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戦う教師  日教組

 
 
 石をさらに深く孤立させたのは、教師たちの組合づくりだった。「教師たちの経済的、社会的、政治的地位を確立し、教育の民主化と研究の自由の獲得、平和と自由を愛する民主国家の建設」を目指して日教組が誕生した。この運動は大きく広がり、石の勤務する学校の教師たちもその活動に取り込まれていく。やがて朝鮮動乱が起こると、「教え子たちに再び戦場に送るな」というスローガンを掲げ、全国の一斉の学力テストが施策されると、子供たちを点数で評価するなという反対闘争が組まれていく。それらの活動はなんだか石の考える教育と軌を一つにしているように見える。「教え子たちを戦場に送るな」などというスローガンは、石が国家と対峙したときのフレーズだった。学力テストが日本の教育を荒廃させていくというスローガンもまた石の主張と呼応するところだった。しかしフレーズやスローガンが同じでも、その内部の声や精神はまるで違っていた。石は日教組の活動とは本質的に政治活動だとみなしていたのだ。
 
 組織の背後には政党があり、その政党の背後にはソビエト連邦や中国共産党があった。日教組の活動とは、社会主義であり、共産主義であり、マルクス主義で、平等主義であり、官僚主義であり、生産主義であり、精算主義であり、権力主義であり、独占主義であり、統制主義であり、配分主義だった。石は文部省から繰り出される教育政策にしばしば抵抗していたが、日教組とその活動に対する反発と抵抗はそれ以上で、それはほとんど生理的な嫌悪感というものだった。人間は自由であり、それぞれがそれぞれの思想を抱くのは自然のことだった。そのことは石が生命を賭けて国家に問いかけたことだった。だから社会主義や共産主義やマルクス主義を信奉する教師がいたって、石には許容できることだった。石が嫌悪するばかりに許容できないのが、彼らが徒党を組んでその時々に上部団体から繰り出されるスローガンを胸に縫いつけ政治的活動をはじめることだった。彼の学校では七割近い教師たちが組合員だったのだ。
 
 教師たちは授業のなかで、彼の思想を縫いこんでいくものなのだ。国語や、社会や、道徳といった科目はもちろん、思想などというものが入り込む余地のない科目にみえる理科だって、数学だって、音楽だって、美術だって、その授業のなかに、教師たちの思想が色濃く投影されているものなのだ。子供たちは単純ではない。教師たちに簡単に感化される存在ではない。むしろ反発することのほうが多いのだ。しかし子供たちはまた単純だった。すぐに感化されていく存在でもあった。教師たちが熱く投じる思想にたちまち感化されて、彼らもまた熱いマルクス主義者、共産主義者、社会主義者になっていく。日教組はその細胞を、日本を覆い尽くさんばかりに、拡大させ増殖させていく。彼らの政治的野望が実現する日が刻々と迫っている。このままでは日本は確実に社会主義国家、共産主義国家になっていくだろう。石の日教組の対する生理的な嫌悪感は、日本の教育が危ない、日本が危ないという危機感でもあったのである。
 
 ついに立ち上がる日がきたというべきだろうか。とにかく国家と対決した人間だった。いまでも土地の人々に語り継がれている二宮尊徳の銅像撤去騒動が起こるのだ。例の薪の束を背に負い、読書しながら歩いている少年尊徳の銅像である。かつてこの銅像は、どんな僻村にある学校にも立っていたものである。それはおそらく戦前の教育政策の一環だったのだろう。二宮尊徳は、戦前の修身教育で必ず取り組む教材であり、教育勅語の一つの精神的なシンボルであったからだ。しかしすべての思想がひっくり返ると、この銅像は一転して国民を戦争に駆り立てていった軍国主義教育の悪のシンボルとされてしまった。そして新しき思想が津波のように古き物を打ち壊すかのように、その銅像もまた学校から撤去されていくのだ。
 
 石の学校には戦前に設置されたまま、いまでもその銅像は日の丸を掲げるポールのわきに立っていた。全校生徒が毎日の朝礼で対面する最上の場所である。ある日の朝礼で、校長がこの銅像を指さして、「どんなに苦しいときでも勉強しなさい、それがみんなの仕事なのだということをこの銅像は語っている」といった道徳的な訓話をした。この校長の訓話が職員会議で取り上げられると、会議は火が投げ込まれたかのように燃え上がった。そして戦前の教育の聖典であった教育勅語の象徴、軍国主義教育が残した遺物を、民主教育に敵対する悪のシンボルを、すみやかに撤去せよというシュプレヒコールが沸き起こるばかりになっていった。
 
 まるで渇いた倒木に火がつけられたかのように一種異様なばかりの職員会議になったのは、十分な動機というものがあったのである。赴任してきた校長がなかなか攻撃的な人物で、おまけに日教組は学校教育をゆがめている最大の癌だという信条をうちに秘めていた。そんな校長が、教師たちの七割が日教組組合員である学校に赴任してきたのだから、問題が起こらないわけはなかった。頻繁に教室をのぞいては教師たちの授業をチェックする。問題ありとチェックされた教師たちに授業の改革を迫る。ときには校長室に呼びこんで激しく叱責したりするから、若い教師など泣き出すほどだった。そんな校長と教師たちの軋轢が、限界的に達していたということでもあったのだ。


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