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カブ式機関車   帆足孝治

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山里子ども風土記   帆足孝治


 私が森小学校に通っていた頃はどこにも子供がたくさんいて、三班併せてもたった二十九軒しかなかった上ノ市部落にも子供がぞろぞろしていた。大抵どこのうちにも三人や四人の子供はいたから、学校が休みになると上ノ市ではあちこちに子供が集まって、男の子はゴマ回し、ラムネ、パッチン、釘あそび、将棋、缶蹴りなど、女の子たちは縄跳び、石蹴り、隠れんぼ、毬つき、お手玉、おはじきなどをして遊んでいた。もっとも、女の子たちはその間に子守りをしたり、家事の手伝いをしたりすることが多かったので、私たちは女の子とは余り遊んだことはないが、村の鼻たれや悪餓鬼どもとはずいぶん乱暴なこともして遊んだ。

 私は山遊び、川遊びが得意だったので、家ではおとなしかったのに、いったん野山に出ると見違えるように活発になった。山にわけ入って樹木から垂れ下がっている蔦でも見つけようものなら、私たちはまるでピグミー族かチンパンジーのようにぶら下かって、ターザンのようなまねをしたりした。

 男の子たちは同じ上ノ市の中でもそれぞれ派閥があって、それぞれの餓鬼大将が部下を従えて縄張りを競っていたが、私は御荘園(ごその)の子だったのでそういうグループには属することなく遊ぶことが出来たが、そうでないと派閥からはみ出た子供は友達もなく、寂しい思いをしなければならなかった。

 上ノ市には女の子一人を含めて私の同級生が五人もいた。中でも豆腐屋の安藤君、魚屋の衛藤君は私の仲良しだった。安藤君とは夏休みに宇佐まで一緒に汽車旅行したことがあるし、衛藤君は体は小さかったが田舎の少年らしからぬ知的な優しさと勇気があり、私は優しくて教養もあった衛藤君のお母さんが大好きだったこともあって、何となく彼には格別な親しみを覚えていた。彼のお父さん、お母さん、日田の林校に通っていたお兄さん、そして清楚な妹さんなど、どういうわけか彼の家庭全体が田舎には珍しい知的な雰囲気がしていたのを覚えている。

 あるとき、彼が家にあった古い本に「カブ式機関車」という英国製の小さな蒸気機関車の写真が載っているというので、私に持ってきて見せてくれたことがある。衛藤君は、私か汽車好きであることを知っていたので、お父さんの書棚からこの本を持ち出したものらしかった。

 最初、彼に「かぶしき機関車というのを知っているか?」と尋ねられたとき、「そんな機関車あるものか!」と私は彼のいうことを完全に無視していた。私は機関車のことなら、蒸気機関車、電気機関車、ディーゼル機関車、蒸気タービン機関車、ガスタービン機関車など、名前だけなら何でも知っていたし、過熱蒸気機関車とかタンク機関車、テンダー機関車などという分類があることも雑誌などで知っていたから、衛藤君の言う、そのどれにも当てはまらない「かぶしき機関車」なんてあるはずがないと思っていたのである。

「株式会社」なら知っているが、「株式機関車」なんて聞いたこともない。どうせ田舎の子供のことだから、なにか勘違いか記憶違いでもしているに違いないと馬鹿にしていたのである。彼のいうことを私か無視するものだから、ある日、とうとう彼はその写真が載っている本をお父さんの書棚から持ち出してきたというわけである。

 私は、その本の写真を見て驚いた。ツルツルした上質紙にきれいな小型蒸気機関車の写真が印刷されてあり、その写真説明に「カブ式機関車」とあるではないか。株式ではなくカブ式だったのである。もちろん私はカブ式機関車という名前を聞いたこともなかったが、権威ありそうな立派な本にそう記載されている以上、私のような子供がどう頑張ってもどうにもなるものではない。私はすっかり兜を脱いで、衛藤君に謝ったのだったが、それ以来、私はあの衛藤君をなんとなく尊敬できる友達と思うようになった。

 東京から来た当初から、私は気が弱く、喧嘩も相撲も弱くて誰と戦っても大抵は惨敗したが、私より体が小さかった衛藤君にだけは余り負けなかった。私は彼と取り組む時、いつも意外に彼の体が細いのに驚いた。
 
 衛藤君は中学に上がった頃から新聞配達のアルバイトをして自分の小遣いを稼ぎ出していたが、毎朝早くから新聞を抱えてとび回るこのアルバイトが、体を鍛えるのにいいと考えてのことだったらしい。私にはそんな彼がとても大人っほく見え、いつも彼のことを尊敬していた。

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