見出し画像

私の画歴  周藤佐夫郎

周藤佐夫朗さんが亡くなった。百歳だった。『80歳から起こすがルネサンス』を体現した私たちの人生の師だった。周藤さんは二百点にも及ぶ絵画を私たちに託して去っていった。

「大正十二年五月十八日、群馬県前橋市に生まれる。
小学校卒業、その年十二歳で上京。東京芝区新橋の小さな徳久製作所に板金工として弟子入りしました。
昭和十四年ころより戦時色が濃くなるなか、二十歳で兵役となり、中国大陸の北部にある《けいけん》という駐屯地に送られました。
電気もガスもない片田舎でした。
そこで四か月、兵隊さんとしての教えを受け、天津にあった陸軍病院に衛生兵として赴任しました。
戦争は負け戦になり、昭和二十一年に帰国、故郷の前橋へ帰りました。
昭和二十二年、東京の徳久製作所に復職し、ステンレス板金工として働き、三十歳で結婚し、工場も新橋から品川工業地にうつり、製作所も会社となり、三十六歳で工場長になりました。
会社も社長が、二代目と三代目と変わるなか、私もよく働き、四十歳、五十歳、六十歳、七十歳、八十歳と働き、苦労したが楽しい日々でした。
六十五歳のとき、作業中の事故で、右目を失明しました。
それでも仕事の虫がうずくのか、よく働き工場長の役目を果たしましたが、そのときもし両目を失ったらと淋しさ悲しさを思い浮かべ、自身何かを後に残るものを悩み苦しんだとき、思いついたのが小学校のときに描いた水彩画でした。
そうだ、絵を描こうと思ったのです。
そのとき女房の幸子から品川区のカルチャースクールで水彩画教室があると知らされ、その教室に入りました。
講師が日本水彩画会の岡田節男先生と大岡澄夫先生でした。
夜間、二時間、週一回の教室で、三年間、よく学びました。
その後、岡田先生が教えている品川みづゑ会に入会しました。
岡田先生はおおらかでやさしい先生でした。
岡田先生の死亡後真鍋輝男先生に五年間学びました。
きびしさもありましたが、よく絵をみてくださいました。
真壁先生が退任したとき、私がみづゑ会の会長になっていました。
後任に醍醐芳晴先生がよいと私が推薦したら、会の仲間たちから、醍醐先生がこんな小さな会などにくるわけがないといわれたけど、私は直接先生に電話をいれると、会のみなさんと話したということなので、後日仲間をつれて先生のお宅を訪問しました。
それで醍醐先生はみづゑ会の講師を引き受けて下さいました。
先生は十年間みづゑ会をよく指導され、会員も増え、入会希望者を断るときもありました。
私も会長としてがんばり絵の日が楽しみでした。
醍醐先生退任後、日本水彩画会の根岸尚徳先生を講師に迎え、仲間とともになごやかに絵を描いてもう六年になりました。
その長い年月の間に、私は三回個展をひらきました。
《佐夫郎の水彩画展》という名目で、
八十歳のとき最初の個展、
八十五歳のときに二回目、
九十歳のとき三回目、
そして九十五歳になったら四回目の個展を考えていましたが、九十三歳のとき同じ年の妻幸子を失い、九十五歳の個展はあきらめました。
私も九十六歳、体力眼力おとろえ、会長を二十六年間つとめ、この辺でと九十五歳でみづゑ会の会長を退き、若い人に委ねました。






 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?