この「あとがき」こそロレンスがもっとも憎んだことだった。
『草の葉』で「チャタレイ裁判」の特集がなされた一年後の、1996 年の11月に、伊藤整訳の「チャタレイ夫人の恋人」完全訳が新潮文庫で刊行された。この完全訳版の「あとがき」にはこう書かれている。
ここに書かれている精神こそ、ロレンスがもっとも憎んだ精神だった。伊藤整もまた七年もの長期の裁判を、このような精神で戦ったのではなかった。この完全訳を補訳して「あとがき」を書いた方は、ロレンスの魂やあるいは伊藤整の精神からもっとも遠いところに立っていて、たとえ伊藤整の子息であろうとも、こういう考えの持ち主がすべき仕事ではなかった。これではまるで猥褻文書と刻印され、数十ページの削除を求めたあの裁判は正しかったと宣言しているようなものではないか。そして周囲が変った、もう大丈夫だと判断した、だから出版するのだと。なんという低劣な意志、なんという臆病な精神! 「最高裁判決に正面から挑戦した」と書かれているが、正面から挑戦するとはこういうことである。
「ロレンスの生誕七十五年、死没三十年記念にあたる一九六十年、イギリスのペンギン・ブックス出版社は『チャタレイ』を作者の手になる原形に復した本来のすがたで出版する計画をたてた。同年八月二十五日を期して一斉販売すべく二十万部を用意した。しかしこれが「わいせつ文書取締法」にふれるとして告発された。出版社は発売を延期し、非常な自信と熱意をもって裁判にそなえた。当局側もまた、判事は元老級の大物、検事もまた、わいせつ文書取締りのベテランが担当することになり、異常な意気込みをもってのぞんだのである。
ペンギン文庫側に自信があったというのは、一九五九年にわいせつ文書取締法の改正法が施行され、旧法とはまるでちがう進歩したものとなった。旧法はわいせつの部分だけで処断されていた。こことここがわいせつであると印しをつけた個所だけが問題にされ、全体の価値や効果は論議外だったのである。しかし著者、出版社側の意見はいっさい聞かれなかったのである。
一九五四年、イギリスの著作家協会の事務総長がこの悪法の改革にのりだし、非常な努力をした結果、下院に特別委員会が設けられ改正法案の研究を始め、五年間にわたる努力の結果、ついに改正法案は下院を通過した。新法は旧法とは全く反対に、部分をとり上げてみてはならないとし、全体としてみた上で、その効果が人を堕落、腐敗させる傾向があると判断され得たときに、初めて、わいせつと見なされるのである。人を堕落、腐敗させるおそれがあるというのは、端的にいえば、それを読んだために人格がまるで変わり、不倫・暴行を働くような影響を与えるといったたぐいである。
(略)さて裁判は一九六十年十月二十日に第一回公判が中央刑事裁判所で開かれ、一週間おいて二十七日、二十八日、さらに十一月一、二、三日と六日間の審理のすえ、十二人の陪審員は全員一致、無罪の評決を答申した。ペンギン文庫の社長は直ちに電話で社に指令を発し、倉庫に用意してあった二十万部の『チャタレイ』の地方書店発送を命じた」(角川文庫飯島淳秀訳『チャタレイ夫人の恋人』の飯島氏の解説より)
猥褻文書と刻印した最高裁判決と正面から対決したのは、この新潮社版の完全訳が出る二十三年も前、一九七三年に講談社から出版された羽矢謙一訳である。これこそ国家権力に正面から果敢なる戦いをいどんだ挑戦であった。おそらく羽矢氏もまた講談社の編集担当者も、相当なる決意と緊張で刊行したはずである。当局は当然この挑戦を知っていた。しかしこの挑戦を検察も警察も無視した、あるいは黙殺した。もはや起訴しても裁判に勝ち目はないと判断したのだろう。
果敢に権力に立ち向かい勝利をもぎとったこの羽矢謙一訳「チャタレイ夫人の恋人」は、絶版状態でいま手に入れることはできない。この勝利の書の復活を強くのぞむのは、また「チャタレイ夫人の恋人」の真価をこの訳がよく伝えているからである。翻訳者によって同じ作品がまったく異なった作品になってしまうものだが、この作品もまた伊藤訳と羽矢訳とではずいぶん違う。いま二者の訳を読み比べるとき、ロレンスの文体がつくりだすそのリズムや触覚や匂いや気配は、羽矢訳のほうがより深くかもし出しているように思える。羽矢がどのように「チャタレイ」に立ち向かったかは、その本の解説に書かれているので、この羽矢訳が数百年も生きる大木に成長していくように、その解説全文をnoteに移植することにする。