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千曲川 または明日の海へ 第二章      小宮山量平


同胞(とも)よ 地は貧しい
われらは
豊かな種子(たね)を 蒔かなければならない
 ──ノブァーリス



千曲川 ──または明日の海へ   小宮山量平

第二の章

シグナルは変わった


 いま思えば、おとうさんの亡くなった大正十五年というのは、たいへんな年であった。十月の初めに一家の柱の葬式をすませたばかりのぼくの家では、その四十九日の法事を待ちかねていたかのように、十二月に入るとすぐ、婚礼がおこなわれることとなっていた。

 もともと、未だおとうさんの「目の黒いうちに」総領の萬治郎兄さんのお嫁さんを迎える手筈がととのえられていたのだ。それを大巾におくらせたのは、おとうさんの法事もあったが、十一月の末のエビス講をも終えねばならなかったからだ。佐久のおばあちゃんは、商家にとってはいちばん忙しいそのエビス講のころから、もう手伝いにやってきていた。

 おかげで、トクをしたのはぼくだ。エビス講につづく婚礼を終えれば、もうすぐお正月がくる。おばあちゃんは当分、ぼくんちにいてくれるだろう。ぼくは、おとうさんの死んだことなど忘れたかのように、うきうきと、おばあちゃんにすがりついていた。いや、ぼくよりもうれしがっていたのは、《その子》だ。

《その子》ときたら、まだお河童のままの髪をふさふさと振りたてながら、「うすだア、きねだア、あしたア、もちつきだア」などと、はしゃぎまわっているではないか。じっさい、佐久のその辺りにならんでいる臼田・杵田・芦田・望月などの地名をかってに結んだ文句には、近づく正月に心を浮き立たせている子どもたちのわらべ唄のようなひびきがあった。

──おばあちゃんがきてくれて、うれしからずよ、なあ? ‥‥と、《その子》は、ぼくの顔をのぞきこむ。そりゃあ、うれしいさあ‥‥と、ぼくは鼻を鳴らすようにして、おばあちゃんのふところへにじりよるのだ。

 あの日、おとうさんの計略に引っかかって上田の家へおいてきぼりにされたぼくは、その日のうちに、おとうさんのバリカンで髪を刈りとられた。あれから、何度、髪を刈られたことだろう。おとうさんの膝にねじふせられ、ときどき、ツバなんか指先でくっつけられながら、こらえにこらえたものだ。まるで父親というものが息子になにかを注ぎこむ儀式のような、おごそかな行事であった。ずうっと年上の兄さんたちは、もう一人前に床屋へ行くようになっていたので、おとうさんのバリカン刈りの楽しみは、ぼくひとりに集中していたのだろう。ようやく、くりくり坊主が一つできあがると、おとうさんは、キャラメルのはこから二つぶだけ取り出して、ごほうびにくれるのだった。

 もちろん今では、ぼくは学校も大好きになっていたし、新しくできた上田のともだちともすっかり仲よしになって、佐久のことは忘れがちであった。ただ、おとうさんが心をこめて造ってくれた「箱庭の望月」だけは、倦きることはなかった。あれから三年ほどのあいだに、そこには、おじいちゃんやおばあちゃんはもちろん、坂上のタカシちゃんの人形までが住みついている。けれども今、ほんもののおばあちゃんがきたとなると、家じゅうに、望月の匂いやら音やらが、一ぺんに甘く立ちこめるのだ。

 望月の匂いといえば、何といっても、あの中之橋のらんかんに、おばあちゃんがずらりと並べて干す色とりどりのふとんの匂いだ。いや、あのふとんたちは三十分も隅に照らされると、ぷっくりとふくらんで、お日さまのなつかしい匂いを、ほかほかと発散する。その匂いを待ちかねているかのように、赤い矢車トンボたちが一列に並んでとまる。

