鶏小屋の青大将 帆足孝治
山里こども風土記 森と清流と遊びと伝説と文化の記録
第13章 鶏小屋の青大将
ヤワタロという名の大蛇
最近はあまり見なくなったが、私が子供の頃は大抵の旧家には大きな青大将が棲み着いていて、ときどき鶏小屋などに出てきた。日本に棲息する蛇のなかではとびきり大きな青大将は、この辺りでは「ヤワタロ」とよばれ、好物のニワトリの卵をねらって思い出したように出てくるので油断できなかった。ときどき、とてつもない大きな奴が出てきて、住人を驚かせたりした。
上ノ市の道路から引っ込んだところにあった私の家ではいつもニワトリを飼っていたが、その面倒をみるのは私の役割だった。大抵は名古屋コーチン、ブルマウス(プリマス)ばかりで、白色レグホンは卵はよく生むが、卵も肉もあまり美味しくないということで、家ではほとんど飼わなかった。
学校に行く前に、付近からまだ朝露に濡れているヒヨコ草を採ってきて包丁で刻み、これにヌカをまぶして餌としてやる。いい卵を産ませるためには、本当はみそ汁の出しにつかったアサリやシジミの貝殻を砕いて混ぜてやるといいのだが、この貝殻を砕いてやるのが面倒臭いので、誰もみていないと私はすぐ手抜きをしてヌカだけをやったりしたものである。さすがにヌカばかりだとニワトリの方もあまり食欲が出ないらしく、餌入れに何時までもヌカが残ることになり、私か手抜きしたことがすぐばれてしまうのだった。
餌をやるのが面倒な時は、しばしばニワトリを外に放してやった。戸を開けてやるとニワトリたちは先を争って外に飛び出していき、そこいらじゅうを走り回ったり、ミミズをほじくり出して食べたりして楽しそうだったが、家の周囲にはいつもいろいろの野菜が植えてあったので、若い菜っ葉がある時期や、穀物を庭に干してあるときなどは放し飼いもしにくかった。
家の前の畑の真ん中に大きな柚(ゆず)の樹があって、その周囲には鬼灯(ホオズキ)が植えてあったので、いつも大量のモミ殻を肥やしがわりにやってあったが、ニワトリを放つと彼らはすぐそこに集まった。ニワトリにとっては乾いたモミ殻の中にしゃがむのはとても気持ちがいいらしく、また、ちょうど卵を生むのに都合がいいものだから、巣を作ったりして自然にニワトリがそこに集まるのである。鶏小屋の中にちゃんとミカン箱を改造してつくった巣があるのに、外で卵を産む方が気持ちがいいのかブルマウスはよくこの籾殻の山の中に卵を生んだ。
雌鳥(めんどり)がしゃがんで卵を生むと、そばに付き添っていた雄鳥(おんどり)が「コケーツコオコオコオ、コケーツコウコウコウ、コケーツコウコウコウ」と鳴き始める。黙っていれば分からないものを、二ワトリは卵を産むと何故あんなに大声で鳴くのかふしぎである。せっかく苦労して産んだ卵も、あれではすぐ人間に取り上げられてしまうのに、なぜ人間に知らせるように鳴くのだろうか。
ニワトリの鳴き声は慣れてくると、餌が欲しいのか、外へ出たいのか、卵を産んだのか、退屈なのか、なにか怖い物がいるのかだいたい聞き分けることができる。ニワトリには名前はつけないが、私は毎日顔をつき合わせていたので、いつも七~八羽飼っていたニワトリの顔は完全に見分けられたし、どのニワトリが鳴いているのかも大体分かった。
昔はキツネやイタチ、テンなどが夜の間にニワトリ小屋を襲うことがよくあったが、ニワトリは夜は目が見えないので襲われても余り騒いだりはしない。したがって家人も気がつかないうちにやられてしまったというようなことがしばしばあったが、私はそんな時でもニワトリが怖がっているのか、危険が迫っているのかを鳴き方で聞き分けることができたような気がする。
ニワトリが一番恐れるのは蛇である。特に青大将はニワトリの卵が大好きだから、ニワトリが卵を産んだら忘れないですぐ取り込まなければならない。忘れて放置しておくと青大将に呑まれてしまう。私は、一ぺんに二つの卵を飲み込んだ青大将が鳥小屋の天井を伝ってゆっくり逃げていくのを目撃したことがあるが、見られていても平気で悠々としている瓢箪のように瘤が二つできた大きな青大将の姿は全く憎くらしかった。卵はいつまでたって消化しないので、卵を飲み込んだ青大将は高いところからわざと落ちる。そうすれば丸呑みした卵が落ちた拍子に割れるので、蛇は栄養分のみを吸収して、あとで殼だけを吐きだすのである。青大将は卵を狙うだけでなく、ニワトリが小さいうちは鳥小屋に入ってニワトリ自身を襲うこともあるから気をつけなければならない。小さなヒヨコなどをよく狙うから全く油断ができない。
