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先生はお弁当をもってこなかった    菅原千恵子

あいこの14


 愛しき日々はかく過ぎにき  菅原千恵子

 私が自転車に乗ることを覚えたのは三年生の夏休みだった。父が、二番目の姉に私を自転車に乗れるようにしたならアルバイト代として三百円をやろうということになり、二人で朝早起きして私は姉の特訓を受け、やっと乗れるようになったのだ。子供用自転車を、戦後まもなく父が上の姉に買い与え、それを二番目の姉が乗り回し、そして私にまわってきた。

 古くて重くその上、よくパンクする自転車だった。近くの自転車屋に直しに行くと、愛想のまるでない小父さんが、慣れた手つきで外側のタイヤを外し、中からチューブを取り出す。それは、ほとんどが隙間もないほど継ぎだらけで、あたかも模様のようになっているのだ。私に子供用自転車が回ってきたときには、新しい婦人用自転車を買い、二人の姉はそれに乗っていた。薄いブルーグリンの色の軽やかな自転車だったが、私には足がまだ届かず、羨ましい気持ちを持ちながら、姉たちの話す乗り心地を黙って聞いていた。

 それでも覚えたての時は、ほんの近いところへお使いに行かされても私は自転車で出かけたものだ。自転車を物置きから出しているうちに、お使いから帰ってこられるのじゃないかとよくからかわれた。それでも私は自転車に夢中だった。カウボーイが馬なしでは何もできないように、私も自転車なしには何もできないに等しかった。歩くだけの生活が自転車に乗れるようになるとこんなにも便利で楽なものだということを実感した。

 進駐軍のキャンプ場跡へよく自転車を走らせた。キャンプ場付近は、滑らかなアスファルト道路で、きれいな芝生が気持ち良い。その道路をスピードを上げて走るのは、事のほか楽しいのだ。学校から帰ると、私はいつもこの場所にやってきて、友達と競争をして遊んだ。ハンドルから手を離して曲芸のように乗るのもここで覚えた。そんな乗り方ができるのは、アスファルト道路でなければ無理なのだ。

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 私の自転車は古くて、新しい自転車のように軽快に走るというわけにはいかなかった。砂利道になるとタイヤが動かなくなる。あるとき、例のキャンプ場跡地で自転車を走らせているうちに、剥き出しのチェーンが勢いに負けて外れ、まったく動かなくなってしまったのだ。

 十月も終わりかけの夕暮れ時、私は心底困ってしまって、誰でもいいから助けてもらいたいと思っていると、ランニングシャツ一枚で走ってくるお兄さんが通りかかった。私はこれを逃したらもう後は誰も助けてはくれないと直感し、お兄さんと同じ歩調で走りながら、訴えた。彼は立ち止まり、もうもうの汗を首に巻いたタオルで拭いた後、自転車の所までやってきてなんとかチェーンを入れようとしてくれた。
 
 私もお兄さんのそばにピッタリと寄り添い、どうなるかと見守り続けたが、一度外れたチェーンはなかなかもとに戻らないのだ。お兄さんは、何度も首を傾げながらそれでもあきらめずにやってくれた。きれいな夕焼けがいつのまにかほの暗くなり、あんなに汗をかいていたお兄さんの両腕が、栗つぶのような鳥肌に変わっているのを見つけたときは、本当にすまないと思ったものである。

「どうしても直らないなら、このままにしてもいいですから」
 本心ではなんとか直ってほしいと思いつつ、私は彼に対して精一杯の思いやりのつもりで、鳥肌から小刻みに震え始めた彼の体を見ながらいった。しかし、お兄さんは震えながらも、返事もしないで黙々とチェーンをはめ込もうと試していた。セーターを着ている私ですら、日がとっぷりと暮れると寒く感じられるのに、乗りかかった船と思っているのか、彼はあきらめないのだ。このお兄さんは、きっと、有名なマラソン選手に違いないと私は信じるようになった。こんな強い人を私は今まで見たことがないのだから。

 日が暮れてから小一時間も経つただろうか。こんなに遅くなって帰ったら、きっと叱られるだろうと、別の心配をしていたとき。お兄さんが、低い声で「あっ、入った」とひとりごとのように囁いた。見ると絶対無理と思われたチェーンがもとのようにきちんと入っているのだ。私は、自分の顔が膝にくっつくほど体を折り曲げてお礼をいったが、彼はそんなことはいいというふうに、軽く手を振ってもう駆け出していた。

