ヒューマン・ステイン 上岡伸雄
物語の主人公はコールマン・シルクという七十ー歳の元人学教授。彼はザッカーマンと同じニュージャージー州出身のユダヤ系アメリカ人で、二年前までマサチューセッツ州西部の田舎町アシーナにある大学のギリシャ古典文学の教授だった。学部長も経験し、次々と改革を実行したやり手として知られていたが、そのために敵も作ってきた。そして、つまらない事件から「人種差別主義者」と非難され、定年を待たずに退職したのである。
その事件とは、次のようなものだ。授業で、いつも欠席している二人の学生のことをコールマンは「この人たちは幽霊(スプーク)かな?」と言った。ところが、この“spook”には俗語で黒人の蔑称の意味もあり、たまたま学生の一人が黒人だったのである。フランス人の批評理論専門家デルフィーヌ・ルーが(コールマンに採用されたにもかかわらず)コールマン非難の先頭に立ち、コールマンが採用した黒人教授も彼を助けようとしなかった。ちょうどこの騒ぎのときにコールマンの妻が亡くなり、コールマンは激しい恨みを抱えながら大学を退職、ザッカーマンにこのことを小説に書いてくれと頼む。ザッカーマンはその頼みを断るが、二人はこのことをきっかけに親しくなるのである。
この物語に平行して、コールマンの生い立ちが語られ、ここで驚くべき秘密が明らかになる。黒人差別で糾弾されたコールマンだが、実は肌の色の薄い黒人だったのである。成績優秀、運動抻経も抜群だった高校時代、彼はボクシングのユダヤ人トレーナーから、白人の振りをすれば奨学生として大学に行けると勧められる。それを断り、親の望む黒人大学に進むのだが、そこで差別を目の当たりにして愕然とする。その結果、海軍に入ったのをきっかけに自分の人種と家族を捨て、ユダヤ系アメリカ人として生きていくことにするのである。
もうひとつ、この小説で重要な軸となるのが、コールマンとフォーニア・ファーリーという三十四歳の女性との恋愛である。フォーニアは子どものときに継父からいたずらされ、結婚してからはヴェトナム帰還兵の夫から暴力をふるわれ続けた不幸な女性である。夫とのあいたにできた二人の子どもも火事でなくし、現在もその元夫につきまとわれ、怯えながら、清掃婦などをして貧しく暮らしている。教養はなく、自分では字が読めないと言っている。このようにインテリのコールマンとは正反対なのだが、すべてを奪われたコールマンにとって、彼女が心の支えとなっていく。ザッカーマンは、コールマンが彼女にだけは自分の人種についての真実を打ち明けたのではないかと想像する。
この小説で印象的なシーンのひとつは、フォーニアが飼われて野性を失いかけたカラスに会いにいくところであろう。人間の穢れ(ヒューマン・ステイン)を負った自然ということだろうか。フォーニアが文字を読めないように裝うのも、人間の行為に深く傷つき、できるだけ人間の穢れを削ぎ落とそうとしているためかもしれない。
ともかく、この小説はこのように盛りだくさんの内容を含んでいる。一方には、クリントンとモニカ・ルインスキーのスキャンダルを背景に、政治的正しさを求める赤狩り的な風潮がある。その一方で、公民権運動以前から現在に至る、黒人をめぐる差別の状況がある。こうした主題を軸に、家庭内暴力を受け続けた女性の物語、ヴェトナム帰還兵の心的外傷後ストレス障害の物語、フランス人女性文学者がアメリカの大学でキャリアを求めていく物語などが展開される。並みの作家であれば破綻してしまいそうな内容の濃さだが、さすがロスはこれらをうまく絡ませ、壮大な物語を作り出している。政治的正しさをめぐる大学の狂騒など、風刺小説としても極上である。
もちろん、すべての主要人物を充分に描き込んだかどうかについては、意見の分かれるところかもしれない。コールマンがどうしても白人として生きずにいられなかった心情について、白人のロスに充分描けているかどうか。コールマンとフォーニアの恋愛については充分な説得力があるかどうか。ヴエトナム帰還兵はどうか。フランス人女性文学者の姿は戯画化されすぎていないか‥‥。
そういう批判ももっともだろうが、ここで忘れてならないのは、この物謡が常にザッカーマンの視点から描かれているということだろう。コールマンと(そして作者とも)同じように老年期を迎えたザッカーマンは、自分の人生と重ね合わせ、コールマンの生き方に同情と羨みを感じている。そして、コールマンに感情移入し、彼がフォーニアにだけは自分の真実を伝えたのではないかと想像していく。ここから浮かび上がるのは、性的に衰え、人生の終焉を迎えつつある、孤独な老作家の心情である。この老作家の意識という点で、本書は小説としての統一感を得ているのだ。