子供のころ、隣りのうちの鶏小屋にニワトリになりかかった青年のヒヨコが沢山飼われていたことがあった。そのヒヨコたちは日に日に大きく育ち、鶏冠(とさか)はまだだったが、すらりと伸びた体はもう成鳥になりかかっていた。ある朝、隣りの仲良しだった昭ちゃんとその鶏小屋の前で遊んでいた私は、何気なく中を覗いて、巣の中に面白いものを見つけた。鶏小屋の隅の方にミカン箱を改造した巣がおいてあったが、そのワラの中にとても小さくて白いタマゴがあったのである。タマゴといっても、それは大豆を少し細長くしたくらいの大きさしかなく、まるでヒヨコが産んだかのように巣の真ん中におかれてあった。ヒヨコたちは全く知らぬ顔でいたが、私はそれをてっきりヒヨコが産んだタマゴだと思い込んだ。成鳥にもなっていないヒヨコが卵を産むなどという話はきいたことがなかったが、こんな小さな卵なら産むかも知れないと思えたのである。そこで私は戸を開けて鶏小屋の中に潜り込み、その卵を取り出してみた。その卵は、親指と人差し指で摘んでみると何となく殼が柔らかい感じがした。
何と言ってもヒヨコが産んだ卵というのは珍しいので、私はその細長い華奢な卵の端を摘んでみたが、殼は他愛なく割れて、中からどろっとした透明な白身とわずかな黄身が出てきた。私は、ヒヨコが産んだタマゴの中を昭ちゃんに見せたあと、そっとその黄身を舌で舐めてみた。格段変わった味はしなかったが、私はまだ、本当にヒヨコがタマゴを産むなどということがあっていいものかどうか確信がもてなかったので、そのタマゴを飲み込むのを止めた。
小さなタマゴを見たのはそれっきりだったが、ずっと後になって私は、図鑑で蛇のタマゴというのをみたことがある。小さな白い蛇のタマゴは、ちょうど私が鶏小屋で見つけたタマゴと同じような大きさと形をしていたので大いに驚いた。私は少しだったが、確かに蛇のタマゴを舐めてしまったのである。そのことが分かってからは、私は自分の口の中が何となく何時までも青大将の匂いがしているようで気味が悪かった。
それにしてもヘビが鶏小屋にまで出てきたのに、ヒヨコたちはどうして騒ぎもしないで、ヘビがタマゴを産むまでじっと放っておいたのだろうか。あるいはニワトリの目が見えない夜の間に出てきて、巣の中にタマゴを産んだのだろうか。
ニワトリは青大将を恐れていたが、その分だけカラスヘビのような小型のヘビにはむしろ攻撃的になることがある。そのころ、放し飼いにしていた雄鶏の一羽が、畑で中くらいのガラス蛇(この地方ではヤマカガシをこう呼ぶ)を見つけていじめているのを見たことがある。ふつう鶏はヘビを怖がって近寄らないものだが、日ごろ青大将にいじめられていることに対する報復からか、あるいはこの時の相手があまり大きくない無毒のガラス蛇だったからか、私か見つけた時はもう、とぐろを巻いて頭を輪になった胴体の真ん中に埋めるようにしている奴を執念深くつっつきまわしていて、蛇はなす術もなくただ頭を隠すのに精一杯で、すでに半死の状態だった。こうなっては動きの鈍い蛇は逃げ出すこともできないのでお手上げである。私は蛇がかわいそうになってニワトリを追い払ってやったが、ニワトリを鶏小屋に追い込んでから戻ってみたら、もうそのガラス蛇は醜い黄色い腹を見せて死んでいた。
幸せタマゴ
美味しいタマゴくらい人を幸せにしてくれるものはない。私は幾つになっても卵が大好きで、温かいごはんに生タマゴをかけて食べるくらい幸せなことはないくらいである。生タマゴでなくても、ゆでタマゴやタマゴ焼きはもちろんのこと、プディン、どら焼き、カステラ、クレープなど、タマゴが入った食べものは何でも大好きである。
私が子供だった頃は、滋養豊富な鶏卵は高く売れたので、とれた卵は籾殻の入った柄のついた籠に入れて数がそろうまで天井から吊り下げておき、どこからやってくるのか買いつけのおばあさんが買いに来たときに全部売ってしまった。だから、家では滅多に卵を食べることはできなかったが、ニワトリを飼うのが役目だった私は、産みたてのまだ殻がべ卜つくような暖かい卵をしばしば雌鳥の腹の下から失敬して、誰も見ていない所ですすった。