 男らしいということばをみんなは考えも無しによく使うけれど、私は、このお兄さんのような人のことを本当に男らしいというのだろうと、暗くなった道を走り行く背を見てしみじみ思ったのだった。このときから、私は無理にペダルを激しく踏んだりすることを止めた。もう二度と、お兄さんの直してくれたチェーンを外したくなかったからである。

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 サイクリングに行くことになった私たちは学校で落ち合い、参加者五名で、先生を先頭に出発した。「サイクリング サイクリング やっほ やっほ」と、小坂一也が歌って以前大ヒットした「青春サイクリング」という歌など口ずさみながらかなり元気よく出かけたのに、みんなの自転車はそれぞれ大きさや新しさが違うため、ひどく遅れる者がいると待たなければならず、歌のように軽快に走りっぱなしというわけにはいかないのだ。それでも丘の草原で、私たちはお弁当を広げた。

「あれえ、先生はお弁当持ってこなかったの?}
「ああ、そんなに食べたくないからね」
 先生はそういったけれど、そんなことは嘘で、先生が食べたくないはずはないと私は思った。休みの日なのに、早起きしてきたので、奥さんが作らなかったか、あるいは喧嘩していたからに違いない。何となくそんなふうに思われたので、
「先生、私、三つもおにぎり持ってきたから、よかったら一つ食べてください」
「でもそれじゃあ、菅原さんのおにぎりが少なくなるんじゃないの。せっかくお母さんがにぎってくれたのに」
「だって食べきれないもの」

 そういうと先生は私が差し出しているおにぎりを受け取って食べた。みんなも茹でたまごや、キャラメルを先生と分けて食べたので、みんなすっかり満腹になって午後のスタートをきることができた。

 とはいうものの、私たちはかなりくたびれていた。誰一人として変速機など付いている自転車などは持っていないうえ、舗装された道路ばかりでもなく、でこぼこ道を上ったり、下ったりと小さい少女達にとってはかなり重労働だったと思う。「青春サイクリング」の歌のように、「ちょいとペダルでひとこえすれば 旅の燕もついてくる ついてくる」というわけにいかないのだ。私たちはくたくたになって家にたどり着いたのだった。あれほど好きだった自転車乗りも、この日以来、自転車を見ると疲労が甦ってきてしばらくは乗ることができなかったから不思議なことである。

 家に帰ってから先生がお弁当を持ってこなかったという話を母にしたところ、母は先生に同情してこんなふうにいった。
「一週間に一度の休みの日まで子供たちを連れてサイクリングとなれば、奥さんはおもしろくないんでないの。だれえ~、自分のうちの子供の相手もしないでせっかくの休みが終わるんでは、弁当なんか作る気にならないんださわ」
 母の言葉に私もなるほどと納得した。先生の家には幼い二人の男の子がいたと、一度泊まりにいったことのあるSがいっていたのを思い出したからだ。先生は、私たちの先生でもあるけれど、二人の子の父親でもあることを、私は今まで考えてもみなかった。

 サイクリングにいってしばらくした頃先生が自転車の後ろに、子供を乗せて学校に来たことがあった。一日、授業が終わるまで、その子は、先生のとなりに座らされて一人遊びをしている。Sは当然先生の子供とは顔見知りなので、お姉さんらしく話しかけたり、遊んでやったりしていたが、とうとう、先生夫婦が、昨夜喧嘩をして、奥さんが家を出ていったという話を聞き出した。上のお兄ちゃんは幼稚園に行っているのでそこに置いてきたけれど、まだ幼稚園にもいっていないこの子は、先生が連れて来るしか仕方なかったのだろう。

 Sがいうには、先生の奥さんは「黄色いさくらんぽ」という当時流行っていた歌が好きだといってハミングしながらお料理を作っていたというくらい、朗らかで明るい人だということだった。そんな明るい人が、いったいなぜ出て行かなければならなかったのだろうかと、私はあれこれ一人で考えた。人間というものに、大いなる関心を持ちながら大人の世界はまだまだ解からないことが多く、それはいうなれば未知の世界だったといえるのかも知れない。先生をはじめ、友達や友達を取り囲む回りの大人達を通して、私は私たちが生きている社会というものが知りたくて仕方がなかった。

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