一つの絆 澤地久枝
スヴェトラーナー・アレクシエーヴィッチ著三浦みどり訳「アフガン帰還兵の証言──封印された真実」に解説を書いた澤地久枝「一つの絆」もまた二十七年前に書かれた文章である。しかしこの解説は、はるか彼方で起こっているウクライナ戦争の真実を暴いている、その悲惨な戦争を告発している文章である。
一つの絆 澤地久枝
スヴェトラーナー・アレクシエーヴィッチ。一九四八年生まれというから、まったくの戦後世代ということになる。「白ロシア」とわたしたちが呼びなれ、ソ連邦解体ののち、ベラルーシ共和国となった国を代表する作家の一人。ベラルーシ大学ではジャーナリズムを専攻したという。今年の誕生日に四十七歳、作家として実りの多い年齢にさしかかったところといえよう。
わたしはロシア問題についてまったくしろうとであり、アフガニスタンへのソ連の武力介入についても、反対の意志はもったが、ごく一般的な知識のレベルにとどまっている。それなのに、アレクシエーヴィッチの日本ではじめて訳される作品『アフガン帰還兵の証言』の感想を書く役まわりとなった。
事実を書くことは、決して容易ではない。さらには、建前が最優先し、建前によるあるべき「現実」を否定しかねない事実の提示や反対意見の禁圧を正義とした社会では、事実を書くことはいのちがけの覚悟、勇気を要求された。
『アフガン帰還兵の証言』は、一九七九年十二月にはじまるソ連軍のアフガン侵攻への「証言」である。
国際主義の理想、もしくは国際連帯の聖なる義務の旗をかかげて、ソ連は発足間もない社会主義国アフガニスタンの内紛に武力介入した。東欧諸国に対する重なる武力介入の歴史をそのまま踏襲したのである。そして手痛い報復を受けた。
ソ連の徴兵年齢は、満十八歳であるという。アフガン参戦者には、二十歳前後の兵士が圧倒的に多かったと思われる。
戦場とはいかなる場所か、予備知識もなく、アフガンのゲリラたちの攻撃や復讐がいかに凄絶をきわめるか、自分たちがどんなに憎まれる存在であるか知らぬままに、若い兵士たちは異国の戦場へおもむいた。どこへ行くのか正確には知らされず、着いたところがアフガンだったという「任務」である。予想もしない惨めな体験、そして残忍な役割を演じさせられることになる若い兵士たち。
そこには、理想はもとより建前すらも存在する余地はない。食うか食われるか、生か死か。二者択一しかない世界である。死はどこまでもむごたらしく、彼等戦士の肉体は爆破によって空中に四散し、生きのびた者も四肢をあるいは手か足を失い、たとえ一見無傷であっても、癒えることのない心の傷を刻まれることになった。
ソ連のアフガニスタン侵攻は約十年。百万人の兵士がたたかっている。その上、全軍の引揚げが決定されるとき、「栄光の祖国」ソビエト連邦は崩壊に向かっていた。祖国では、アフガン介入は、最低の政治選択の一つという評価が圧倒的になっている。生還した兵士たちは、ふるさとでもう一度したたかに傷つく。
「自分たちはなにをしてきたのか。北は無意味だったというのか」。さらには、かすかな気配をも感じて反射的に発砲し、神経を病的にとがらせて敵と対峙した戦場心理がぬけてゆかない。「人を殺したくなる衝動をかかえ、これからどうやって生きていけるのか」という不安な呟き。アフガン症候群とよばれる「病状」をひきずる人びとがいる。地獄は戦場にはじまり、生還の幸運を手にし得たのちのちまで連続するものになった。それが、ロシア人の体験したアフガン戦争の実相であった。
戦場体験、わが子や夫を戦死させた女たちの悲しみなど、当事者の証言によってこの戦争を記録したアレクシエーヴィッチは、この仕事で予期し得なかった試練をくぐりぬけることになる。
それは、取材に応じた人びと(証言者)による法廷への告発である。「事実」を書きとめることを容認しない社会。その社会では、政治によって「犠牲」をしいられた当事者が、同時に事実が書かれることへ反撃する反証人となる。
戦争の悲惨について、わたしは追体験として多少は知っている、しかし、アフガンで、そして現在ではチェチェンでロシア人が直面している状況を、この本はまざまざと描き出す。人間の想像力ではとても達し得ないリアリティのある描写にわたしたちは随所で出会う。それは、予想を越えている。