タマゴを産んだばかりの雌鳥がまだ卵を抱いているうちに、私はその腹のぬくもりに手を突っ込んで卵を取るのだが、ニワトリはまだしゃがんでいる自分の腹の下に手を差し込む飼い主の不思議な行動が解せないのか、ただ目をキョロキョロさせるばかりで騒ぎもしない。ときどき手を突っ込むのが早すぎて、まだ卵を産む前のニワトリの腹を探ったりすることもあった。タイミングよく卵がとれると、私は鶏小屋の外に出て入手したばかりの産みたての卵に小さな穴をあけ、そこから一気に中味を吸いとるように啜るのである。毎日三つ四つの卵がとれるので、そのうちの一つくらい私がすすってしまっても誰も怪しんだりはしなかった。
外で存分に遊び回ったニワトリたちは、夕方になると勝手に一羽一羽と安全な鶏小屋に戻ってくる。それでも戻りの遅い鶏は、私が餌入れの洗面器をコンコン叩きながら鶏小屋に入って「トウとぉとぉとぉとぉ……」と呼ぶと、それまで遠くに散らばっていた鶏たちがあちこちから我れ先にと走って戻って来る。餌が貰える時間を知っているのである。私は数を数えてから餌をやり、戸を閉めてニワトリの一日が終わるのである。
私は鶏卵は大好きだったが、鶏の肉はあまり好きではなかった。田舎では祝いごとがあるとすぐ鶏を絞めて鍋汁をつくったが、私はあの黒っぽく煮付けた鶏料理の匂いが嫌いで、特にお椀の中にぶつぶつしたトリ肌のはっきり分かる肉が入って来るとがっかりした。
野ウサギでもウナギでも上手に殺して料理していたおじいちゃんがある時期から家の鶏や鯉を自分で殺すことをしなくなったので、うちでは鶏を絞めるのはいつも私の役目だった。私は以前お爺ちゃんがやっていたように、鶏の首をねじって羽の下に押え込み、これを小さなゴザで巻いて、その両端を荒縄で縛って壁に逆様に立て掛けておく。一〇分ほどそうしておいてからゴザを解くと、もう鶏は死んでいるから、体がまだ暖かいうちにさっさと羽をむしり、丸裸にした奴を焚き火であぶって産毛を焼く。そうして料理できる状態にしてからこれをさばく役のお爺いちゃんに引き渡すのである。
全体をあぶるときに鶏の足だけは良く焼いておかなければならない。鶏の足は脂肪がのって栄養があるし、こりこりした軟骨が美味しいから誰もが好んだが、良くあぶって熱いうちに堅いうろこ状の皮をはぐと、黄色い油がのった軟骨が現れる。これを根もとから叩き切った足は味がよく栄養もあるので、よく赤ん坊に握らせたものである。まだ歯も生えそろわない赤ん坊が、背中におぶさって片手に鶏の足を握っているというのは田舎ではごく普通に見られた風景である。
水上のクロヘビ
森町の子供たちは川遊びが好きだった。森川はどこでも底が堅い岩盤になっているため至る所に浅瀬があり、穴や淵も豊富にあって魚の棲み易い環境になっていた。夏になると私たちはどこでも裸になって川に入って遊んだ。上ノ市近くの「つきばし」は恰好の水浴び場だったので、ここには男の子も女の子も、そして子供たちばかりでなく、まれには大人も水浴びに来た。
泳ぐのは大抵は昼御飯が済んでからで、井川の下から川に下り、ズボンをめくりながら崖の下の浅い瀬をザブザブと上流に向かって歩き、「つきばし」から流れ出る瀬の滑りやすい苔がついた瀬を渡って向こう岸に上がる。笹竹や葦の切り株で足裏を切ったりしないよう気をつけながら土手を歩いて、葦の藪が崩れてできた砂場に至り、青く澄んだ「つきばし」水面を見ながら慌ただしく服を脱ぐ。そして深い淵を見ながら手首を振ったり首を回したりして少しだけ準備体操をしたあと、両手の人差し指で耳に唾を入れ、それから深みに向かってザンブとばかりに飛び込むのである。
汗をかいた体には清流の水は冷やっこく、私たちはヒヤアヒヤアと大声を上げながら水をかけ合ったり、潜ったり、上流に向け瀬に逆らって泳いだり、まったく傍若無人に大騒ぎをするので、それまでしずかに泳いでいたハエやフナなどの小さな魚の群れはサツと散ってしまう。もう、あとはもう子供たちの独占場である。
