山里子ども風土記 第四章 帆足孝治
第四章 山里夜話
久大線の開通と豊後森駅
死んだ耕ちゃんのお母さんである花江おばさんは、おシンばあちゃんの養女で、近所の人達からは「花ちゃん」と呼ばれ親しまれていた。子供の頃はとても元気だったそうで、学校は一度も欠席したことがない健康優良児だったという。その花江おばさんが年頃になったころ、大分から湯ノ平までしか通っていなかった国鉄久大線(当時は大湯線といっていた)が全通し、豊後森には機関庫ができ、駅にはたくさんの職員が配置された。その駅員の中に、後にご主人となる稗田さんがいたのである。
昭和四年に久大線が全通して豊後森駅ができると、この山間の平和郷は目覚ましい変貌を遂げた。以前は別府や大分に出るには、参勤交代の時代と同様に山を越えて行かねばならなかったから、それまでは森町の文化は北の方、つまり豊前中津方面から入ってきていた。森町から内山、鹿倉を経て耶馬渓を抜け、山国川沿いに中津の海へ下る街道が遠く都の文化を運んできたのだったが、久大線が開通してからはわずか四時間たらずで大分や久留米へ行けるようになったので、駅周辺が急に発展してきたのである。
さて、若くて町中の噂になるほどの美男子だったという稗田さんは、森町の若い娘たちの憧れの的で、特に上の市部落の二人の娘が恋の鞘あてで激しく争っていたという。しかし、どんないきさつからか稗田さんはうちの花江おばさんと知り合い、いつしか二人は激しく愛し合うようになった。そして遂に花江おばさんが勝ち残って結婚したのである。
稗田さんは、森駅から大分の車掌区に転勤になったので、夫妻は大分に引っ越していったが、その後さらに日豊本線の「下ノ江」駅の駅長となって転勤、以来長く下ノ江に住んだ。かつては大勢の駅員がいて乗降客も多かった「下ノ江」駅は、昭和四〇年代には無人駅となってしまった。まだ駅が活気を呈していたころ、巨人軍の熱烈なファンだった稗田駅長が新しく配属されてきたばかりの若い駅員たちを並ばせて、「君はプロ野球ではどこを応援しているか?」と尋ね、「巨人ジャイアンツです」と答えれば0K、そうでないものは整列させておいて、「野球というものはだなア、東京六大学の優秀選手が大勢集まる巨人軍あってのものなんだよ!」とやっていたそうだ。
稗田さんは定年退職した後も、家で盆栽をいじりながら無人駅となった「下ノ江」駅の面倒を見続けた。庭で盆栽の手入れをしていると、台所から花江おばさんが「父ちゃん、特急が停まっちょるようにあるでエー」と叫ぶ。稗田さんが背伸びして見れば、なるほど家並みの向こうに青色の長い列車がホームからはみ出して停車しているのが見える。そんなとき稗田もと駅長は植木バサミをほうり出して下駄履きのまま駅に急行する。時どき信号の都合か、特急「富士」号や急行「高千穂」号などといった特急列車が、行き交う列車と待ち合わせしたりするためにこんな小さな駅にも臨時停車するのである。
すこしカーブしたホームに傾いて長いこと停車していた長編成の特急列車が、敬礼する下駄履きの稗田もと駅長に見守られながら無事に発車して行くと、稗田さんは駅から帰ってきてふたたび盆栽の手入れを続ける。彼は笑いながら花江おばさんによく言ったものである。「大阪や京都でも二、三分しか停まらない特急が、下ノ江駅には何と十五分以上も停まってくれるんだから、わが下ノ江駅も大したもんだ!」と。
夜光虫の不思議
岩清水が湧くような谷間にはいろんな生物がすんでいるが、玖珠の山間では昔は夜光虫など珍しくなかったのだろうか、私はそれをいちどだけ見たことがある。それは稗田の花江おばさんにまつわる忘れ得ぬ思い出の一つである。
家の屋敷内には、前の山から冷たい清水がこんこんと湧きでる水汲み場がある。井川と呼ばれ、昔は近所の人達はみんなこの井川の水を汲んで帰った。夕方涼しくなると、近所の子供たちはそれぞれバケツを担いで次から次へと水汲みにやってくるので、さしもの豊富な湧き水も溜まるのが間に合わないほど汲み出された。ご飯を炊くのにも、お風呂を沸かすのにも、みんなこの水をつかったからで、かつては遠く「辰ケ鼻」や西部落からもこの水をもらいにきたというほどの名水だった。
