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ダンゴ汁と痩せ馬    帆足孝治


 耶馬渓は紅葉の名勝である。戦争が終わってまだ間がないころ、大分交通が天井まで総ガラスの観光バスを耶馬渓線に投入したことがあった。あのころ観光旅行する人など実際どれくらいあったのか知らないが、発動機馬車や木炭車を見慣れていた私たちには、突如現れた近代的な総ガラスの乗合い自動車は大いなる憧れの的だった。

 ところが驚いたことに、これに対抗するように今度は日田バスが車体の長い新型バスを森線に就役させてきた。私は初めてそのバスを見たときの感激が今も忘れられない。それまで森町辺りで見られたバスは、カーブの多い田舎道を走るのに適した車体の短い小型のボンネット・バスばかりだったから、ボンボンボンと腹に響くような重厚なディーゼル・エンジンの音を響かせて走る重量感のある長車体の新型バスは、森町に日田の都会の雰囲気を運んで来るような気がして、私は何度もその長い車体のバスの絵を、ぐんと誇張して画用紙に描いたものである。
 
 そのころ豊後森町に乗り入れていたバスは、大分交通、日田バスのほかに亀之井バスがあって、三社が激しくシェアを争っていたから、日田バスは他社を一歩リードすべく豪華な長車体ディーゼル・バスを導入したのだろう。私はどういうわけか、ダンゴ汁を食べると今でもあの長い近代的なスタイルのデラックス・バスを初めて見た時の感激を思い出す。
 
 上ノ市橋の向こうの、道路端にある衛藤一実ちゃんの家でダンゴ汁をご馳走になっているとき、窓の外をあのデラックス・バスが通り過ぎるのを初めて見た記憶があるからだろう。白い車体の窓の下には上品な紺色の帯が入っており、白抜きで「日田バスHITA BASU」と書かれてあったのを思い出す。
 
 ダンゴ汁といえば、年寄りなどが子供に昔話やおとぎ話などを語って聞かせるとき、話が終りになるとよく「お終いダンゴ汁!」とわけの分からない呪文を唱えて終わりにするのを聞く。東北では「どっとはらい」などというらしいが、これも意味がよく分からない。たとえば、こんな具合である。
 
 「あるところにネブカ(根深、ネギ)とダイコンと仏様がおっちょった。ネブカが『ねぶてエ(眠たい)』ち言うた。ダイコンが「抱えちやろうか」ち言うた。仏様は『放っとけ、ほっとけ』ち言うた。「お終いダンゴ汁!」といった風に使うのである。どうしてダンゴ汁がお終いなのか不思議である。
 
 豊後の名産は「吉四六さん」と「ダンゴ汁」といわれる。豊後の「豊」の字は豊かな国を表しているが、その実、豊後は貧しい山国で美味しい名産もない。今でこそ豊後牛とか関アジ、城下カレイなどといった贅沢な味が全国的に知られているが、昔はそんなものは何もなかったから、誰でも知っている「痩せ馬」や「ダンゴ汁」が名物と言われていた。
 
 因みにどんなものか説明すると、「痩せ馬」というのはウドン粉を練って団子状にしたものを、グラグラたぎる湯の中に引き伸ばしながら落し、茹で上がったところで砂糖の入った黄粉にまぶして食べるおやつである。なぜ、これを「痩せ馬」などというのか私にはわからない。ダンゴ汁はその字の通り、ウドン粉を練って団子状にしたものをみそ汁の中に落して具にするもので、一種の代用食である。昔は各家庭で美味しい味噌を作っており、みそ汁自体が美味しかったから、その中にダンゴを入れたダンゴ汁は寒い夜など大変なご馳走だった。暖かいうちに食べるのはもちろん美味しいが、翌日、すこしダンゴが堅くなりかけて、汁自体がとろっと冷たくなったダンゴ汁もなかなか捨てがたい味である。
 
 盆ダンゴといい、痩せ馬といい、決して他国に自慢できるような食べ物ではないが、子供にとっては、おやつに黄粉まぶしの盆ダンゴや痩せ馬が食べられるのは嬉しかった。

桃太郎さんの銅像と三島音頭


 森小学校の自慢の講堂では、天気が悪い日の朝礼や音楽の授業などが行われたが、時々、講演会や映画会、なども開かれていた。
 昭和二十四年のこと、久留島武彦先生か童話生活五〇年になられて久し振りに故郷に戻ってこられるというので、それを記念して森小学校で童話をお話ししてくださることになり、学校と森町ではこれを機会に「久留島先生童話生活五〇周年式典」を挙行しようと計画、音楽の先生らが中心になって式典の歌を作った。それは、
 
 童話童話で 夜が明けて
 童話童話で 日が暮れて
 もう五〇年 五〇年
 久留島先生 武彦先生
 
という、まことに拙い歌だったが、この日のために生徒達は毎日その歌の稽古をさせられた。あまり長々と練習させられるので、私たちは先生に悟られないように自分で首を締める仕草をしながら「苦しい、マア先生、たけひこせんせIい!」と声を張り上げた。
 
