実朝と公暁 九の章
実朝は殺された。しかし彼の詩魂は、自分は自殺したのだと言うかもしれない。──小林秀雄
序の章
歴史愛好家たちに、日本の歴史のなかであなたが最も興味をひかれる謎の事件を五つ上げよというアンケートをとったら、おそらく健保七年(一二一九年)の一月に起こった実朝暗殺事件は、五指のなかに折られるだろう。実際、この事件の謎は深い。推論で歴史を描くことを禁じられている歴史家たちにとっても、この事件はいたく想像力をかきたてられるのか、その謎を暴こうと少ない資料を駆使して推論を組み立てる。しかしそれらの論がさらに謎を深めるといったありさまなのだ。それもこれも実朝を暗殺した公暁が、いかなる人物であったかを照射する歴史資料が、無きに等しいところからくる。
しかし鎌倉幕府の公文書とでもいうべき『吾妻鏡』を、なめるようにあるいは穴の開くほど眺めていると、この公暁がほのかに歴史の闇のなかから姿をみせてくるのだ。というのもこの『吾妻鏡』のなかに「頼家の子善哉(公暁の幼名)鶴岡に詣でる」とか「善哉実朝の猶子となる」といったたった一行のそっけない記事が記されていて、それもすべてを並べたって二十行にも満たないが、しかしそれらの一行一行の奥に隠された公暁の生というものに踏み込んでいくとき、そこから公暁はただなら人物となって現れてくるのだ。
それは歴史学者たちが好んで描く、実朝の暗殺事件は幕府の重臣たちの権力闘争であったとか、北条一族が権力を握るために公暁に暗殺させたとか、公暁が狂乱の果てに起こした刃傷沙汰だったといったことではなく、なにやら公暁が公暁になるために歴史に立ち向かった事件であった、なにやらあの暗殺とは、公暁なる人物が主体的意志をもって歴史を駆け抜けていった事件だったという像が、ほのかに歴史の底から立ち上ってくるのだ。
したがってこの謎の包まれた事件に近づいていくには、暗殺の首謀者である公暁を、どれだけ歴史のなかから掘り起こしていくかにある。もし公暁に生命を吹き込むことに成功したとき、私たちははじめてこの歴史の闇のなかにかすかであるが、一条の真実の光を射し込ましたということになるのであろう。
九の章
公暁が部屋に入ってきたとき、その変貌に実朝は、ちょっと息を呑むばかりだった。公暁と別れたのは六年前だったが、そのときはまだ十二歳の少年だった。その少年が、いま金色と緑色で縫いあわされた袈裟の姿で、泰然と座っている。背筋をぴしりとたてて端座するその全身から、まぶしいばかりの青年の凛々しさが放たれていた。実朝を真っ直ぐに見つめる視線は強い。
「よく戻った。長旅、さぞ疲れたであろう」
「いいえ、私は旅が好きですから少しも疲れておりません。むしろ道中楽しんでまいりました」
「そなたの園城寺での働き、よくこちらにも伝わっている。誰もが厭う仕事を熱心にこなし、はげしい勤行や読経、さらには都で歴や書や歌の勉学にと見事な生活であった。長顕どのの便りでもしきりに、そなたをほめたたえる言葉が綴られていた」
「叔父上のお歌なども筆写いたしました。一文字一文字を書き写していますと、叔父上が身近に感じられ、その柔らかい心に胸が詰まることたびたびでございました。いまもお歌をつくられているのでしょうか」
「いや、いまはなかなかできぬ。あの時のような勢いがいまはない」
「それはなぜでございますか」
実朝は公暁の強い視線を避けるように、なぜであろうかと、まるで他人事のように言った。すると公暁は、あいまいに濁そうとする実朝を、問い詰めるように、斬りこんできた。
「なぜでございますか。できたらお教え下さいませんか」
「なぜなのだろうか。そのことを深く考えたこともないが。歌をつくることに、あのときのようなはげしい情熱がなくなったことはたしかだ」
「それはこういうことではございませんか?」
「ほう、そなたにはそのことがわかるのか」
「叔父上のお歌を筆写するほど、心ひかれたときがありましたが、しかしあるときからそれができなくなりました。私が筆写することができなくなったことと、ひょっとしたら叔父上が、お歌をつくれなくなったこととは、轍を一つにするのではないかと思われるからです」
