人生相談 菅原千恵子
愛しき日々はかく過ぎにき 菅原千恵子
人生相談
母が、いつも聞いていたラジオの放送に、「淡谷のり子の人生相談」というのがあった。昼の二時過ぎに放送されていた。私が三年生か、四年生の時だったと思う。もちろんその時間帯に家に帰っていたからそう思うだけであって、確信はない。その放送では悩みのある人が手紙で人生を相談するというもので、女性の相談者の手紙が、私にはたいそう興味深かった。こんな内容があったのを覚えている。進駐軍にいたアメリカ兵とは恋人同士になったけれど、彼は本国に帰ってしまい、今は音信不通となっている。子供も一人いるがどうすればよいか、という内容である。
女性相談者の手紙はアナウンサーによって朗読され、淡谷のり子がそれに放送で回答するというものだった。回答はいつもはっきりしていて、ずばずばと歯に衣着せぬものがあり、見込みはなさそうだから、新しい人生を歩き始めたほうがいいとか、男の心はもうあなたの所にはないのだから、その現実を受け入れるべきだというようなことをいう。母は、その回答に頷いたり、「それはちょっと厳しいおんね」などとひとりごとをいいながら編み物の手を休めず聞いている。
私が聞き耳を立てていることなど母は長い間知らなかったのに、何かの拍子に気づかれてしまい、その時から私が聞いているなと思うとあたかも聞かせまいというように、放送が始まるテーマ曲「聞かせてよ 愛のことば」が流れてくるなり、母は決まって立ち上がってラジオのボリュウムを小さくするのだった。
子供には聞かせたくない内容だと思っていたのだろう。相談者は、アメリカ兵との出会いから別れまでを事細かく手紙にしたためているので、男女のことに疎いながらも、私は私で、人はこんなふうに出会うものなのだと思ったり、好きになるということは意外なことから始まるものらしいと知ったりした。大人は、子供にどれだけ知らせまいと知恵を尽くしても、子供は自分が知りたいと思えば、いかなる手段を使っても貪欲に知るものである。
アイノコと呼ばれる子供が、どうしてこの日本にいるのかを知りたかったために、私はこのラジオ放送を聞いていた。外で遊んでいても、放送時間が近づくと家に戻り、人形遊びをしているふりをしながら、全身を耳にして聞いていた。母がそれに気づかないとすれば、やはりそれはおかしいのだ。子供はどんな小さな情報であっても、自分が知りたいと思うことのためには、噂や小耳にはさんだ大人の話からでさえ、破片を集めてジグソーパズルをはめ込んで行くように、自分の世界観や社会観を組み立てて行く。そうして大人の社会に入って行くのだ。
先生が、どんな家庭生活を送っていたのかなんて、およそ幼い頭の想像でしか推し量ることはできないのだけれど、先生と喧嘩をして奥さんが家を出ていったという話しは、ひどく私を不安にした。私の父と母も喧嘩をしなかったというわけではなかったが、原因や物事の過程を見て知っている分、どの程度のものかは解かる。先生の家の夫婦げんかに関してはその原因も経過も解からない分、どれだけ考えてもどこかで想像力が途切れてしまうのだった。知りたくても知りえないことに突き当たると、人は安定を欠く。子供であってもそれは同じなのだ。私は人の心の動きがどんなふうに他の人の心に作用するのかだんだん深く知りたいと思うようになっていた。
先生が子供を連れてきたのは、一日だけだったので、多分、奥さんが戻ってきたのだろうと私たちは噂しあった。
「先生が奥さんさ、あやまったんでねえの」
「やんだがったさね、あやまんのなんて」
「だれえー、悪ぐなくともそうやって帰ってきたんではあやまんねげねえのっしゃ」
「でも先生が悪いって決めつけることはできねんでねえの? 悪いのは奥さんかも知れねべっちゃ」
「どっちが悪いかはこの際問題でねえのっしや。出ていかれたら困る先生がいたんだから、帰ってきたらなにも言わずに迎え入れるのが筋でないの?」
雑巾を持ちながら、女子は先生夫婦の喧嘩に関してそれぞれの考えを語ることに余念がない。私たちは語ることで、それぞれが自分たちの考えを少しづつ整理していっていたのかも知れない。