ゲルニカの旗 2
私はもともと元気のよい子供だった。いつも仲間の中心にいるような子供だった。私が砂場にいこうと言うと、みんなどどっと私とともに移動し、私がアッカン探偵しようと言うと、またみんなでどどっとその遊びをはじめる。そんな子供だったから、一年生のときからずうっとクラス委員だった。私はなにかそれが自然に与えられた自分の仕事だと思い、溌剌としてその役割を担っていた。そんな私がある時期から、まるで百八十度転回したように、仲間からはじきだされ、一人ぼっちになり、自分のなかに引きこもり、一人うじうじと苦しむ暗い性格の子供に変ってしまったのだ。それはある出来事からだった。
私の町は、その頃まだ下水道の施設が完備されていなくて、し尿汲み取りのバキュームカーが町を走りまわっていた。私のクラスに洋子という女の子がいたが、彼女の父親がその仕事をしていた。そのためか、残酷な子供たちは、彼女をいつも臭い臭いと言っていじめる。私はそんな彼女をいつもかばっていた。あるときなど彼女を臭いと言った男の子を、私たちの輪のなかに連れてくると、
「あんた、どうして臭いなんて言うの。そんなこと言っていいと思うの」
と吊し上げて、その男の子を泣かしてしまったぐらいだった。仲間が悲しい思いをするのを黙ってみていられなかったのだ。一年生のときからクラス委員だった私のなかに、いじめなどないクラスをつくろうという使命感といったものが、深く根を張っていたからかもしれなかった。
三年と四年のときのクラス担任は宮田先生だった。四十代に入ったベテラン教師だった。力をもった教師だったのだろう。飛び箱を短期間で飛べるように指導してしまうとか、算数の授業はちょっとした権威になっていて、他の学校の先生たちがその授業を学びにやってきていた。
しかしそれは大人たちの評価で、子供たちの評判は決していいものでなかった。言葉づかいが下品だとか、すぐにカッとなるとか、興奮すると手当たり次第に物を投げつけてくるとか、いつも竹刀を手にしていてそれでばしばしと机を叩くとか、ファシストで暴君だとか。
しかし子供にとって先生は絶対的な存在だった。どんなに欠陥のある先生でも、好きにならなければならなかった。とくに私はクラス委員だった。クラス委員とはいわば先生の忠実な助手といった存在だったから、まず先生を尊敬し好きにならなければならなかった。
私は意識して宮田先生を好きになろう、好きになろうと自分に言い聞かせた。それは宮田先生が、どうしても好きになれなかったからだ。宮田先生は教師として不適格どころか、なにか人間として欠陥があるということを鋭くかぎつけていた。しかし先生とクラスの仲間たちとをつなぐ役割を担っている私は、痛ましいぐらいにこの先生を好きになろうと努力していたのだ。
しかし四年生の二学期に、とうとう私はその努力を投げ捨ててしまった。社会の時間だった。家庭内での父親や母親の役割、さらに父親や母親が働いているさまざまな職業の役割というテーマの授業だった。宮田先生は子供たちに父親や母親の職業をノートに書かせた。それを一人一人読み上げさせていった。いま振り返ってみると、その授業は子供たちのプライバシーのなかに踏み込んでいくことだった。それだけに教師には厳しい節度が必要だった。それなのに宮田先生は、
「なるほど、お前の母ちゃんは、夜、働いてんのか。夜の蝶っていうわけだな」
といった踏み込み方をするのだ。すると子供たちは、意味もわからず、夜の蝶、夜の蝶とはやし立てた。子供たちをそんなふうにはやし立てることが、なにかこの教師には活気あふれる授業をしていると錯覚しているところがあった。
「雄太の親父は、いま失業中なのか。どうりで雄太が不景気な顔していると思ったよ。百円どころか十円の金も入ってこねえからな。だけど給食費はちゃんともってこいよ。食い逃げはまずいよな。いくら失業中だってよ」
と言って子供たちの卑しい笑いを誘う。もちろんそのあとに「景気なんて天気と同じで、雨のち晴れだからな。日本経済も晴れたら、親父もまたどっかの会社に雇ってもらえるんだから、お前もがんばれよ」とつけ加える。しかし一度ぐさりと突き刺すような表現をしておいて、頑張れもないものだ。