そのころ風呂炊きが子供だった私の夕方の仕事だったから、カギのついた天秤棒の前後に大きなバケツをぶら下げて、私は井川から六荷(十二杯)ないし七荷(十四杯)も水を運ばなければならなかった。水をいっぱいに入れたバケツはとても重く、井川から家の風呂場までは直線距離にしてほんの四、五十メートルほどしかなかったが、五回目、六回目くらいになると天秤棒が肩に食い込んで背が縮むほど痛かった。
風呂にいっぱい水を入れ、底板を浮かべて蓋をした後で、釜の下に小枝や柴を突っ込んでおいてから、まず枯れた杉の葉に火をつけて放り込む。火勢が強くなってきたらすこしづつ大きな薪をくべて、風呂炊きにかかるのである。
秋になって外が涼しくなってくると段々風呂の沸きぐあいが遅くなり、風呂炊きにも時間が掛かるようになる。そんな時、私はよく退屈しのぎに蛙を煮て遊んだ。池から蛙を捕まえてきて、缶詰の空き缶に水と一緒に入れて蓋をし、これを燃え盛る釜の下の火の脇に入れておくのである。やがて缶の中の水がだんだん温かくなり、最後には沸騰する。蛙は初めは大暴れするが、すぐに白くふやけて煮えてしまう。その残酷さが面白くて、私はたびたびそれをやった。煮えた蛙は異様な匂いがして気持ち悪く、私はいつも缶ごと裏の川に蹴とばしてしまうのだが、その堪らない後味の悪さは今でも思い出すとゾッとする。
さて、その井川からあふれた水は小さな小川となって下の川に流れ落ちているが、そこは夏も涼しいので、小さなカエルや糸トンボがよく集まって、いつも誰かがトマトや西瓜を冷やしていた。ずっと後になって、私が結婚して間もなく妻を連れて田舎に帰ったある夏の晩、私たちはたまたまそこへ帰って来ていた花江おばさんと暗くなった庭に出て、夕涼みしながら昔の思い出などを語り合っていた。私は何となく真っ暗になった井川の方へ歩いていきかけて、ふと足下の水の中に徼かに光るものを見つけた。それは、よほど気をつけて見ないと分からないほどの小さな発光体で、それを見つけたのは全くの偶然であった。
最初、私はガラス片か何かが水の中で星明りか何かに反射しているのかと想像した。しかし、その徼かな光は私が体の位置を動かしてみても変わらなかった。どうやら、それは夜光虫らしかった。
こんなところに夜光虫がいるという話は老人たちにも聞いたことがないし、私自身、夜光虫というものを見るのはそれが初めてだったから、私は興奮をおさえながら、かつ、その夜光虫を見失わないよう見つめながら、花江おばさんと妻を呼んだ。近寄ってきた花江おばさんも、こんなところで夜光虫を見るのは初めてだそうで、私たちは暗闇の中で徼かに金色の光を放つ、その神秘的な生き物をじっと見ていた。夜光虫がみつかったのは、良く耕ちゃんがいたずらをして遊んだ場所だったから、私には耕ちゃんが集まった私たちに何かを呼び掛けているような気がしたが、花江おばさんにはそのことは言わなかった。
私は、その夜光虫を家にいるみんなにも見せようと思って、周囲の泥と一緒にすくい取った。確かに間違いなく両手ですくい取った筈だったが、それまで微かな光を放っていた夜光虫はどう逃げたものか、もう二度と光りはしなかった。
その後、私は田舎へ帰るたびに井川の辺りを歩いてみるのだが、あの珍しくも美しく微かな光を放っていた夜光虫は、とうとう再び見ることはできなかった。
私は、後にも先にもそんな光りを見たのは初めてだったので、こんな清水がチョロチョロ流れる冷たい泥の中に、そのような夜光虫が生息するものかどうか知識がない。実際、その夜光虫らしき光を見たのも、私と花江おばさん、それに私の妻の三人だけだったから、今では他の誰にも信じて貰いようがないのである。
人魂を見た経験
夜光虫のことは不思議な経験だったが、不思議なことといえば、子供の頃ここでみた不思議な火の玉のことも私には説明がつかない。
当時、井川のすぐ上の畑の脇には釜場と呼ばれる小屋があった。それはうちの屋敷内に建てられた部落の共同炊事場で、中には大きな鍋がはめ込まれたおクドがあり、ここでは味噌をつく時などに部落のおばさんたちが共同で大量の豆を煮たものである。
