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少女の夢 1      酒井倫子



  戦火をくぐりぬけて  

 昭和十三年生まれの私は、第二次世界大戦が終戦を迎えようとしている春に小学校へあがった。 
 昭和二十年の春まで東京の中野に暮らしていたわが家は「まさかここまでは戦火がひろがるまい」とたかをくくっていたようである。ところが二月、三月となるにつれ東京の戦火はひろがる一方で、連合軍の空爆は神出鬼没となり、朝となく昼となく空襲警報のサイレンが無気味に鳴りひびくようになった。そしてすぐ近くで爆弾が炸裂し、時にはものすごい爆音の戦闘機が屋根すれすれに飛んできて機銃掃射することもしばしばとなった。バリバリバリッと耳をつんざく音であった。そのころになると食糧事情も最悪で、母は空爆の中を毎日配給所まで鍋を持って食べものをもらいに行かねばならなかった。配給されるものは、ドロドロした汁の中にうどんや米つぶみたいなものが浮いているようなひどいものであった。私たちは毎日毋が帰るのを待ち続けた。時には道ばたで機銃掃射や爆弾で亡くなった人もではじめていた。夜になっても家の中でゆっくり寝ていられなくなり、夕方からせまい防空壕で暮らすことが多くなった。そしてとうとう三月九日の東京大空襲の日がきた。

 あたりが暗くなるにつれ、壕からみえる空は血を流したように真赤であった。空には照明燈が光のすじとなって交錯し、時にはその光の中にB二九の連隊がうつし出された。そして、どの機体からも雨あられのように爆弾が投下された。中野のお山からは上空までとどかぬ高射砲の音がむなしくひびいていた。すると隊をなすB二九の一機に日本の戦闘機が体あたりし、木端のように飛び散った。その光影は今もスローモーションの映画の一シーンのように私の脳裏にやきついていてはなれない。私たちはかたずをのんで見守っていると、しばらくは何亊もなかったようにB29は飛び続けていたが、そのうち一機が突然傾いて黒煙をあげて落下した。「ああ!」といって母は空にむかって手を合わせた。私たちも真似て小さな手を合わせた。けれどそんな情景を無事でながめていた私たちは仕合わせで、その時真紅の空の下では地獄の光景が展開されていたのである。その炎のもとで何十万もの人が犠牲になったと後で聞かされた。

 いよいよ中野もあぶないと悟った父母は、とりあえず年子の弟と私だけでも田舎へ疎開させることとなり、父につれられて着のみ着のままで母の実家である松本市芳川平田の叔母の家へ向かった。満員の疎開列車は途中空襲警報のたびに明かりを消し息をひそめるように走り続け、とにかく村井という駅に降りたったのは夜中すぎであった。三月とはいえ信州はまだまだ寒く、履くものとてなく、大きなサンダルをつっかけた小さな足は感覚がなかった。田舎のでこぼこ道に足をとられて私たち姉弟は何回もころんだ。今思えば本当におかしな話だが、私たちの荷物といえば弟がナベ、私がカマであつた。足からサンダルがはずれてころぶたびに、ナベやカマがゴロンゴロンと音をたててころがった。けれども信州はうそのように静かであった。空には満天の屋がかがやき、私は星空がこんなに美しいことをはじめて知った。あの時のガラン、ゴロンと鳴るナベの音と青黒く深い星空は、今も私の大切な記憶である。

 何時間かかったのであろうか。ふりわけの柳ごおりをかついだ長身の父と、ナベカマしょった姉弟が叔母の家にたどりついたのはもう夜明けであったと思う。くぐり戸を開けて父子三人を迎え入れた叔母の第一声は「姉さんはどうしただね!」であった。そして「びっくりしたぞよ。おら姉さんは死んでしまったかと思ったわや! 無事でよかった、よかった!」と連発しながら私たちに玉子をおとした味噌汁とごはんを食べさせてくれた。そのおいしかったことも一生涯忘れられない。叔母も夫を戦地にとられて、年老いた父と二人の子どもをかかえ家を守っていた。
 このようにして疎開っ子の田舎生活が始まったのである。三月も末に近い日のことであった。四月間近には小さい弟と母もひきあげてきて、軍需工場で働く父だけが東京に残った。
 私は田舎の小学校へあがるのを楽しみにしていたが、入学式の日になっても私には学校あがりの通知がこなかった。「どうして私はゆけないの! どうして!」と心の中で叫んでいたあの日のことも大切な思い出箱の一片である。それから間もなく私にも入学許可が出て、継子のおさがりのブルーの絹のセーラー服に、赤いシルクタイをつけて胸はずませて小学校へ行った。昇降口へ立つと若くて美しい女の先生と同級生みんなで私を迎えてくれた。皆の視線がまぶしくて、私はもじもじした。「ヤガサキリンコさんですね」と先生に言われて「ハイ」というのが精一杯であった。「リンコ? そうでなくてリンゴだーいー ワーイ、ワーイ、リンゴだ、リンゴだ!」と男の子はいい、それから私のあだなはリンゴであった。今考えればリンゴなんて、とても素敵なあだななのに、当時は「ヤーイ、リンゴ、リンゴー」といわれるのだけはいやであった。田舎の女の子は、いじめられたりすると「ショオー!」といって相手をにらむのである。その言葉を私もすぐ覚えて、「ショオー!」といっては小石をひろって投げたりしたものだ。信州の田舎は戦時中でもまだまだこんなふうに平和であった。

 そんなある日、父ががっくりと肩をおとして帰ってきた。とうとう中野の家も焼かれたそうだ。そんな焼野ケ原となった東京へ父は再び戻っていった。
 私どもは一家五人が叔母の家の蚕室と呼ばれるところを借り、何とか暮らせるようになった。私たちの住まいは東側一面が障子で、開けると東山のやさしい山脈が一望できた。庭先には小川が流れ、そのほとりに大きな栗の木や桑づみの木があった。水草やあやめ、すぐりの小やぶなどが豊かに水辺をうめつくしていた。日が高くのぼると水に反射した太陽のスペクトルが不思議な紋様をえがいてゆらゆらと障子にうつし出されたし、月が昇るとそこはまさに影絵の国であった。これから広島や長崎の悲劇や敗戦をむかえる前夜とも思えぬ、不思議とおだやかな日々を、私たちは過ごさせてもらったのである。​

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