ジュピター 31章 一 1
ジュピター
31──1
病棟に収容されている受刑者にも毎日運動の時間がある。その時間、村松は警備隊の看守に引率されて土屋の房に向かう。警備隊員が房を開扉すると、村松は土屋を車椅子に乗せ、その車椅子を村松がおして刑務所が一望できる丘の上に向かう。そこにユリノキが一本毅然として立っていた。この木はわさわさと群がり繁る葉のなかにチューリップのような花をつける。だから英語ではチューリップ・ツリーと名づけられている。
五月だった。いまユリノキはその花をいっぱいつけていた。その木の下に車椅子を止めると、土屋と村松は話し込む。それは違反行為だが、ちょっとはなれた位置で二人を監視する看守はなにも言わない。その違反行為は黙認されていた。土屋は別格の存在なのだ。
九十八歳の老人は柔軟な精神をもっているためなのか、孫のような若者の話にも耳を傾ける。耳が遠いためかときおり聞き漏らすが、そのたびに聞き返してその言葉を捕らえようする。この老人は自分のことをぼくといい、村松のことを「青年」と呼ぶ。その日、土屋は、
「青年よ、君はこの堕落した日本を救い出すにはどうしたらいいと思うかね」
と問いかけてきた。ソクラテスが若い弟子たちに問答によって思想の毒を吹き込んでいくかのようだった。
村松は自分を語っていく。村松は自らを裁くように自分を語っていった。すると土屋は車椅子から立ち上がろうとした。村松は思わず抱きかかえ、
「土屋さん、どうするんですか」
「青年、ここに立たせてくれ」
村松に支えられて彼はよよと立ち上がると、その村松をちょっと引き離して、村松に向かって頭をさげた。
「どうしてそんなことをするんですか」
「青年の苦悩とその思想に、ぼくは敬意を表するのだ、青年の美しい魂に、ぼくは深く頭をたれるのだよ」
「止めて下さいよ、おれの思想は挫折したんです、おれはいま自分がわからなくなってる人間なんですよ」
「そうじゃない、青年はより深い思想をつくるために、より大きな創造をなすために山に登ってきたのだよ」
その丘の上に立つと空が大きく広がり、東方の空には白い積乱雲がもくもくと湧きたっているのが望見できる。群がり繁る葉がぎらぎらとした夏の陽光をさえぎり、心地よい風がさわさわと葉を鳴らしながら吹きわたっていく。ユリノキの下は涼しい。しかしそこでかわされる土屋と村松の会話は熱い。
「いま日本に必要なのは何か、民主主義か、民主主義がさらに日本に広がっていくことなのか、日本の腐敗は民主主義が土着していないからなのか、そうではない、この民主主義こそ日本を腐敗させていくものなのだ、いまの日本に必要なのは民主主義ではなく暗殺の思想なのだよ、民主主義の敵である暗殺の思想こそ復活させなければならないのだ、民主主義は言う、暗殺は悪であり、罪であり、人類の敵だと」
そのあとを村松がつなげていく。土屋から何度も話されたそのせりふを村松の頭脳のなかにダウンロードされていた。
「それでは民主主義は何をしたというのか、小さな国家を悪の枢軸などといって、何十万という兵士、何万という車両、何千という戦闘機で襲いかかり、その国を破壊していくのだ、なんの罪もない住民が殺される、子供たちも殺される、家も、町も、教会も、病院も、学校も、議事堂も破壊していく、何もかも破壊していくのだ、そのとき爆撃されて廃墟なった国の人々は、民主主義なるものを受け入れるのだろうか、民主主義なる美名の下に、征服と搾取と利権という暴力を隠し持った大国の侵略に屈するのだろうか」
そしてまた土屋がつなげる。
「そうだ、否だよ、断じて否だ、彼らは立ち上がるのだ、破壊された者たちが、虐殺された者たちが、怒りと誇りと希望をかけて立ち上がるのだ、何によって立ち上がるのか、暗殺の思想によってだ、暗殺は人類の誕生ととも生まれたものだ、何千年という歴史ととも生きてきたものだ、その歴史のなかで磨かれ鍛えられてきたのだ、暗殺とは、持たぬ者が、弱き者が、圧制に苦しむ者が手にする最後の表現の手段なのだ、暗殺とは卑劣な悪ではない、人類の敵でもない、暗殺とは人間に希望をもたらす祈りの手段なのだよ」
その後を村松がこうつなげていく。
「いまの日本がもっとも必要なのは、この暗殺の思想なのだ、民主主義によって弾圧され封鎖された一人一殺の暗殺の思想を解き放つ、私腹を肥やす政治家は襲撃される、天下りして何千万何億という退職金をせしめる高級官僚たちも襲撃される、金貸し業で金を雪だるまのように太らせていく銀行屋たちも狙撃される、町や村の活性化などと称してこの国を破壊していく国土開発者たちも襲撃される、町をパチンコだらけにして国民の魂を腐敗させていく遊興業者たちも襲撃していく」
二人の対話を締めくくるように土屋が語る。
「ヨハネの福音書のなかにこういう言葉がある、よくよくあなたがたに言っておく、一粒の麦、もし死なずばただの一粒なり、もし死ねば豊かな実りとなる、暗殺者はその高き使命を果たしたときそこで終焉する、しかしその魂は永遠になるのだ」
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