
成長することの難しい時代における千曲川 河原俊雄
「千曲川」永遠輝きき
成長することの難しい時代における千曲川 河原俊雄
成長することの難しい時代だ。あるいは、成長の足跡が見極めにくい時勢、と言うべきかも知れない。
人はいくつかの出会いと別れを経ながら、幼児から児童へ、児童から少年へ、そして青年期を後にして成人へと育っていく。いや、育っていった。一つの成長期から次の段階への移行のすべてが、はっきりと自覚されたものではなかったにしても、一歩階段を上がるような段差の感覚はだれしももち得ていて、自分史の中に濃い陰影を刻んでいるのだと思う。それは、個々人の心象風景ではあるが、成長の各段階に合わせて、幼児には幼児の、児童には児童の、少年には少年固有の世界なり空間なりがたしかに実在していたことによっている。
小宮山さんの「千曲川」は、そんな成長期に見合った空間あるいは特有の空気というものを、肌に触れるかのような筆致で描きだした作品である。
銭湯でおかっぱの髪を洗ってもらうとき、「ぼく」のほっぺたや瞼にふれた芸者さんのおっぱいのさくらいろの匂い。幼児期のかすむような幸福感が不思議ななつかしさで漂ってくるようだ。
切ないほどに児童期を思い出させるのは、
「先ず三人のちんぽこは、そろってぐりっと顔をだした。三人が三人とも勢いよく小便を発射し始めた。川の神さん、じょんじょん、ごめーんごめーん……まずマサオちゃんが唱え、次いでタカシちゃんが、そしてぼくが。……三人の小便をあわせた岩の裂け目は、アリを浮かベゴミを浮かべ、大河のようにきらめき流れた。熱い太陽の真下で、ぶるっともせず少年たちの儀式は終えた」といった場面である。
少年たちが若い看護婦たちをからかう竜の行列には、なんと多くの少年期の思いが詰まっていることだろうか。異性への憧れ、はにかみ、やるせなさ、整理仕切れぬ感情の高ぶりを振り払うような粗野な行動。
上げていけばきりはない。語られるエピソードの一つ一つがその年頃の少年の世界を色彩豊かに描写しつくしているのである。
そんな活写の妙とは別に、この「千曲川」の流れに身をゆだねるときに私が感じる深い安堵感といったものは、実はそれらの情景が幼児期から児童期へ、児童期から少年期へとひとりの少年の成長の踏み跡として語られていくことによっているのである。成長は漫然とした歳月の経過の中で連続的に成し遂げられて行くものではない。滴る水のような月日を存分に蓄えた鹿おどしが、瞬間、跳びはねて次の蓄積に備えるように、抜き差しならない非連続の跳躍といったものが成長には必要なのだということを、「ぼく」の出会いと別れを通して知ることができるのである。
親のかわりとして限りない愛情をそそいでくれた祖母との別れがある。鹿曲川に抱かれるようにして戯れた仲間たちとの別離は兄貴分たるシゲルさんのブラジルへの出立によって甘く切なく完結する。五年生から六年生に進級すれば、もうがきどもとは違う「あんちゃん」なのだという自覚、これも一つの精神的な踏み段であるだろう。わずか十三歳という若さではあるけれども、銀行給仕として社会に踏み出していく「ぼく」。そのときどきに掛け替えの無い出会いがあり、別れがある。
ときにやるせなく、ときに激しい痛みを伴って、別離の喪失感に耐えながら「ぼく」は着実に成長していくのである。出会いが開く新しい世界を、別離によって自分の中に蓄積していくのである。しかもその堆積はほこりのように漫然と降り積もるものとしてあるのではない。はっきりと層をなして積み重なり、人間としての滋養を蓄えていくのである。出会いの中で十分に熟成してきた内面が、ひとつの出来事を契機としてはじけ出てくるのである。これが、まさしく成長というものの有り様なのではないだろうか。
さて、翻って、現代は成長が困難な時代であるとつくづく感じる。いつかは突き放すべき身でありながら、子供が青年期を迎えてもなお回りにまとわりつく親達。大人になりきれない親が子供の巣立ちをなんやかやと妨げる。揚げ句は親と子は友達同士などと互いに成熟の機会を放棄するのである。
いたずらを重ね歩く悪たれ仲間というものが存在しなくなってしまった。あるのはファミコン仲間のみ。背を向け合ってディスプレイにのみ対面する子供たちは単なる群れに過ぎない。希薄なつながりから濃密な別離など生じようはずはない。ここにも成長の跳躍板は存在しない。
子供たちの世界は今や水平社会であり同質杜会である。がき大将がいない。兄貴分がいない。憧憬の対象、目標とすべき存在がないということは、成長への階梯が成立していないということである。どこまでも成長しにくい時代である。月日が漠然と過ぎていき、着実に年はとっていくのに、人間の精神はどこかの杭にひっかかったままである。大人は子供であり、子供は一面大人である。現代がそんな奇妙な時代だと、はっきりと気付かせてくれるのが、この「千曲川」なのである。
幼児期には幼児期の匂いがあり、児童期には児童期の風景がある。それらは確かにつながっていながら厳然と別の世界をなしている。一つ一つ成長期を上っていく「ぼく」の軌跡を懐かしくあるいは羨ましく追いながら、「階段をのぼるように成長する」ことが当たり前であった一昔前の現実を確認するのである。と同時にそんなありきたりの事柄が、かくも難しい現在に思い至るのである。
このことは、小宮山さんが意図した「時代を描ききる」こととはあるいは別の事柄であったかもしれない。しかし、すぐれた時代描写はその時代がもち得た特質を生活の深層で描き出すとともに、今の時代の病理を的確にえぐり出すものだと思うのである。
大人になりきったことに自信をもち得ない私たちに『千曲川』の続編はどんな成長の有り様を示してくれるのであろうか。