戯曲 わが魂を海に沈めよ
戯曲 わが魂を海に沈めよ
ナンタケットは、アメリカ北東部、マサチューセッ州ニューイングランドの沖合に浮かぶ小さな島である。しかしこの島はかつて捕鯨基地として栄えた島で、いまでもその時代の痕跡をあちこちにとどめているのは、住民がその景観を守り続けているからだった。大半の建物は木造建築で、その外壁には杉板を使うことが義務付けられている。建物だけではない。かたくなに旧時代の歴史や文化を守り続けている島だ。
映画製作の大プロデューサー、ニール・パワーズもこの島の住人だった。この島に四つある集落の一つ、スコンセットに建つ築二百年の捕鯨船長の家を買い取り、その広い邸宅に二人のメイドと住んでいた。華やかな銀幕の世界の住人だから、さぞやその邸宅で派手な生活を過ごしているのではないのかと思わせるが、実際はまるで逆で、世を捨ててしまった人のように、ひっそりとした孤独の日々で、この邸宅を訪れる人は郵便配達人だけだった。
その邸宅の二階のテラスから海が臨める。その港に彼のレジャー艇が係留されている。その高速艇を飛ばしてボストンやニューヨークに出ることもあるが、それは一年に数えるほどであり、普段その艇に乗るのは島の沖合で釣りをするためだった。それも魚を釣るというよりは、釣り糸を海にたらして思考し思索するためであった。なんといってもいつも彼の脳裏にあるのは映画のことだった。彼の頭のなかは映画の構想が渦をまいていた。撮りたい作品がいくつもある。それらの作品がしびれをきらして、早くおれの映画を、私の映画を撮ってくれと催促するのだが、しかしおいそれとその声に乗るわけにはいかない。膨大な資金を投じて製作する映画は、なによりもまず興行的に成功させなければならない。そしてなおかつその作品は映画史に残る傑作でなければならい。彼の映画に対する要求は海のように大きく深い。だから彼が一作作り上げるにはいつも五年の歳月がかかるのだ。
彼がはじめて映画製作に取り組んだのは三十三歳のときだった。その映画は彼が体験したベトナム戦争を下敷きした作品だった。その映画はいきなりカンヌでグランプリを受賞する。五年後に第二作「アメリカの幻想」を放つのだが、この作品は大ヒットしたばかりか、アカデミー賞の八部門を制覇して、パワーズはそのときから伝説の人となった。
四十代に入って二本、五十代にも二本、六十代に入っても二本と五年に一作という創造のサイクルで作りあげる映画は、いずれも完成前からマスコミで大きく取り上げられ、その映画が封切られると世界中の映画館に、どっと彼の映画を待ち望んだファンがつめかける。これをパワーズ現象と呼ばれるようになったが、彼の映画がいかに待望されているかのあらわれだった。五年周期で登場してくる作品は、まるで沈黙の蔵で長い年月をかけて火の格闘をさせてきた極上のワインのように、待ち望む観客の期待をけして裏切らない、どの作品も映画史の残る傑作だった。
パワーズにはもう一つ投資家という顔をもっていた。投資事業でたくわえた彼の現在の資産は、おそらく彼が取り組む大作映画を軽く十本ほど製作できるほどに達しているはずだった。彼は資産家でもあるのだ。しかし彼の投資はたんに金で金を膨らませるための投資ではなかった。彼の投資先はすべてベンチャービジネスだった。それもほとんどがスモールビジネスで、一人か二人でスタートさせる事業にも、彼の触覚をびりびりとふるわせたら、惜しみなく資金を投じる。投資先はアメリカだけでなかった。アンテナは全世界に張り巡らされて、インドの奥地やアフリカにまで及んでいて、むしろ投資家として彼の視線はいつも世界の後進地域や貧困地帯に向けられていて、その地で立ち上げられたスモールビジネスに、彼らが求める資金の何十倍何百倍、ときには何千倍もの投資をするのだった。
こうしてパワーズによって流し込まれた資金によってスモールビジネスが成長し拡大していくと、彼のもとにその投資した資金の何百倍、何千倍、何万倍となって還元されてくるのだ。たった一人で、あるいはたった二人ではじめた会社が、いまでは何千人もの従業員をかかえる大会社になっているが、三十年の投資歴をもつパワーズはそんな会社が何十とあり、それらの会社の大株主なのだ。もちろん彼の投資がいつでも成功するわけではない。あえなくつぶれたビジネスだって無数にある。しかし彼はそんなときも、そのビジネスを立ち上げ、そしてつぶしてしまった人間にメールを打つのだ。「失敗を恐れるな。ベンチャービジネスの精神は、失敗に果敢に立ち向かっていくことだ。この失敗から再起せよ」と。
メルビルがナンタケットのことについてこう書いている。「この海の隠者のごとき裸のナンタケットびとたちは、海に浮かぶ蟻塚のような島から這い出してきて、世界の海を走破し、ついに世界の海を征服したのだ」と。「この地球の三分の二は海である。であれば全地球の三分に二はナンタケットびとのもの以外ではありえない。なぜなら、海こそはナンタケットびとのものにほかならないから」と。「ナンタケットびとだけが海を生活の場とし、祝祭の場としているといえるのである。ひとりナンタケットびとだけが、聖書の言葉によれば、船にて浮かび、あたかも農園を耕すようにして海を耕しているのだ。かれらの家郷はここにあり、ということだ。かれらの生計はここにあり、ということだ」と。