そのころはどのうちにも味噌部屋というのがあり、大きな樽や瓶がいっぱいしまってあった。薄暗い味噌部屋のかすかな湿気と味噌や醤油や漬物などの混じった匂いは、それぞれその家の独特のものがあって、家の主といわれるような大きな青大将が隠れ住んでいたりした。もちろん、どの家でも味噌は自家製だったから、農作業が一段落して味噌をつく時期になると、部落ではこの釜場を使って交替で助け合いながら大量の大豆を煮て、これを臼でついた。だから釜場はその豆を煮るおかみさんたちで大賑わいだった。子供たちもその作業を見に行って、煮豆や豆をついたアッコのような味噌タンゴをもらって食べたりした。共同作業の後、この巨大鍋で炊いた大量のお焦げ御飯をみんなで食べるのは、部落の子供たちにはなによりの楽しみだった。
この釜場は家からみると左手の、前の山が落ち迫った場所にあり、釜場の前を通って井川まで続く狭い道があった。井川の先はもう森川に落ち込んでおり、川に入るのには、みんなここから降りていったし、川から上がる際もここで足を洗って履物を履いて帰ったものである。
その頃は今と違ってテレビはもちろんなかったし、ラジオのある家も少なかったので夜になるとみんな早く寝てしまって、夜に外を出歩く人など全くなかった。外には街灯もなかったので、暗くなってからは出歩くこと自体が危険でもあった。したがって夜の「上の市」部落は本当に真っ暗になって、外は実際、平安時代の昔と大して変わらない魑魅魍魎の世界であった。
激しい暴風雨の台風が去って間もないある蒸し暑い晩のこと、祖父母のあとから風呂に入った私は、湯卜がりの体を冷やそうと家の窓から真っ暗になった表を見ていた。そしてその時、不思議なものを見たのである。
ぼんやり外を見ていた私は、部落の入り口である国道の方から、ちょうど提灯くらいの大きさの丸い明りがこの狭い道を入ってきて、真っ暗な家の前の小道を右の方から左のほうへ通過して行くのを見た。ちょうど誰れかが提灯を下げて自転車に乗っているかのようなそんな動きかただったが、それはただ明りだけで、自転車も人も見えないのが不思議だった。そして何よりも、この奧には人家もないし道もないので、もし、それが自転車に乗った人だったらこれより先に行くことは危険でもあった。
こんな夜更けにこんな狹い道を提灯をもって入ってくるなんて、ずいぶん気味の悪いことをする人もいるものだ、と思いながら見ていると、その明りは急に赤味を増しながら大きくなり、宙に浮いていくようにどんどん先へ進んで行って、とうとう釜場のかげに入ってしまった。その向こうはもう井川で、それ以上行くと川に落ちてしまう。川は、前日までの台風でまだ完全には水が引いておらず、近づくのも危険なほどだった。釜場の小屋は小さいので、自転車なら当然すぐその向こうに姿をあらわすだろうと思ったが、どうしたことか、その明りは釜場の陰に消えてしまったまま、とうとう出てこなかった。
不思議なことがあるものと訝しく思いながらも、その時はまだ、それが「火の玉」だとか「ひとだま」だとかというふうには考えなかったので、私はすでに布団に入っていた祖母を呼び起こし、「今、誰かが提灯を下げてあっちへ走って行ったようだ!」といった。しぶしぶ起きだして来た祖母は、「そんなバカなことがあるものか……」といって全く相手にしてくれなかったが、私は何としても納得できなかったので、それからもしばらくは、釜場の方を見守っていた。
時間が経つにつれて、[ひょっとしたら、あれは人魂だったのでは]と思いつくと、私は段々怖くなってきた。前々日のあらしの晩に、私の家のすぐ上に住む少しあたまのおかしい女の人が橋の上から飛び込んで死んだが、その魂が帰ってきたのかもしれなかった。
私はその女の人をよく知らなかったが、あれが本当に人魂だったら、どうして私だけに見えたのか不思議である。その晩、布団に入ってからも、確かにそれを見た私は興奮してなかなか寝付かれなかった。
手が出る学校の便所
人魂のことをこの辺りでは「火の玉」と呼ぶ。昔は、火の玉か狐火かよく分からない怪しい火はよく見られたらしいが、私か小学校三年生の時、小学校のすぐ上の大きな農家が火事で焼けたことがあった。
