親子関係に感じること 帆足孝治
山里子ども風土記 帆足孝治
私の年齢ではもう学校でも「修身」という科目はなかったが、家では躾ということについてはおじいちゃんもおばあちゃんも大変厳しかった。だからわたしは子供というものは親から多少辛いことを言われたりしても、口ごたえなどするものではないと教えられて育ったし、実際、おじいちゃんやおばあちゃんに口ごたえしたことなどはほとんどない。
私の場合は、子ども心にも常にこのおじいちゃんとおばあちゃんに預けられているのだという潜在意識があったから、その育ての親に対しては怒らせたり悲しませたりするようなことはなるべくすまいと思っていたし、少なくとも普段の冷静なときはそう心掛けていたはずである。それでも私は短気だったから、あまり不愉快なことがあったりするとそんな心掛けはすぐ忘れてしまい、結構な悪さも反抗もした。こんな田舎になんかいられるものかと思って家を飛び出したこともある。いつか裏耶馬渓のほうまで歩いていったのもそれであった。
中学校に上がると自意識に目覚め、古臭い因習に凝り固まった大人たちがうっとうしく感じられることが多くなって、何かにつけて反抗的になりがちだった。級友のなかにも親と意見が合わないといって外泊したり、パチンコ屋に入り浸ったり、見るからに不良っぽい格好をして仲間から金品を脅し取ったり、ジャックナイフを学校にもってきたりする子などもいた。
私も年頃になってくると、自分にはれっきとした親がいるのに何故自分だけがこんな田舎にいつまでも預けられているのだろうか、父や母は私を手元に置いておきたいとは思わないのだろうか、何故私の両親は自分の子供をよそにあずけたまま手紙も寄越さないのだろうか、「どうしているだろうか」と気にはならないのだろうか、などと不満に思うことがいっぱいあった。だから、私の方にも東京の両親が恋しいとか懐かしいとか思ったことは一度もない。
しかし、格別に可愛がってくれたとは思わないが、家族の一員としてまったく普通に扱ってくれた祖父母や叔父叔母には、私が東京の両親にそんな不満を抱いていることは絶対に知られたくなかった。それだけに、たまに尊敬するおじいちゃんやおばあちゃんから理不尽な怒られ方をすると、内心、ひどく傷ついたものである。口ごたえするわけにもゆかず、自分の部屋だった納戸にこもって静かに悔し泣きするしか方法がなかった。それでも私がどうにかぐれもしないで普通に育ったのは、やはり自分は祖父母の大きな愛情の傘の下にあるんだという信頼感に似たものがあったからに相違ない。
そのころ私より一級上で、勉強がよくでき、運動会の中距離競争などでいつも断トツに優勝するTという少年がいて、私は彼のそれをハナにも掛けない飄々とした態度が好きでいつも尊敬していたのだが、いちど春日町の彼の家の前を通ったとき、ちょうど彼がその母親らしい人と大声で喧嘩をしているところに行き合わせた。見ていると彼は大声で、とても母親に対しているとは信じられないような乱暴な言葉づかいで罵ったあげく、ちょうど表の掃除をしていた途中でもあったのだろうか、手に持った箒でその女の人の背中を打った。
私はまず、子供が親に向かって罵ったりするのに驚いたが、それにも増して箒で叩いたのには仰天した。私の家だったなら、もうそれだけで勘当されるに十分な条件である。だいいち、あのころは箒で人を叩くなどというのは最低の行為で、そんなことをすると癲癇(てんかん)を起こすといって忌み嫌われたものである。まして子供が自分の母親に向かってそんなことをするなどとは信じられないことであり、私の常識を越えた出来事だった。
中学生で、しかも運動が得意な男の子が暴力に訴えてきたら、母親なんかがいくら怒ってみてもかなう道理はない。普通そうはならないのは、親は子供に対して威張ったりしないし、子供は親を尊敬しているからであって、そのきづなが切れてしまったら、たとえ親子でも仲良くすることは難しいだろうと思う。彼の言動を見ていると、日頃あの家ではお父さんやお母さんは彼をどう扱っているのか疑いたくなる。お父さんはこんな風にいつもいないのだろうか。そして、きっとお母さんは彼を甘やかし過ぎているのではないだろうか、彼の彼女に対する口の利き方からしてそう思わざるを得ないのである。
いつも田舎の中学生にしては上等の洋服を着て、森中学校では女の子たちにも人気があった彼のそんな一面を見てしまった私は、今まで彼に対して持っていた好感をすっかりなくしてしまった。私だって大人に対して反抗もするし、時には大人のすることを軽蔑することだってあるが、不幸にも私の親は遠く離れた東京にしかいないので、私を親代わりになって育ててくれた祖父母や叔父、叔母に対しては、いくら自分が子供だからといっても不敬な仕草の真似はできない。たとえ自分の本当の親であっても、これを箒で叩いていいものかどうかくらいの判断力を無くすことはないはずである。私は親から離れて田舎で育ったことを本当に幸せだと思う。
