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そのとき、彼は恋に落ちた

 野田夫妻から三件目の縁談が持ち込まれるのだが、それはそれまでの話とちがって、彼の存在を揺さぶるひとつの大きな事件だった。その発端は土曜日の昼下がりだった。一人の女性が彼の店を訪れた。その女はドアを押して店舗に入ってくるなり、
「ああ、ビバルディ!」
 工房に優雅に流れている旋律にその女性は感嘆の声を上げた。
「ビバルディがこうして一日流れているんですか」
「ええ、まあ、そうです」
「ああ、なんて幸福なお仕事なんでしょう、ビバルディを聞きながらお仕事ができるなんて、前からこのお店、気になっていたんですけど、とうとうきました、ああ、ビバルディですよね」
 そして工房内を見渡して「たくさん道具と機具があるんですね、ちょっと拝見してもいいですか」といって、手にしてきた紙袋をテーブルに置くと、カウンターの横から工房内に入ってきた。そして一点一点の工具や機具の説明を求めるのだった。

「三台のミシンは、それぞれ違っているんですか」
「ええ、それは作業によってそれぞれ別の用途があるんです」
「これはなんていう機械なんですか」
「フィニッシャーと呼んでいます。皮革を切ったり、削ったり、磨いたり、そぎ落としたりともっとも頻繁に使う機具です、この機具をいかに使いこなすかが、ぼくらのねかにかかっているんですね」
「これはなんですか、ずいぶん変なものがありますね」
「これはドライヤーです。強力に熱風で皮のたるみとしわを伸ばしたりするんです」
「ああ、たくさんのナイフ、ナイフが壮観ですね」
「ぼくらは包丁ってよんでいます。皮きり包丁ですね。毎日の作業はいつも包丁研ぎで終わるんですよ、ときには二時間と三時間とかけて砥石でごしごし研いでいます」
「複雑な工程がいっぱいあるんですね、そのいくつもの工程を通って棚に展示されている紳士靴が誕生するんですよね、ちょっとお靴を見せていただけますか」

 篤史はその棚から靴を取り手渡すと、その人は掌で爪先から踵まで愛撫するかのように撫で靴の中に手を差し込んだ。そしてその靴の中からなにか聞こえるのてばないかとその靴を耳に当てたのだ。
「ああ、ビバルディ! この靴のなかからビバルディが聞こえてきますよ」
こんな奇妙なことを言われたのははじめてことで、篤史は意味不明の感嘆の声を上げていた。
「だって一日中、ビバルディの音楽が流れているんでしょう、この靴のなかにもビバルディが染み込んでいるはずですよ」

 こうして狭い工房内を一巡して、接客のために置いてあるテーブルのところに戻ってくると、その女性はテーブルに置いた紙袋から二足の靴を取り出した。高品質のハイヒールとローヒールだった。ローヒールはイタリア製だった。篤史は手にしただけで修理箇所がわかり、瞬時にその作業の工程を組み立てている。ハイヒールの方はヒールの交換だった、彼らがソールをよぶ靴底に張り替えが必要だった。作業の工程表に目を落としながら、四日ほどかかりますがと篤史が伝えると、平日は残業があってこれないので一週間後の同じ土曜日に取りにくるというのがその人の返事だった。それでビジネスは成立した。するとその人はまた奇妙なことを言った。
「ここでしばらくビバルディを聞いていてかまいませんか」
「ああ、どうぞ」
「質問ばかりしてごめんなさい、おとなしくしていますから、どうぞお仕事をなさって下さい」

 彼は作業にとりかかった。しかしその女性のことが気になる。テーブルの奥にソファーが置いてある。彼女はその左の端に深く座り、やや顔をあげて頭を壁面にあずけ目を閉じている。なにか流麗に流れるビバルディに、その全身をゆだねているかのようだった。その女性は美人というわけではない、しかし気品があり深い知性をその相貌にたたえている。
 
 生涯に一千近く作曲されたというビバルディサウンドがつぎつぎに流れていく。ヴァイオリンとビオラとチェロの弦が奏でる宇宙。ビバルディはこの三つの弦を多様多彩に織りなして革命を起こしたのだ。弦が飛翔する。弦が風を奏でている。木の葉が舞い散っていく。その葉は小川に舞い散り、渓流が葉をそのさらさらと流れる。麦畑はもう刈り取られた、落穂拾いをする農婦たち。間もなく冬将軍がやってくる。イタリアで紡ぎだされた中世のサウンドが、品川の小さな工房のなかに、ときには切なく、ときには悲しく、ときには優雅に、ときには暗く、ときには悪魔のように流れていく。
 
 そのとき彼は見た。その人の閉じた目から涙が頬にすべり落ちていくのを。その人は掌でその涙を拭っている。しかしまた新しい涙が頬に流れてくる。その涙をまた指先で拭っている。篤史はその一瞬その女性に恋に落ちた。一瞬で恋に落ちたことなどはじめてのことだった。


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