 天気さえよければ、そうやってお日さまの匂いをたっぷりと吸い込んだふとんをととのえて人を待つのが、おばあちゃんならではのごちそうであった。いや、それにも増して、あの炊きたての白いごはんだ。もしもお客さんが、一杯や二杯で「ごちそうさま」などと言おうものなら、たいへんだ。おばあちゃんは、その茶碗をひったくるなり、三杯目を盛りっける。「ほんの少しだけ」なんて言っても、知らん顔で、その茶碗のへりより五センチも高く、ぎゅっ、と盛りあげる。

──まったく、あれには困るよなあ‥‥と、《その子》は大人びた口ぶりで、おばあちゃんのほかほかサービスに眉をひそめてみせるのだ。けれどもぼくは、そのおばあちゃんのほかほかな胸のどまん中へ、ぬくぬくと、仔犬のように鼻づらを埋めるんだ。するとたちまち、ぼくの瞼のうらいちめんに、あの玉虫いろの望月の星空がひろがる。ミルク色の銀河のとめどもない流れだ。

 その銀河の流れの瀬音かと思えるような水音が、たちまち、ぼくをとらえる。‥‥ギイッ、ギイッ、ギイッ、スットン。ギイッ、ギイッ、ギイッ、スットン。それは、中之橋のきわで廻っている伊勢屋の水車のひびきなのだ。それが床下づたいに、となりのぼくの枕もとまでつたわってくる。いち、にい、さん、すっとん。いち、にい、さん、すっとん‥‥と、その水音をかぞえていると、たちまちぼくは眠りの世界へと旅立ってしまったものだ。おばあちゃんがくると、そんな音までがよみがえる。あの、おいてきぼりにされた当座、ぼくは、水車の音のしない、しいんとした夜の淋しさに、なかなか眠れなかったものだ。

──おーい、おーい‥‥と、誰にともなく呼びかけながら、《その子》が、淋しい夜の闇の中を飛びまわる。だが、こうしておぱあちゃんがいっしょの夜は、その子なんて、あっけなく消えてしまう。そして、ほかほかとしたお日さまの匂い、限りもない星たちのきらめく夜空、そしてミルク色の瀬音──と、匂いと音が一体となって奏でるシンフォニイのように、「ふるさと」が、ぼくを抱きかかえる‥‥。

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 そんな夜がつづいて、いよいよ十二月に入ると、婚礼の日がやってきた。ところが、その前の日の夕ぐれ近く、ぼくの目先がまっくらになるようなできごとが起きた。

 その婚礼の式のために、いちばん華やかな役目をつとめる雄蝶・雌蝶のリハーサルがおこなわれるというのだ。ところが、雄蝶をつとめるのは分家の五郎だという。しかも、その相手役の雌蝶は、となりのキョちゃんなのだ。いつのまにか二人とも着かざって、明日の式場となる離れの二階でおむこさんとお嫁さんの座るはずの席に進みでると、交るがわるに三三九度のお酒を注ぐ手順を、分家の常次郎おじさんから教わりはじめた。

 とたんに、ぼくは、だまされたような気分になった。うちの婚礼の席に、こんなりっぱな子どもの出番があろうとは! 
 そんなことを、誰も話してはくれなかった。もしもキョちゃんが雌蝶になるというなら、相手の雄蝶にはぼくがなるのがあたりまえではないのか。ぼくの知らないまに、こんな大事なことが、とりきめられていたんだ。
 ぼくは、すうっとその場をぬけ出た。えんがわを、どんどんふみならして駆けぬけた。そして、たんす部屋へととびこんだ。そこが、ひとりぼっちのぼくのお城なのだ。

 おばあちゃんさえ来なければ、ぼくは、このお城の中で、いつものように男の子らしく、じっと、がまんできたはずなんだ。が、おぱあちゃんときたら、いつでも、どこでも、すぐにぼくを見つけだしてしまう。まるで影ぼうしのように、おばあちゃんは、たんす部屋に入るなり、ぼくを、まっすぐに見すえた。