 当日、講堂に集められた生徒たちに、あの久留島武彦先生は独特の抑揚ある話し方で「ジャンデマール」のお話をしてくれた。もう筋は忘れてしまったが、それはドイツの田舎のお話で、さすがに先生の上手な話には皆んなすっかり引き込まれてしまった。
 
 お話の後で久留島先生を前に、私たちはさんざん稽古させられた例の歌を声を張り上げて合唱したが、先生は、故郷の孫のような子供たちが自分のために一生懸命歌ってくれるのがさすがに嬉しかったのだろう、恥ずかし気に涙ぐんでおられたのを憶えている。
 
 戦争に負けて平和な時代がやってくると、森小学校ではいち早く奉安殿を取り壊し、忠魂碑として奉っていた長い軍艦の大砲の砲身もどこかへ片付けてしまった。忠魂碑の跡には急造で意味のよく分からない平和塔なるものが作られていたが、そんなある日のこと担任の先生が、今度その平和塔の横に新しく桃太郎の銅像が建つことになった、と教えてくれた。どこか北九州の遠いところにあった桃太郎さんの銅像を、童話の里づくりを計画している森町が譲り受けることになったのだという。
 
 森町に童話の里にふさわしい桃太郎さんの銅像がくるのは結構なことだったが、聞けばその銅像は新しく作ったわけではないというから、どこかに建っていたものにちがいない。その土地の子供たちに親しまれていたものではなかっただろうか。慣れ親しんだ桃太郎さんが急にいなくなって、寂しがる子供がいるのではないだろうか、と私は気になっていた。
 
 最近になって分かったのだが、あの桃太郎さんは戦時中に小倉市の到津(いとうず)遊園地というところに「日本に仇なす鬼畜米英を懲らしめん」と海に向かって建てられていたものだそうで、海をわたって鬼征伐をした桃太郎さんにあやかって勝戦を祈ったものだったが、その願いも空しく日本は敗戦、桃太郎さんの銅像もお役目を終えた存在だった。たまたま、この到津遊園林間学校の初代学園長をしていた久留島武彦氏から童話祭の計画を聞いた地元の有志たちが、そういうことならこれを森町に寄贈しようということになったものである。かくて、桃太郎さんの、豊前小倉から豊後森までの長旅が始まった。
 
 すでに五年生になっていた私たちは、いわば「童話の里」森町を代表する子供の中核となっていたから、北九州からはるばる各地の小学生たちの手でリレーで引っ張ってくるこの桃太郎さんの銅像を受け取る側の代表格でもあった。私たちは桃太郎さんを乗せた台車が森町に入ると、その紅白の綱を持って引っ張ったが、はるばる長旅をしてきた桃太郎さんは真っ黒で思ったより小さく、そのまじめな顔つきが少し寂しそうに見えた。
 
 昭和二十五年に始まった童話祭は、子供だった私にも何だか無理にこじつけて作り出した行事のような気がしていたが、それでも戦後の混乱で落ち込んでいた森町に新しい活気をもたらしたことは間違いない。
 
 森町には特別童話が多いわけでもなかったし、久留島武彦先生の童話といっても、それがどんな童話なのか知っている人はほとんどいなかったから、私たち子供には何が童話祭なのかはっきりしなかったが、とにかく三島公園には大きな童話碑が建ったし、町長らの肝煎りで三島音頭も作られた。五月五日の童話祭の本番が近づいてくると、あちこちで騒々しい三島音頭の曲が流され、各町や部落では出しモノの練習が盛んに行われて、なんとなく町中が浮き足立って見えた。
 三島音頭というのは、
 
 バスに揺られて 耶馬渓くれば
 野焼き 山焼き 煙り立つ
 三島桜は今花盛り
 かすむ久重は紫に
 ホホイ ホイホイ 森の町
 
という歌で、節も歌詞も急造だった割りにはよくできていて、私は、これはひょっとしたら全国的に通用する音頭で、あるいは流行るのではないかと内心期待していたが、やはり民衆の間で自然にできた音頭と、意図的に作った歌とでは民衆への受け入れられ方が違うようである。
 
 童話祭には上ノ市からも手作りの山車が出て、行列に参加した近所の大人たちは、たいして練習もしなかったのに、みんな浴衣がけにシャモジを持って、結構上手に三味線に合わせながらタラタラと歌いながら歩いた。
 
 もし もし床屋さん
 私の頭をつんでおくれ
 後ろ短く前長く
 とにかく別嬪(べっぴん)さんの好くように
 
というあの三味線に合わせたチンドン屋のような楽隊のばか騒ぎは、あの五月五日の夜遅くまで続いた。考えてみれば、どうもこの童話祭というのは子供を出汁(だし)につかってはいるが、所詮はこの地方独特の、大人たちが楽しむための遊びとして盛り上げていたように思えてならない。でなければ、童話祭の行列にどうして別嬪さんの歌が出てこないといけないのか説明かつかない。

帆足孝治著
山里子ども風土記──森と清流と遊びと伝説と文化の記録



 
 
 
 

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