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千曲川 または明日の海へ  第十三章    小宮山量平



同胞よ、地は 貧しい
われらは 豊かな種子を
蒔かなければ ならない


千曲川 第十三の章

   ぼくらの時代の輝き


 九月の記念祭での《ベニスの商人》の好評ぶりと言ったらなかった。およそシェークスピアのシの字も知らぬ鰐部覚右衛門先生にしてからが、裁判官ポーシャの名判決にはよっぽど感心したのか、「なるほどねえ、血一滴たりとも流してはならぬときたか」と、いかにも簿記の先生らしい褒めちぎりようであった。染村亀鶴先生ともなると「さすがだね、さすがだねえ」と、誰彼の別なく、自分の手柄でもあるかのように感動を強要し、「やっぱり、負うた子に教えられですなあ」と、哲学者らしい感心ぶりを示すのであった。

 じっさい、津久井くんのシャイロックが、「誓言、誓言、てまえは天帝に誓言致しました。わが魂に空誓言の罪が負わされましょうか。いいや、それはベニス一国に代えても成りませぬ」(以下坪内逍遙訳に基いて意訳)と、おのれの勝利を信じて、天に向かって大見栄を切ったときなど、この仇役のユダヤ人に対して、観衆一同の拍手がどっと生まれたほどだった。

 が、やがて水田くんのポーシャが天性の甘高い声を一段と張り上げて、「待て、この証文をとくと見るがよい。文面には確かに肉一ポンドと書いてはある、が、血は一滴も記されてはおらぬぞ。よいか、この証文の通りにするがよい、憎いこの男の肉を切りとるがよい。だがな、そのおりキリスト教徒の血をたとい一滴たりとも流そうものなら、おまえの土地も財産も、当ベニスの法に従い、ことごとく国庫に没収致すぞ!」と、歯切れもよく述べおえたとたん、机上の法典を、ぼんとたたいた間の良さ! 正に津久井くんの名優ぶりを堂々としのぐ名演であった。

 昼間の高等商業部のお兄さん方も余程感銘したものか、やがて《大倉高商新聞》に写真入りで報道すると同時に、折からの文芸部廃部の圧力に対する、それとない援軍の役目をも演じさせられたほどであった。そんな好評ぶりが廻り廻って、どんなふうに伝えられたものか、十月の半ばごろ、思いがけない紅谷さんからの批評が、水田くん経由で届いた。

 内容そのものは、まぎれもなくぼく宛で、まず、「カバちゃん!」と呼びかけている。「シェークスピア劇の成功おめでとう。きみのアントーニオぶりも、大変好評だったそうだね。これからは、こういう地味な活動こそが大切で、その証拠には、築地小劇場なんかでもこの秋は、《「ムレット》からの出発だよ‥‥」と書きだした紅谷さんらしいきちんとした文字が、しきりと西洋古典文学へと眼をひらくことなどをすすめている。が、どう探しても、安井信一くんの消息を探り得るような言葉は見当たらない。

「一般使用人組合」のことについても、ひと言もふれてはいない。が、意外なことに、「去年渋澤さんが病気療養中の伊豆で発見された大変な資料の整理を、ぼくもお手伝いするようになってね‥‥」というくだりがあって、ぼくは、あっと思った。

 そうか、「あの方」の眼くばりは、そんなところにも行きとどいでいたのか。その眼にとらえられた紅谷さんは、もしかしたら今年日本のすみずみにまでひろがった「転向」という時代の大波に呑みこまれているのではなかろうか。もちろん、非難めいた思いで言うのではない。ただ何となく、安井くんのことが気になるのだった。彼が遠くへ行ってしまったような淋しさ。ぼくが後方に取り残されてしまったような無念さと‥‥思いがけない気持ちのゆらぎが、紅谷さんの手紙によってぼくの心に生じた。

 そんな矢先のこと、前ぶれというほどのことではないが、渋澤重役が、わが渋谷支店に立ち寄るというのである。それも、お客の出入りのある常業時間中は避けて、四時過ぎになるだろうというのである。
「何と言っても、渋谷という土地柄の発展性を注目なさってのことだろうよ」
 と、支店長の太田さんは気負い立った。けれども、四時が過ぎ、四時半が過ぎても、重役の姿が見えないとなると、急にそわそわとして自分で表通りへ出て見たりするのだった。

 が、ちょうどそのすきに裏口の扉が音もなく押し開けられ、ぬうっと鼻面をのぞかせたのは、例によってハチ公である。山下さんがいささか慌てて、そのハチ公の進入をどうしたものかと駈けよったとたん、なんと、そのハチ公の後ろにつづいて、当の渋澤さんがのっそりと現れたではないか。もっと驚いたことには、その渋沢さんに対して、小使の山下さんが、いかにもなつかしそうに、
「お久しうございます」とのあいさつ。

「やあ、元気? おばさんも?」と、山下さんに答える重役のあいさつも、古くからの知り合いといった親しさなのである。慌てて表通りから裏口と廻ってきた支店長が、思いがけない展開に戸迷っていると、
「ちょっとその先まで来たら、わが友ハチ公が、ぶらりぶらり歩いてるじゃないの。急いでクルマから降りたら、偉いもんだねえ、向こうから近づいてきて、ワン! と、あいさつするじゃないか。そしてね、まるで案内するかのように先に立って、ここへ来るじゃない。おどろいたねえ!」

 と、渋澤重役はその場にしゃがみこんで、ハチ公の頭を撫ではじめた。
「と申しますと、重役は、このハチ公とお知り合いの仲で?」と、支店長。
「はは、お知り合いの仲ねえ。そう言えば、そんな仲だな、なあハチ?」と、重役。そして集まってきた行員一同に対しても謎解きをするかのように語るのだった。

「このハチ公の飼い主の上野先生とは古くからの知り合いでね、何年か前、先生が外国へ旅立たれる前に、このハチ公をどうしたものか相談を受けたものさ。ちょうど程近くの常盤松にうちの銀行の寮があって、若い者たちもたくさんいたから、軽い気持ちで引きうけたんだよ。それに山下さん夫婦も寮の番をしていてくれたしね。ところがこのハチ公ときたら、毎日夕暮れともなると渋谷駅までご主人様のお迎えやら焼き鳥屋の訪問やらにお出かけというわけ。‥‥それが、何年つづいたか、ねえ、山下さん?」

