目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ 13章
渋谷
降りしきる雪のなかを
連隊旗を掲げた一隊が
新しい国の建国を
目指して旅立っていった
第13章
人間狩りがはじまった。ぼくが最初に白羽の矢をたてたのは立原裕子だった。さっそく彼女を秘密のアジトである倉庫に連れ込んだ。だだ広い倉庫の中は、大掛かりな工事の真っ最中だった。倉庫の中央に広場といったイメージを与える空間があり、そこをぐるりと二層になった部屋が取り囲むようになっている。一階や二階のどの部屋からも天井まで吹き抜けた広場に面していて、その広場こそ世界の中心だと主張しているレイアウトだった。ぼくの部隊が入る部屋ももう決まっていて、二階の角部屋だった。広場のあちこちに積み上げられている建築資材の脇を抜けて階段にあがり、その部屋に入ってみた。
「なんだか秘密基地みたいね」
「ここに入るとゾクゾクしてくるんだ。すごくスリリングなことがはじまるみたいで」
「ちょっとした革命基地になるかもしれないわね」
「そうなんだ。雑誌づくり以上のものなんだ。ここからいろいろな新しい波を起こそうというわけでね」
ぼくたちは積み上げられた材木の上に腰かけた。
「それで、どんな仕事になるわけ」
「七人の侍なんだよ」
「なあに、それ?」
「立原さんをそのなかに加えたいんだ」
そこで新しい雑誌のことを説明したが、その口調や語彙がどうしても吉田に似てくるのだった。そしてちょっとギャラが高いんだ、ほかよりもずっと高給が支払われるはずだと繰り返した。人はだれでも金の力に抗しえないものだ。
「ホメーロスなんて言葉をきくのはいったい何年ぶりかしら」
「おかしいかな」
「おかしくないわよ」
「古いってこと」
「古くなんかないわよ。それどころかものすごく新しいのよ。だって歴史って、過去から現在に流れてくるんじゃなくて、現在から過去に向かって突き進んでいくものじゃない。つまり私たちにとって歴史ってそういうものなのよ。だからホメーロスなんて先端も先端、最先端にあるわけ。その雑誌、たぶんあたるわよ」
「それはうれしいな」
「歴史というものは、いままで歴史学とか考古学とかいった学問の領域であったわけよ。でもホメーロスの世界なんて、全然学問的じゃないわけ。だからその土地とか空気とか人情とか食べ物とか女の子だとかヌードとかいった日常的なことから入っていったほうが、はるかにホメーロスは蘇ってくるわけよ」
「ちょうどシュリーマンのようにだね。そのシュリーマン的ドラマをどうやってつくりだしていくかだよ」
「日本人の精神は空っぽなわけよ。それでその穴を埋めようといつも目は外へ外へと向っていたわけ。でもその空洞を埋めていくのは、結局自分を掘り起こしていく以外にないわけなの。それには歴史って最高の方法なのよ。だから新古典主義というスタイルはまさにこれからの時代の気分そのものだと思うわ」
と彼女は言った。もう間違いなく彼女を仕留めたと思った。ところが、
「それ、男性誌なわけでしょう?」
「まあ、そうなるけど」
「それだったら、やっぱり七人の侍は男のほうがいいと思うわ。私には男ってどうもよくわからないところがあるのね」
「しかし、男の視点とは違った角度も必要なんでね。女の側から捕らえた視点というのも必要なんだ」
「それはその時の企画によって、それにフィットする女性を加えればいいわけでしょう。今あなたが必要とするのは、その雑誌の核になる人を集めているわけでしょう。それならばやっぱり男よ。その七人の侍にふさわしい人、なんだったら紹介するわよ」
こうして赤松仁という男に出会ったのだ。トラベルライターとして世界を渡り歩いては、小さな雑誌にコラムを書いていた。それを読んで心うごくものがあり、彼に会ってみた。会ってすぐにぼくは彼が好きになってしまった。彼はたくさんの戦争を見ていた。この平和な時代に。難民の群れにも、飢餓地帯にも潜入していた。彼はなにやら意識的に硝煙のにおいのする方ヘ、この世の暗黒地帯の方へと足が向いていくと言うのだった。彼の本質はトラベルライターなどではなかったのだ。