その火事ではお婆さんが焼け死んだが、何でも家族に冷たく扱われていた嫌がらせに火をつけたのが火事の原因だったらしく、あとで何度もそのお婆さんの火の玉が出たという話を聞いた。この話は「嘘か真か」という題で大分合同新聞にも掲載されたが、それでなくても、江戸時代には墓地だった場所に建っているといわれた森小学校の東校舎便所にも不思議な話がいろいろあって、私は放課後の学校がおそろしかった。授業が終わると、当番の生徒たちは手分けして教室や便所の掃除をしてから帰ったが、なかでも校舎の東側にあった三、四年生用の便所掃除は恐ろしくてその番が回ってくるのが嫌でならなかった。というのは、この便所にはしばしば天井から手が出るという噂があったからである。
放課後、生徒達もほとんどが下校してしまうと、ガランとした大きな校舎は急に寂しくなる。その便所は長い廊下の東端にあり、掃除をするためには手洗い場からバケツで水を汲んでくるのだが、その水を汲みに、誰れもいない手洗い場に行くのはいやだったし、誰かが水汲みに行っている間、一人で待っているのはもっと嫌だった。特に入り口から三番目の便所は釘づけされて使用不能になっていたから、この便所の扉を拭いたりする時は何か異変があったらただちに逃げ出せるように、恐る恐る作業したものである。
以前に五年生の女子生徒が入っている時、突然天井から人の手が出て、その女生徒の頭を撫でたことがあった。その女生徒は仰天して飛び出してきたので、私たちの担任だった男の先生が呼ばれてその便所を調べに行った。先生は私たちみんながいるところで勇敢にも天井にはい上がったりして調べたが、ついに怪しい証拠は見出せなかった。その便所は、その前にも手が出るという噂があったので、それ以来だれも使わなくなり、ついに学校側もドアに釘を打って使用できないようにしてしまった。しかし、釘づけの便所と言うのは、学校がその怪談を認めたことの証明でもあり、私たちには以前にも増してなお恐ろしいところとなった。
私はいちど授業中に急におなかが痛くなって、どうしても我慢ができなくなってこの便所に行ったことがある。この便所は怖いので入り口に一番近いドアをあけて入ったが、しばらくして奥の方で誰かが唸っているような声がするのに気がついた。初めは、だれか腹痛でも起こした生徒が、ウンコをしているのだろうと思っていたが、どうもその唸り声は注意して聞くと何か言ってるように聞こえる。さア、大変だ。私は怖さに我慢できなくなって、ズボンを引き上げるのももどかしく便所を飛び出したが、余りあわてたのでズボンに汚物がついてしまった。教室の前まで戻った私はどうしてもそれが気になり、そのまま教室に入る勇気はなかったので授業が終るまで廊下で待っていたが、友達が出てきて私の所へくるなり、みんなで「臭せエ、臭せエ」と言ったので、そのまま勉強道具は学校においたまま家にとんで逃げ帰った。
猪口山のトックリ蛇
私が三才になったとき東京で死んだ母の故郷は、大分県日田郡五馬(いつま)村(現在は天瀬町)の出口(いでぐち)という山間の部落だが、その姉、つまり私にとっての伯母が裏耶馬渓の守実(もりざね)というところの医者に嫁いでいた。中津から山国川沿いに通じていた耶馬渓鉄道という軽便鉄道に乗って終点が守実で、豊後森町からそこへ行くには大分交通のバスで耶馬渓を通って柿坂という所まで行き、そこから軽便に乗り換えて行かなければならない、たいそう山の中だった。
私は、幼いころ姉に連れられて良くこの伯母を訪ねたが、何よりの楽しみは軽便鉄道のガソリンカーに乗ることだった。そのころ大分交通の耶馬渓鉄道はドイツ製かイギリス製か知らないが、小さな真っ黒い蒸気機関車が三輛か四輛のバルコニーつきの客車を引っ張っていたが、運がいいと煙の出ないガソリンカーという自走客車に乗り合わせることができた。ガソリンカーはスピードも加速も速いうえ、なによりも煙が出ないので、乗客からも沿線の住民からも歓迎されていた。