泳いでいると人間の体温を感知するからだろうか、きまってどこからともなく虻(アブ)がやってきて、低空飛行しながら坊主頭の子供たちをねらう。私たちは誰かがブーンという虻の羽音を聞くと、「敵機来襲!」と叫んで泳いでいるみんなに知らせる。何しろ虻に血を吸われるととても痛いので、これには十分警戒しなければならない。刺されないように気をつけていても、泳いでいる間は冷たい水で皮膚の感覚が鈍っているので、わずかな隙をついて背中や脇腹をいとも簡単に狙われる。ふざけ合っていると突然キューンと痒みを感じ、そのあと「痛てててエー」ということになる。こればかりは個々に注意するだけでは防ぎ切れないので、お互いの体を見合いながら、虻が止まってはいないかを注意し合ってこれを防ぐ。いわば集団防衛である。虻の方でも、もし肌にとまっているのが見つかれば手で叩き殺されるわけだから、その危険を冒してまで血を吸いにくる執念は相当なもので、油断も隙もならない。
森川はどこをとっても山沿いの渓流なので、川に入って見上げると大抵はすぐ岸にまで山が迫っている。したがって人間が泳いでいると、虻ばかりでなくいろいろな生きものが川面にやってくる。泳いでいる間はみんな裸だから思わぬ危険に遭遇することもある。なかでも厄介なのはクロヘビである。この地方では黒いヘビのことを単にクロヘビと呼んで、ヤマカガシをカラスヘビと呼んでいた。クロヘビの方がガラスのように真っ黒いのでカラスヘビの名前にふさわしいように思うのだが、こちらはただクロヘビと呼んでいた。
いったいにこの黒いヘビは遠目が効かないらしく、私たちが泳いでいると、よく岸べからゆっくり水に入って鎌首を持ち上げながらユラユラと泳いできた。水面が揺れるので何か餌になりそうなものがいるのかと思うのだろう、水面に頭だけをだして泳いでいる私たちの方に向かって真っ直ぐ泳いでくるのである。これが地上だったら、近づいてみて人間だと分かれば、ヘビの方でもあわてて引き返すか向きを変えるのだろうが、水の中だと泳いでいる人間は頭しか出してないので小さく見えるからか、それとも水に入るとヘビの方が大胆になるのか、避けもせずに平気でどんどん近づいて来るから恐ろしい。
クロヘビには毒はないとされているから、まさか噛みつくつもりで近寄って来るのではないのだろうが、当然避ける筈のヘビが避けもしないでないでどんどん近づいてくるのは気味が悪い。普通のヘビならすぐ逃げ出すのに、このクロヘビだけは勝手がちがう。こちらとしては水上には顔しか出していないのだから、もしどこまでもヘビが避けないとすれば最後には水面で顔と顔がぶつかるしかない。まさか、こちらが噛みつくわけにもいかないから、最後は水をかけて追い払うか、せいぜい素手で押しやりでもしなければらちがあかないだろう。私は「つきばし」では、そんな気味の悪い思いを何度も経験した。
カワセミの巣
森川にはミソサザイ、カワセミ、セキレイなど小さな水鳥が沢山いた。なかでも干潟や水から頭を出した岩の上にとまって、たえず尻尾をヒクヒクさせているセキレイは子供たちの人気だった。子供だった私はよく、岩の上を白い糞をしながら跳び回るハクセキレイやキセキレイを何とか素手でつかまえようと追い回したものである。セキレイは追い回しても他の水鳥とちがってサッと逃げ去ることはしない。子供たちが掴まえようとして追いかけると少しだけ飛んで逃げ、安全距離を保ちながらそこでまたヒョコンヒョコンとやっている。また追いかけると同じようにまた少し逃げる。あたかも子供が追いかけてくるのを待っているようで、あれでセキレイの方も結構楽しんでいたのかもしれない。結局、決して捕まることはないのだが、いかにももう少しで捕まりそうで、無理なのを知りながらつい追いかけてしまうのである。
夏、「つきばし」で泳いでいる私たちの頭上を、ときどきビッ! ビッ!と短い鋭い鳴き声をしながら、くちばしの長い緑色の美しい鳥が飛んでいった。カワセミとは誰が名づけたのか、その嗚き声は確かにセミの嗚き声そっくりで、私たちはその鳥を何とか捕まえられないものかと案じていた。そして、あるとき意外なことからそれが実現したのである。