「どうしたかや、坊?」と、ないしょ話みたいにおばあちゃんはぼくをのぞきこむ。とたんに、ぼくのくやしさが、ばくはつした。おばあちゃんの帯のあたりをばんばんとたたきながら、ぼくは、涙が流れでるのにまかせて泣きだした。おばあちゃんが、たもとからハンカチーフを出して、ふいても、ふいても、涙はとまらない。そんな涙のわけを、おばあちゃんはすっかり知りぬいていたのだ。一枚のハンカチがぐしょぬれになったころ、おばあちゃんは、ぼくの肩をゆさぶり、ぼくの顔をまっすぐに自分に向けさせると、いくらかきびしい顔つきで、きっぱりと言うのだった。

「あのな、坊。雄蝶雌蝶という役目は、ふた親のそろってる子でないと、やれないものときまってるんだよ」
 それを聞いたとたん、ぼくの泣き声はとまった。しのび泣きもしなかった。泣きじゃくりを、じぶんでおさえようとした。けれど、かんじんのおばあちゃんの方が、おんおんと泣きだしてしまった。ぼくは、男の子としての約束をしないではいられなくなった。ぼくは、おばあちゃんにハンカチを返しながら、
「もう、だいじょうぶだよ!」と、きっぱりと言った。

 けれどもおばあちゃんは、その夜、寝床に入ってからも、くすん、くすん、と、泣き続けるのだった。おそらく、「ふた親のない子」が、これから先どんな運命にめぐりあうものか、その時、おばあちゃんには見えていたのだろうか。

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 婚礼の終わった翌日、お嫁さんは、分家のおじさん夫婦につれられ、改めて家じゅうの者たちにあいさつをして廻った。
「坊、このひとは、これからは、おまえのおっかさんみたいなもんだぞや。よかったのう、こんないいおっかさんができて‥‥」

 常次郎おじさんは、そういって、ぼくをお嫁さんの前へ、おしだすようにした。「ほんに、まあ‥‥」と、お嫁さんは、さもいとおしむように、ぼくの頭へ両手をあてるのだった。
 が、そのしゅんかん、その手の下をするりとぬけた者がある。《その子》だ。《その子》は、さっと、箱庭の近くのモクレンの木の下へと走りぬけ、その太い幹のかげからぼくを見ているんだ。ぼくは、《その子》の眼の光りに射すくめられたように、何やらしょんぼりと、お嫁さんの両手の下で小さくうなずいているのだった。

 その翌日も、そのまた翌日もだ。お嫁さんがべんとうを作ってくれる、足袋をそろえてくれる、「いってらっしゃい」と言ってくれる……そんないちいちのしぐさを、《その子》がきっとみつめている。その眼の光りに射すくめられるたびに、ぼくは、いくらかいまいましい思いで、赤くなるのだった。
(あれは、兄さまのお嫁さんだい)と、そのたびにぼくは呟いてみた。が、幾日たってもぼくの赤らむのは止まらない。《その子》が、柱のかげから、障子のすきまから、そんなぼくを見つめる目つきは、少しも変わらない。

 その日も、まだお嫁にきてから五日めだというのに、もうずっとまえからいた人みたいに、せっせと、お嫁さんは、はり板にかすりの羽織の生地をはりつけていた。そのお嫁さんの手もとを追うように、おばあちゃんの手がフノリをふくませたふきんでなでていく。
「この羽織は、萬治郎さんが着たものだぞい」
「ほんに」
「それを、庄三郎さんがいただいてな」
「まあ」
「そしてこんどは、坊にお下がりっつうわけ」
「あれまあ」
「二度とも、わしがぬったもんだが、こんどは、あんたが坊にぬってやらにゃあ」
「あい、お正月に間にあわせます」
「坊よ、お正月の晴れ着は、このヨシコあねさまに、ようく頼んでおくからな」

 ふと、ぼくの心を、黒いかげが通りすぎていった。──なあんだ、おばあちゃん、お正月までいてくれるんじゃなかったのか!‥‥と、心につぶやくぼくの心配なんか、ぜんぜん気づかぬそぶりで、おばあちゃんは、お嫁さんに語りつづける。