 そうか、そんな訳だったのか。ぼくには、ハチ公と山下さんと、二つの謎が一ペんに解けた思いであった。それにしても、渋澤重役が今日ここへ来られたのには、どんな訳があるのだろう? 支店長は、すっかり固く身構えたまま、何やら指示を仰ぐ面持ちであった。「じつはね、長いこと伊豆の静養中で渋谷へも来られず、新築の店舗がどんなふうに完成したかも、見に来て上げられなかったしね。何しろここは、これから発展する土地柄だからなあ」と、わざとらしく付け加えると、先に立って支店の内部をぐるぐるとひと廻りし始めた。支店長が慌ててその後を追った。

「今日はね、先代様の一周忌なんだ。うちのカミさんなんかもお手伝いに呼ばれてね」
 一同が重役の後を迫ってその場から消えた一しゅん、山下さんが説明してくれた。なるほど、それで喪服姿であったのか……ぼくの疑問は、それで解けた。店内の一同にちょっとしたあいさつをすることになった渋澤重役は、そのための準備がととのうひとときの間に、さりげなくぼくたちに近づいてささやいた。

「今日は白金台のおやじ様の一年忌だったんだがね。ああいう父親のことだが、いま急に胸いっぱいになってさ。何だか近くのきみたちに会いたくなって、立ち寄ってみたんだよ」
 なるほど、そうだったのか。重役の父親の篤二(とくじ)様と言えば、父なる青渕先生の重みに圧倒されでもしたかのように、生涯を遊びに身をもちくずし、遂に渋澤一門から追放されたような人柄であった。

 昭和六年秋の偉大な祖父渋澤栄一の死に次いで、一年後の秋には逝った。そんな父親の法事を今日秘かに済ませたその足で、ふと思いだした「きみたち」というのは、山下さんであり、ハチ公であり、そしてぼくのことであったのか。ぼくは思わずすっくりと立ち上がり「ありがとうございました」と、あいさつするつもりであった。けれども、そんな間も与えずに、ほんの短い二、三分のスピーチを済ますと、重役はそそくさと立ち去った。

 ただ、その立ち去りぎわに裏口のところでちょっと振り返ると、ハチ公に別れのあいさつのしぐさをした。するとハチ公は、ごろごろとのどにつかえた唸りにつづけて、「ウォン」とひと声吠えるのだった。
「珍しいなあ、こいつ、ここしばらく吠えたこともなかったに」と、山下さんがハチ公の頭をなでながら、感慨深げに呟いた。

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 そんなことがあってから、ぼくとハチ公との結びつきは急速に強まった。彼は毎夕必ず現れ、必ず夕食を共にし、そして必ず駅まで送ってくれた。ぼくと彼との別れも、いつしか頬すりよせての別れとなっていた。渋谷駅前の夕暮れも早まって、ぼくとハチ公の別れるころには灯ともしごろとなってしまう。焼き鳥屋の赤ちょうちんにも灯がつく。

 そんな冬めいた日のことであった。いつものように、裏口がすうっと開いて、ハチ公の入来かとぼくが近づくと、そのぼくの前にぬうっと立ちはだかったのは、一見してそれと分かる刑事らしい二人連れであった。年配の男の方がつかつかと支店長席に近づくと、小声で、何やらささやいてのあげく、ぼくの前に立って、ぎろりと、ぼくをねめまわした。「分かってるだろうな」──言ったのは、それだけである。

 じっさいには、ぼくには何も分かってはいなかった。それでいて、いつか必ずこういう日がくるような予感があった。一しゅん、ぼくの頭に浮かんだのは安井信一くんの顔であった。ぼくは二人の男の後に従いながら、ふと、安井くんの方へ、自分から進んで近づいて行くような思いがするのだった。山下さんが呼んでくれたタクシーに乗り込み、バックミラーに映る自分の顔を見ながら、ぼくはそうっと自分へのエールを送った。動きだしたタクシーの窓越しに、山下さんの足もとにうずくまっているハチ公が、ちらっと見えた。

 それがたしか十二月三日のことで、その日の夕方、東京の中野警察署に着くなり、例の年配の刑事がひと言、「ま、何で呼ばれたのか、ようく考えておくんだな」と言っただけだった。それっきり、二日たっても、三日たっても、何の呼び出しもなく、これといった取り調べもない。ただ歳末警戒の季節に入ったせいか、近くに新井薬師という盛り場を控えたこの警察署の留置場は、次第に検挙者が増え、十日ごろには、三畳ずつの各房に十五人を越えた留置人が詰め込まれるといった有様であった。

 各房は、入口の重い扉を背に三人が横に並び、その三人が古参の留置人で、扉にもたれてゆっくりと足を伸ばしている。その三人の前に、奥の板壁に向かうようにうずくまって三列に坐るのが新参の留置人たちである。夜ともなれば、後ろの者がそれぞれ前の者を股の間に抱きかかえるようにして寝るよりほかはなかった。そして、いちばん新参者のぼくを、特別の計らいで抱きかかえてくれたのが、第一房で最古参の金さんであった。

 その金玲鏞(れいよう)さんは、もう百日を越える古参の留置人で、三つの房の中でも最古参であったらしい。まるで時代劇の中の牢名主のように、看守のお巡りさんも一目おく存在であった。やがて次第に分かったことであるが、金さんは東京外国語学校のロシア語科の学生なのである。けれどもここでは、牢名主めいた重みを、ずっしりと身につけていた。

 第一房で金さんに次ぐのが松本一三さんで、年齢は金さんより十歳は上なのだけれど、金さんを留置場の古参として立てるばかりでなく、金さんと共に、何かにつけてぼくを庇ってくれるのであった。程なく分かったことなのだけれど、松本さんは農民運動の指導者であって、しかも、信州の上田を中心とした活動家なのだという。「なあんだ、きみも信州上田の産なのか!」と、ぼくの耳もとでささやくのを聞いていると、金さんが、「おまけに目下売り出し中の新進作家なんだよ」と註釈を加えてくれた。何と、その註釈によれば、あの紅谷さんご推賞の「改造」当選作品「天理教本部」の作者・高橋騎西(きせい)その人なのであるという。ぼくはまじまじと松本さんを見つめながら、その作品への率直な感動を伝えたものだった。