「トラベルライターなんて、編集者が勝手につけたんですよ。おれが本当に書きたいのはもっと別の種類のものだけど、今はまったく書けないんですね。おれが見てきたただならぬ世界を描くには、まだおれの言葉は成熟していないと思ってるんです」
赤松があちこちの雑誌に書いた文章には、なるほどそのただならぬ気配があり、言葉を深いところからくみ上げている。彼と話してその理由がわかったような気がした。ぼくは迷わずに彼を選んだ。彼が七人の侍の最初の一人となった。
菅谷博之という男と最初に会ったとき、なんだかまるでセンスのない男のように見えた。すり切れたジーパンをはき、黒シャツはいかにも趣味の悪さを語っているようだし、貧弱な髭が顎のあたりにちょびちょびとはえていて、それもまたむさくるしく見えた。こんな野暮ったい男に雑誌の生命を決定するアートデレクターの仕事をまかせられないと思うのだった。
しかし彼は断っても断ってもやってきた。新雑誌のスタッフを集めているという情報はどういうわけかあちこちに流れていて、自薦他薦の人間がそれこそひっきりなしに芝浦の倉庫にやってくる。その応対にいささかうんざりしていたぼくは、何度もやってくる菅谷にもうそれこそ追い払うような横柄さで対応していたはずだった。しかしそれでも彼はあきらめずにやってくるのだ。
それはたしか六度目か七度目かの訪問だった。その日彼は、小柄な姿が隠れんばかりの、大学の山岳部で使うような大型のリュックを背負ってやってきたのだ。
「今までのぼくの全作品を持ってきたんです」
と言うと、そのリュックのなかから、スケッチブックやら絵本やらパンフレットやら雑誌やらをどっと取り出すと、あたり一面に広げた。そのときぼくはこの男のねばりづよさに敬意さえいだいていたから、その作品を丁寧に見ていった。彼は三冊の絵本を出していた。彼の人柄を彷彿とさせるメルヘンタッチのほのぼのとした絵だった。
「あなたは本当はこういう世界に生きるべきじゃないのですかね。もっとたくさんの絵本を出すべきですよ。すごくいい絵本だもの」
「でもそれでは食えないんです」
そのために小さなデザイン事務所をつくって、種々雑多な仕事をしているようだった。
「しかし雑誌の仕事って、ひっきりなしに締切りで追われますよ。締切り、締切りで。そんな慌ただしい生活が、あなたのもっているこのやわらかい感性とか才能といったものをつぶしてしまうかもしれないな」
「でも一度メジャーの仕事をしてみたいんでんすよ。一番の栄養はメジャーになることだと思うんですが」
と彼は食い下がってくるのだ。これからはいろんな使い方があると思い、彼のセンスや力量を知るために雑誌のイメージプランを書かせることにした。それから十日ほどたって彼はまたやってきたが、なんと三つの異なったスタイルの試作版をつくってきたのだ。それを見てこの男に賭けてみようと思った。それはちょっと危険な賭けのようにも思えたが。
危険な賭けといえば、それはおそらくぼく自身であった。都会生活という小さな雑誌の中でしかぼくは仕事をしてこなかった。井の中の蛙もいいところだった。何十人というスタッフを使ったこともなければ、何千万という予算を組み立てたことだってない。こんなぼくに吉田が思い描くような雑誌がつくれるのだろうか。冷静になって我が身を振り返るとき、なにか不安と恐怖がよぎってちょっと慄然とするのだった。そしてあのぬるま湯のような都会生活編集部がなつかしくいとおしく思い出された。
笹森秀夫の最初の印象もひどく悪いものだった。椅子にふんぞりかえって足を高く組んで、遠慮のない視線をむけ、ずけずけと矢のような言葉を放ってくる。こういう生意気な男とは一緒に仕事をしたくないと思うばかりだった。
「それもいいけど、その雑誌なんだか古臭いですね」
と彼は小馬鹿にしたような笑みを浮かべて言った。ぼくはちょっとむっとして、
「どうして?」
「新古典主義なるものもいいけど、それだけでは追力がありませんね。それだけのポリシーだったら、ちょっと弱いと思うけど」