「なんせ、これの上の姉たちは、もう六年生と女学校の生徒だもの。なんのめんどうもありゃせんわ。だがな、この坊だけが、気がかりでなあ。おたのみ申しますで。死んだ父親も、そればかり言い残しておりやしたで‥‥」
 おばあちゃんは、それが言いたいばかりに、お嫁さんを、この日溜りの洗い張り仕事へと誘いだしたのだろう。

 その張り板からはがされたノリの利いた布地が、ひと晩で縫い上げられると、おばあちゃんはお嫁さんを相手に綿入れ仕事だ。先ず裏返された布地いちめんに、うっすらと真綿が張りめぐらされる。さてその上には、ふっくらとした綿が敷きつめられる。そこで、ふたりがあやとりのように息をそろえ、つんつんと布地を引っくり返すと、たちまちぼくの綿入れの羽織が生まれでる。縁側いっぱいの日溜りに浮かぶ綿毛の中で、おばあちゃんとお嫁さんとが、ほうっと顔を見合わせて、にっこりとほほえむ。ぼんやりと見つめているぼくまでが、思わずうれしくなるひとときだった。

 けれどもその翌朝眼をさますと、ぼくの枕もとには、その羽織がきちんとたたまれておかれてあり、その上には、真新しい足袋までがそろえられているではないか。そして、となりのふとんはたたまれ、おばあちゃんの姿は見えない!

 はっとして起き上がったとたん、障子が開けられ、ぼくの前に立っていたのはお嫁さんであった。「おばあちゃんは?」と、出かかった声を、ぼくはこらえた。ぼくは、黙ったまま井戸端で顔を洗い、ひっそりと朝飯を食べ、そっとカバンに弁当を入れた。せめて元気よく「行って参りまあす!」と、あいさつをしようと立ち上がった。が、その声が、どうしても出なかった。

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 おばあちゃんが姿を消してしまってから、三日目だったろうか。きょうで二学期がおしまいという土曜日のことであった。いよいよ正月を待つばかりと、浮きうきとした心をはずませて教室へ入ったぼくたちを、柳沢先生はひと足さきに教壇のいすに座って待ちかまえていた。その先生の後ろの黒板には、ぼくたちが見たこともないようなむずかしい漢字が大きく書かれ、ふりがながついていた。

  天皇崩御(てんのうほうぎょ)
  新帝践祚(しんていせんそ)

「ゆうべ真夜中の一時二十五分のことだ。天皇陛下が、葉山の御用邸でお亡くなりなった。‥‥これは、今朝の新聞の見出しの言葉だが、天皇陛下が亡くなられたのは崩御という。ちょうど、大きな山が崩れたようなできごとだからな。そして、みんなもよく知っている摂政の宮殿下が、ただちに後を継がれて、新しい天皇になられた。それを賎祚という。新聞には、今朝方の三時十五分には、そのための儀式が取り行われた、と書いてある‥‥」

 そして柳沢先生は、まるで証拠物件でも見せるかのように、真新しい朝刊をぼくたちのほうに差し向けるのだった。その第一面の上方に大きく黒枠でかこまれたおなじみの天皇の軍服姿が、心なしかしょんぼりと写り、〈大行天皇御尊影〉と説明されている。
「何ですか、先生。大行天皇というのは?」

 最前列のシュウちゃんには、大きな活字のその説明が読めたらしく、好奇心にそそのかされたようだ。
「うん、天皇さんには、未だおくり名がないんだ。その名が決まるまで、われわれはこのように、うやうやしくお呼びするのさ」
「ふぅーん、そうかな‥‥」とシュウちゃんは、納得しないようすで、席についた。

