受験英語の呪縛から逃れられない日本人
日本人留学生たちの無残な姿
ここに一枚のDVDがある。NHKで放映した語学番組をDVD化したものである。日本語訳と解説をのせた冊子を編んで「ニューヨーク大学──語学留学」というタイトルで書店で販売されている(NHK出版刊)。このDVDはもちろん語学学習者のために制作されたのだが、日本の英語教育にかかわっている人たちもまた見るべきテキストなのだろう。日本の英語教育がしてきた仕事の結果はこれだったのである。日本の語学教育の実体が、完膚なきまでにこのDVDにあばき立てられている。
十五、六人ほどの生徒で一クラスが作られている。生徒たちは中国、韓国、ブラジル、イタリア、スウェーデンからと多様な国からやってきているが、一番多いのは日本人で、クラスの三分の一を占めている。授業は、生徒たちが教師を取り囲み、対話形式で進行していく。教師はその日のテーマについてレクチャーするが、同時に頻繁に生徒たちに発言を求める。したがって、生徒たちがどんな発言をするかで、その授業が盛り上がったり、沈み込んでいったりする。この授業の一つの目標は、生徒たちに活発な議論をさせることにあるのだ。
ところが、教師たちが日本人に発言を求めると、そこで授業は沈み込んでしまう。高いテンポで盛り上がっていた授業が、まるでブレーキをかけたように停滞してしまう。発言を求められた日本人が、簡単な英語さえ話せないのだ。一語一語の言葉につまずき、たった一行程度の英語を言うのさえ、やっとといつた有様。これでは快適なテンポで進行していく授業がしらけるわけである。クラスの三分一は日本人で、十代から三十代と多岐にわたっているが、そのほとんどの日本人がこういう調子なのだ。
例えば、ニューヨークの印象を語る場面がある。教師にさされてその日本人はこう発言した。
I feel New York is a very exciting city.
ニューヨークにやって、さまざまな印象をもったにちがいない。日本語ならそれらの印象を、何十行何千語をつかっても話すことができる。しかし彼女が英語で表現したニューヨークの印象は、その一行だけだった。それが英語で表現できる彼女の限界なのだ。
そのクラスにイタリアからやってきたアレキサンドリアという男子生徒がいる。彼も同じ質問を受ける。すると彼は自分にはまだニューヨークというものがよくわからないと言う。これは授業の流れに棹をさす発言である。教師はそれってどういうことなのかと、アレキサンドリアにたずねる。すると彼は、まだニューヨークについて十日もたっていないから、この街のことはよくわからないと答える。これもまた奇妙な発言だ。十日も住めばだれだって町の印象ぐらい語れる。
英語を学ぶ体力が作られていない
だから教師はふたたび彼に質問を投じ、他の生徒にもその議論に巻き込んで授業は盛り上がっていく。この対話形式の授業は、教師と生徒の、さらには生徒と生徒の言葉を投げあうキャッチボールによって成り立っている。アレキサンドリアは、この言葉のキャッチボールができる体力をすでにもっていたのだ。だからこそ、十日間かそこらで、町の印象など語れないという彼の意見を、英語で表現できるのである。ところが日本の学生は見事なばかりに、一人としてその体力をもっていない。
あるいはまた地域会議というテーマの授業がある。住民がその地域でさまざまな仕事を企画するとき、まず住民にそのプランを説明して、彼らの支持を取りつけなければならない。架空の地域住民会議を行う授業である。クラスはグループに分かれて、それぞれがプランをつくりあげ、そしてそのプランをクラス全員の前で発表して、賛成か反対かを住民に問うのである。あるグループは、七番街のブリーカー通りの角に、テントを張って屋外カフェをつくるというプランを発表する。
そしてこのカフェの設計担当者となった日本人の女子学生が、黒板に店内のイラストを書いて説明をはじめる。
So this, in the café, there are big sofa. And this is a sofa.