 もちろん、金さんも松本さんも政治・思想犯で、彼らの他にも各房には三分の一近くも同じ容疑の留置人がいるのだという。従って、第二房に安井信一くんが収容されていることは、すぐに分かった。安井くん自身が、すでに検挙されてから二ヶ月近くはたっている。「安井少年も、よくがんばった。だがある日、鼻血でまっ赤になるほどテロられてね、その翌る日に年老いた両親が面会に来たかと思うと、すぐ落ちてしまった。あいつが落ちたんで、きみたちに順番が廻ってきたのさ」

 そんなふうに松本さんに説明されただけで、ぼくには、ほぼ事情が呑み込めた。もちろん安井くんに対する非難がましい気持ちなど、みじんもなかった。むしろ出来ることなら彼に寄りそい、彼を慰め、そして何よりも彼への拍手を送りたいような気持ちが、哀しいほどに胸いっぱいとなった。便所などの行きかえりに、ちらりと第二房の金網越しに視線を走らせて見るのだが、もちろんうす暗い房内は定かでなく、そんな胸の思いは伝えようもない。幾日たっても、安井くんと視線を合わせることなどは不可能であった。

 またたくまに一週間がたち、二週間がたって、三週間目に入ってからのある朝、とつぜん、こんな房内にまでありありとひびきわたるサイレンの高鳴り! ぼおおおおーと、長い一声が途切れたかと思うと、たちまち、第二声がぼおおーと始まった。一しゅん、房内にも、「おう」というどよめきが生まれた。あたかも、房外のどよめきまでがそのまま伝わってくるような活気にみちた朝の目覚めであった。

 そのとたんである。ふだんはおとなしくてコッケイ談ばかりを飛ばしている黒川看守が、つかつかと第二房に身をよせ、ガチャーンと錠前を外したかと思うと、「おい!」と、ぼくの名を呼んで廊下へと引き出した。引き出すなりまず一発! その身を起こす問もあらばこそ、つづいてまた一発! あとはやみくもに連打しつつ、第三房の前を過ぎ、便所前の板壁に激突させ、そこでようやくひと息つくと、自分から喘ぎ喘ぎ怒鳴る!

「こんな、めでてえ日に、きさまのような、コクゾクがいるから、コクゾクがいやがるから、へいかのおこころは、やすらぐまが、ねえんだ! こんな、めででえ日に‥‥」
 そして今度は第一房の方へと、連打が始まる。「こんな、めでてえ日に‥‥こんな、めでてえ日に‥‥」言葉はそれだけの繰り返しとなり、ぜえぜえという喘ぎと混じり合い、ぼくが第一房の前でぐったりすると、そのぼくを引きずり起こすようにして、また第三房の方へ‥‥とたんにまぎれもなく、
「おれと代えてくれ!」という声、あれはまちがいなく安井くんの叫びだ。そう遠い意識の底で聞いたような気がしただけで、ぼくは気絶してしまったのだろう。

 ボロ雑巾のようにぐったりとなったぼくの体を、ぺしゃりとばかり第一房へ投げ込むと、それを受けとめたのが金さんだったのだろう。じわりじわりと身にしみるような温もりを感じながら、うっすらと意識を回復したとき、ぼくの体は、すっぽりと、金さんの股の間に抱きかかえられていた。その温もりは、ぼくをかかえた金さんの両眼からあふれ、ぼくの頭にしたたり落ち、やがてぼく自身の涙のように、ぼくのうなじから首すじへと伝わり、ぼくの胸もとの肌にしみとおる。人間の涙が、あんなにも流れ出るものであろうか。ぼくは、半ば恍惚として、その涙の温もりに身も心も委せきっていた。

 その日が、昭和八年十二月二十三日であった。遂に、待望の皇太子の誕牛なのだ。
 女児(内親王)ならば長一声。男児(親王)ならば長二声と、サイレンの鳴らし方も、その日のために一般に公示されていた。この秋以来、巷の関心はその一点に集中していた。すでに内親王の出生が四度もつづいていたので、人びとの皇太子出生をのぞむ思いは、もう極限まで高まっていた。今度こそは親王であれ、待望の皇太子であれ!‥‥と明らさまな期待が、正に日本じゅうにふくれあかっていた。その熱い熱い期待に答えるかのような、この朝のサイレンのひびきわたりであった。

 黒川看守をとらえたような興奮は、忽ちもっと高まり、もっとひろがっていった。折からの暮れから正月にかけての鮮やかな時の流れが、国威昂揚の弾みを促進させ、近年にないめでたさを奏でたのであろうか。

  日の出だ、日の出に
  鳴った鳴ったポーポー
  サイレンサイレン ランランチンゴーン
  夜明けの鐘まで
  天皇陛下およろこび
  みんなみんな かしわ手
  うれしいな ありがとう
  皇太子さま お生まれなさった‥‥

 正月のラジオは早くも全国に向けて、そんな歌声を繰り返し繰り返し流しつづけた。三学期が始まると、どこの学校でも、その歌は教えられた。文字どおり国を挙げての歓喜の合唱は、世間から隔てられたこの留置場の中にまでも、容赦なく押しよせて来た。

 そのころまで、ぼくの取り調べは全くなかった。「塩漬け」にされてるんだよ、と、金さんが教えてくれた。つまり、ちょうど食べごろになるまで放っておくというのだろう。
「河上肇先生のような偉い方でも、この塩漬けってやつが、いちばんこたえたらしいな。先生はね、この署のちょうどこの房との真向かいの保護房(畳が敷いてある)に、ぽつんと、ひとりで放っておかれたんだよ。そのあげくが、去年の転向声明となったのさ」

 そう教えてくれたのは、松本一三さんであった。そうか、あんな狭い部屋に、あの老体の先生が‥‥そう思って、改めてまじまじとのぞいてみると、その保護房にはいま女性の影が二人ゆらめいていた。その女性たちも、ただ塩漬けのまま、もう百日に近いのだという。

 そんな塩漬け状態に最初の動きが生じたのが、安井信一くんの呼び出しであった。一月も、もう半ばになろうとしていた。留置場の入り囗をコトコトとたたいて、「安井を出して下さい」と声をかけだのは、まぎれもなくぼくを連行した年配の特高刑事であった。

 ぼくは思わず緊張して、この眼で安井くんの姿を見ようと、第一房の格子に頬をすりよせた。第二房から出された安井くんは、その場でぐんと背伸びし、それとなくぼくの方を見たような気がする。まぎれもなくぼくは、その安井くんのきりっとした視線をとらえることができた。が、房内のぼくの視線を、彼がとらえることができたか、どうか。