 そのシュウちゃんの気持ちが、どうやらみんなの気持ちでもあったらしい。それというのも、この大行天皇については、誰いうとなく、頼りなげな評判が、ぼくたちの間にささやかれていたからだ。とりわけその病気がちというのが、どうやら「おツムの病」とかで、いろいろと人目をひくような「天皇さんの失敗」なるものが、まるで見てきたかのように、子どもたちのひそひそ話ともなっていた。柳沢先生は、そんな子どもたちの心配を思いやるように、こう説明するのだった。

「さいわいにも、わが国はこの日にそなえて、早くからりっぱな摂政の宮殿下をいただいてきておる。その殿下が、ただちに天皇の位に即かれたのだから、もう安心だ」

 もちろん、摂政の宮殿下についてなら、ぼくたちは知りつくしていた。柳沢先生ときたら何かにつけて「オレは殿下と同じとしだから」などと自慢する。新聞や雑誌にのった「白馬に乗った殿下の英姿」などは、先生がいつも見せてくれるので、いつしかぼくたちの心にやきついていたものだ。

 つい先日のこと。「摂政の宮殿下とは、何をなさるお方か?」と、先生が改めて一同の顔を眺めまわしながら訊いた。すると意外にもまっ先に手をあげたのがキンちゃんだ。しかもその答が、まことにみごとだった。
「ハイッ、木を植えることです!」

 とたんに、先生が、ぷっと吹きだした。だがぼくたち一同は、キンちゃんの答に心から賛成していた。現に、どこかに何かの行事があると、いつも天皇さんに代って、殿下がお出かけになる。その行く先きざきでは、きまって植樹をなさる。そんないちぶしじゅうを、さも自慢げに教えてくれたのは、ほかならぬ先生自身ではないか! そんなわけで、殿下はすっかりぼくたちのおなじみであった。

 けれど、この殿下が天皇の位に即かれたとたん、ぼくたちは急にいそがしくなった。まるで学年が変わって新しい読本でも勉強させられるかのように、目あたらしい言葉をむやみに覚えさせられるのだ。いや、柳沢先生自身が、その日その日の新聞で教えられる文字を、おおいそぎでぼくたちにおしえこむかのように、黒板に大きく書き、それをみんなにそろって読ませるのだった。とくに、元旦の四方拝(しほうはい)の式の日は大変であった。

 その式が中止となって、それぞれの教室へ入ったときには、先生はもう後ろの黒板に、《昭和》と、水をふくませた太筆で書き、白墨で縁どりまでしてあった。その字の左には「百姓昭……明なり、万邦を協和……せしむ」とむずかしげな漢文が書かれ、右には、「諒闇」の二字が記されてあった。これだけの大仕事を、ぼくたちの登校まえに成しとげた先生は、大いに緊張して待ちかまえておられたのだろう。

「起立ッ!‥‥礼ッ」と、級長のイサムくんの号令で着席したとたん、先生のまなざしが、ぼくに向かってまっすぐにそそがれた。
「これを読んでみろ!」と、先生の細い竹の教鞭が右がわの二字を指している。「リョウアンです」と、ぼくはすぐ答えられた。

 大行天皇の亡くなられたその日からまる一年、後継ぎの新帝は喪に服するのだ、と、新聞にのっていた。先生もその新聞記事どおりに説明してから、にんまりと笑みを浮かべた。

「だがなあ、せっかくの正月が無くなっては国民の元気がしぼむだろう。そこで東京の浅草なんかでは、活動写真もよし、見世物も良し、となった。そしてお前たち小学生はだなあ‥‥五十日間の喪でよろしいんだと。この正月は、あんまりバカさわぎせんと、ひっそりと元気に遊ぶんだぞ」
 とたんにぼくたちは、わあっと叫んでしまった。今年の正月はどうなるのかと、いちばん気にしていた心配ごとを、先生の笑顔が解決してくれたのだ。しかも、そんなぼくたちのさわぎに輪をかけるかのように、もう一つ先生からのおくりものがつづいた。