それからぼくたちは雑誌論なるものでやりあったのだ。この男はぼくをねじりふせんばかりの勢いで喋りまくった。そうすることによって目の前にぶら下がった果実を奪い取るかのようだ。
「いまの雑誌はどれも力を失っているんですね。ぼくがいう力とは、現実を切り開いていく力ですね。それがない。どれもこれも現実に迎合しようとする。現実に迎合することによって部数を伸ばしていこうとする。そういう編集ですね」
「迎合しなければ売れないということもあるさ」
「百万も売ろうとするなら、迎合する雑誌ではだめなんじゃないですかね。歴史もいいけれど、海外ロケもいいけれど、ヌードもいいけれど、そんなものはどこでもやっているんでね。いまさらというところじゃありませんか。読者っていうのは、やっぱりこの現実を切り開いていく雑誌を熱烈に求めているはずなんですよ。この時代だって、人がいうほど幸福でも平和でもないんでね。いや、むしろこの甘ったるいすべてをオブラードに包んでいるようなこの時代は、すでに腐りはじめていることを敏感に感じとっているはずですね。だからこの閉塞の時代を突き破ろうとしている。それを雑誌にのぞんでいるわけでしょう。もしそういった読者のハートをとらえたら、それはものすごくパワフルな雑誌になるでしょうね」
彼が展開する雑誌論はなかなか刺激的なのだ。
「雑誌というのは現実を切り開いていく道具、あるいは媒体としての機能をもっと果敢に使うべきだと思うのですよ。情報とか娯楽だとかいった機能だけではなく、読者にあるイメージをインプットしてある現実をつくりだしていく雑誌。いわばイベント的要素を、もっと大胆に取り入れていくべきだと思うのですよ。例えばいままでだって読者参加のコンサートだとか、コンテストだとか、パック旅行だとかいうものはあったけれど、それをさらに拡大させていって、もっと創造的なイベントを仕組む訳ですよ。例えば、映画をつくってしまうとか、世界縦断のコンサートを全画するとか、鉄人レースを地方の行政とタイアップしてつくりだすとか、あるいは政治に参加するとか、市場をつくりだすとか、大人の遊園地をつくりだすとか。いま社会運動とか、組合運動とか、市民運動とかいうものが下火になっているけれど、しかしまた必ずそういう季節はくるはずでね」
「啓蒙する雑誌とか、扇動する雑誌というのもまた嫌われていると思うけどな」
「全然違うんですよ。扇動されるほど、読者は馬鹿ではないんですよ。むしろ逆なんでね。つまり雑誌があるイベントをおこしながらパワフルになっていくには、読者の力を借りることであって、読者が雑誌をパワフルにしていくわけですよ。読者が雑誌を扇動していくことであってね。そういう雑誌ですね」
笹森は単行本の企画をしたり、雑誌の特集記事の下請けをしたりしていた。生の制作現場にいて、しかもいろんな雑誌とかかわってきているだけに、この男のもっている雑誌論は、なかなか魅力があった。そこで古田がぼくに課題を与えたように、笹森に新雑誌創刊の企画レポートを書かせてみることにした。それも五十枚という苛酷な制限を課して。というのは、なかなか魅力があるがどうも好きになれそうもない男を、敷居を高くして追い払おうという複雑な心理がはたらいたのだった。
しかし彼はなかなかのレポートを仕上げてきた。新鮮な切り口、豊かな発想、さまざまな数字によって裏付けられた企画。なんだかそれはぼくが古田に提出したレポートより数段レベルの高いものに思えた。それを読みながらこの男は確実に戦力になるなという思いをいよいよ深めるのだった。
カメラマンたちの売り込みはとりわけ激しかった。それこそカメラマンは掃いて捨てるほどいるのだ。ところが彼らの働き場所といったらそれこそ米粒ほどの面積だったから、新しい雑誌が創刊されるという噂が流れるとどっと殺到するのだった。すでに名のあるカメラマンから、写真学校を出たばかりの若者まで、入れ替わり立ち代わりやってくる。そんななかからこれはという人物を選び出すのだが、こういうことに慣れていないぼくは戸惑うばかりだった。しかし大きな特集といった仕事は大物をひきずりだしてくるのだから、むしろぼくらのチームにはこれから大きく育っていく若いカメラマンの方がよかった。そこでほとんど無名の四人のカメラマンを専属のスタッフとして選びだした。