それが、安井くんとの最後の別れであった。程なく若い特高刑事がやってきて、「安井の私物を出して下さい」と、看守にたのんだ。黒川看守は、ほとんど鼻歌まじりといった調子で、保護室側の戸棚を開けて私物包みをより分けると、ひょいと獲物でもとらえたかのようにひと廻転させてから、刑事に渡した。
「おや、少年院送りかな?」と松本さんが小首を傾げると、
「いや、恐らく安井は釈放です」と、金さんが確信ありげに呟いた。
 そんな金さんの予言の適中を思い知らされたのは、他ならぬぼくであった。まるで安井くんの動きを待ちかまえていたかのように、その翌日からぼくの取り調べは始まった。

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「どうだ、ちっとは考えて見たかい」と、ぼくの顔を見すえたのは年配の野口刑事だ。
「考えるって、何を?」と、ぼくは思わず問い返してしまった。
「少しは懲りたかってんだ」と、相手は末だニヤニヤと、夕バコを吹かしていた。
(懲りるとは?)この理由もなくとらえられている「塩漬け」の毎日のことか? あの皇太子誕生の日に浴びせられた「国賊」呼ばわりのことか? それとも‥‥?

 ぼくは何の思い当たることもない心もとなさで、呆んやりと宙を見つめるばかりだった。「しらばっくれるんじゃねえ!」いきなり、野口刑事は立ち上がった。思わずぼくの顔面に手を伸ばそうとして、ふっと思いとどまったように、その手を自分でおさえた。

「昨日、おまえのおばさんが来たんだ。‥‥おっかねえおばさんだなあ。警察へ来て、あんなにいばる女なんて、見たことも、聞いたこともねえや。おまえに指一本でもふれて見ろ、告訴するから、と来たもんだ。‥‥つっ、おっかねえ、おっかねえ!」

 ぼくは思わず、例の笑顔になってしまった。「満州がえり」の風を吹かせて思う存分に息まいたに違いないお正おばを思い浮かべると、この刑事の困惑ぶりが思いやられた。若い方の刑事が、お正おばが差し入れてくれた着更えと、特大の大福餅を机上に並べてくれた。

「ほれ、何も彼もみいんな分かっとるのだ。安井信一が、きれいにバラして行きおったんだ。おえも早えとこ、きれいに吐きだして、安井みてえに釈放してもらうんだな。なにしろ、おまえたち未だ子どもなんだからなあ」
 そう言って、ぼくの眼の前に新しい新聞の社会面を指し示すのであった。

共産青年同盟の少年闘士
老いたる父母の説得に涙の転向

 ああ、またしても「転向」か。その写真入りの記事の内容までは読む気もなく、ぼくは、大きな見出しだけを心に灼きつけた。なぜか、遠い世界の出来事のような虚しさだけが、ぼくをとらえる。

 房へ帰って、金さんの股の間におさまるなり、ぼくは、そっと聞かれた。
「殴(や)られたか?」
ぼくは首を横に振った。
「安井は少年院か?」再びぼくは首を振った。
「すっかりバレてるなんてのは、うそだからな。ひっかかるんじやないよ」と、注意してくれたのは松本さんであった。その松本さんにお正おばの話をすると、「いるいる、信州には、そういうおばさんがたくさんいるんだよなあ」と、すっかり喜んで金さんをかえりみるのだった。

「朝鮮の女も、強いよ。とくに息子たちが日本の警察につかまったりしても、母親は、けっして泣かないよ!」──そう言った一しゅん、金さんの臉に、どんなお母さんがよみがえったのだろうか、と、ぼくの方が涙ぐんでしまった。

 母親の話なんかこそめったにしなかったが、金さんは、じつにたくさんの朝鮮の話をしてくれた。とりわけ朝鮮の漬け物の話ともなると、じつに眼に見えるように詳しく、聞いているだけで口じゅうに唾が湧く。それをいちばん楽しげに聞き入るのが、ぼくよりも松本さんで、彼らはあんなふうにして、じつはそれぞれのふるさとを偲び、母親を想っているのにちがいない。そんなふうに気がつくと、いっしかぼくは留置場にいるなんてことも忘れて、学校にでもいるような気分になってしまうのだった。

「おまえって奴は、へこたれるってことがないんだなあ」と、本庁から取り調べにやってきたという若い検事が、つくづくとぼくの顔を眺めて言ったものである。
「ちがうんです」と、ぼくはあわてて言った。「ぼくの顔は、悲しいときでも笑っているんです。おばあちゃんがね、天からの授かりものだなんて言うんですが、考えてみると、つらいってことが、めったにないんですね」
「ひとつ、そんな調子で、いよいよ手記でも書いてみるか」と、検事は用件を切り出した。

 あらまし特高刑事の取り調べが済んだ段階で、さて、本格的に転向手記を書かせるというのが、そのころの「塩漬け」留置人の始末の段取りであったらしい。
「カバちゃんなんて(と、いつしかここでもぼくはアダ名で呼ばれるようになった)早いとこ、手記を書いて、さっさと出してもらったらいいんだよ」と、松本さんも言う。

 けれども、そんなふうに言われて見て、ぼくは、ようやく分かった。ぼくに何の書くことがあるのか? ぼくに転向する理由があるのか? 無い、なんにも無い。何から、何へと転向するのか? そんな思いを、ぼくは若い検事にそのまんま告白してみた。
「困るんだよなあ、そういうのって。きみみたいに、おっとり構えていると、いっしかきみは、だんだん大物ってことになってしまってねえ。なかなか放免できなくなるんだ」

 たしかに、安井くんのような好青年をアカい思想に染め上げたのも、一般使用人組合なんてものを組織したのも、芝居をやったり同人雑誌を作ったりするのも、みんな、その中心人物は「カバちゃん」なのだ。あいつは、見かけによらぬ大物なのだ‥‥いつしか、そんなふうに仕上げられたストーリーを、そのまま手記にした上で、ぼくは間違っていましたと「転向」を表明するのか。すると、紅谷さんはもちろん、水田くんも、藤井くんも、引田くんも、そしてあの津久井くんあたりまで、みんな一度は検挙されることになるだろう!