「じつはなあ、いつもの年のように用意しておいた紅白のおもちだが……それも、みんなに分けてやるのが大行天皇さまのご供養‥‥」と、そう言いかけた先生の声は、たちまちぼくたちの歓声にかき消されてしまった。
 先生は、教卓のかげからずっしりと箱を取り出すと、副級長のハルちゃんに渡した。たぶん今日の元旦には「紅白のおもち」はいただけないだろうと思いこんでいたぼくたちの心配は、たちまち吹っとんでしまった。

 すっかりふくらんだぼくたちの気持ちを、両手でおさえつけるようにしずめると、先生は大きく書かれた《昭和》を指した。
「さあ、これをみんなで読もう!」
 さすがに、暮れのうちに各新聞が伝えていた新しい年号は、どこの家でもすっかりおなじみになっていた。先生の、教鞭が指すのにつれて、みんなの声が大きくそろってはずんだ。

「ショウワ!」
 うん、もう一度、と先生が言う。
「ショウワ!」
 二度目も声をそろえたぼくたちは、さらにもう一度、大きく声をそろえた。三度、同じショウワをくり返させた先生は、その左がわの漢文の音頭をとって読みはじめた。「百姓、昭明なり。ハイッ!」と、先生。
「百姓、昭明なり!」と、ぼくたち。
「万邦を協和せしむ。ハイッ!」と、先生。
「万邦を協和せしむ!」と、ぼくたち。

 そんなふうに、三度もくり返された。それで、昭和の昭……と昭和の和の字の出どこが何となく、ぼくたちにものみこめた。だが柳沢先生は、それ以上にくどくどと、その意味を解き明かそうなどとはしなかった。ただくれぐれも念を押すかのように、こう付け加えるだけだった。
「いいか、昭和元年というのは、きのうまでの六日間で終わったんだぞ。今日からは、昭和二年が始まるんだからな!」

 その昭和二年一月一日。ぼくたちは、お正月を存分に楽しんで良いと申しわたされたばかりか、あきらめかけていた紅白のおもちまでいただき、すっかりリョウアンの気分など忘れ去ったかのように、元気よくそれぞれの家路をいそいだ。

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 正月第三学期の授業が始まったとたん、柳沢先生の教育は、いよいよ熱をおびた。それというのも、大正天皇とおくり名の定まった大行天皇さまの御大葬が二月七日と決定し、ぼくたち四年生以上は本校に集まって、その葬送の歌を合唱することとなっていた。さあ大変だ! その歌の文句のむずかしさや、節の複雑さが、先生をすっかりあわてさせてしまった。
 
 一 地にひれふして あめつちに
   いのりしまこと いれられず
   日いずるくにの くにたみは
   あやめもわかぬ やみじゆく
 二 おおみはふりの 今日の日に
   ながるるなみだ はてもなし
   きさらぎのそら はるあさみ
   さむかぜいとど 身にはもむ

 相手がぼくたち四年生ともなると、この歌の教え方について、先生は途方にくれた。まず「ひれふして」が分からない。「あめつち」だって分からない。ましてや「あやめもわかぬ」(黒白もわからぬ)だの「おおみはふり」(御大葬)だのとなると、キンちゃんやシュウちゃんなんか、げらげらと笑いだすありさまなのだ。それでも先生のオルガンが鳴りだすと、その悲しいメロディはみんなの心にしみた。ラ・ラ・シ・ド・シ・ラ/シ・シ・ド・レ・ミ……ラ・ラ・ソ・ラ・シ・ラ/ミ・ミ・レ・ド・シ・ラ……柳沢先生は、この曲の悲しさを強調するかのように、オルガンとともに涙ぐむのだった。