古田が引き連れてきた人間が三人ほどいた。一人は古田の事務所に二年前から通っている中島淳というちょうどぼくと同年齢のルポライターだった。彼ははこの二年間、「熱い甲子園」というテーマのノンフィクションを書き続けていたらしい。甲子園に出場した球児たちのその後を克明においかけたルポルタージュで、それが今度の新雑誌に連載として載せていくらしい。その彼をスタッフとして加えて欲しいというのだった。辻洋介は広告企画担当者として加わってきた。編集と広告を大胆に組み合わせたページをつくることが新雑誌のもう一つの大きなテーマだったから、吉田はそれぞれのチームに力のある人間を配しているのだった。この男もまた闘志満々、ひたすらめざす目的に突き進んでいくような男で、急成長した村田書店の内部をかいま見るようだった。そしてもう一人が安井恵美子という女性が、経理庶務担当者として加わってきた。
こうしてまた一人また一人と七人の侍が決まっていくが、ぼくのなかでそのなかに絶対に加えなければならない意中の人間がいた。令子だった。彼女こそこの雑誌にふさわしい人物だった。もうすっかりぼくの足は都会生活社から遠のいてしまったが、彼女とはしばしば会っていた。渋谷で落ち合って互いの情報を交換するのだ。
「だんだん険しい雰囲気になっていくのよ。組合もようやく動きはじめたというところだけど、全然たよりないの」
と令子は都会生活社の動きを伝えた。事態はもうすでに明らかだった。噂通り都会生活社は村田書店に吸収合併される。その展開がいま急を告げているのだった。
「組合はどんなふうに動いていくのだろうか」
「それがまるでだめなの。戦うという姿勢が全然感じられないの」
「しかし、大竹社長や瀧口さんが選んだ道は、結局それしかなかったということじゃないのかな」
とぼくは後ろめたい複雑な気持ちで言った。
「そうかしら」
「そうだと思うね。七十人の社員を路頭に投げ出すという最悪の事態を避けるためのぎりぎりの選択だったとも思えるな」
「私にはなんだかとても安易な選択だと思うのよ。合併だなんて体裁のいい言い方されるけれど、実際は買収されたということでしょう。マンガ雑誌をあてて、のしあがってきた書店に身売りするということなのよ。それじゃいったい知性の砦をめざしてきた都会生活社の三十年はいったいなんだったわけ」
「しかし、それが敗北だとは思わないけどね」
「でももっと別の選択があったはずだわ。これから人員削減の嵐が吹きまくるのよ。なんでも社員の半分がどこかに飛ばされたり、クビを切られたりするらしいのね。そうなるともう血で血を洗う修羅場になってしまうわけでしょう。すでに社内はそんな陰険な空気になっているのね。自分だけっていう人はやっぱりいっぱいいるの」
ぼくはまたひどく暗い気持ちになっていくのだった。事態はぼくが考えているほど廿くはなかったのだ。仲間たちはこれからぎりぎりの瀬戸際に迫い込まれていくにちがいない。
「それにあの社屋は、取り壊されて八階建てのビルを建てるらしいの。ということはあの土地も村田書店のものになるということでしょう」
「それは前からでていた噂だね」
「それがどうも事実らしいのね。村田書店が一番欲しかったのはその土地だったのよ。それがうちを買収しようとした一番の動機だったらしいの。都会生活社がいままでに刊行してきた書籍とか、人材とか、知的財産などというものではなかったわけよ。村田書店が大きく太るための土地だったわけよ。これをみたってこれから私たちはものすごい迫害を受けると思うのね」
ぼくはもうなにも言えなかった。
「都会生活は真っ先に廃刊になるわね。これはもう社内の常識になっているの。でもこれは許せないことよ。私たちはここから戦いをはじめていこうと思うのね。つまり都会生活を絶対に廃刊にさせない。そういう要求をつきつけて、そこを戦いの軸にして展開していくわけ。いろいろな要求をつきつけてね。それで、もしもよ、その要求が無視されたり弾圧されたりしたら、私たちは独立して都会生活を発行していこうと思っているの」