私はだんだんいやな予感がしていた。私はなにかそこでいままで懸命に耐えていたものが、一気に切れてしまうのではないかという不安におびえた。とうとう洋子の番になった。宮田先生はいきなりこう言ったのだ。
「洋子の家は、英語でいえば、トイレクリーニング屋ってところかな。日本語でいえば便所屋だなあ。どうりで臭せえと思っていたけど、便所屋だからしょうがねえよな」
またみんながどっと笑った。私は心のなかで絶望の声を上げていた。なんという紹介の仕方なのだろうか。
「いいか、社会というものはな、洋子の親父のような職業があるから、ちゃんと機能していくんだ。便所屋がこなかったからどうなる。トイレがパンクするだろうが。パンクしたら町中臭くてかなわんわな。社会の底辺ではいろんな人間がいろんな仕事をしている。だから職業をあれが上だ、これが下だなんていう差別の目でみてはいかん。洋子の親父さんは、この町のもっとも臭いところを支えている尊敬すべき人なんだ。洋子がちょっとぐらい臭いからって、みんなもからかうんじゃねえよ」
私は立ち上がり、先生! と叫んでいた。
「どうして、洋子ちゃんが臭いんですか。そんなのは嘘です。洋子ちゃんの家にいったことがありますか。洋子ちゃんの家は、いつも花が一杯です。玄関にも、塀のところにも、一年中花を咲かせています。それは洋子ちゃんのお母さんが、毎日毎日丹念に育てているからです。洋子ちゃんのお母さんは、家の前を通る人が、ちょっとでも花を見て、幸福になってくれればうれしいわねって言ってました。洋子ちゃんの家は、そういう家です。先生は間違っていると思います。どんな職業も大切であり、どんな職業についても人は平等であるならば、もっと尊敬した説明の仕方をすべきです。便所屋だとか臭いだとかいう言い方は、先生こそ差別しているからではありませんか。私は先生にお願いしたいことがいっぱいあります」
そのとき、私の胸のなかにたまっていたものが、なにか爆発するように噴き出していったのだ。
「チョークを私たちに投げつけないで下さい。黒板消しも投げつけないで下さい。なにか気に入らないことがあると、すぐに怒鳴り散らして、竹刀でばんばん黒板を叩いたり、机を叩いたり、それとか、椅子とかをけとばします。私たちは怖くてしかたがありません。先生はどうしていつも竹刀を持っているんですか。どうして竹刀を持って授業するんですか。竹刀がなければ授業ができないんですか。すぐに愛の鞭だと言って、私たちを竹刀で叩きます。思いっきり叩かれて痣ができた子もいます。ほかの先生は竹刀なんて持っていません。どうして先生だけ竹刀を持っているんですか。このクラスは竹刀がなければ成り立たないんですか。それと、それと、私たちが一番いやなことがあります。それは、それは‥‥‥」
私はここで涙があふれだし、その涙が、それは言ってはならないことだと私を引き止めようとする。しかしそれもまた言わねばならないことなのだ。小学校に入学した子供たちは、父母に甘えるように先生に抱きついていく。先生もまた子供たちを抱き上げたり、抱きしめたりする。そんな濃密なスキンシップで深い心の交流が生まれるからだ。しかしそんな光景も二年生あたりになるとみられなくなる。しかし私たちのクラスでは、四年生になってもその光景が消えなかった。授業が終わっても、先生は職員室に戻らず、教室に残っている。そして膝の上に女の子たちを抱き上げているのだ。なにかそれはとてもいかがわしく、なにか許せない光景だと思っていたのだ。私はとうとうそのことを言った。
「先生は男の子たちが、このクラスのことをなんて言っているか知っていますか。このクラスは宮田のハーレムだって。私はこの言葉を知りませんでした。でもその言葉の意味がわかって、私はいやだなと思いました。このクラスで一番いやなことはそれです」
それまで忠実な、牧羊犬のような役割をしていた私の突然の豹変に、先生は一瞬呆然となっていたが、とどまることのない私の必死の抗議にあわてて、
「わかった、わかった、お前の言ってることは。お前の家は赤だからな。赤いものほど怖いもんねえからな。わかった。よくわかった。先生も改めることは改めるから、もうやめろ、もう座れ」
と言って、私の発言をそこで封じた。
《草の葉ライブラリー》版,高尾五郎著「ゲルニカの旗」