夕方、泳ぎから帰ってきて井川の下で足を洗っていたとき、私より三つ年上だった麻生の勝ちゃんが、すぐそばの崖の灌木の下からブルッという羽音がしてカワセミが飛び出して行くのを目撃した。私たちが足洗い場で騒いだので、それまでじっと隠れていたカワセミが危険を感じて逃げ出したものらしかった。
私たちはカワセミが飛び去ったあとを念入りに探し、とうとう灌木の根元に小さな穴があいているのを見つけた。カワセミはこの中に巣を作っているに違いない。次の日の朝早く、勝ちゃんは私たちの見守るなかをそっとその穴に近づき、あっと言う間に右手をその穴の中に突っ込んだ。だが穴は意外に深かったようで、私たちがみていると勝ちゃんはどんどん手を奥に差し入れていき、とうとう右の肩か穴の入り口にぴったり着くまで突っ込んだ。そして「捕ったアー」といいながら、見事に色も鮮やかなカワセミを掴みだしたのである。下で見ていた私たちは思わず手を叩いた。
カワセミは余りの驚きに声も出ないのか鳴きもしないで、目ばかりキョロキョロさせながら勝ちゃんの手に握られていた。なにしろカワセミの巣は切り立った崖のかなり上の方にあったので、勝ちゃんもそこまで登るときは一生懸命だったが、滑りやすい崖を片手にカワセミをもって無事に降りるのは容易ではなかった。
私たちはカワセミをこんなに近くで見るのは初めてだったので、その美しい緑色の羽や首の周りのオレンジ色の鮮やかな光沢にすっかり魅せられてしまった。勝ちゃんはそのカワセミを捕ったものの、家に持ち帰っても親に叱られるのが関の山だったので、結局、しばらく遊んだだけで放してしまった。カワセミはじっとそのタイミングを待っていたかのように突然ブーンと羽ばたいて、アッという間に飛び去ってしまった。
その後、私はその崖の上の穴を注意深く観察し続けたが、もうあの宝物のように美しいカワセミが戻って来た気配はなかった。
川辺の生きもの
私は川遊びが何よりも好きだったから、春になると夏が待ち遠しくてならなかった。山沿いのサラサラと流れる小川を覗きに行くと、まだ水はつめたいのに早くもメダカたちが、あのボラを想わせる愛嬌のある体つきで水面近くを群れて泳いでおり、深みにはネズミ色の小さなカジカがじっと水の温むのを待っていたりした。
あの「春の小川」の歌は、東京の渋谷、今のNHKの下あたりの風景を歌ったものだそうだが、あのころの私には、あの歌はまるで故郷「森」のことを歌ったもののようになつかしく響いた。実際、岸にはスミレやレングの花が咲いたし、フナやメダカは早春のうちから姿を見せていた。女の子や幼い男の子たちはよく土手の草花を摘んで遊んだが、かすかに甘いツバナや、あの酸っぱいシシントウの味は、いつまでも忘れられない。
待望の夏が来ると、私は瑕さえあれば川に入って遊んだ。それもたいていは一人で、小フナやシマドジョウを追いかけながら、いろいろなことを想像して楽しく遊んだ。
小魚を掬いに川に入って行くと、足元の浅瀬には瀬に流されないよう底の岩盤にしがみつくようにして小さなコヒナの黒い粒つぶが点々と連なって見え、ちょっとした底の窪みには、シジミやウマノツメなど二枚貝も棲んでいた。因みに、岸辺に茂る葦の根元付近を網ですくってみると、カワエビやイショムショ、シマドジョウ、カマズカなどの小魚に混じって、よくタガメやゲンゴロウ、ヤゴや水カマキリなども入った。水性昆虫の中でも私はタガメが苦手で、笊で小魚を捕っているときに間違ってタガメが入ると、私はいつも大慌てで放り捨てた。他の昆虫は何でもないのに、あのタガメの不気味な羽の重なり具合、特にあれが裏返しになって笊の中でごそごそともがいているのを見ると肌が泡立つように感じた。
カワセミのいた井川の水が流れ込む辺りには、私が子供の頃はいろいろな珍しい生きものがたくさん棲んでいた。いつか見掛けた夜光虫もそうだが、いまではめっきり数が少なくなってしまった指先に乗るほどの小さなカエル、良く見ないと見落とすほどの、半透明な青銀色に光るかぼそい糸トンボ、呼吸に合わせて黒い大きな羽を広げたりつぼめたりする川トンボ、びっくりするほどのすばしっこさで逃げ回る紫色の小さなシジミチョウなど、その多くは子供の図鑑にも記載されていないので、名前をしらべようとしてもほとんど分からなかった。