戦場を離れたあとも、大地を掘りつづける狂った少年。彼は隠れ場所を作りつづけているのだ。
男たち(そして女たちをふくめて)、参加した人間にとっての戦場の一つの魅力は、カネと品物。恋人へのプレゼント用のマスカラ、アイシャドウなどを「買う」資金となる銃弾。銃弾はゆでてあり、殺傷力を失っているというが……。
武器は多国籍のもの、火縄銃もあり、中国、アメリカ、パキスタン、ソ連、イギリスなどで作られたものが、援助武器としてもちこまれている。それは戦利品として敵の手に渡り、いずれの側でも殺傷能力を発揮しつづける。
全裸にされ、目玉をくりぬかれ、性器を切断された上、皮膚をはがれた遺体。敵だけが残忍なのではない。恐怖にみちみちた戦場になれるべく、麻薬も公然と使われる。また、弾丸は、前からだけ来るのではない。戦闘中に背後から撃たれる将校もいる。
軍隊生活が、万国共通の嗜虐性をもつことを語っている証言がいくつもある。新兵たちをむかえる古参兵の言動は、かつての日本軍内務班の生活を思い出させた。
人間の残忍の極致とはいかなることか。ソ連兵からチョコレート菓子をもらったアフガンのおさない女の子は、翌朝、その両手を切り落とされる。ときには果物のオレンジを使い、ときにはおきざりの赤ん坊をおとりに用い、人間の心理の弱さ、やさしさにつけこんだ爆薬の仕掛け、もしくは不意討ちの攻撃。爆発のあとには、なにも残らない。装甲車などに付着した肉片だけになる。それをこそぎ落とし、集めてかためた塊が、「遺体」となる。
遠くの駐屯地からヘリコプターで運ばれてきた味方の兵士の話がある。骸骨に皮膚が張りついただけというような、すさまじい衰弱を示していた。古参兵のもとへ運んだ茶に、ハエが飛びこんでいたのだという。そのために殴られ、二週間食事を与えられなかった兵士たち──。この種の狂気は伝染し、弱者に向けてのサディスティックな暴力をそそってやまない。
捕虜への訊問、地面の上に座らせ、相手が訊問に応じないときに実行される拷問の一種、「電話」。性器に電線を結びつけ、電流を流すやり方である。これは、アルジェリア戦争のとき、フランス軍のパラシュート部隊がやった拷問とまったく同じ方法である。人間の悪知恵の共通性とでも言おうか。
ひっそりと愛する者の生還を待ちわびている家族は、わが家へ向かって歩いてくる制服の男たちを目にして心が凍りつく。男たちは「死」のメッセージの配達人なのだ。この状況は、たとえば第二次世界大戦下のアメリカ、あるいはベトナム戦争下のアメリカ人家族の心象風景と完全に一致する。「死神」が門口にあらわれてしまったら、もうなんの希望もないのだ。
アフガンでの戦況をひたかくしにするため、遺体がどんなになぶられ、もしくは誰ともいえぬ肉の破片の寄せ集めであることをかくすために、重い亜鉛の柩が考え出された。柩はさらに木製の箱に入っている。金属部分はハンダづけされていて、家族に最後の挨拶をする機会を封じている。しかし、完全密閉の金属の柩から、ウジが這い出していたことや、腐肉のにおいがしたという証言もある。
せめて、アフガンで同じ体験、同じ思いをわかちあった死者たちを寄りそわせて葬ってやりたいと遺族は願う。だが、埋葬は墓地のあちこちに分散されるべきであるという命令が最後の願いをも阻む。
アフガン経験をもつ者たちが集うこと、話が一つにとけあい、答えが導き出され、そこから反戦、反権力の力が生まれる可能性への異様なまでの警戒心は、生者をも死者をも区別しなかった。
「死」からのこされた人びとの、「きわめて自然な」というべき対応。帰国する空港の便所で自殺した士官は、両脚を失っていた。戦死した息子の埋葬の終わるまでやっと生きていた父親は、わが子の写真の前でタオルで首をくくった。勇敢にたたかうべきことを息子に教えて送り出した母親は、息子を殺したのは自分だと思いつづけている──。