〈おお、わが魂に、空(そら)誓言(せいごん)の罪が負わされましょうか。いいや、それはベニス一国に代えても成りませぬ!〉
 じっさい、ぼくは、あのシャイロックのように両腕を人に突き上げては叫んだらしい。その腕をやさしくおさえ込みながら、まるで赤子をあやすように金さんがぼくを抱きすくめてくれたのだろう。
「ゆうべは、ちょっとうなされたようだね」
 金さんの言い方はさりげなかったのだけれど、特高刑事のおどし、検事のそそのかし、そんな白日夢のような日々にさいなまれたその夜は、さすがにぼくの魂はうなされたらしい。いつしか、そんな金さんに、ぼくはすっかり甘え切っていたようだ。

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 その金さんが、ある日とつぜん、いなくなった。拘置所行きになったのだろう、と、松本さんが教えてくれた。その松本さん自身が、やっぱり拘置所行きとなったのだろう。二人とも、いよいよ裁判をうけることとなるはずである。その二人がいなくなってみると、ぼくははじめて、大変な先生を失ってしまったような淋しさにおそわれた。

 考えてみればあの二人のおかげで、ぼくは留置場なんていう煉獄に閉じこめられていたのではなく、この上もなく大事な人生の学校に入っていたようなものだ。ぼくは、いつも庇ってもらっていた。何でも教えてもらっていた。絶え間もなく抱きかかえられていた。思えば、ぼくのためにあんなにたくさんの熱い涙をそそいでくれた人なんて、生涯にまたと逢えるだろうか。あんなにも尊い友達の宝物を手に入れるためならば、こんな煉獄なんて、ちっとも恐ろしくはない。

(金さぁん、金さぁん!・)
 金さんがいなくなって幾日かたった夜、ぼくは、はげしく泣いた。いや、泣いているぼく自身の夢を見た。そして、はっと気がついて見ると、何と、ぼくはこの房に入れられてから初めて、夢精をしていた。ここへ入れられた日から、もう七十日以上が過ぎていたのだ。

 そしてその翌日、ぼくはお正おばとの面会が許された。差し入れられた下着に着更えながら、ぼくは何のこだわりもなく「ゆんべ粗相をしてしまった」と、さっぱりと告白しながら、ぬいだ下着を渡した。「おんやまあ、それはお手柄なこと!」と、お正おばはけろっと笑いながら、立ち会っている若い特高刑事の前で、わざと下着を振つてみせた。刑事は苦笑しながら、「この分だと、まだ当分は出られそうもないなあ」と、ぼくを眺めまわした。

 さっぱりして房に帰ってみると、留置人の組み変えが行われていて、第二房の牢名主めいた「教授」が、ぼくの隣へ坐るようになっていた。おそらく留置の長さからすれば、第一房の古参はぼくになる。それでは貫禄が不足するので、みんなから「教授」とうやまわれている粟田賢三さんを、ぼくの上に据えてくれたのであろう。ぼくは、またしても新しい学校へと入学したようなもんだ。着更えしてきたさっぱりの気分もあってか、ぼくは顔じゅうに悦びをたたえて、「いらっしゃいませ!」と言ってしまった。聞きとがめた黒川看守が、「いらっしゃいませはないだろうが、ねえ、教授」と、笑っている。

 じっさい、粟田さんは府立東京高等学校の教授であった。松本さんによれば、こんなにできる先生はおるまい、という。数ヶ国語に通じるばかりか、専門の哲学はもちろん、およそ何を訊いても知らぬことってない。そこで松本さんは極端に声をひそめて、「もしかすると、あの河上肇博士を手伝って、あの《三二年テーゼ》のほん訳もおやりになったに違いない。いまつかまっているのも、たぶん、その関係でだよ」と教えてくれたものである。ぼくが格別の笑顔でこの「教授」をお迎えしたのも、そんなまぶしさのためなのである。

 が、もう一つ。おそらく粟田さんは、わが安井信一にとっても、この上もない先生であったに違いない。もしかするとわがコルチャーギンくんは、その心のうちを、この教授にすべて打ち明けて行ったのかも知れない。それとなくぼくへの伝言となるようなことも、聞きだせるのではないだろうか。そんな期待にわくわくしながら、ぼくは粟田さんに密着することにした。

 けれどもその夜、粟田さんにすり寄ってみて、ぼくが先ず教えられたのは、「教授」という仕事に鍛えぬかれた人間のきびしさとでも言うべきだろうか。ここまでは近づいてもよし、ここから先へは近づいてはならぬ、そういった一線を引いて、自分にも他人にも守らせようとするきびしさなのである。消燈時間がきたので、ぼくがさっそく近づいて話しかけようとすると、粟田さんは「しっかりと眠っておきましょう」と、ぴしゃりと戸を閉めるように言って、二度と語りかけようともせず、また、答えようともしないのであった。そういう点が、金さんとも、松本さんとも、大変に違うんだなあ、と、ぼくは先ず感じさせられた。

 それでいて、何という気げんの良い目覚めなのだろう! 房内の取り片付けがひとわたり済んだと見ると、まるで禅坊主のようにきちんと坐り、「や、みなさんおはよう!」と、手をついてのあいさつである。相手が答えようが無視しようが、気にかけたものではない。その調子で「や、担当さんおはよう!」と、看守にも声をかけるものだから、今では黒川看守以下どの看守も、きちょうめんに返礼をするありさまだ。

 金さんや松本さんが居なくなってから、食事当番は第二房の古参留置人の同志金天海である。この同志ときたら、もともと土木工事関係の労働者で、誰をつかまえても「同志」と呼ぶ。粟田先生をつかまえても「同志粟田」であり、看守までもが「同志黒川」なのだ。いつしかそれが本大のあだ名となり、同志とさえ言えば、この金天海さんである。何しろずんぐりと大柄で、動作がおうようなものだから、彼が当番となってからはぼくも廊下へ出て、少なくとも第一房の分だけはぼくがまめまめしく取り仕切るのだった。

 そんなぼくのまめまめしさをしげしげと見てのあげく、粟田さんが言うのだった。
「安井くんがカバちゃんなんて言うもんだから、ずいぶんとずんぐりむっくりの少年かと思ったら、どうしてどうして、ずいぶんとまめじゃないか。それに、カバちゃんてのは、安井くんにはない明るさで、ぴちぴちしてるんだねえ。きみは、どこからそんな宝物をいただいて来たのかしら?」

「さあ、生まれつきってわけでもないんですよね。そう言えばぼくが東京へ出てくるとき、田舎のおばあちゃんやおばさんが、神さまからの授かりものだなんていうし、東京へ来てから担任の先生が、きみは泣けない顔つきをそなえているなんて言いましたっけ。どんなにつらくとも、笑っちゃうんだそうですよ」