パワーズはナンタケットという小さな島に閉じこもっているが、しかし世界を制覇していく現代の船──インターネットによって世界中にアンテナを張り巡らして、彼の投資家としての感度、いやただ金が金を膨らませていくだけの感度ではなく、なにかそれとは別種の感度が彼を震わせたら、世界の果に誕生するその小さな事業に彼は惜しげもなく金を流し込むのだ。
いったいその別種の感度とはなんなのか。それらのことに光をあてるなら彼の半生、とりわけ彼の少年時代や青年時代を探索しなければならないが、しかしパワーズはまったくその時代のことを語っていない。したがって彼の半生は謎に包まれているのだが、しかしこれだけの名声を放つ人物だから、その謎を暴こうとする本が何冊か出ている。彼を追跡するライターたちが書き上げたそれらの本からパワーズを描いていくと、彼の父親ジョンは今日でいうファンドマネージャーだったらしい。しかし次第に悪質なファンドを組み立てては、投機などに手を出したこともない善良な市民から多額の金に巻き上げては逃走し、また別の土地で同じことを繰りかえすような人物だったらしい。要するにファンドマネージャーから詐欺師に転落していったということだった。悪事は長く続かない。とうとう逮捕されて監獄に投げこまれる。その監獄のなかでわずか三十九歳で没している。
パワーズの母親は女優だった。脇役専門の女優で、二十本近いハリウッド映画に彼女は登場している。そんな彼女に、君を主役にした映画を作ってやると近づいてきたのがジョンだった。そのときのジョンはもっとも羽振りがよかったのかもしれない。そのぐらいの大口を叩くだけの金を転がしていたのだろう。二人は恋に落ち、スウィートホームをかまえ、そのときパワーズが生まれた。しかし彼らの生活の破たんも早かった。ジョンが仕組んだペテン的事業がまたもや破綻していくと、彼は何処かに逃亡していった。そして彼女もまたわずか三歳だったパワーズを捨てて、他の男のもとに走っていった。パワーズは、子供をもつ資格のない人間たちによって生まれてきた、あるいは生まれてきてはならぬ子供だったのだ。
三歳で孤児院にあずけられた彼は、その施設で成長していくのだが、十一歳のときその施設での彼の記録が消える。彼はその孤児院から脱走したのだ。いったいどこに脱走したのか。いったい十一歳の子供はその後どのように生きていったのか。パワーズは十九歳のとき志願してベトナムの戦場の立つのだが、その時までの九年間、まったくの謎にくるまれている。パワーズを追跡するライターたちは懸命にその時代のパワーズを暴こうとするのだが、結局一人のライターもその時代のパワーズをとらえていない。彼らが共通して書くのは、その時代のパワーズは闇のなかであると。人間の土台をつくっていく、少年期と青年期がまったく闇の中なのだ。
生まれてきてはならぬ子供だったパワーズも成長してベトナムに向かう。彼が送り込まれたベトナムで、彼はどのような兵士であったのか、その地でのどのような戦闘をしてきたのか、彼は何人ものベトコンを殺戮してきた兵士であったのか、彼にとってベトナム戦争とはなんであったのか、そのあたりの彼の内部を照射する素材を、パワーズは追跡者たちにかなり豊富に提供しているのだ。というのは彼が最初に取り組んだ映画「ベトナム戦争」は、彼のベトナム体験を下敷きにしているからだ。
その映画の粗筋をざっとさらってみると、その映画の主人公エドガーが配属された部隊は、最も戦闘的な精鋭部隊で、ベトコンの巣窟になっている村を根こそぎ掃討していく。それはジェノサイドそのもので、狂気にとらわれた部隊だった。そのなかでも最も過激な兵士がエドガーで、女、子供、老人、家畜まで、生き物いっさいをマシンガンで、手榴弾で、火炎放射器で虐殺していく。そしてまるでその征服を誇るかのように、下半身が吹きとばされたベトナムの農民の頭髪をつかんで振り回したりする。その狂気の一瞬を一人の報道カメラマンが捕らえていた。
エドガーも兵役を終えて故郷アイオワに帰還する。ベトナム帰還兵はだれでも英雄であり、故郷は彼を英雄として迎える。その表面だけの儀式が終わったら、ただの人になるどころか、突き刺すような冷たい視線が彼に向けられる。彼の家のドアに、ベトナム農民の頭髪をつかんで振り回している写真が張り付けられた。これがベトナムの英雄かとサインされていた。その写真は破り捨てても、破り捨てても貼られる。彼の家ばかりか、雑貨店に、理髪店に、レストランに、ガソリンスタンドに、公民館にも貼られていく。彼の妄想はさらに進行し、彼の狂気の探索はついに報道カメラマンを突きとめるのだ。彼の第二のベトナム戦争がはじまった。彼はその報道カメラマンと彼の一家を虐殺すると、その写真を掲載した新聞社を襲撃するのだ。それもまた彼の妄想が作り上げたストーリーだった。
パワーズの分身でもあるエドガーは、完全に狂気の世界にころがり落ちて崩壊していくのだが、パワーズもまたそのベトナム戦争で、精神のバランスが狂いかけるばかりに病んでいたことが、自己を語らぬパワーズにはめずらしくその映画を製作したとき、インタビューで自らも語っていて、彼がエドガーのように精神を崩壊しなかったのは、禅と弓道に出会ったからだったとも語っている。彼はいまでも弓道を続けていて、ナンタケットの邸宅に百メートルに及ぶ長大な射的場が作られていた。
高尾五郎著「戯曲 わが魂を海の底に沈めよ」《草の葉ライブラリー》近刊