承久記 4
一院坂本へ御出立の事 20
八日の暁、秀康・胤義以下御所へ参りて、「去ぬる六日大豆戸を始めて皆落ち失せ候。また杭瀬河よりほか、はかばかしき軍したる処も候はず」と申しければ、君も臣もあわて騒がせ給ひき。唯今都に敵打入れたるやうにひしめきけり。
一院は、「合戦の習ひ、一方は必ず負くるなり。さればとて矢も射ぬ事やはある。今は世はかうにこそ。なまじひの軍せんよりは、山門に移りて三千人の大衆を頼みて、我は相綺(いろ)はぬよしを、関東へ怠状せん」とぞ仰せられける。即ち叡山へ御幸なる。
御勢千騎ばかりありしかども、用に立つべきもの一人もなかりけり。都には君も臣も武士も見えず。関東の勢も未だ参らず。あきれて居たるけしきなり。巴の大将(=公経)・子息実氏召し具せらる。二位の法印尊長、腹巻に太刀はきて、「世みたれば大将の父子討たん」とておし並べて目を付け、太刀を抜きかけて歩ませけれども、一院、御目も許しましまさねば、ひきのけひきのけす。
中納言(=実氏)大将につかみつきて、「法印が気色(=考へ)はしろしめして候か。最後の御念仏候べし。また現世を思し召さば御祈念も候べし。敵をば取りて参らすべし。御心強く思し召さるべし」と宣へば、公経も「心得たり」と宣へども、悪くぞ見え給ひける。「日吉山王今度ばかり助けさせ給へ」と、心の中にぞ祈念し給ひける。法印、大将に打並び給ふ時は、中納言、中へ打ちいり給ひけり。父には似ず能くぞ見えさせ給ひける。
方々責口御固の事 21
主上上皇は、西坂本梶井の宮にいらせ給ふ。座主大僧正承円参らせ給ひ、「内々御気色も無く御幸の条、末代の御誹りをも受けさせ給ひぬと覚え候。口惜しくも候ものかな。用にも立ち候べき悪僧どもは、水尾が崎・勢多へ向ひ候。急ぎ還御なりて、宇治・勢多を支へて御覧候へ。さりとも神明も御助け候はんずらん」と、泣く泣く申されければ、「げにも」と思し召し、十日四辻殿へ還御なる。
都には又悦びあへり。「いま一度支へて御覧あるべし」とて、美濃の竪者(りつしや)観厳(くわんげん)、水尾が崎の大将なり。その勢一千余騎。勢多の橋には山田の次郎・伊藤の左衛門の尉、大将軍にて、三塔の大衆をさし添へらる。その勢三千余騎。供御の瀬には前の民部の少将入道・能登の守・平九郎判官・下総の前司・後藤の判官、西面の輩相添へ二千余騎。鵜飼(うかひ)の瀬には、長瀬の判官代、河原の判官代一千余騎。宇治には佐々木の中納言・甲斐の宰相中将・右衛門の佐・大内の修理大夫・伊勢の前司清定・小松の法印・佐々木の山城の守弥太郎判官、西面の輩、二万余騎。槙の島には足立の源左衛門の尉。芋洗には一条の宰相中将・二位の法印尊長、一千余騎。淀には坊門の大納言忠信、一千騎。広瀬は阿野の入道五百余騎、都合御勢三万三千騎とぞ聞えける。
十三日官軍手々に向ひけり。南都の大衆召されけり。山門の大衆をば宇治にさし向け、南都の衆徒をば勢多へ向へらるべきよし、「けんしつ既に治定する処に、遅参いか躰の事ぞや」と、宣旨重ねて下さる。僉議しけるは、「治承四年に我が寺平家の為に滅ぼされしを、頼朝これを悲しみて、寺の敵重衡の卿を渡さるゝのみならず、供養の期に至るまで、随分の心ざしを当寺に致されき。私の事においては評議に及ばず。関東を見つぐべき事なれども、これは勅状忝き事なれば、それまでは無し。関東を打たんこと定めて仏意にもそむくべし。ただ何方へも参らざらんにしかじ」とて、勢多へも向かはざりけり。