 そう答えながら、ぼくは、あの鉄棒にとびついてぐるんぐるんと身軽く身を処することのできた安井くんを瞼に描いた。いつだって、あいつにはかなわないなあと思った劣等感を思いだした。

「その安井くんがだねえ、ああして出て行く前に言ったんだよ」と、心が打ちとけるようになってから粟田さんが語った。房の扉に背をもたれさせ、真正面を向いたまま、奧の高い格子窓越しに空の方へと、ぽつりぽつりと語るのだった。

「あいつ、もしかすると、死ぬかも知れんよ。あの血だらけにされて房へ帰ってきたその夜、ついぞないこと、私の胸に顔を埋めてね。先生、ぼくは死にたい、死んでしまいたい、考えて見れば、良いことなんて、ひとつも、なかった‥‥ひとつも、なかった‥‥年とったおやじも、おふくろも、一生貧乏で‥‥」と、安井くんの語りくちそのままを、伝えてくれながら、いつしか粟田さん自身が、身動きもしないまま、そのまつ毛の先に、涙のしずくをとどめていた。


「あいつ、あんなふうにして出て行ってしまったんだけれど、大丈夫かしら、ね?」と、そこで初めて、粟田さんはぼくの方に顔を向けるのだった。
──たしかに、彼は生きのびた。自殺などはしなかった。けれどもその日からほんの四、五年後、ある大新聞のトップ記事に、彼の死は報じられていたという。〈かつての赤き少年闘士、北支戦綿の華と散る〉そんなふうの見出しで、ある旅団本部の通信伝令兵であった安井信一という一等兵が、第一線での活躍中に戦死したという。その華々しい死に添えて、旅団長牟田口中将自身の談話がそえられていたそうである。

「あんなに機敏で役に立つ兵はおらなかった!」そう語ってのあげく、将軍の発意で、安井一等兵の屍(かばね)には、旅団の軍旗が、ずっしりと被せられ、ラッパが吹奏されたということである。
 ぼくは、遂にその記事を眼にすることはできなかった。そのころ、ぼく自身も軍隊への召集を目前にしていたのである。

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 ところが、せっかく親しくなったはずの粟田教授だったのに、それから三週間もしないうちに、拘置所送りとなってしまった。おまけに第二房の同志金天海さんまでが、同じころ拘置所送りとなったらしい。そして季節は三月の半ばとなり、ぼくの留置場生活も、いつしか百日を越えてしまった。当然、ぼくはこの中野署留置場の最古参となってしまった。看守の黒川さんなんか、いつしかぼくのあだ名までおぼえてしまい、それとなく一目おくようになってしまった。

「カバちゃんは、よっぽど大物なんだなあ」と、少々呆れぎみにからかって、何かにつけてぼくを使役に引っぱり出す。食事当番はもちろん、病人の世話やら阿片中毒患者のめんどうまで、ぼくを完全な助手扱いにする有様なのだ。

 ちょうどそのころ、大倉高等商業学校忿恨間中等科の生徒たちが、一ぺんに五人も引っぱられてきた。いずれも銀行給仕で、その中には松島松太郎といって、顔見知りの日銀の給仕がいた。そうか、するとあとの連中は、三井銀行、台湾銀行、山口銀行、そして三菱銀行‥‥と、いずれも安井くんから文書の配布を受けていた連中なんだ。安井くんは、その辺までを白状させられただけで、ぼくの身辺については白状のしようもなかったのにちがいない。現に、このグループにしてからが、ひと通り「見せしめ」程度に留め置かれただけで、三日もすると、みんな釈放されてしまった。

 それにしても、どうしてぼく一人が、こんなに長く留め置かれるのだろう?‥‥うかつにも、この段階まできて、ぼくは初めて思い当たった。いつしか時勢は、「あの方」たちの研究所や学問研究の世界にまで眼を光らせるようになっていたのではなかろうか。ぼくみたいな者を囮としておさえておけば、いつか「あの方」から助け舟の手が伸びるか、紅谷さんたちが動きだしてくるか。そんな想像をめぐらし始めたとたんに、ぼくは改めて新しい緊張感におそわれるのだった。そうか、そこまで時代の流れは来ているのか‥‥ぼくは、急に背が伸びたような気がした。急に腹がすわった。もう、出られなくてもいい、ぼくはこのまんまでいいんだ!
「どうだ、そろそろ手記でも書くか?」

 四月に入ると、ぼくを担当している若い林検事が、ぼくを促した。考えて見れば、この中野署の特高刑事たちが、あんまりぼくを取り調べないのも、「焼き」を入れようとしないのも、この本庁の検事の指図だったのだろう。
「手記って、何を書くんですか?」
「いろいろと、今日このように警察のご厄介になるようになったについては、何かと思想的影響ってものがあったろうよ。誰のせいで、何を読み、何を見て、何を考えて、このようになったか。そんなことの逐一を振り返って見れば、自然と、反省も湧くだろうし‥‥」

「ところが検事さん、ぼくには、そういうものが無いんですよね」
「そんなことはあるまい。きみほどの少年が、どのようにして、このような不埒な思想のとりこになったのか、そして、そんな思想からどのようにして抜けだすことができたか‥‥そういうきみの歩みが、すべて参考になるんだよ。さ、あんまり気張らないで、すなおに作文でも綴るように、手記を書いてはくれないだろうか」

 そんなふうに林検事から催促されればされるほど、ぼくは空っぽな自分に気づくのだ。
「気張ってるんじゃないんです。ぼくには、検事さんの言う思想ってのが分からないんです。‥‥思想って何ですか、検事さん?」
 若い林検事は、そんなぼくの真剣な問いかけの顔つきをまじまじと見てのあげく、ふいに怒りにとらわれたように立ち上がった。
「人を、からかうんじゃない。そんな強情を張っていると、いつまでもここを出られないんだよ。ま、もう少し考えてみるんだな」

 そう言って帰ってしまったはずの検事が、その週のうちにふたたび現れた。
「考えてみると、あと一ヶ月もすると、きみは十八歳。もう子どもじゃない。ぼくらにしても、きみを少年法の範囲で処置するわけにはいかなくなるんだ。さ、あんまりむずかしく考えないで、とにもかくにも、転向手記を書きたまえ!」
 林検事の口調は、殆ど命令調である。

