間、一度もお風呂に入れなかった。八路軍と一緒にいたのが敬遠され、帰国後は病院勤務ができず、一九五四年に「協和会」に入会して派遣看護婦となったという。小柄な海老很さんのやさしい話し方からは、そんな苦労はまったく伺えないのだ。

 遠藤ヨシ子さんに昔団子坂にあった料理屋、今晩軒での新年会の話を聞いた。昭和三十四~五年のことだという。
「はじめて新年会を料理屋さんでやろうということになって、団子坂にあった今晩軒にいったんですよ。まず突出しがでて、お刺身がでて、というように、ポッポツとゆっくり料理がでてくる。あたしたちは長い間看護婦をしているもんだから、食事を急いで食べるくせがついていて、お酒を飲みながらゆっくり、なんてことができなくてね。

 そのうち待ちきれなくなって、食べたお茶わんをお膳に重ねて、洗い場まで運んだ。前の下げれば、次が早く出てくると思ったもんだから。私もお膳にみんなの茶わんのっけて持っていこうとしたら、ちょっとよろけて階段から落っこちた。当時一個三百円もする器を壊しちゃって、弁償はしなけりゃならないし、恥はかくし。で、それ以来、今晩軒には二度と行かなかったんです。
 若い看護婦さんの大騒動に、今晩軒の人も、ほかのお客さんも驚いたことだろう。

 一九六八年(昭和四十二年)に、「協和会」は今の鉄筋三階建てに改築。この建設費を捻出するために南側百三十坪を文京区に売却(これが現在の児童遊園である)、不足分は会員に債券を発行してまかなったのだという。この時に蔵の解体を見積もったところ、約三百万円。あまりの高額に取り壊しは断念、おかげで蔵は現在まで残ることになった。

 一九七〇年以降、派遣看護婦は減少してくる。それは、病院医療が中心となって、派遣看護婦になる人がいなくなってきたことと、入院患者の付き添いを、無資格者に委ねるようになったためでもある。そして、一九九四年十月、厚生省は付き添い制度の廃止を決めている。
 というわけで、この「協和会」蔵活用作戦は、まだまだ進行中。コンサートの次なる企両は、以下次号。
                   
 その後、蔵を活用して「けんこう蔵部」という催しが始まった。藏を使ってさまざまな演奏会やダンス、講談が行われ、歯科医の講演や健康相談、並行して蔵の修復資金を貯めるバザー。大工や左官を招いての修復ワークショップも。現在、蔵を所有する東京派遣看護婦協和会は在宅看護協和会と名称を変えて、訪問看護ステーションを開設した。蔵そのものは映画フィルムの保存に取り組むNPO法人・映画保存協会が借り受け、映画資料室として、上映会などのイベント会場として管理・貸出をしている。

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草の葉ライブラリー                         山崎範子著「谷根千ワンダーランド」                 三月刊行

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