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チャタレイ夫人の恋人 D・H・ロレンス 猥褻文書として裁かれた 12 章 その2

あんり3


猥褻として指弾された「チャタレイ夫人の恋人」の箇所は、単行本五十ページにも及ぶ膨大な量だが、その全文をあますところなく英文と、伊藤訳、羽矢訳を打ち込んでいく。このページはさまざまな読まれた方をするだろう。猥褻文書とはなにかという法律的探究、作家を志す人には性の描写を(女性の読者からはロレンスの性描写は女性の感性で書かれていると)、あるいは英語学習には最上のテキストになる。それにしても訳者によって全く違った小説になってしまうことが、打ち込まれるテキストによってわかるだろう。翻訳者の力量によって、名作が駄作になるという恐ろしい現象も現れる。いま日本の文芸の世界にはそんな嵐が吹いている。

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Lady Chatterley's Lover
D.H.Lawrence


 Cold and derisive her queer female mind stood apart. And, though she lay perfectly still, her instinct was to heave her loins and throw the man out, escape his ugly grip and the butting over riding of his absurd haunches. His body was a foolish, impudent, imperfect thing, a little disgusting in its unfinished clumsiness. For surely a complete evolution would eliminate this performance, this "function."
 And yet, when he had finished, soon over, and lay very, very still, receding into a silence and a strange motionless distance far, farther than the horizon of her awareness, her heart began to weep. She could feel him ebbing away, ebbing away, leaving her there like a stone on a shore. He was withdrawing. His spirit was leaving her. He knew.


(羽矢謙一訳)
 ひややかに、冷笑的に、コニーの奇妙なこころは離れて立っていて、コニーは完全に静かによこたわっていたけれども、コニーの衝動は自分の腰をもちあげ、男をほうりだし、男のみにくい手の力と、上にまたがった男の奇妙なおしりの動きをのがれようとした。男のからだはばかげていて、ごうまんで、不完全なものであった。そのぶざまさのなかには、いささかいやけさえ感じさせるのだった。完全な進化がおこれば、まちがいなく、こんな行為は、こんな「機能」はとりのぞかれることであろう。
 それでも、男が、すぐに終わって、すんでしまい、まったく静かに身をよこたえ、静寂と、遠く、コニーの意識の地平のずっとむこうに、ある未知の、ひっそりとしたへだたりのなかにひきしりぞいていったとき、コニーのこころは泣きはじめた。コニーは、男が自分を浜辺の石のようにおきざりにしながら、ひきしりぞいていまのを感じることができた。このひとはしりぞいていき、このひとの精神もおきざりにしようとしているんだわ。このひとも気がついているんだわ。


(伊藤整訳)
 彼女のふしぎな女性の心は冷たく遊離して立ち退いていた。そして彼女は完全に静かに横たわっていたけれども、腰をあげて男を抛り出し、醜い抱擁や滑稽な突きかかってくる尻の動きから逃れようとする衝動にかられていた。彼のからだは馬鹿げた、厚かましい不完全なもので、その未完成な不器用な格好が嫌らしかった。人間が完全に進化したならば、この演技、この「機能」はきっとなくなることだろう。
 しかもなお、間もなく終えて彼が極めて静かになり、沈黙と不思議な静止の中に、遠くに、彼女の意識の届く限界よりももっと遠くに離れてしまうと、彼女の心はすすり泣きはじめた。彼女は、彼が引き潮のように遠く去り、彼女を水際の石のように残して行ったのを感じた。彼は離れてゆく。彼の魂は彼女を置き去りにしてゆく。彼もそれを知っている。

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 And in real grief, tormented by her own double consciousness and reaction, she began to weep. He took no notice: or did not even know. The storm of weeping swelled and shook her: and shook him.
 "Ay!" he said. “It was no good the time. You wasn't there.”
 So he knew! Her sobs became violent.
 “But what's amiss!" he said. “It's once in a while that way."
 "I--I can't love you!" she sobbed, suddenly feeling her heart breaking.
 “Canna ter! Well dunna thee fret! There's no law says as tha's got to. Ta'e 't for what it is."
 He still lay with his hand on her breast. But she had drawn both her hands from him.
 His words were small comfort. She sobbed aloud.


(羽矢謙一訳)
 こころからかなしくなりながら、自分のなかでの二重の意識とそれぞれの反動に苦しめられて、コニーは泣きはじめた。男は気づかなかった、というより、思いもよらぬことであった。涙のあらしがまきあがり、コニーをゆさぶり、男をゆさぶった。
「ああ」と男はいった。「いまのはよくなかった。きみは気がはいっていなかった」──やっぱりこのひとも知っていたんだ。コニーのむせび泣きははげしくなった。
「でもね、それがどうしたっていうんだ」と森番はいった。「ときどきあんなふうなことがあるのさ」
「あたし……あたしはあなたを愛せないんですわ」と、とつぜん、こころがはりさけるよう気持ちにおそわれながら、コニーは泣きじゃくった。
「おまえにゃできないって。いやあ、くよくよするこたあない。こうしなけりゃならんというきまりはないんだ。ありのままにうけとればいい」
 男はコニーの胸の上に手をおいて、まだ身をよこたえていた。しかし、コニーは両手を男からひっこめていた。