大分交通は、日豊本線の豊前善光寺から円座まで豊州(ほうしゅう)鉄道を、また杵築から国東(くにざき)まで軽便鉄道も運営していたが、耶馬渓鉄道はそれらに比べると機関車も客車も大きかったし、なによりも客車には飾りのついたバルコニーがついていたから、このバルコニーから山国川の清流や窓岩という穴の開いた岩山の景色などを眺められるのが楽しかった。中津から入って山国川に沿って上がっていくと、羅漢寺の峨々たる岩山や、山国川に洞窟の影を映す「青の洞門」の景勝が楽しめた。
さて、柿坂から玖珠へ帰るとき、バスに乗って耶馬渓をさかのぼり鹿倉のトンネルを抜けて森町に入ると、やがて左側に大きな亀岩が見える。まるで誰かが亀に似せて岩を積み重ねたような小さな岩山である。そしてさらにもう少しいくと、右側に猪口山(ちょこやま)が見えてくる。ちょっと傾いでいるがメサ状の独立した岩山で、その麓の草原が美しいのでよく春秋には学校から遠足に行った。
バス道から脇に入ってなだらかな草原を登っていくと、頂上近くは険しい岩場になる。この崖の崩れたところを縫って上へ登ると頂上は狭いが平らな草原になっており、南には角埋山や大岩扇や万年山が、北には遠く山並みを通して豊前の八面山までが望める。ちょうどお猪口(チョコ)を伏せたような山容から猪口山と呼ばれている。中津方面から森へ帰ってくる人は、耶馬渓の深い谷を抜けて、急に開けた景色の中にこの猪口山の姿を見ると、やっと豊後森に帰ってきたなあと安堵する。それくらい森の人々には親しまれた山である。
昔は、この猪口山にはトックリ蛇がいるといわれていたので、遠足や登山でやってくる人はその毒蛇に噛まれないように気をつけて歩いたものだが、私は平和館で見た映画「ジャングルブック」のあの恐ろしい毒蛇コブラを見て以来、件(くだん)のトックリ蛇というのはインドかアフリカに棲むコブラに違いないと考えた。それにしても昔の田舎の人達はコブラなどという恐ろしい形の毒蛇がいることは知らなかった筈なのに、どうしてトックリ蛇などという言葉が生まれたのだろうかと不思議に思う。きっとだれか最初にその蛇を見た人が、その姿がトックリに似ていたからその名をつけたのだろうが、たしかに映画などで見るコブラは興奮すると頭の部分が横に広がってトックリのように見えないこともない。奥山の方から通学していた仲良しの陶山くんなどは、猪口山でそのトックリ蛇を見たことがあると言っていた。
東京の大学生との遠足
豊後森町から中津へ出るもう一つの近道は、安心院(あじむ)越えのルートである。私が小学校四年生の夏休み、姉の嫁ぎ先である宇佐の家から早稲田に入りたての鈍牛さんという大学生が遊びにきたことがある。「ドンギュウ」さんとは変な名前だと思ったが、それは文学好きだった彼のペンネームで、彼は私の兄と同級だったので、兄が帰省しているのを知って訪ねてきたのだった。
その鈍牛さんが田舎の家を辞する時、私に「もしお姉ちゃんに会いたいのだったら、私が連れて行ってあげてもいい」と言い出した。彼が言うには、豊前善光寺までの全行程を歩いて行くというのである。それで私はまだ夏休みも長いことでもあり、おじいちゃんに許しを得て連れて行ってもらうことにした。
その日はいい天気で、朝早くおニギリを作ってもらい、八時すぎに出発した。兄が椎屋の滝(しやのたき)まで一緒に行くことになり、私たちは森町を抜けて大岩扇を右に見ながら角埋山の麓を回ってはるか森川の上流を目指した。鬼丸から内帆足(うつばし)の清水瀑園入り口を通って大岩扇の裏に回り、「片草分教場」の下を抜け、二時間ほどで末松の山道に入った。これから宇戸を経て豊前善光寺までは約八里の道のりである。空は抜けるように青く、人も車も通らない山道はツクツク法師やミンミン蝉の大合唱である。鈍牛さんはリュックサックと水筒を背負い、私にいろいろな話をしながら先になり、後になったりしながら地図を頼りに北へ北へと歩いた。
彼の得意は日露戦争の「旅順開城の歌」とシューベルトの「冬の旅」で、いつも「敵の将軍ステッセル、乃木大将と会見の、ところはいずこ水師営……」とか、「ブナの森の葉がくれに、松明の明かり赤く照らしつつ……」などと、お経のような歌を大声で歌いながら歩いた。