「それは極論としては面白いと思うけど……」
とぼくはなんだかあいまいな笑いをつくって言った。すると彼女はぼくをきっとにらんだので、あわててつけ加えた。
「うん、そんな極論に走ることは理解できるな……」
「そのときは実藤さんも当然その戦いに加わってくれるでしょう」
「そうなれば、考えなければならないな」
とぼくはいよいよあいまいにこたえるのだった。
彼女はいまだにぼくが敵にスパイになって潜入しているのだと思っているのだ。しかしぼくはもう完全に寝返っているのだった。令子と会うたびにこの寝返りの一切を告白して、そして彼女にも、それは寝返りではなく、古く澱んでしまった都会生活を新しくするための戦いであり、この新しい世界の創造に加わって欲しいという言葉が喉もとまででかかるのだ。しかし都会生活社に襲いかかる危機を一身にうけとめて思い悩む彼女に出会うと、とてもそんな話はできなかった。しかしやがて彼女にもわかるときがあるのだ。そのときまで彼女の席は開けて置こうと思うことによって、彼女にたいする後ろめたさや罪の意識を拭い去ろうとした。
さまざまな魅力をもった人間がぼくの陣営に加わってくる。ぼくのチームは次第に障容をととのえつつあった。そのチームづくりと同時に試作版の制作にもとりかかっていた。三つのチームがそれぞれ試作版をつくりだすのだ。それは文字通り新雑誌創刊にむけての試作であったが、それだけではなく、宣伝キャンペーンをかねてそれもまた創刊前号として書店に並べようとしていた。そんな目的もあったから、新しい世界の開幕を告げるような力のこもった雑誌をつくることを要求されていた。割り当てられた編集費だってびっくりするほどの額だった。
それはまたぼくのチームの土台をつくることでもあった。選び出したスタッフがはたして思い通りの動きをしてくれるかどうか、一人一人がチームとからみあって力にあふれた創造をしていくことができるか、そのことがためされてもいるのだった。はやくもぼくの期待を裏切る人間もいた。どうしてこんなやつを加えたかのと思うばかりの人間もいた。しかしだれよりもその力量が問われているのはぼく自身であったのだ。ぼくの版のできが悪ければ、ぼくは即クビをきられるだろう。新しい職場、新しい仕事はなんだか怖いほどの緊張と活気にあふれているのだった。
岩動敏彦の率いるチームは上海に旅立つ準備を始めていた。野上雄治のチームはすでにギリシャに向けて旅だっていた。野上の班は、古田がこの雑誌を企画した二年前から、その陣容づくりをしていたこの雑誌の中心をなす部隊だった。彼のチームによってはやくもホメーロスの世界の序論が展開されるというわけだ。それはまた新雑誌『YAMATO』の序論でもあった。
一番出遅れたぼくのチームは、なかなかテーマが決まらなかった。いくつかのプランを組み立てて古田に持っていくのだが、彼は首を振るばかりだった。なぜ吉田が首を振るのか、ぼくにもよく分かるのだった。どうももうひとつピントがあっていないのだ。はっとするばかりのパンチと力がないのだ。そんなぼくは見て古田は、
「編集長というのは独裁者でなければならないんだよ。世界を牛耳る指揮者でなければならないんだ。もし君がすぐれた雑誌を生み出そうと思うならば、徹底的なフルトヴェングラーになることだな。徹底的にカラヤンになることだよ。一番大事なことは、君がどんな音をつくるかなんだよ。編集会議などというものは、君がつくりだしたい響きを引き出してくる場なんだ。編集者というのは君の音楽を奏でてくれる楽員なんだ」
それはまさしくぼくの混乱を突いたものだった。狩り集めた人間はそれぞれが一家をなすだけの力をもっていただけに、彼らを統治することにもとまどっていた。それぞれが発信する企画はそれはそれで面白く、それをしきりにつなぎあわせようともしていた。そんなぼくの姿勢を古田は問いただしたのだ。その古田のいわば帝王学によってようやくぼくは自分を取り戻していくのだった。