(伊藤整訳)
そして彼女は自分のこの二重の意識と反動とに苦しめられて本当に苦しくなり、すすり泣きはじめた。彼はそれに注意せず、気づきもしなかった。すすり泣きが強くなり、彼女は身を震わせた。身震いは彼に伝わった。
「ああ!」と彼が言った。「今のはうまくいかなかった。君はいっしょじゃなかった」──では彼は知っていたのだ! 彼女のすすり泣きは激しくなった。
「だが、失敗なんてなんでもないよ」と彼が言った。「そういうことだってあるんだ」
「私は……私は……あなたを愛せない」と彼女は突然心が破れ去ったと感じて泣き出した。
「出来ない? いや、心配することはない! こうしなければならないというようなことはないんだ。ありのままでいいんだ」
 彼はまだ彼女の胸に手をのせていた。しかし彼女はもう彼を抱いてはいなかった。

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 “Nay nay!" he said. "Ta'e th' thick wi' th' thin. This wor a bit o’thin, for once."
 She wept bitterly, sobbing:
 "But I want to love you?and I cant. It only seems horrid."
 He laughed a little, half bitter, half amused.
 "It isna horrid," he said. "even if tha thinks it is. An’ tha canna ma'e it horrid. Dunna fret thysen about luvin' me! Tha 'It niver force thysen to 't. There's sure to be a bad nut in a basketful. Tha mun ta'e th' rough wi' t' smooth."
 He took his hand away from her breast and lay still, not touching her. And now she was untouched. She took an almost perverse satisfaction in it. She hated the dialect: the thee and the tha and thyse'n. He could get up if he liked : and stand there above her buttoning down those absurd corduroy breeches, straight in front of her. After all, Michaelis had had the decency to turn away. This man was so assured in himself, he didn't know what a clown other people found him: a half-bred fellow.


(羽矢謙一訳)
 男のことばは小さななぐさめでしかなかった。コニーは声をあげてしゃくりあげた。
「いいんだ、いいんだ」と男はいった。「いいときもあれば悪いときもあるもんだ。こんどのはあいにくちょっとわるいときにあたったまでさ」
 コニーははげしく泣いて「でも、あたし、あなたを愛したいのに、できないんですもの。ひどいことですわ」とむせびながらいった。
 男は、なかばしんらつな、なかばおもしろがった気持ちで、すこし笑った。
「おまえにひでえことなんかできっこないよ。ぼくを愛そうなんてって、いらだっちゃいけない。おまえそれを自分にむりじいするこたあないよ。なにごとにもわるいことってあるからね。うまくいくこともありゃあ、ぎすぎすすることもある」
 男はコニーの胸から手を放し、コニーにふれようとしなかった。ふれられないでいることにコニーはひねくれに近い満足をおぼえた。コニーは、おまえとか、おまえにとか、おまえ自身とかいう、方言がいやだった。この男には、もしそうしようと思えばたちあがって、そこにコニーのあたまの上で立ったまま、コニーのすぐ目の前で、あのおかしなコールテンのズボンのボタンをかけることなんか平気でできるだろう。なんといっても、マイクリスにはむこうを向くだけのつつしみがあった。この男は自分に確信をもちすぎているので、ほかのひとたちが自分をどんなにいなかもの、無教養なやつと思っているかも知らなかったのだ。


(伊藤整訳)
 彼の言葉はあまり慰めにならなかった。彼女の声をあげて泣き出した。
「いやいや!  いいことも悪いこともある。今のがうまくいかなかっただけだ」
 彼女ははげしくむせび泣いた。
「あなたを愛そうと思っているのに、出来ない。ただとても怖ろしく思えて」
 彼は半ば辛そうに、半ば面白そうに、少し笑った。
「怖ろしいなんてことなんかねえよ」と彼は言った。「あんたがそうだと思っても、恐ろしいことになる筈はない。おれを愛することでやきもきすることはない。無理することはない。全部が全部完全というわけにはいかない。うまくいくこともあるし、いかないこともある」
 彼は彼女の胸から手を引いた。すると彼女は意地の悪い満足を感じた。彼女は彼が今つかっている言葉の訛りが気に入らなかった。彼が立ちあがって、あの不恰好なコール天のズボンを彼女の目の前ではいて、ボタンを掛けたってかまわない。とにかく、マイクリスにはまだ向こうを向いてそれをするだけの細心さがあった。この育ちの悪い男は自信がありすぎて、他人の目の前で自分がどんなに道化になっているか理解できないのだ。

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チャタレイ裁判の記録
序文  記念碑的勝利の書は絶版にされた
一章  起訴状こそ猥褻文書
二章  起訴状
三章  論告求刑
四章  福原神近証言
五章  吉田健一証言
六章  高校三年生曽根証言
七章  福田恒存最終弁論
八章  伊藤整最終陳述
九章  小山久次郎最終陳述   
十章  判決
十一章  判決のあとの伊藤整
猥褻文書として指弾された英文並びに伊藤整訳と羽矢訳
Chapter2
Chapter5
Chapter10
Chapter12
Chapter14
Chapter15
Chapter16

「チャタレイ裁判の記録」は《草の葉ライブラリー》から近刊。


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