「ほお、これは面白いことを言う。そなたの轍というものを聞かせてくれるか」
「園城寺に全国津々浦々から、毎日のように出家した人間たちがやってまいります。数かぎなくある院や坊や堂に、それぞれ寄宿して修行するのですが、彼らはいずれも複雑な過去を背負っているのです。堪えきれないばかりの苦しみに出会ったからこそ、世を捨てたのでございましょう。そんな彼らと生活をともにしているとき、叔父上の歌は、何か暗い地上から高々と空に舞い上がるひばりの歌のように思え、暗く落ちていく私の心を癒していくかのようでした。しかしやはり何処からともなく流れてきたある人物に出会うことで、この幸福な時間が奪われてしまったのです」
「ある人物?」
「はい。この人物はついに、正体を明かすことはありませんでしたが、しかし明らかに過去に鎌倉で、重要な政事にかかわっていた人物と思われます。祖父が幕府を打ち立てた時代からの鎌倉を知り尽くしている人物でありました。
その人物はまるで私に教授するかのように、鎌倉の歴史をとうとうと語りだしたのです。その教授によって、私ははじめて鎌倉が、謀略と争闘によって成り立っていることを知りました。その凄惨な争闘の歴史を、あたかも目撃するかのように知ったとき、叔父上のお歌はあまりにも甘く、現実から逃避している歌なのだと思うようになっていくのです。叔父上がお歌をつくれなくなったのは、やはり同じような理由からではないのでしょうか。血で血を洗う争闘を間近で目撃するとき、歌い手はその筆に墨をつけるのではなく、血をふくませ、血で文字を書かねばならないからではありませんか」
実朝は、頬を一撃されたような衝撃を受けた。少年はなんという人物になって戻ってきたのだろうか。
「鎌倉に帰れという叔父上のご下命に、私はずいぶん迷いました。私のような未熟な者に、いったい何ができるのだろうかと。叔父上はなぜ私を鶴岡宮の別当などにお命じになったのでしょうか」
「定暁さまがこの四月にお亡くなりになった。その後釜の人事にそなたのことを思ったのだ。いろいろと幕僚たちは言うであろう。右も左もわからぬ若造にいったい何ができるのだろうかと。しかし鶴岡宮のさまざまな式典や行事などは、すべてその仕事を知り尽くしている執事たちの手で運営進行されていく。そなたはそれらの上に立って、円滑に進行していく采配をしていけばよいこと。別当をさして重く考えることはないであろう」
「そのような仕事に私は少しも不安を感じておりません。園城寺で、すでに私は長吏さまの傍らで、それらの仕事をしてまいりました。私が叔父上にお伺いしたいのは、なにゆえに私を鎌倉に引き戻し、この公暁に何をさせようとしているのか、そのことが知りたいのです」
と公暁はまたはげしく斬り込んでくる。そんな公暁に、また実朝はたじろぐのだ。
「余がそなたを鎌倉に引き戻せと命じたのはいろいろな理由がある。それはおいおい話していくことだが、必ずおれたちの時代がくる。その時代をつくりだすために、そなたの手が必要なのだといまは言っておく」
「そのおれたちの時代とは、どのような時代なのでしょうか」
「それはいまは言えぬ。しかし必ずその時がくる。そのときがきたら余に力を貸してくれ。父の血を受け継ぐ男は、いまや二人だけになってしまった。この二人は散り散りに暮らすのではなく、いまこそ力を合わせなければならないのだ」
実朝は、その心を、ちらりと開いてみせた。公暁は、そんな実朝にまた鋭く斬り込んでいく。
「鶴岡宮で、私はまず学ぶことからはじめねばならないでしょう。別当に就くといっても、私は若輩だということをよくわきまえています。しかし私はそれとは別に、明日からでも三つの仕事に取り組みたいと思っていますが、そのことをお許し下さるでしょうか」
「聞こう。その三つとは何か」
「大路小路があちこちに伸び、家々がびっしりと立ち並んで、かつての鎌倉の景色が、一変していることにびっくりいたしました。往来を移動する人の数も、都を思わせる賑わいでございます。まことに鎌倉は、興隆する力と繁栄のなかにあるように見えます。しかし私はまた、巷に浮浪する子供たちもまた、あちこちで眼にするのです。鶴岡の楼門の下に、橋の下に、材木座や米町の空き地にと。園城寺の生活で私の視線は、貧しき者たちヘ、敗れた者たちヘ、弱き者たちへと向ける習性がついたせいか、どうしてもこの繁栄の底で苦しむ人間たちにその目線がいくのでございます。