昆虫と言えば、この辺りのセミは、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシ、ミンミンゼミのだいたい五種類だけで、九州のどこにでもいたクマゼミはここにはまったくいなかった。いまでは東京の神楽坂商店街などで、街路樹の通行人のあたまの高さほどのところにとまって、あさましくもうるさいほど鳴きまくるミンミンゼミが、田舎には余りおらず、夏も終りちかくなってたまにミンミンゼミが飛んで来て「ミーン、ミンミンミンミンミーン」と鳴き始めると、子供達はそれを掴まえようとそうっと近寄るのだが、都会のミンミンゼミとちかって人の近寄る気配を感じただけで途中で嗚くのを止めて、小便をしながらさっと飛び去る。あのすばしっこさは東京の町中にいるミンミンゼミとはまるで別種のようである。だから、夏休みがおわって子供達が学校に持って来る昆虫採集の見本にはミンミンゼミが入っているものはほとんどない。それくらいすばしこかったから、だいたいミンミンゼミは子供には捕まえるのは無理だった。
ツクツクボウシというセミがいる。セミの漢字は「蝉」だが、これは「禅」の字に似ているので何んとなく抹香くさい感じがする。ラフカディハーン(小泉八雲)はこれについて、蝉は露を吸うだけで、他の昆虫のように生きるために他の生きものを餌にすることはしない。たった七日かそこいらを生きただけではかなく死んで行く清廉な生き物だという中国の言い伝えを紹介しており、なんとなく禅坊主と相通じるところがあることを示唆しているが、そういえばツクツクボウシという名前も「法師」だからおもしろい。昔の人はセミという生き物に対して、そういう印象を抱いていたのだろうか。
そのツクツクボウシの鳴き声について、私は同級生たちと「オーシンツクツク」が正しいか、それとも「ツクツクオーシン」が正しいかで、いちど激しい議論を戦わせたことがある。みんなが「そりゃあツクツクオーシンに決もうちょる!」と言い張るのに対し、私だけは、「いや、オーシンツクツクが正しい」と主張した。そのときは悔しくも多数決で負けてしまったが、私はいまでも「オーシンツクツク」が正しいと信じている。だからこの年になっても、あの半透明な羽をもつ小さなツクツクボウシが飛んできて近くの木にとまるのを見掛けると、私は全神経を集中してその鳴き声を確かめる癖がある。
じっと聞いていると、まず最初に「ジュージュクジュクジュクジュク」と音階を段々下げてゆく前奏があって、それからおもむろに高い音階でゆっくりと「オーシンツクツクツク、オーシンツクツクツク、オーシンツクツクツク」と鳴き始める。これを10回くらい繰り返すのだが、鳴き方はだんだん早くなっていき、終りのほうは聞き様によっては「ツクツクオーシン、ツクツクオーシン」と聞こえないこともない。みんなはこれを聞いて「ツクツクオーシン」の方が正しいと主張しているらしいのだが、それとても始めに「オーシンツクツク」があってからそう聞こえるのであって、明らかに観察不足のなせるわざである。
「オーシンツクツク、オーシンツクツク」の鳴き声はだんだん終りが近づいてくると少しずつ早くなって、終いにはつっかえるような鳴き方に変わったと思うと、こんどは「ツクイショーシ、ツクイショーシ」という鳴き声に変わる。この「ツクイショーシ、ツクイショーシ」は大体三回か四回の繰り返しで、最後は「ツクイショージ、ジーッー」で終る。鳴き終ると、何んの未練もなさそうに最後の「ジーッー」に合わせて小便をしながらさっと飛び立ち、次の場所へ行ってしまうのである。
ヒグラシも綺麗なセミである。鳴き声も涼しげで素晴らしいが、透き通った羽を持つこのスマートなセミは、捕まえてみると胴体も上半身が茜色に半分透き通って見える。真夏のまだ明けやらぬ暗いうちから山里の草深い山の中で聞こえる、あのカナカナカナ、力カカカカカカという鳴き声もなんとなく透明感がある。
家の前にある山は見上げるほどの杉山だが、その麓の斜面は開墾されて家の畑になっている。ここにはうちで植えた栗や柿の木が何本もあって、その下は膝まで没するほどの草が生えている。