然れども悪僧の申しけるは、「この度我等さし出でざらん事、山門の衆徒の後に言はんこと堪へ難し。日比弓矢たしなむ輩は、少々駈け出でて軍せばや」といひて、但馬の律師・讃岐の阿闍梨以下、平等院の律師らも五百余人向ひけり。
勢多にて合戦の事 22
同じき十三日に相模の守・武蔵の守野路につき、十四日相模の守勢多へ寄せて見れば、橋板二間引きて、南都の大衆ども、板東の武士を招きけり。宇都宮の四郎遠矢に射る。武蔵国の住人北見の太郎・江戸の八郎・早川の平三郎押寄せて、射しらまかされて退きにけり。村山の太郎・奈瀬の左近・吉見の十郎・その子小次郎・渡の右近・同じく又太郎兵衛・横田の小次郎も、敵隙もなく射ければ退きにけり。中にも熊谷・久米・吉見父子五人、橋桁を渡りて寄せたりけり。奈良法師二重の掻楯にひきのく。
大将山田の次郎使を立て、「如何に大衆むげに小勢に追はるゝぞ。鬼神とこそ頼みつるに」とぞ笑ける。大衆言ひけるは、「逃るに非ず。敵を深く引きいれて、一人も洩さじとするぞ」と云ひもあへず、鳥の木の枝をかけるやうに、廿三人斬つてまはる。
熊谷猛く思へども、薙刀にあひしらひかねて討手に入る。板東方、「熊谷討たすな」と喚きけれども、橋桁は狭し、寄る者ぞなかりける。熊谷、播磨の律師と組んで首をとらんとする処に、播磨が小法師に菊珍、熊谷を打つ間に、但馬の律師落合ひ、熊谷が首を取る。熊谷を始めとして七人、目の前にて討たれにけり。
吉見の十郎・久米ばかりは遁れてけり。吉見が子十四になるを、肩にかけて帰りけるを、敵稠(きびし)く射るを叶はじとや思ひけん、子を河に投入れて続いて飛び入りて河底にて物具ぬぎ、大将の前に赤裸にてぞ出で来たる。
久米の右近、射すくめられて立たるを見て、平井の三郎・長橋の四郎、矢面を防ぎ、久米を助けゝり。宇都宮の四郎、二日路(ふつかぢ)下がりたるが、勢待ちつけて三千余騎になりにけり。二千余騎をば父につけて、一千余騎相具して行きけるが、敵に扇にて招かれて腹を立て、僅かに五六十騎勢多の橋へ出来て散々に射る。京方よりも雨の降る如くに射けり。一千余騎遅ればせに着きにけり。
熊谷の小次郎左衛門直家は、頼みたる弟討たれて、死なんとぞ振舞ひける。馬を射させじとて、矢の及ばぬ所に引き退けゝり。信濃の国の住人福地の十郎俊政と書付けしたる矢を三町余射越して、宇都宮の四郎が鉢付の板に、したたかに射立たり。宇都宮、安からず思ひおきあがり、宇都宮四郎頼成と矢じるしたるを射て、河端に立ちて能く引き放つ。河をすぢかひに三町余を射こして、山田の次郎が居たる所へ射渡す。水尾が崎固めたる美濃の律師が手の者ども、船に乗りて河中よりこれを射る。その中に法師二人、宇都宮に射られて引退く。これを見て相模の守、平六兵衛を使として、「軍は必ず今日に限るまじ。矢種な尽させ給ひそ」と仰せられければ、その後は軍もなかりけり。この一両日はもとより降りける雨、十三日の日盛りより車軸の如し。人馬濡れしを垂れ、雑人働かず。