この鎌倉に入って、浮浪する子供たちを見たとき、まず私が最初にしなければならぬことは、この子供たちを救い出すことだと思ったのです。園城寺でも浮浪する人々に、毎日炊き出しをしておりましたが、寺社とは公家や高官たちのためにあるのではなく、このような社会の最下層の人々にも、等しく仏や神の加護を与える働きをしなければならぬ、という教えのなかから生まれた活動でございます。家なく、親なく、浮浪する子供たちに、まず食を与える活動を、私は鶴岡宮での最初の仕事にしたいと思っているのです」
実朝は深くうなずく。
「二つ目は、修学院という塾をつくろうと思うのです。先年、この鎌倉にも大学寮を真似て学問所なるものができたと伺いましたが、しかし私のつくりださんとする塾は、政所や問注所の官吏を育てるための塾ではありません。さきほど叔父上が申された、新しい時代の鎌倉をつくりだすための塾なのです。新しい鎌倉をつくりだすことができる、若者たちをその塾で育てていくのです。私もまたその塾で、鎌倉の歴史を教授しようと思っています。
鎌倉はどのように形成されていったのか、どのような騒乱や争闘が歴史の律動のなかから生れ、それらの争闘がどのように展開し、かつまたどのようにして終息していったかを。新しい鎌倉をつくるには、まず鎌倉の歴史を知るべきです。鶴岡宮の裏に修学院の堂を建立し、武者の子弟たちだけではなく、広く農や商をなす家の子息からも塾生たちを募り、この秋にも修学院の活動を踏み出したいと思っています。そのような塾の創設をお許し下さいますか」
「それは面白い。それは余が望むことでもある」
「三つ目は叔父上にも深くかかわることでございますが、わが家系のことでございます。私がこの鎌倉を出るとき、私はまだ十二歳の少年でございました。ですから父の死を、周囲の者に告げられるまま、伊豆で病死したと信じておりました。しかし私はいまはっきりと、父がどのように惨殺されたか、そのすべてを知っております。
兄、一幡もまた引企の乱で犠牲になりましたが、これも幕府の文書では、病没と片付けられたのでしょうか。さらに弟、栄実もまた病死と報告されているに違いありません。政事の実権をにぎる叔父上は、よもやそのような嘘でかためた報告を鵜呑みになさっているとは思いませぬが、私が叔父上にお願いしたいのは、その病死といった虚偽の報告の裏には、どのような事実があったのかを正確に知りたいのです。どのようにして陰謀がつくられ、誰がどのようにしてその陰謀を遂行していったのかを。
この探査を叔父上にお願いするのは、無念のなかに倒れていった父の復讐をたくらむということではございません。はたまた手を下した者たちを、正しく裁けと要求するのでもありません。私はまず事実がどうであったのかを知りたいのです」
実朝は不思議な思いにとらわれた。夢のなかに、泣き叫ぶ栄実があらわれてきた。その夢が、実朝に栄実病死の探査を命じる因をなしたのだが、遠く離れた地点で公暁もまた同じことを思案していたのだ。実朝は公暁との深い血の繋がりを感じないわけにはいかなかった。しかし実朝はそのことには一言も触れずに、「わかった。そうしょう」とだけ言った。
「私の家系はこうして一人また一人と消されていきます。次は私の番なのかもしれません。私が鎌倉に引き戻されたのは、頼家の家系を根絶せんとする企みではないのか、私もまた近い将来、父や兄や弟と同じように、病死と文書に記されるのではないのかという疑いを、こうして叔父上の前に座っているいまも、強い警戒のなかで抱いております。この公暁の不安と危慎を拭い去るためにも、真実を照らし出すようにお命じになって下さいますか」
「よくわかった。早速その手配をしよう」
実朝は、始終公暁に圧倒されていた。青年とは、このような強い光を放つものなのか。実朝は、なにやら我れと我が身が、もはや疲弊し消え去るばかりの、古い世代の人間のように思えてきた。その会見は、実朝にとって、衝撃そのものだった。