玖珠の方言について 玖珠地方では怒られることを方言で「おごらるる」といった。普通「おごる」という言葉は、成り上がりものが「奢る」とか、ごちそうを「おごる」とかいった風に使うが、ここでいう「おごらるる」は「おごってもらう」という意味とは全く関係がない。他人から注意を受けたり、怒鳴られたりすることをそう言うのである。店からものを買ってくる場合も、この辺りでは「かう」とは言わず「こうてくる」という言い方をする。また借りてくるこを「かってくる」というのだからややこしい。面倒臭いことを「よだきい」とか「よざきい」と言うし、恥ずかしいと言う場合は「耐(て)えがてえ」というふうな表現をする。寂しいは「とじぇねえ」である。
小学校などで、『方言を使わない!』、『標準語をつかうように!』といった指導が徹底的に行われた昭和二十年代から、方言は急速に若い人たちの間からは消えていったが、私のようにおじいちゃん、おばあちゃんに育てられた子供は、いつまでも方言の洪水の中にあった。
例えば、朝早く起きてみるとすでに暗いうちからおばあちゃんが竈(くど)の前で火起こしを吹いて御飯を炊いている。私がそばに寄ると、「もうおきたんか、こいさ、ざあねえさびいき、いっぺ着ちぬくうしちょれよ!(もう起きたの、今朝はすごく寒いからいっぱい着て暖かくしてなさいよ)」という。わたしは、「うんにゃ、そげえはさぶねえばい(いいえ、そんなに寒くはありません)」と答えるといった具合である。
そうは言っても、やはり早朝は冷えるので着物をいっぱい着てくると、こんどは「また、ばされえこつきたもんじゃのお(ずいぶんたくさん着てきたんだねえ)」という。私が子供の頃でも、すでにこれほどの方言を使う家庭は少なかったが、方言には標準語にない独特の暖かみがあって懐かしい。これを方言で表現すれば、「東京ぼりんことばつくらぶりや、なんぼかぬくもりがあっちぇから、けっかいいのオー」ということになる。
中学に上がると、それまで家が遠いため片草分校や相ノ迫分校に分かれて勉強していた子供たちも一緒になる。相ノ迫分校からきたO君などは、家に電気が来たのはつい最近のことと言っていたくらいで、詳しくは知らないが、どうも岩扇の裏の方のずい分遠い不便なところから通ってきていたらしかったから、学校の中で使う言葉ももっと激しい方言が多かった。私たちはよく、山奥から出てきた彼をまるで山猿をいじめるようにからかったが、あまりしつこくからかって怒らせたりすると、「こん餓鬼どうか、たんだもんいびりよると、でやさるっぞ!」と逆に脅されたりした。
彼は中学生にしてはずいぶん身体も大きかったから、家では重要な働き手になっていたらしく、私たちと比べても体格ががっしりしており、力もめっぽう強かったが、山育ちという劣等感からか遊ぶ時もなかなか一緒になってふざけるということをせずにいつも一人で静かにしていた。私たちは彼の中学生には不似合いなほどの大きな体格や、粗野な山育ちらしい逞しい風貌に対して一種の畏敬の念を持ちながら、「赤ゴリラ」というあだ名で呼んでいた。
「赤ゴリラ]というのは、そのころの人気雑誌「おもしろブツク」に連載されていた山川惣治の絵物語──少年王者」の中で、主人公の貞吾少年が苦心の揚げ句に退治する宿敵の赤ゴリラに似ていたからである。「少年王者」というのは一種の和製ターザン物語で、当時は別冊が発行されるほどの人気をあつめていた。
昭和二十五、六年ごろのアフリカにはまだかつて「暗黒大陸」といわれた頃の名残りがって、私たち少年はみんなアフリカに憧れてジャングルの奥地舞台となる読み物なら何でも熱中して読みふけったものである。カバのような頭をした「河馬男」とか、両手を挙げて「ウーラー ウーラー」とふしぎな声を出す「豹女」とか、スフィンクスのような仮面をかぶってライトニング・ジープという亀のような形の車に乗ってまわる「アメンホテップ」とかいう不思議な人間などが次々に登場して、アフリカのジャングルを舞台に主人公の真悟少年や美少女「すい子」をめぐって繰り広げられる壮大な絵物語は、あの頃の日本中の男の子たちを大いに興奮させたものである。
私は一度だけこの赤ゴリラに自慢の腕相撲を挑戦したことがある。特に左腕の方にはかなりの自信があった私だったが、実際にやってみると右も左も彼には全く歯がたたなかったので、それからはもう二度とやらなかった。それほどの力持ちだったのに、どういうわけかレスリングだけは私の方が強かった。最初の取っ組み合いでは大抵はいつも私が簡単に投げ飛ばされるのだが、そのあと粘って寝技に持ち込むと今度は私のしつこさが功を奏して、両足をつかったシザースで首を絞めたりすると、彼は大きな赤ら顔をさらに真っ赤にして「参った!」といった。
どうも彼には一度投げ飛ばした相手がまた起き上がって再度向かってくるという新しいレスリングのルールが理解できないらしく、「わがあ、いっぺん手をちいたじゃろうが、いっぺん、こけたつがなしいまたおくるんか!(お前はいちど手を着いたではないか、いちど転んだものがなぜまた起きるんだ!)」といって、どうしても納得いかない風だった。