私は頭に白い帽子を被り、手には途中で拾った棒を鉄砲のように担いで、あたかも「少年倶楽部」や「譚海」などの雑誌で読んだアフリカ探検の主人公になったような気分で歩き続けた。子供の想像力は、途中、放し飼いの牛でも見れば、これをすぐ野牛やカバに仕立ててしまうのだった。
歩き疲れて水の出ている所で一休みすると、鈍牛さんはリュックサックから、どこで仕入れたのか、当時はまだこの辺りでは珍しかったバナナを取り出して半分を私にくれながら、岩波文庫のハイネの詩集を取り出してその一節を読んでくれたりした。私はそんな詩の意味も分からなかったが、そんな時の鈍牛さんはずいぶん大人っぽく見え、さすがに東京の大学生は難しい本を読むものだと感心し、何だか彼が輝いているように見えた。
落差八六メートルの堂々たる西椎屋(にししや)の滝を滝壺に降りて、川を渡ったところで昼食を採り、そこから引き返すという兄と別れて、右手遠くに東椎屋の滝を眺めながら私たちは恵良という村に向かった。豊後森の隣りにある同名の村とは遥かに離れているが、こんな所にも恵良があるとは驚きだった。もう日出生台はすぐ近い。ここは昔、薩摩の軍勢が豊後に攻め入って大友宗鱗と戦った時、島津軍は玖珠まで攻め込んで洪樟寺城を陥落させたが、この恵良にいた帆足の先祖が奮戦してこれを撃退、角牟礼城を救ったという伝説が残っているところである。
途中、寄り道をしながらの旅だったので、山を下って安心院(あじむ)の円座の町に着いたのはもう四時を回ってからだった。本当なら円座などには寄らないでもっと北側の道を遖って四日市の町へ出る筈だったのだが、朝八時からずっと歩いている私たちは、すでに相当疲れていたので、何となく円座へ下りてきたのだった。
円座は豊前善光寺から出る豊州線という軽便鉄道の終点で、町とはいっても実際には小さな集落でしかなかったが、家並みの向こうから軽便鉄道の蒸気機関車の甲高い汽笛が響いたりして、山中を一日歩き通しだった私たちにはずいぶん大きな町に着いたような感じがした。私は歩いている間じゅう、疲れないようにずっと頭にアフリカ探検の夢を描きながら歩いたから、鈍牛さんと峠の上からはるか下に円座の町を見た時は、アフリカ探検でリビングストン博士を捜しに奥地を何か月も探検したスタンレー大佐もウジジの町に辿り着いた時はきっとこんな気持ちだっただろうと想像していた。
私たちは結局、この円座までで徒歩をあきらめ、軽便鉄道に乗って四日市へ出ることにしたが、次の汽車が出るまでには一時間以上の時間があったので、鉄橋の下の青々と水をたたえた川でひと泳ぎして汗を流した。軽便で豊前四日市に着いた時は外はもう暗くなっていたが、そこからさらにまた一里ほど歩いて姉の嫁ぎ先である荒木部落の家についたのはその晩の八時を過ぎてからだった。
海軍宇佐航空隊
荒木部落は、あの宇佐神宮に近い大分県宇佐郡八幡村の乙女(おとめ)というところにあり、ここには阿川弘之の小説[雲の墓標]で知られた海軍宇佐航空隊が展開していた柳が浦飛行場があった。乙女というのは、あの卑弥呼のことを指しているのだろうが、宇佐神宮の山自体が卑弥呼の墓と言われているところからすれば、意味深な地名である。
嫁いで間もない姉を訪ねて私が兄と一緒に初めて宇佐の家に行ったのは、たしか小学校二年生の春だった。柳が浦飛行場はもともとは訓練基地だったようだが、終戦直前には双発の新鋭陸上攻撃機「銀河」が配備されていて、ここから特別攻撃隊が出撃して行ったところである。
姉が嫁いだ家はこの辺りの大地主だったが、戦争中に飛行場が拡張される際に広い田圃の大部分をとられてしまったため、戦後の食料不足の時代にはずいぶん苦労したようである。私が訪ねたころは家屋敷ばかり大きくて、周囲の崩れかけた土塀の修理もできない貧乏のどん底にあえいでいた。
そのころでも姉の家は、夕方になると大きな門を閉めていたから、暗くなってやっと辿り着いた私たちは、石垣をよじ登って土塀の破れた所を乗り越えて屋敷のなかに潜り込んだ。そうでもしないと閉まった門の外からでは、少々の大声で「今晩は! 今晩は!」と叫んだくらいでは到底家人には聞こえなかったろう。