「この歌には〈大正よさらば!〉というような思いがこめられているんだなあ」
 先生のそんな思いが、二月七日の御大葬の夕ぐれには、しみじみとぼくたちにも分かった。ちょうど六時に宮城を出発した天皇の柩(ひつぎ)は、ゆったりと牛車に引かれ、二重橋から虎の門を経て赤坂から新宿御苑へと向かった。その間の約一時間半が、全国各地での葬儀の時間だったのだが、ぼくたちはその間に一度だけ〽地にひれふして‥‥と歌い、歌い終わるとそれぞれの学校まで行進をした。ひょうきん者のキンちゃんが「ううッ、きさらぎはさぶいなあ」と身ぶるいしてみせたが、誰ひとり笑う者はいなかった。誰もが、いつしか心の底で、その葬送の調べを口ずさんでいた。うなだれがちに、ほんとうに涙ぐんでいる者もいた。たしかに、そんな足どりで、何かが過ぎ去って行くのを、ぼくたちは感じとっていた。

 その後も当分の間は、フサヨ姉さんの大正琴を借りて、何かの曲を弾くと、つい〽地にひれふして‥‥と鳴らしてしまう。どうしたことかその曲がひびくと、子ども部屋の障子がそっと開けられ、お嫁さんがのぞくのだった。それに気がついて、ふと手を止めると、お嫁さんは必ず「もっとつづけて」とせがんだ。けれどもそう言われてつづけるほど、ぼくが大正琴を弾けたわけではない。ぼくは例によって、ぼおっと赤らむばかりで、さも勉強がいそがしいといったふうにそわそわとするのだった。

《その子》がひょいと現われるのは、必ずそういうときであった。
──嫁さまは、おめだけが頼りなんだと。この家(うち)は小姑さまが多すぎて、気の休まるときなんか無(ね)えんだと。琴ぐれえ、弾いてやればいいに‥‥。

 そう言われてぼくの頭に浮かぶのは、あのモクレンの中庭なのだ。その日溜りでの、おばあちゃんとお嫁さんとの、ほかほかするようなひとときだ。何故かふと、ああいうぬくもりのある日が消えてゆくんじゃないかというおそれが、ぼくの胸に立ちこめた。そんなぼくをそそのかすように、《その子》が、むやみにおおさわぎする日がつづいた。

 この上田市の外れ、北国街道沿いののどかな街並みの間にも、「秋和銀行」とやら「中島銀行」とやら、古めかしい屋敷ふうの銀行が何軒かあった。昭和二年の三月に入ったある日、それらの銀行が片っぱし戸を閉めてしまったというのだ。養蚕と生糸に生活のすべてを託しているこの地方に、アメリカから始まって横浜へ上陸した津波のような「不景気」が、あっという間に押しよせたのである。

 ──大変だァ、大変だァ!
 まるで面白がってでもいるかのような《その子》のはしゃぎぶりなのだが、そのときぼくは、あの大正天皇の葬送歌を思い出さずにはいられなかった。〽日いずるくにの くにたみは/あやめもわかぬ やみじゆく……と、ぼくは口ずさむようになった。

 いや、その時以来たしかに、何かが終わり、何かが始まっていたのだ。ほどなく人生に旅立って、思いがけなく新しい体験に衝突するたびに、《その子》ときたらすぐ「大変だァ! 大変だァ!」とおおさわぎを始める。するとぼくの耳の奥で必ず、その葬送歌が鳴りひびくようになった。
『近代史年表』によれば、《昭和》の幕は、かの《金融恐慌》というものによって開かれている。

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少年時代を新鮮な感覚で描く驚異的な筆力   帆足孝治


 小宮山さんが、この自伝(ご自分では、これは単なる自伝ではないとおっしゃっているが)のタイトルに「千曲川」の名を冠せたのは、幼くしてご両親を亡くされ、故郷を離れて東京へ出た当時抱いたであろう期待や不安、そして驚き、そんな少年時代にいつもその頃の心のよりどころとしておられたであろう故郷の象徴、千曲川を想ってのことだったにちがいない。

 恥ずかしながら、私はまだ著者の小宮山さんを存じあげないし、まだお会いしたこともない『草の葉』の積好信さんからお送り頂いたこの本を手にしたとき、その美しい装丁をみただけで、この本を書かれた小宮山さん、さらにはこの本を実現させた人達の心暖かさを直感したものである。