昔から何度も崩れたことがあるほどの急斜面になっているが、ヒグラシはこの草むらが好きで、夏にはここに朝日が差すまでたくさんのヒグラシが潜んでいた。草むらの露を吸うからだろうか、ここに分け入って行くと黙っていれば気づかれないですむのに、そちこちで不意にカーツーとかビビーツーとかいう美しい鳴き声がする。地面のくさむらの中で露を吸いながら眠っていたのであろう、たくさんのヒグラシがいる。ヒグラシは掴まえるのが格別むずかしいセミではないが、手の届く草むらの中にこれほどたくさんいると、まるでイナゴを捕まえるたやすさで掴まえられる。かくて私が夏休み明けに宿題として学校に持っていったYシャツの空き箱にセロファン紙を貼った昆虫採集は、背中に虫ピンを刺されてカラカラに乾いたヒグラシが、向きも定まらずやたらとたくさん入っているという珍しい標本となった。
野鳥の古巣
井川の下の崖のあたりは、岩清水があちこちから滴り落ちて涼しい日陰になっていたから、ここにはいろいろな水鳥がやってきた。最近は白鷺までくるが、私が子供だった頃はカワセミやセキレイ、ミソサザイといったもっぱら小さな鳥が水浴びをしたり水苔をついばんだりしていた。その崖の上の、今はお稲荷様が祭ってあるあたりから右手の斜面は、うちの祖父が若い頃から開墾して耕してきた畑があるが、なにぶんにもすぐ上は杉山で急な斜面になっていて、ここにはよく粟やトウキビを植えたのでよく小鳥たちがやってきた。
ある秋の日、畑の草取りからの帰りがけに斜面の草むらを丁寧に見ながら斜面を下っていたら、土手の草むらが庇のように覆いかぶさった恰好の窪みの中に、枯れ草を籠のように丸めた小鳥の巣があり、その中に斑模様で草色の小さな卵が四つあるのを発見した。私は、図鑑や絵本では見たことがあるが、実物の野鳥の卵を自然の状態で見るのはこれが生まれて初めてだったのですっかり興奮してしまい、その中の一つを摘み上げてみた。一つ持ち帰って、家族や友達に自慢しようと思ったのである。
その卵は驚くほど小さくて少し斑があり、よほどそっと摘まないと殼が割れてしまいそうに華奢な感じがした。私は、この卵の産み主がはたしてどんな小鳥なのか想像した。大きさからいってモズやムクドリやヒヨなどではなさそうだし、かといってセキレイやカワセミがこんなところに巣をつくるとは思えない。またヒバリやミソサザイの卵にしては大きすぎる。この美しい卵の生み主はまだ私の知らない、珍しい美しい繽模様のある小鳥かもしれない。わたしはそんな想像をして胸がわくわくするほど嬉しかった。
私は思い直して、摘み上げた卵をそっと巣にもどし、これは自分だけの秘密にしておこうと考えた。家に帰ってからも私は自分だけしか知らない秘密を持ったことが嬉しくてたまらなかったが、結局黙っておくことができずに、晩御飯のとき家族に自分があるところで小鳥の巣を見つけたこと、そして四つのキレイな卵も見つけたことなどを話し、あれは果たして何の卵であろうかと疑問を持ち出した。マル子おばちゃんは「どこで見つけたの?」とか、「卵はどんな水色だった?」などと質問したが、それを聞いていたおじいちゃんは意外に冷静で、しまいに笑いながら「とうとうあれを見つけたか」と言った。
実は、おじいちゃんはあそこに小鳥の巣があることを早くから知っていたようだったが、私に教えるときっと興味本位にいたずらをするに違いないと思って、教えてやりたい気持ちを押さえて黙っていたもののようだった。私のような子供に教えてしまうと、きっと我慢しきれなくていたずらをするに違いないと思っていたのだろう。
考えてみれば、おじいちゃんくらい山のことをよく知っている人はいなかったし、ましてそこは自分の耕した畑だったから、子供の僕が見つけられるものくらいはとっくに知っていて不思議はないのである。野鳥の巣をみつけてもそれを誰にも知らせないで、卵が孵って小鳥が巣立って行くまでそっとしておいてやろうというおじいちゃんの優しさを知って、私はますますおじいちゃんが好きになった。
それから何年もたって祖父はそのあたりの畑を立ち木ごと売却してしまったが、私はいちど偶然そこを通りがかって、かつてその巣があったあたりを調べる機会があった。そこは思っていたより家に近い土手の下の方にあったが、その窪みには、もうながいこと使われないままに転がっていたのだろう、かさかさに乾ききった巣の破片が残っていた。
吊し柿