この土塀が破れていたのには理由がある。まだ宇佐航空隊が盛んに活躍していた頃のある日、爆弾を積んで出撃した攻撃機が、故障したのかそれとも目標の敵艦を見失ったからなのか途中から引き返してきたことがあった。そのころ姉の家のすぐ裏は道路を隔てた向こうが田圃になっており、そこには飛行機を入れる掩体壕につづく誘導路があった。多分、その引き返してきた攻撃機を掩体壕に入れるためだったのだろう、まだプロペラが回っている飛行機の回りに若い海軍の地上作業員たちがさっと集まって来て飛行機を誘導し始めた。爆弾が爆発したのはそのときだった。ものすごい爆風は付近にいた地上作業員たちを吹き飛ばし、田圃と道路を隔てた姉の家の土塀までを壊してしまったのである。
あとになって聞いたはなしでは、そのとき家の中ではお婆さんが掃除をしていたそうだが、その爆風で家の戸という戸、襖という襖、障子という障子は飛行場側から反対側の庭まで全部外れてしまい、お婆さんは表玄関まで吹き飛ばされて軽い怪我をしたそうである。
なにしろ爆弾というのは一発で軍艦を沈めてしまうほどの威力を持っているから、それが近くで爆発したのではたまらない。まるで庄屋か代官屋敷のような大きな屋敷に、瓦を載せた土塀を巡らせていた姉の家は、この事故で自慢の土塀が崩れてしまい、さらに戦後の貧乏で、わずかな間にお化け屋敷もかくやとばかりに痛み、落ちぶれてしまった。
終戦直後は、わずかな米は収穫してもほとんど供出にとられ、家でたべるのは麦ばかりという状態だったから、その夜、私たちは遅い晩御飯をたべさせられたが、姉の家のごはんはほとんど麦ばかりで、白米しか食べたことがなかった私は、こんなまずい御飯を食べさせられるのなら、あしたにでも玖珠に帰ろうと腹の中で思ったほどである。
姉は、おなかが空いている筈の私があまり御飯を食べないので、すぐそのことに気がついた風だった。最初は「卵でもかけて食べたら?」などと言っていたが、それでも私が食べないのをみて、せっかく遠くから弟が尋ねて来たというのに満足な御飯も出せないのがよほど辛かったのだろう、急に黙ってしまったので顔を見たら、彼女は目を赤くして涙をいっぱい溜めていた。私も悪いことをしたと思うと胸が詰まってしまい、麦ばかりの真っ黒いごはんの入った茶碗をもったまま、下を向いておなじように涙ぐむのだった。
幸か不幸か姉の家は小麦をたくさん収穫していたので、次の日の朝、私はその小麦を袋に詰めて、森山とよばれる隣部落の小さな店に持って行った。小麦一升を持って行けば滋養強化パンかジャム入りパン七つと交換してくれることを姉に教わったからである。あの恐ろしい黒い麦めしに比べたら、ジャム入りパンはまるでお菓子のようにおいしかった。
森山部落を右へ行けば飛行場の滑走路に続く広い道路に出る。乙女には双発の夜間爆撃機「銀河」がそっくり入る大きな半月型の掩体壕があり、いつの頃からか人が住み着いていた。一トン爆弾が直撃しても大丈夫といわれた頑丈なコンクリートの掩体壕の中は、夏涼しく冬暖かだったので、住宅としてはかなり快適だったのではないだろうか。
『銀河』の防弾ガラス
当時この飛行場には、放置されていた旧海軍の飛行機の残骸を始末する進駐軍の兵隊が日中だけ駐在していたが、私たちはアメリカ兵にみつからないように隠れながら、飛行機の残骸に近づいては、付近に散らばっている機関砲の弾丸や防弾ガラスの破片などを拾って持ち帰った。すでに危険な火薬入りの薬莢や曳光弾は処分されてしまって手に入らなかったが、二〇ミリ徹甲弾や模擬弾はその辺りにいっぱい散乱していた。赤銅色の六・七ミリ弾はざくざく散乱していたので、田舎の友達に持って帰ればいいお上産だった。
夕方になって進駐軍がいなくなると、私は義兄とふたたび飛行場に繰り出し、今度は飛行機の防弾ガラスを盗りに行った。
飛行機の防弾ガラスというのは、実際にはガラスではなく、むしろセルロイドか樹脂のようなものでつくった透明な薄板を幾層にも重ね合わせ、割れ難くしたものである。なかなか割れにくいかわりに火をつけるとパチパチと良く燃えた。その燃える際にいい匂いがするので別名「匂いガラス」とも呼ばれて、子供たちのいい遊び道具となっていた。マッチで火をつけても燃えだすくらいだったから、戦闘で敵弾が命中して飛行機が燃えだしたら、それこそ窓ガラスまで燃えてしまったことだろう。