屋外カフェの設計者である彼女の説明といったらそれだけなのだ。果たしてその屋外カフェのプランについて、激しい議論が起こる。彼女はその議論のなかにまったく入っていけない。反対者がさかんにそのプランを攻撃する。設計者のコンセプトは何かとたびたび問われる。しかし彼女は一言も答えられない。
イタリアから、ブラジルから、韓国から、あるいは中国からきた学生たちは、間違った英語だろうと、幼稚な英語だろうが、さかんに発言する。しかし日本の学生は押し黙ったままだ。弾んでいく議論にだれ一人として加わっていくことができない。どうして日本人の学生は貝のように押し黙っているのか。この授業は、生徒たちがさかんに発言することによって成り立っているのである。さかんに生徒たちに発言させるというコンセプトで組み立てられている。しかし日本人学生の大半が、その授業の中に入っていけない。
なぜ簡単な英語が話せないのか
日本人学生が蓄えている英語の知識は、おそらくこのクラスでも上位をずらりと占めるに違いない。語彙の多さも、文法の解釈も、聞き取る能力も、抜群にすぐれているにちがいない。それなのに教師に発言を求められると、簡単な表現さえ出来ない。発言できでも二行目、三行目と続けることができない。とうてい内部で湧き起こる自分の意見などというものは表現できない。意見を表現するには、何行も、ときには何十行何百行もの英語が必要なのだ。
意見を表明するのに難解な言葉や複雑な構文を組み立てる必要はない。簡単な英語で、その簡単な英語をつなげていけばいいのだ。それが日本人の学生にはできない。このDVDを見て痛烈によぎるのは、その授業についていける体力のない日本人学生は、結局そのままずるずると一年なり二年の留学を終えるのだろうと。日本に帰る飛行機のなかで彼らが抱くのは、おそらく深い挫折感にちがいない。いったいこの留学とはなんだったのか。高額な授業料と滞在費と航空運賃を支払って得たものは、敗北感だけだったということになる。
私たちの周囲にこういう日本人がたくさんいる。懸命に語学学習に取り組み、英検やTOEICで高得点をとり、勇躍してアメリカやイギリスの大学に留学する。その大学でネイティブ・スピーカー並みの英語の力を獲得できるはずだと確信しての留学生活だった。しかしその留学を終えて、彼らがはっきりと知るのは、自分の英語の能力などネイティブ・スピーカーの十分の一どころか、百分の一もないということを。そして英語に対する激しい嫌悪感が湧き立ち、二度と英語を口にしなくなる。日本人の英語に対する思いは複雑で屈折している。
日本の英語教育がめざしたもの
外国語を獲得するのは容易なことではない。生涯をかけたって私たち日本人は、英語のネイティブ・スピーカーなどにはなれない。それこそ私たちが長い英語学習の果てに到達する結論なのだが(草の葉クラブ・メソッドは、この結論を原点にして組み立てられている)、しかしDVDに登場するニューヨーク大学に語学留学した日本の青年たちはそう思ってはいない。だれもがその留学でネイティブ・スピーカー並の英語力をつけようと、はるばるニューヨークにやってきたのだ。しかしそこで見せる彼らの無残な英語の体力のなさはどうだろう。
イタリアや、ブラジルや、中国や、韓国からきた留学生たちは、ニューヨーク大学が組み立てたカリュキュラムを支える体力を持っている。彼らの英語はその留学で大きく成長するだろう。彼らは英語という言葉を体得していく体力をもっているからである。しかし日本人の留学生は一人としてこの体力を持っていない。これはどういうことなのか。これは何を語っているのか。
ニューヨーク大学の語学教室で見せる日本人留学生たちの姿は、日本の英語教育が作りだしたものだった。それは日本の英語教育の実態を映す鏡なのだ。日本の英語教育とは、文法をひたすら教え込む授業であり、受験のための英語であり、ペーパーテストでより高い点をとるための教育である。そんな語学教育に対する強い批判がなされて、さまざまな変革がなされてきたが、しかしその実体はなにも変っていないことをその留学生たちが伝えている。依然として、日本の英語教育とは、語学を体得する体力をつくるためのものではなかったのだ。
ニューヨーク大学の語学教室で見せる日本人留学生たちの姿は、日本の英語教育が作りだしたものだった。日本の英語教育とは、語学を体得する体力をつくるためのものではなかったのだ。
受験英語からの脱却
彼らはひたすら語学勉強に取り組んできた。それこそ人生をかけた勉強をしてきたのだろう。その猛勉強で、英検では二級から一級へ、TOEICでも七百点から八百点へとぐんぐんランクを上げていく。彼らはひたすら信じていたのだ。そのランクを上げていくことがネイティブ・スピーカーになる道だと。
それが間違いだった、それは愚かな幻想だったということに彼らは気づいたのだろうか。あこがれのニューヨーク大学の語学教室で日本人留学生たちの見せた無残な姿。それが一人とか二人ならば、個人の能力の問題ということになる。しかしクラスの三分の一をしめる日本人留学生のほとんどが同じ姿をさらしている。打ちのめされたわが身と、そして同胞たちの姿をみて、もう彼らは気づかなければならないはずだった。勉強の方法が間違っていたと。英語の体力をつくるということは、ひたすら英検やTOEICの階段を登ることではなかったということを。そんな階段を登ったって、結局は、
I feel exciting about New York.
とか
This is a sofes
といった英語しか話すことができないということを。
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