秋が来て稲穂が色づいてくると農家は忙しくなってくる。冬にそなえて薪づくりをする一方で、芋や小豆などの取り入れが始まるし、吊し柿づくりも始まる。
家の前の山の斜面には柿の木がたくさんあって、サイジョウ、コショウマル、フユガキ、シモガキ、ミカンガキなど様々な柿が実った。人気があったのは胡麻がいっぱいふいている小さい柿で、最近果物屋などでもてはやされるようになったフユガキ(富有柿)は、当時は大きな実がなる割には甘くないのであまり喜ばれなかった。ミカンガキは他の柿より遅く実るが、家の裏には川面に枝を張り出すようにミカンガキがあって、梅の実ほどの大きさの実が真っ赤に鈴なりになったものである。
吊し柿にするための渋柿の皮剥きは忍耐のいる仕事である。みんなで夜なべ仕事で皮を剥き、祖父が藁を使って綯(な)つた縄にTの字になった萼(がく)を差し込む。
渋柿を採るのは男達の仕事である。特に男の子がそれをやらされた。身軽な私は猿使いのサルのようにスルスルと高い木に登り、縄を着けた大きな笊(ざる)を枝に引っ掛けておいて、これに柿の実を採って入れていく。下から人に見られていると余計に身軽に、わざと枝の先の方まで登って見せた。家では以前におじいちゃんが柿の木の枯れた枝を踏み折って落ちたことがあったため、それ以来、柿の木に登るのは私の役割になっていた。
笊は子供が中にすっぽり入れるほどの大きさがあり、これが一杯になると縄を緩めながら下ろして下にいるマル子叔母ちゃんやお婆ちゃんに支え取ってもらい、これを家に運び込む。柿の実は、先っぼをVの宇型に割って小枝をは挟んだ長い竹竿をつかって採るのだが、その際、吊し柿にしやすいように、萼(がく)の直ぐ上の枝を挟んでぐるぐる回して捩じるように折り採ることが大事である。こうすれば、ちょうど採れた柿にはどれも見事なT字型の小枝の一部がついていることになるので、家に持ち帰って皮を剥いた時、柿の実を縄目に簡単に挟めるので作業が進めやすいからである。
実りのいい年には柿は夥しい量がとれたから、夜なべの柿剥きは大仕事だった。良く研いだ包丁を何本も用意しておき、みんなで雑談をしながら皮を剥くのだが、たくさん剥いているうちに、親指は柿の渋で真っ黒になり、包丁も切れ味が悪くなる。研いでいる暇はないので、あらかじめ用意しておいた別の包丁に取り替えて、さらに剥き続ける。渋柿ではあっても、稀にはゴマのふいた甘い実も混じっていることがあり、そんな甘柿にぶつかると、これは四つに割って、眠いのを我慢してじっと作業を見守り続けている子供達に分け与えられる。それは稀にではあるが、なにしろたくさんの実を剥くので、甘い柿はたびたび出てきて、しまいには食べられなくなるほどである。
私はラジオの連続放送劇やクイズ番組の「二十の扉」を聞きながら皆んなで柿をむく夜なべが楽しみだった。渋柿の実は青白いから、こうして剥かれた柿の実が藁縄に差し込まれて大きな笊に何杯も用意できた姿は見事である。これは明日の朝には蔵の壁面や縁側の軒下などにずらりと吊り下げられることになる。日差しに映える鮮やかな吊るし柿は秋の風物詩で、霜の降りるころになると、あちこちの白壁のある家や蔵にズラリと吊り下げられた柿のすだれが見られた。吊し柿は日に日に赤味を増して行き、二週間も経つと萎なえて小さくなり、一か月くらいですっかり干し柿らしくなる。
この時期に雨が続くと柿の乾きが進まずに、青カビが生えたり、柔らかいまま縄から抜け落ちたりしやすくなる。まだやっと渋味が抜けたばかりの吊し柿はぐにゃぐにゃと柔らかく、特に種の周囲のツルンツルンした甘みが美味しくて、私はよく、だれにも見付からないようにしながら内緒で失敬して食べた。
夜なべで柿剥きをした後には大量の皮が残るが、田舎ではこれも決して無駄にはしない。バイラと呼ばれる丸い大きな平らな笊の上に広げて、屋根の上などでよく乾かし、これを糠漬けの中に入れると甘みが出て旨味が増すので好評だった。柿の皮は火鉢で焼いて食べると美味しいが、私は納屋の屋根裏に積み上げた藁の中に隠れて遊びながら、よく甘くなったこの柿の皮をおやつに食べた。
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