「でもね、検事さん。転向ってのは、何処からか来て、何処かへ行くってことでしょう? ところが、その何処からってのが、ぼくには無いんです。その、何処へってのが、ぼくには分からないんです」
「そうかねえ。みんな、今は、壁にぶつかって、方向を換えようとしている。きみたちにとって、今はすべて転向時代なんだよ」
「そうか、分かった!」不意にぼくは大声を上げてしまった。「その転向時代ってのが、ぼくにとっては出発点なんだ。検事さん、ぼくは、今はじめて、出発しようとしているんですね!」

 検事は呆れかえったように、ぼくを見つめ、そして考え、しばらく考え込んでのあげく、不意に思いつめたように立ち上がった。
「よし、今度くるとき、ぼくが一案を書いて持ってこよう。それを見て、きみがなっとくできたら、そんなふうにきみの字で書いて、それで、判を押してちょうだい!」

 何やら、ぼくの知らぬところで、未成年のぼくを何とかしようとする動きが、動いてでもいたものか。けれども、若い検事のそんな心づかいが実を結ぶより早く、ぼくにとってただごとではない新事態が生じていた。何と、佐久のおばあちゃんが、急病なのだという。

 一度は、例のおばあちゃんのやりくちかと疑っても見た。が、その急病の報らせを手にして中野署へ駈けつけたお正おばのけんまくときたら、まさに、言語に絶するものだったらしい。お正おばときたら、ものものしく黒紋付のいでたちで、入ってくるなり、「署長さんはどこじゃ、署長さんにご用じゃ」と、わめきつづけたらしい。そして、その署長の顔を見るなり、お正おばの訴えかけが、警察署じゅうにひびきわたったという。

「あんた方、考えても見なされ! 十七歳と言やあ、未だ子どもでしょうが。そんな子どもみたいなものを、百日も、百五十日も、好きなだけ閉じ込めたりなんかして、騙しっすかしつ、ああでもない、こうでもないと、さんざんいじくりまわして‥‥あの子はのう、三歳で母親に死なれ、十歳で父親に先立たれ、そんなお子を、故郷のばあちゃんとわしとが、お預かりしたんじゃ。神様からの預かりものですぞ! そんなお子を、むせっけえにあつかおうもんなら、わしら、化けて出ますからな。さ、返しておくんなんし、ばあちゃんが危篤でござらっしゃるんじゃ。もしも、死に目に逢えなんだら、この坊の守り神さんが、どんねに怒りなさるだらずか! さ、返しておくんなんしょ!‥‥さ、返して‥‥返して!」

 そんなお正おばのけんまくが、どんなにか中野警察署内をふるえ上がらせたものか。翌日には、本庁からの検事も、二人づれでやってきた。とにもかくにも「手記」の体裁をととのえてはくれぬか、と、しまいには拝むようななだめかたであった。もちろん、ぼくに意地を張り通す心意気があったわけではない。ただ、ぼくが自分の心を見つめて、なっとくのできることは、ただ一つしかなかった。

(ぼくには、やっと、ぼくらの時代の出発点が見えてきたようです。ぼくは今度、思いがけない体験を積みました。そのために、銀行もクビになったはずです。おそらく学校も退学となるのでしょう。けれども、これが、ぼくの新しい出発点です。そして、ぼくは何処へ行くのでしょうか?)
 たぶん、こんなにりっぱに書けたわけではない。けれども、ぼくの手記なるもののいちばん終りが(ぼくは何処へ行くのでしょうか?)と、疑問符つきであったことはたしかである。

 あの日ふたり来た検事のうち年配の方が、「クエッショッーマークつきの手記ってえのは、初めてだろうなあ」と、さもおかしそうに笑っていたのが、忘れられない。
 そして、お正おばのあれほどの大奮闘にもかかわらず、そのすじの手つづきというものには、なお旬日(じゅんじつ)を要したものらしい。ぼくが留置されてから百五十六日たって、中野警察署から釈放されたのは、五月八日のことであった。

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 その五月八日には、すでにおばあちゃんの野辺の送りを済ませた藤一おじが東京へ戻っていた。お正おばだけが初七日の法要を済ませたり、望月でのぼくの静養を思案したりするために、先方で待っていてくれるらしい。釈放されるぼくのために迎えにきてくれたのは、藤一おじだけであった。

 藤一おじの持ってきてくれた着更えを身につけ、警察に近い床屋さんで散髪をする間も、ずうっと黙りこくっていたおじが、とつぜん眼を通していた新聞のその箇所をたたきながら、初めてぼくに声をかけた。
「坊、えらいことになったぞい。あのハチ公がな、銅像になるんじゃと、忠犬ハチ公の碑ってのが渋谷駅前に建てられるんだそうな」

 ぼくは床屋さんの椅子で天井を仰いだままなので、返事もできなかったが、ふと、ぼくが「国賊」にされている間に、ハチ公は「忠犬」にされてしまったのか、と、歴史のページがこの半年の間にもあわただしくめくられて行くのを、感じさせられていた。あの鼻面でぬっと裏口から入ってくるハチ公の姿や、毎日の渋谷駅での別れのたびに味わったごわごわした毛並など、ぼくにとっての手ざわりのなつかしい日々が、歴史というスタンプで無理やり刻印づけられて行く哀しさが、とりわけ今日という日の心には痛く刻みつけられた。

 初七日の客の出入りする日を避けて、という藤一おじの心づかいもあって、ぼくが佐久へ帰る夜汽車に乗ったのは、東京で二夜を過ごしてからのことであった。その二日間、ぼくの心をとらえたのは、ドストエフスキーというロシアの作家による「死の家の記録」という一冊であった。去年の秋、何となく心を惹かれて手にいれた当座は、最初の何ページかで放りだしておいたのに、さて、今読んでみると、まるで今のぼくのために書かれた一冊ではなかろうか、と、一ページごとにどきどきさせられる。思わず、あの留置場という学校が、短い期間であるにもかかわらず、ぼくの心を深く耕してくれたような思いがして、びっくりさせられてしまう。その一冊だけが、ぼくの旅の道づれとなった。