なんという痛ましくむなしい死かという思い。その思いは、政治体制擁護の枷をいつかのりこえ、戦争をおこなった国家、自分たちは安全地帯にいて手を汚さず、未訓練の若い兵士を殺人者に仕立てた権力者たちへの、怒りと憎悪へ変わろうとする、
もちろん、出来事のすべてを肯定的に見る人たちはいる。その立場もアレクシェーヴィチによって書きとめられている。だが、あまり説得力はない。汚い戦争の無残な死傷者の姿、その家族の証言が圧倒的な重みをもっている。
社会主義国(あるいはタブーが支配する社会)では、ドキュメントを書く人間の仕事には困難がつきまとう。筋書き通りの物語など無意味で、なまの人間の声、事実をこそ聞きたいことがわかってもらえないからである。
アレクシエーヴィッチがやろうとしたのは、その社会が封印してふれまいとした事実のはらわたをあばくことであった。だが、ドキュメントを書く人間の一人として、彼女の直面した試練の内容に、複雑な感情が動く。受けとり手が証言のすさまじきに圧倒され、ついには否認の訴訟事件をもひきおこしたように、書き手の側にもある種の不用意さが感じられる。
彼女は、苦痛に耐えてまとめた「アフガン体験」の本が、いかなる位置をその社会で占めるか、十分認識していたとは思えない。書き手もまた不馴れなのだ。
ドキュメントを書く人間が第一に心するべきことは、ニュースーソースを守ることである。だが、社会体制のタブーにふれる証言をおこなった人たちを、「コムソモルスカヤ・プラウダ」紙への寄稿の際、実名で書いたという。ファーストーネームを変える程度のことでは守りきれない、執拗な詮索と迫害が起こり得ることを知っていればとうてい出来ないことである。
わたしは彼女が体験した法廷での審判を不当と考える人間の一人だが、「熟さない市民社会」の現状への無自覚が、アレクシエーヴィッチをもとらえていたと感じる。わたしたちも、日本の社会にあってときには間違いをおかし、あるいは告発され、不当に非難もされつつ、いかに嘆くかを学んできた。その歴史は長くはないのだが、彼女は、歴史のはじまりにいる。
ドキュメントの証言性を重視する上では、個々の匿名の証言者について、年齢や既婚もしくは未婚など、その人物を想像させる手かがりの欠落が気になる。詮索の手をはねのける配慮と、いかなる兵士が直面した戦場体験であるかを読者にわからせることは両立できる。とくに年齢は重要であると思う。痛ましいまでに若い少年たちが地獄を体験したのだ。責任をとる年齢に達したとはいえない若き兵士を、このルツボに投じた政治の非情は、もっと知らされるべきであり、その集約として年齢はある。
戦場の悲惨、愚劣、そしてむなしさを証言する本、新しい書き手(しかも女性)の誕生は、一つの社会の成熟への里程標となろう。社会にとって不幸な里程標であっても、避けては通れない。証言がつみかさねられ、歴史となっていくのだから。
縁があって、彼女の第二作『ボタン穴から見た戦争──白いロシアの子どもたちの証言』(一九八五年)の訳槁も読んだ。一九四一年六月二十二日、独ソ戦開始、ドイツ軍に蹂躙された日の、おさない記憶の聞きとりである。彼女の手法は、その社会においての新風であり、歓迎と排撃の両面の嵐にさらされている様子である。いずれにせよ、彼女の作品がはじめて日本へ紹介される。心から歓迎したい。わたしたちが知るべき「事実」がここにはある。
訳者の三浦みどり氏は、わたしの取材旅行の通訳としてソ連時代にソ連ヘー回、東欧ヘー回、さらにロシアヘー回と同行してくれた親しい友人である。彼女がスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの仕事に心をひかれ、ついにはどっぷりつかるほどの熱意をもつきっかけの一つとして、わたしとの旅がなにほどか作用しているかも知れない。そうだとしたら、生きていることはなんと素晴らしいことなのだろうか。
国境をこえて、よく似た志をもつ書き手が仕事をつづけ、どこかで縁をもっているということへの喜び。その思いが、この文章を書きおえようとするとき、温かくわたしの心にひろがってゆく。
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