海軍が敗戦でこの辺りに放棄した飛行機の中には、ほとんど新品同様の機体も何機かあって、私は義兄の自転車にのせてもらって近くの掩体壕の中に放置された真新しい双発陸上攻撃機を見にいったことがある。その飛行機は全くの新品で、止めた自転車の荷台に立ち上がって胴体の窓から機内を覗くと、緑色のビロードの柔らかそうな椅子が見え、誰か偉い人が乗っていた飛行機のようだった。義兄は、大胆にもその飛行機の窓ガラスを割って持ち帰ろうと考えていたらしく、持って来た石で何度も強く叩いたが、その度に飛行機全体が大きく響くばかりで、窓ガラスはビクともしなかった。私は、進駐軍がこの音を聞きつけてジープでやって来はしないかと気が気ではなかった。
私は、その太い胴体、二つのエンジンから、これは絵本で見た「海軍新鋭陸上攻撃機」という飛行機に違いないと思ったから、ずっとそれが一式陸上攻撃鴾だと信じ込んでいたが、資料によれば戦争末期に「銀河」という双発陸上爆撃機が配備されていたとあり、一式陸上攻撃機がいたという記録はないので、きっとあれは「銀河」だったのだろう。
進駐軍は、日本軍が残していった飛行機の残骸を焼いて片付けたが、どうやら宇佐航空隊の後をアメリカ軍の基地として使おうという考えはなかったようで、残された日本軍の飛行機の中から比較的状態のいいものだけを選んでアメリカに運ぼうとしているようだった。福岡県側の築城(ついき)というところにもう一つ飛行場があって、どうやらそちらの方を基地として接収するらしいという噂があった。
宇佐航空隊跡は米軍の基地にはならなかったが、それはそれで、戦後、役に立たなくなった飛行場は後始末が大変だった。もとの水田に戻すためには、付近の住民が力をあわせて整地し直さねばならなかったが、砂利をセメントで固めた堅い誘導路や滑走路をツルハシやスコップで掘り起こすのは並大抵の苦労ではなかったはずである。滑走路を掘り起こした際にできるブロックは捨てるのにも苦労したので、周辺の農家ではそれを積み上げて塀を築づいたりしていた。
もともと水田だった所を埋め立てて造成した飛行場だったから、いったん使わなくなると荒廃も甚だしく、あたり一面、見渡す限りの草っ原になってしまった。私は夏休みの間、ここで毎日のように馬に乗って遊んだ。姉の家には立派な馬具があったから、義兄に頼んでそれを農耕用に飼っていた馬につけてもらい、飛行場に連れて行って、人が見ていないとそれに乗って力いっぱい疾走させるのである。農耕馬は乱暴になるので走らせてはいけないと言われていたが、私は飛行場に着くまでは近所の人に見られているおそれがあるためトロットでゆっくり走らせて、人目のない飛行場に出ると、早速、馬の腹を蹴って一足とびで走らせるのだった。痔になりそうなトロットに比べると、一足とびの方が遥かに乗り心地はよかったし、何よりも気分が壮快で、馬も喜んで走るようだった。
私は馬に乗るのが何より好きだったから、姉は遠く豊前善光寺の駅近くの郵便局や、乙女部落の塩田へ馬でお使いに行かせてくれた。休みに皆んなで潮干狩りに行くときも、私だけ馬に乗っていくのを許してくれた。
みんなが潮干狩りをしている間、私は馬で海に乗り入れ、背中に乗ったまま海水浴を楽しんだ。義兄はいつも私があまり深い所まで入って行くので心配してついてきたが、それでも、そんな元気のいい私が可愛くてたまらなかったのだろう。家で賑やかな夕食を食べるときなど、「馬に乗って泳ぐ子供なんて聞いたことがないなア、あれではまるで那須与一だ!」と囃し立てるので、私はますます得意になった。
普段あまり走ることなどなかった馬を私があまり走らせたからだろうか、夏休みが終わって田舎に帰った私のもとに姉から手紙が届いた。あの一緒に走った馬が急に死んでしまったというのである。私がまた姉の家に行って乗るのを楽しみにしていた愛馬だったから、姉は私に滅多に書いたこともない手紙を寄越したのだろう。