宇治橋にて合戦の事 23
同き十四日、武蔵の守宇治に寄せけるが、日暮れければ田原に陣を取る。酉の刻に、駿河の守(=義村)、淀へ打ち分るゝ所にて、「駿河の次郎(=三浦泰村、義村の子)は、義村に打具せよかしと思ふ」といひければ、「鎌倉より武蔵の守殿(=泰時)につき申しては、ただ今御供仕り候はねば、親子の中とは申しながら、無下に心なきやうに覚え候。三郎光村(=弟)付き奉り候へば、心安くは思ひ奉り候」と言ひければ、駿河の守うち首肯(うなづ)いて、「さもある事なり」とぞ申しける。
泰村は二百余騎にて足利につき、山より父に打別れ、宇治の軍の先を駈けんとや思ひけん、尾張河にて足利、軍よくしたりければ、泰村、心地悪しく思ひけるを、足利殿も心得て、泰村に打連れ打連れ歩ませけり。
泰村が郎等に、佐野太郎・小河太郎・長瀬三郎・東条三郎十四五騎打立つて、「雨の降り候に、宇治に御宿取りて入れ奉らん」とて行く。泰村心得て、「若党ども先に立ち候ふが覚束なく候」とて、武蔵の守殿へ使者を立てゝ馳せ行く。
義氏も「やがて参る」とて打立ちけり。泰村路に逢ふ人に、「宇治に軍や始る」と問ひければ、「十五六騎、橋に馳せつきて只今軍にて候」と言ひければ、「さればこそ」とて馳せて行く。
先立ちたる若党ども馬より下り、「桓武天皇より十三代の苗裔、駿河の次郎平の泰村、宇治の先陣也」と名乗つて戦ひける所に、泰村馳せ寄りて戦ふ。郎党ども力ついていよいよ戦ひけり。足利武蔵の前司遅れ馳せして来たり、「宇治の手の一番也」と名乗りて、泰村が旗の手同じ頭に打立てゝ戦ふ。
京方、橋の板二枚引きて、山門の大衆三千余人、十重二十重に群集して、橋の上にも下にも兵船三百余艘、波をうがつて三方より射る間、堪へつべうぞなかりける。駿河の次郎、馬より下り立つて三方を射る。小河の左衛門といふ郎党等、「大将手をくだき戦ふ事や候」と制しけるが、泰村が矢に敵の騒ぐを見て、「さらばここ射給へ、あそこあそばせ」といひけり。
熊野法師・小松の法印五十余騎にて来たりけるが、射ちらされて引き退く。板東方も多く討たれ手負ひければ、足利も駿河の次郎も引退きて、平等院に籠りければ、敵いさゝか悦びて、還て河をも渡しぬ可く見えたり。
義氏、武蔵の守の許へ使者を立てゝ、「大手に待ち受けて、明日軍仕らんと存じ候処に、駿河の次郎が若党共、左右なく軍をはじめて候間、義氏も戦ひて、若党あまた討たせ手負ひ数多く候。平等院に籠りて候が、無勢と見て寄せられぬ可く覚え候。勢をさしそへられるべきよし」申されければ、武蔵の守大きにおどろきて、「明日の合図をたがへ、この師(いくさ)を仕損じぬるにこそ。今夜前よりわたされ、背後より奈良法師・吉野十津川の者ども、夜討に駈けんと覚ゆるなり。平兵衛、今夜宇治へ馳せ寄せ、平等院を固むべし」と触れられけれども、「雨は降り、案内は知らず。如何向ふべき。明日こそ供御の瀬に参り候はめ」と、口々に申して一騎も進まず。
佐々木の四郎左衛門信綱ばかりぞ「向ひ候はん」と申しける。平等院には「敵を捨てゝ引退くに及ばず」とて、義氏・泰村堪へたり。武蔵の守「兵どもを催し、かねて敵をこの方へ渡させて、この人どもを討たせては師に勝ちても詮なし。泰時ここなり」とて駈け出で給ふを見て、一騎もとどまらず、十八万余騎同時に打立ち馳せゆくに、雨車軸ばかりなり。