その次の日だった。新宿のバーで隣に座った辻が、郷里安曇野のことをちらりと話した。安曇野という地形を形成する西北の一帯に陣馬村という村があるが、その村に立つ分校が最近廃校になってしまった。その分校を拠点にして村の青年たちが過疎で沈んでいく村を再興するための活動をはじめたというのだった。その話を耳にしたとき、ぼくのなかでぐるぐると湧き立ってくるものがあった。これだ、これでいこうと。
ぼくは編集の一つの柱として、世界各地で行われているさまざまなイベントをじっくりと捕らえてみようという思いがあったのだ。例えばニューヨークシティマラソンとか、イギリスの地方選挙とか、アフリカ縦断自動車レースとか、中国の砂漠地帯を緑化する運動とか、リオのカーニバルとか。それらの活動のすべての過程を記録者の目となって取材していくのだ。そしてそれは笹森に喚起されたことだったが、そのイベントづくりの共同推進者となって雑誌自身がかかわっていくようなスタイルを編集の中に導入したいと思っていたのだ。その辻の話はそれを試みる格好のテキストのように思えたのだった。
安曇野という地方の地理や歴史を知るために、さまざまな本を読みはじめたが、そのなかに臼井吉見の『安曇野』という全五部をなす大作にひどく心が奪われていった。それまで新宿の中村屋にそんな歴史が秘められ、信州の土地でこんな瑞々しいばかりの青年たちの戦いがあったなど思いもよらぬことだった。相馬愛蔵がいて、黒光がいて、荻原守衛がいて、井日喜源治がいて、木下尚江がいた。北村透谷や内村鑑三といった多彩な人問たちが彼らを取り巻いている。明治の若々しい群像、新しい世界を築こうとするわれらの先人たちの戦い。ぼくのなかでぐるぐるとイメージは湧き立ってくるのだった。
北アルプスや、田園や、梓川や、碌山美術館を背景にして、彼らの人生をぐっと色調を落としたセピア色で流していく。そしてそのセピア色が少しずつ色を帯びていき、現代の青年たちが過疎で沈みいく村を再生しようとする戦いにダブらせていくのだ。歴史を訪ねるのではなく、歴史を現代につなげていくのだ。
入れ替わり立ち代わりスタッフが障馬村を訪ねたり、また村の青年たちを東京に招いたりして、次第にその構想を具体化させていった。そして編集に要する事務機器や、生活の道具一式を詰め込んだ大型トラックをなかに、車七台を連ねて障馬村に本隊が向かったのは七月の下句だった。総勢二十五人にも及ぶスタッフ、しかも仮設の編集部をつくるのだから、運び込む道具もちょっとおおがかりなものになってしまった。
その学校は田園をみおろす小高い丘の上にあった。緑の葉をいっぱいに繁らせた桜並木のトンネルをぬけると、狭い校庭の奥に風雪を刻み込んだような二階建ての木造の校舎が素朴なたたずまい見せて立っていた。その校舎がぼくたちの編集部になり、宿泊所になるのだった。ぼくらを受け入れるために村の人たちが教室を改造して調理室や食堂にしたり、二階の教室には畳を入れ布団を運び込んでくれたりしていた。
到着した日、大勢の村の人たちが仮設の編集部づくりを手伝ってくれたものだから、たちまち二つの教室をぶち抜いた見事な編集部ができあがった。そしてその夜、村主催の歓迎の宴がはられたのだった。村会議員とか、役場の人たちまで大勢やってきて大宴会になってしまった。ぼくたちは村をあげて歓迎されたのだ。村の若者たちは夜が白々と明けるまで話しこんでいったが、今なにか新しい世界がつくられるという喜びがその全身に漂っていた。それはまたぼくたちだって同じだった。「安曇野」特集号は新しい地平を切り開いていくのだ。
その週に立原裕子の一隊が五台の車で乗り込んできた。カメラマンや三人のモデル、それに広告代理店やスポンサーの担当者など二十人近い大部隊だった。彼らもまた仮設の教室に泊まり込んでの生活だったから、それまでひっそりかんとしていた村の廃校は、それこそ大変な娠わいとなった。陽気なモデルたちがあたりを明るくして、なにか学生時代の合宿のような雰囲気になった。