 またしても碓氷峠を越したとたんに、汽車は、帰って来た、帰ってきた‥‥と、帰省のリズムを奏ではじめた。それに合わせて、朝の光は、背に浅間の雄大な裾野をくりひろげ、行く手に遠く蓼科から八ヶ岳の峯々だけをうっすらと浮かべ、千曲の流れに沿った谿間を深い靄の中に眠らせている。デッキに立って五月の朝の風をまともに受けているうちに、思いもよらなかった自分の心の歓喜が、背すじを伸ばさせ、筋肉を隆起させるかのように、むっくりと盛り上がってくる。小諸を出て田中駅へ降り立ったときには、当然のように、ぼくは望月までの街道すじの十何キロを歩いて行こう、と、旅人のように心を躍らせていた。

 駅から爪先上がりに街道すじを抜けたころから、たちまち大地は眠りからさめたように晴れLがり、千曲川沿いに対岸の段丘が一気に姿を現すのにつれて、その川すじへと下る桑畑の中から一斉にヒバリたちは舞い上がった。今日の晴れを予告する合奏のはじまりである。

 千曲川右岸の段丘を下る急坂を辿れば、橋を渡って島河原から大日向へと、鹿曲川沿いに望月へつづく街道である。その橋の上で眼近な下流に二つの川の合流点を眺めていると、ふと、このまま水勢に呑みこまれてしまいたいような悲しみに、はじめておそわれるのだった。おばあちゃんは、もういない! ぼくは水面を見つめながら呟きつづけた。このまま消え入りたいような悲しみの逆巻きだ。そんなぼくを中心点において、トンビが二羽、大きく円を描いている。その円は、千曲川から鹿曲川へ、右岸の桑畑から左岸の御牧ヶ原へと、この上もない大きな円を描きつづけてぼくを凝視しつづけているかのようだ。

 あれはオオワシであった、と、「死の家の記録」の流刑地の空が浮かぶ。流刑人たちは傷ついたワシを地上につなぎとめ、餌を与えて飼い馴らそうとした。けれどもワシは、飼い馴らされることを拒みつづける。そして傷が癒えたワシを解き放つと、ワシは流刑人たちをかえりみることもなく森の繁みへと去る。やがて大空に、まぎれもなくそのオオワシが姿を現し、悠然と大空を舞いはじめた。その時になってはじめて、流刑人たちの中に歓喜のどよめきが生まれる。‥‥ぼくは、大空に円を描くトンビたちに、そんなオオワシの自由の姿を重ねて、なおしばらくは見つめていた。やがて、死の渕から自分の足をようやく引っこぬくかのように橋を渡り終え、あとは一途に望月へと、胸いっぱいに五月の風を吸って歩きはじめた。

 あの日、対岸の稲荷の杜からこの街道すじを眺めて、おじいちゃんが「みんなみいんなおじいが呑んでしまった」と指さした辺りに来ると、街道から鹿曲川の流れまでの間は棚田つづきで、ようやく田植えの季節に入ったのか、田という田には水が張られて、青空をうつしている。五月の風が軽くそよぐたびに、田から田へ、銀色の小波が渡って行く。そして、望月の宿(しゅく)の甍の群れがきらめきはじめると、もう、ぼくの胸はふくれ、涙がとまらない。

 ぼくは宿に入る手前の上の堰沿いに杉の杜を並べた城光院の石段を、先ず登った。代々の墓の辺りは、正に一木一草も知り合いである。友である。ぐるりと本堂わきから裏山へ上がると、ものの三十メートルほども上がった台上が春日家の墓所であった。おばあちゃんの墓は未だ生々しい土盛りのまま、連日の香華が息づいている。ぼくは合掌するでもなく、祈るでもなく、その土盛りをぐるぐると三べんほど廻り、杜の真上の空を仰いだ。そして、おばあちゃん、やっぱり死んだのか、と、ひとりで納得した。

 街道すじへ戻り、下の橋を渡って宿場に入ると、家々はちようどその日の仕事に出払って留守なのか、森閑とした町並みに、人っ子ひとりいない。家々の前を流れる用水と、上の段から下の段へと流れ落ちる泉水とが、絶え間もない合奏で、清水に米とぐ、わがふるさとは……の里を謳い上げているようだ。

 旅館山月屋と乾物商大和屋との間の小路をぬければ、まっすぐ、もう中之橋である。ぼくは呼吸をつめ、一たん目をつむり、さて、橋を目かけて一気にと目ざせば、何と、その橋のたもとにおばあちゃんが立っているではないか。両腕をひろげて、満面の笑顔で!
 思わず走り寄ると、ぼくを迎えていたのはお正おばである。ぼくは、「おばあちゃん」と叫んで飛びつこうと思ったその分だけ照れて立ちすくんだ。
「それにしても、よく似るもんだなあ!」
 ぼくは大人びた眼でお正おばを眺め、何とはなく、この半年間の心痛に対して、「どうも」とお辞儀した。
「やっぱり、歩いてくると思った」
「うん、お墓にも、先ず詣ってきた」

 橋の両側のらんかんには、この数日の客のために用意したふとんが並べられている。折からの五月晴れの陽光をいっぱい吸い込んで、もう、ほかほかと甘い匂いを立ちのぼらせているのだ。秋ならば、トンボが並んでとまることだろう。
「おばちゃん、ひと足先に行ってて」
 ぼくは小さなリュックサックをお正おばに託して、中之橋の中ほどにたたずんだ。

 橋のまっすぐ行く手は、高尾山である。そこまで段丘を登りつめれば、背後の御牧ヶ原は一望のうちに開けるだろう。川上に眼を移せば、雨期には狐火の行列を見せてくれる瓜生坂が右下りに降りてきて上の橋につながり、その橋に重なるように赤い鳥居が目立つのは、この宿のお稲荷さんである。そして眼前すぐに、あの想い出の宝庫であるべべ岩。──その一つ一つを確認するように、ぼくは眺め、そしてうなずいた。おばあちゃん、帰ってきたよ! やっと、ふるさとへのあいさつができた。

 ぼくは、らんかんに乾されたふとんの一つに抱きつくようにまたがり、眼をつむって、こんがりとした太陽の匂いを存分に吸いこんだ。すると、橋のたもとから、幼いぼく自身が、とんとんと、全力で駈けてくる。その子の顔にぶつかるかと思えるほど、赤トンボが飛び立つ。そうそうと、川の水音が高まる。そんなふるさとの幻想を満喫しながら、ぼくは眠気をおぼえる。おばあちゃん、ぼくは、明日十八歳になるんだ‥‥と、つぶやいて見た。ぼくの中に、改めて生きる決意がよみがえったのは、その時である。

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