兵ども眼を見開かず、弓を取る手もかがまりけり。「天の責めを被るにこそ。十善の帝王に弓をひくにや」と、心細くぞなりにける。平等院の方より雷電しきりにして、身の毛よだつばかりなり。大将軍泰時ばかりぞ、少しも恐るゝ気色なし。あつぱれ大将やと見えし。
平等院に駈入りて、「覚束なき間、来たり」と宣ひければ、足利も駿河の次郎も手を合せてぞ悦びける。京方無勢と見えしかば、波多野新兵衛の入道、馬もなし、下人もなく手づから旗差して、大将山田の次郎の御前に進み出でて、「兵ども少々向へ渡し、敵討払ひ平等院に陣を取るならば、志ある者ども、などか味方につかざるべき」と申す。「それは然るべし」とて下知すれども、惟義・光貞・弘経・高重など、兵衛の入道を頼みて、「軍すべきにあらず」とて領掌せず。
同き十四日卯の一点に、「足利武蔵の前司義氏・駿河の次郎泰村」と名乗つて、また橋詰に寄せて引退く。関の右衛門入道・若狭の兵衛の四郎・指間の四郎・布施の中務・相馬の五郎・梶の権次郎・塩屋の民部・同じく左衛門・新関の兵衛・中江の四郎、押寄せて射伏せらる。
その中に波多野の五郎、馬手の眼(まなこ)射抜かれて矢を立てながら、大将の御前にぞ参りたる。「杭瀬河の額の疵だにも神妙なるに、誠に有難し。鎌倉の権五郎再誕か」と褒め給ひて、「軍功は泰時証人なれば疑ひなし」とぞ宣ひける。高橋の大九郎・宮寺の三郎・角田の左近・末名の右馬の助・高井の小五郎・大高の小五郎、駈け出で、面々に手負うて帰りけり。
「塩屋の左近家朝」と名乗つて出づる所に、山法師ども散々に射る。左近、足を橋桁に射付けられて立ちたり。「あな口惜し」とて、子の六郎矢面に戦ふまに、矢を抜かんとするに抜けず。太刀にて矢の立ちたる足を二つに切り割りて引き抜き、肩に引きかけて退きにけるを人々感じける。
成田の兵衛、これも手負うて引退く。山の僧覚心・円音、橋の上にて薙刀振り回してぞ振舞ひける。「あれ射よ」と罵りけり。円音、足を橋に射つけられて抜けざりければ、薙刀にて足首よりふつと打ち切りて、いよいよ鳥の如くにかけりて狂ひけり。
武蔵の守、安東の兵衛忠家を使として、「橋の上の軍やめられ候へ。かやうならば日数をおくるとも、勝負ある可からず」と仰せられければ、罷向うて「大将の仰せなり」と叫べども、雨は降り、河音・打物の音一方ならざりければ、聞きもいれず。安東も乱れ入りてぞ戦ひける。
武蔵の守見給ひて、「結句安東も軍するござんなれ」とぞ笑ひ給ひける。平六兵衛と言ふ者を以て、重ねて使に立てられて、「わ君も二の振舞ひするな」と言はれて、手をたたいて制すれども、耳に聞入るゝ者なし。いよいよ乱れ合ひて戦ふ。平六兵衛力及ばずして帰りけり。
尾藤の左近の将監景綱、鎧をば脱ぎおきて小具足ばかりにて、「軍をば誰を守りてし給ふぞ。橋の上の軍は御誡めなり。この後軍せん人は、大将の御命を背かるゝ上は敵なり。かう申すは、尾藤の景綱なり」と申して帰りければ、その後しずまりけり。
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