そのページはぎらぎらの刺激的挑発的ヌードにするはずだった。ところがヌードはもう古いという意見がでて大論争になってしまった。ヌードをやるなら徹底的してヌード特集号をやればいいのであって、もうヌードで売り上げを伸ばすという幻想は捨てるべきだというのだった。むしろわれわれはヌードを載せないことで雑誌を新しくするという編集スタイルをとるべきだという意見はなるほど強い説得力をもっていた。どこの雑誌でもやっていることをわざわざはじめることはないのだ。そのことに戸惑っていたとき、ちょうど立原裕子に会って、そのことを話した。すると彼女は、それならセミヌードにしたらいいわと言うのだった。
「ぎらぎらのヌードよりも、むしろ体をかすかに隠すことによって、逆にひどくセクシーになるのよ。セピア色で流していくなら、そのトーンにあわせて色を極端に落とすわけ。そうすることによって、かえって色彩は豊かな色をつくりだせるものなのね。特集記事ばかりでは疲れてしまうから、そういうやわらかい空間地帯をつくることが必要なわけよ。むしろ雑誌の質ってその空間にどれだけお金と時問と創造力を費やしているかにあるのね」
そして、その十二ページのグラビアを自分にやらせくれないと言ったのだ。その話を取り決めたあと、彼女はそれこそあっという間に、そのページに自動車会杜と、ファッションメーカーと、銀座にある宝石店を抱き込んできたばかりか、スポンサーとなったファションメーカーのポスターもそこで同時につくるという仕事も組み立ててしまった。そんな彼女のはやわざに広告とりに四苦八苦している辻は仰天するのだった。
裕子たちが到着した翌日は、台風の影響でものすごい雨となった。しかし裕子はこの豪雨のなかでこそいい写真が撮れると、スタッフをひきつれて撮影にでかけていった。五日ほど滞在して、遠くは黒部や上高地などに足をのばしてのロケだったが、彼女が話した通り豪雨のなかで撮った写真が最も素晴らしかった。ごうごうとうねりさかまく茶色に濁った川、その激流にほとんどタイヤを隠した四WDの精桿なマスク。たたきつける雨のなかで鮎のようにぴちぴちとした姿態をさらした女たち。官能的で、挑発的で、不敵な構図を墨絵のようなタッチで撮り上げているのだった。
かつて音楽室だったという部屋が、ぼくたちのいわばスナックバーかナイトクラブかという感じになって、仕事が終わるとそこに集まってグラスを傾けるのだった。撮影を終えた裕子たちが明日東京に掃っていくという夜、ぼくは裕子とその部屋のテーブルで飲んでいた。
「あの子、ここに置いておく気ない?」
と、彼女が連れてきた助手の一人であるケイト・アサートンを指さして言った。隣のテーブルに座っていたそのケイトは,ぼくたちに微笑みをつくってこたえた。いつもきれいな笑顔をつくる陽気な娘だったが、しかしなんだかまたとても奥の深そうな知的な娘だった。
「すごく頭のいい子だね」
「そう。すごいインテリよ。日本文学とアメリカ文学の比較文学論を専攻したというぐらいだから」
「井伏鱒二が好きだなんていうんだから、ハンパじゃないね」
「あの子、ここがすっかり気に入ったようよ。ほんとうの日本に出会えたって。彼女たぶん文章も書けるはずよ。もちろん英語だけど。でもあなたの雑誌、世界にあちこちにでかけていくなら、ぜったいに外人のスタッフをかかえておくべきなのよ」
「それは言えてるね」
「いろんな意味で、使い道があるはずよ」
「彼女、どこの出身っていったっけ」
「ボルチモアっていうところ」
「ボルチモアってどのへんにあるわけ」
「ニューヨークの隣よ」
「本番ではどうやら、ぼくらの班はニューヨーク特集になりそうなんだ」
「だったら彼女最高じやない。あなたの手足となって動いてくれるわよ」
その翌日、裕子たち一行は去っていったが、ケイトー人残ったのだ。編集という仕事は、さまざまな雑事をこなしていかなければならない、いわば雑用係りでもあった。とりわけ今度は仮設編集部という変則的な体制をしいている。食事や洗濯などは、村のおばさんたちにたのんでいたが、合宿生活そのものだったから雑用が山ほどあった。ところがケイトがきてからぼくらの生活がスムーズに流れるようになった。それは彼女が目に見えない、つまらない雑用を真っ先にこなしてくれるからだった。彼女はたちまちぼくたちの人気と信望をかちえていった。こうしてケイトは最初のアメリカ人の編集スタッフとなったのだった。
