21世紀の日本に可能な交響曲の姿 長木誠司
交響曲HIROSHIMA
かつて交響曲の時代は終わったという認識があった。それはちょうどオペラ(あるいはジャンルを違えれば詩)というものの歴史的任務が終わったと見なされていた時期と重なる、第1次世界大戦後の30年間ほどの時期である。交響曲とオペラ、方法は異なるが19世紀の西洋的市民社会を代表するこれら二大ジャンルは、市民社会自身が生みだしたモダニズムが、その行き着いた果てに最後の残酷で野蛮な行為を完了させた際、もはや不要のものだと判断されたのである。
アウシュヴイッツとヒロシマ、それはともに西洋的合理1ミ義と、それに幕づく科学万能上義が達成させた究極の夢、美しすぎる悪夢の開示であった。その後に生じたいかなる残酷や暴力も、いわぱこれらの莫似事、三番煎じでしかない。いかに合理的に「他者」を殲滅するか、このK条のもとに莫大な投資を要求してきた科学が最終的に予に入れた装置、それがそこでは鮮烈すぎる姿で披露された。
しかしながら、そうした認識の広まっていった時期は、同時に西洋市民社会だけが世界のすべてではないということが判然としてくる時期でもあった。そして、西洋芸術音楽すらも、西洋I市民だけの専有物ではないということがはっきりとしてくる時期であった。西洋そのもののなかでも、東と西、あるいは北と南の社会は、それぞれまったく異なった時間軸の周りで動いていた。東側社会、あるいは北ヨーロッパ社会、加えて新大陸、そこでは大量の交響曲が書かれ、けっしてこのジャンルの終焉など共有されていなかった。
「非同時性の同時性」、それが歴史の脈絡もスピードも攪乱させる。代表は、ソ連のショスタコーヴイチとスウェーデンのアラン・ペッテイション(そして、それらとまったく文脈を違えるアメリカのアラン・ホヴァネス)。ともに抱えている病理に悩みながら、多くの交響曲を書き続けた。中央ヨーロッパ社会から眺めたときに時宜を得ているかどうかなどは関係ない。両者はひとえに自らの問題に、交響曲というジャンルを通して回答を与えようとした。前者の苦悩は社会の有する病理から、そして後者のそれは自らの肉体が擁する病理から発しており、それらは亡くなるまでけっして解決されることがなかった。
そうした苦悩の「解決」とまでは行かぬとも、病理の自覚化による昇華や、そうした昇革を交響曲というジャンルを通して試みた最初のひとは、ほかでもないグスターフ・マーラーであった。その交響曲には、作曲者が創作とは関係ない口々の生活や匪問との摩擦に起囚する苦悩が刻印されている。標題がまず掲げられ、そして作曲が終わった時点で最終的に消されていく。ちょうど、自らの片悩の足跡を消し去って、自分から外部へと疎外された作品の自立性=自律性をあくまでも確保するように。マーラーは「芸術」を信じる、そうしたモダニズムのひとであった。
ショスタコーヴイチもペッテイションも、その創作はマーラーを起源に持つ。しかしながら、彼らの懊悩はその痕跡を消し去るにはあまりにも大きすぎた。だからショスタコーヴイチは密かにそのヒントを楽譜のあちこちに隠しながら残し、誰かが解読してくれる日を待った。ペッテイションは逆に、悲痛な叫びを残らず音符にし尽くした。
職後30年経って、初めてヨーロッパ音楽の文脈への対等な参入が自他ともに認められた日本の創作。その認知のプロセスのただなかに生まれた佐村河内守が立っているのは、すでに自らの非同時性を認知した西洋音楽の文脈である。かつてマーラーのような音楽を書くこと自体が、日本人にとってなんの意味も持たなかった。文脈が違いすぎたのである。また、「ヒロシマ」を問題にすることは、逆にあまりに政治性を帯びすぎて──文脈に適合しすぎて──難しかった(オペラ〈ヒロシマのオルフェ〉を見よ)。
しかしながら、佐村河内は、そうした問題設定とテーマ・素材の設定が、個人の苦悩として語れるようになった歴史的位置にいる。そこではもはや「交響曲の歴史が終わった」という歴史認識自体が歴史的なものとなっている。洋の束西を問わず、多くの作曲家たちがふたたび交響曲を書きはじめた時代。そうした「方法論」を踏襲しつつ、佐村河内はあえて広島を問題にする。彼の苦悩はすべてそこからはじまっているからだ。
かつて「アウシュヴイッツのあとで詩を書くことは野蛮だ」と説き、啓蒙とモダニズムの罪悪を暴いてみせた思想家がいたが、彼は歴史というものの連続性やその権威、伝統が失われつつあった1960年代末、そうした価値転換の主たる担い手であった学生たちの運動と突き上げのさなかに急死した。その後変容したモダニズム(ポストモダニズム)のなかで、過去の遺物は伝統や権威としてではなく、そうした殼をむしろ脱ぎ拾てながら再生した。交響曲もそのひとつである。
佐村河内にとって「ヒロシマのあとで交響曲を書くこと」は、ごく自然な行為であった。いや、彼にとって交響曲は、まさにヒロシマのあとでしか書けなかったのである。ヒロシマのあとに書かれた交響曲第1番HIROSHIMA。それは、そのあまりに大きな歴史的時宜性の獲得と、そこに絶叫しすすり泣くように込められた痛々しいまでの個人的片悩によって、21世紀の今を生きるわれわれにとってあまりにも生々しい。それは一聴して誰でもが心打たれる音楽であるが、しかし、もしわれわれがこの長大で、形式的には晦渋な交響曲を少しでも難解だと感じることがあるとすれば、それは21世紀のわれわれがあまりにもこの作品を深く「理解」し、その世界に「共感」してしまっているからにすぎない。
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