 人が子供時代の経験を、記憶が薄れないうちに文章にとどめておきたいと思うのは自然である。まして、子供時代に経験した遊びや冒険、家庭や学校、あるいは生活の周辺での出来事など、印象が鮮烈であればあるほど、こうした印象をできるだけ多くの人と分かち合いたいと思う欲求は強いはずである。

 しかし、そこはうまくしたもので、いざ記録しようとしても記憶が曖昧だったり、さらには自分には強烈な印象ある出来事でも、その印象が他人にも同様の強烈さをもって伝えられる文章を書くということはなかなか容易ではない。ともすれば独りよがりになり過ぎて読者にその印象が生き生きと伝わらないということになりがちで、歴史的な記録を記すのと違って、自伝の難しさがここにある。

 長い間、編集を仕事としてこられた小宮山さんが八〇才を過ぎてから出されたというこの「千曲川」は、単なる少年期の回想でも「自伝」でもないそうだが、敢えて言わせていただけば、これほど鮮烈な印象を自伝に書き残せる小宮山さんという人の、波乱万丈の少年期には驚かされる。まして感心させられるのは、小宮山さんの記憶力の良さである。

 いかに自分で経験したこととはいえ、少年時代に出会ったたくさんの人達のこと、また、その大たちが残していった言葉、行動、少年の心が感じ取った相手の気持ちや心情など、子供の心の動きとは何といじらしく、そしてかくも深いものであろうか。

 世の中には、大人になっても子供時代の夢や感受性をそのまま持ち続けている大は少なくないが、逆に子供の頃のあの大はどこへ行ってしまったのだろうと、悲しくなるほど変わってしまう人も多い。過去は過去、役にも立たない過ぎ去った昔のことなど、いつまでも感傷に浸っている暇はないという種類の人たちである。確かに、人間の細胞は新陳代謝が激しく、健康な人ほど古い細胞がどんどん新しいものに変わって行くというから、脳細胞も然りで、何時までも昔のことばかり記憶している人は、いうなれば脳細胞の新陳代謝が悪く、発育が遅い人種だといわれても仕方がない。

 だから、昔のことを良く覚えているということは、精神的にも肉体的にも、あまり健全でないということなのかも知れない。しかし、私は、そういう子供時代の気持ちを大人になっても大事にして失わず、少年のような恥らいと謙虚さをもち続けている人を尊敬する。そういう人に悪人はいないからである。逆境にあっても人から愛され、可愛がられて育った人には、いわゆる「大人」の持つ「悪さ」や「打算」がないからであろう。

 小宮山さんの記憶力というか、この本に描かれた子供時代の思い出は、そのまま読む者に生き生きと伝わってくるが、七〇年も前のことをあたかも昨日のことのように、今なお新鮮な感覚で書き表す筆力は驚異的である。

 幼い時代にお母さんに続いてお父さんをもなくした小宮山少年は、否応なしにおばあちゃん子になるのだが、おばあちゃんに愛され、可愛がられて育った少年はやがて故郷を離れて東京へ出る。そして第一銀行に就職して、いまホテルーオークラのある高台にあった大倉商業高等学校に通うことになる。銀行では暖かい人柄の渋沢敬三監査役に出会って励まされる。なんと恵まれた環境であろう。

 この第一銀行に限らず当時の一流企業には、今日の企業のようただ利益をあげればいいというのではなく、何か社会に役立つことをしようという一種の理念のようなものがあったようで、従業員を学校に通わせることも仕事と同様に重要視していた経営感覚に感心する。時代が昭和に突入したころ、まだ十才を幾つも出ていなかったという小宮山さんが、これだけモノ事をしっかり見つめられ、子供なりの適格な判断力を備えておられたのは、やはり人に愛され、可愛がられて育ったという幸運と同時に、なにか暖かい大きいものを感じさせる第一銀行という会社に勤められたという幸運がそこにあったればこそであろうと考えるのである。


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