夜になると、あちこち出払って取材していた編集者たちが戻ってきて、賑やかになるのは東京の編集部と同じだったが、この村の編集部には村の青年たちも夕刻からやってきて、編集会議をかねた飲み会がはじまる。その飲み会が深夜まで及ぶのは、ぼくたちの取り組んでいるテーマがぼくたちを興奮させるからだった。
三年前に分校が廃校になるとき、もうこの村には希望がない未来がないと深い絶望感が漂ったらしい。しかし分校の廃校という事態こそ、一つの時代のピリオドではないのか。過去に別れを告げるための、新しい時代をつくるためのピリオドではないか。そう居直ってみると意外なことに新しい展開がはじまったというのだ。この村でもはげしい過疎化現象がおきていた。若者はみんな村を出ていく。この地に残るのはほんの一握りの若者だけだった。しかもこの地に残った若者たちに新しい危機がまちうけている。結婚する相手がいないのだ。この村には若い女性がいないのだった。いまの陣馬村は一つの車輪を欠落させたまま走っているようなものだった。
そういう悲劇から脱出するために、若い女性をこの村に呼んでこなければならなかった。そこに視点をさだめてみるとピンク色のアイデアが次々に湧出してきたらしい。ケーキづくりの村にするとか、白いペンションが立ち並ぶ村にするとか、牧場の村にするとか、パンとジャムの村にするとか。若い女性の心理を捕らえるために、わざわざ原宿までくりだして研究したというからもう涙ぐましいばかりなのだ。
最初のうちこそ獏としてつかみどころがなかったが、何度も会合を重ねていくうちに次第に生命がふきこまれていった。世界の絵本を集めた絵本の村にしようというプランだった。絵本の展示だけではなく、絵本の世界を再現する館とか、実際に絵本を制作する工房とかを分校のまわりに次々と建設していって、このあたり一帯を絵本の村とするのだ。分校に登ってくる坂道を絵本坂、ぐるりと校舎をまいて山に抜ける道を絵本の小径、彼方の雑本林を絵本の丘、さらには絵本の広場、絵本の川と命名するのだ。そればかりではなく、絵本まんじゆう、絵本クッキー、絵本ジャムといったものを制作して新しい産業も起こすというのだった。
しかしそれはただの空想だけではなかった。そういう企画づくりを青年たちにたきつけたのは村役場だった。その夢のプランの背後で糸をひいているのは村の行政だったのだ。したがってそれがどんなに空想的であっても、現実化するための数字に裏付けられた青写真を組み立てれば、そこに大きな予算がつくのだった。そこで彼らはその最初の試みとして、八月十日から一週間にわたって日本とアメリカとイギリスとスウェーデンの絵本作家たちを招いて、講演会やシンポジュウムなどを開く一方で、コンサートや花火大会でその活動をさらに盛り上げるというイベントを組み立てていたのだ。
ぼくたちはこのイベントづくりにも深くかかわっていた。そのコンサートを企画したり、マスコミを使っての宣伝広報の活動もまたぼくらが請け負っていた。いわばぼくたちのチームはそのイベントの共同企画者、共固推進者となっていたのだ。それは新しい編集のスタイルをつくり出そうとする格好の実験だった。
もちろんぼくらの本業もまたしっかりと進行させていた。例えば試作版の一つの大きな特集として、村の二十年を問うページがあった。二十年前のこの分校の卒業式のアルバムがあった。卒業する中学三年生を中心にして全校生徒四十二人がおさまっている写真だった。日本各地に飛び散ってそれぞれの人生を歩んでいるその四十二人を、もう一度この分校に集め、同じ位置に立たせて、もう一枚の写真を撮ろうというのだった。そうすることによってこの二十年がなんであったのかという重い問いかけをなすページにしようと企んでいたのだ。