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愛しき日々は──ホタル狩りの夜    菅原千恵子

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ホタル狩りの夜、千秋さんは逝ってしまった

 食卓で戦争のことが話題になると、私はいつも完全な部外者だった。八歳上の姉は、戦争の始まった年に生まれ、戦時中に幼少期の殆どを送っていたので、食事中に戦争のことが話題になると、豆の入った御飯がいやだったことなど、よく思い出して言っていた。しかし、戦後生まれの私たちが本当に戦争と無縁のところで生きてきたかといえば、それは少し違うように思う。私の幼少期の思い出には、戦争の陰や傷が少なからず跡を残しているのだ。

 ラジオでは「たずね人」の放送が毎日あり、母は欠かさずそれを聞いていた。戦争中から、戦後にかけて大きな移動を繰り返しているうち、音信不通になった知人がたくさんいたに違いない。消息を知らせあうために、ラジオは毎日毎日、人の名前を流し続けており、そのアナウンサーか淡々と読み上げる声を、梅干しの干してある縁側に腰掛け、ぽかんと夏雲を見ながらきいていたのを、まるで昨日のことのように思い出すことができる。

 戦争によって人生を変えられてしまった大たちは、私のまわりにもたくさんいたし、「引揚者」という言葉が、まだ日常語としてさかんに人々の口にのぼっていた。
 小さな田舎町でさえ、そうした引揚者は何人もいたに違いない。二番目の姉が、七、八歳の頃、駅に降り立った引揚者の姿を見て、
「ワカメのように服がボロボロだったのを思い出す」
 と言っていた。
 戦争を知らない私たちではあっても、それを引きずってきた人たちと隣り合わせに生きていたのだ。

 そしてその強烈な思い出は、ホタル狩りの夜から始まった。
 岩出山の町には、きれいな用水があちこち流れていて、その用水のへりには、ツブという巻き貝がよくへばりついていた。
 梅雨の中頃から、用水にホタルが飛び交うところを見れば、カワニナも住んでいたのだろう。
 夕食を食べ終わっても、ほの明るい季節のせいか、よく子どもたちは夕闇の中、外へ出てきては何かしら遊ぼうとしていた。私は、夕食のあと、外に出ることは禁じられていたが、外で子供達の声がすると、じっとしていられなかった。

 どの家でも、子供の数が六、七人はいたのだから、梅雨時に、むし暑い家の中でドタバタ暴れられるくらいなら、外でしばらく過ごしてもらった方がいいと思っていたのかもしれない。
 夜の七時ともなれば、たちまち子どもの数がふえ、十人ほど集まると、ホタル狩りに出かけていくことになる。ホタル狩りも、何人もの友達でやるから楽しいので、一人でやってもおもしろくもおかしくもないものなのだ。

 華麗に乱舞するホタルも、ウチワで軽くたたいただけで、哀れなほど頼りなく地面に落ちていく。それを拾って、菓子の入っていた白いハトロンの紙袋に入れて家に持ち帰り、カヤの中に放つのだ。
 電気を消すと、カヤのあちこちでホタルの音のない光が明滅し、それを見つめているうち、いつのまにか眠ってしまっている。朝、目がさめると、ホタルは一匹残らずただの小さな黒い虫となって死んでいるのだった。

 毎晩あれほど沢山のホタルの亡骸を捨てているのに、用水からホタルが消えてしまうということはなかった。それどころか、どこから生まれてくるのかと思うほど無数のホタルが毎晩乱舞するのだった。
 幅一メートルほどの用水を隔てて、向こう側は隣の町内である。用水には橋がかけてあり、そこを渡ると急に空気までもひんやりとして、なじみのない異質な空間のように思われた。それにしても家から三百メートルぐらいしか離れていないのだから、学齢前の子どもの行動範囲というのはそういうものだったかもしれない。

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 用水の向こうには、高い土塀で囲まれた奧に古い屋敷があって、いかにも堅苦しそうな白壁の家がひっそりと建っていた。
 私たちが山へ行くときや、大きい子供達のあとについて隣の町内に行くときは、その家の前を通るのだったが、門の中をのぞくと、玄関まで十メートルはありそうな地面の通路にはチリ一つなく、箒の目がみえるように掃き清められているのだった。
 庭木もうっそうと茂り、その庭の中で遊ばせてもらえるならどんな遊びでも思いつきそうな魅力的な場所である。しかし、その家は子どもどころか猫一匹さえ寄せつけぬような、見えない扉が張りめぐらされているらしかった。

 私たちは、首を長く伸ばして、門の中を覗くことはあっても、決して中に足を入れることはなかったのだ。
 それでも土塀から道の方へせりだすように茂っている栗の木や柿の木に実がつく頃になると、男の子たちは中に入れぬとわかりながら、そろそろ実が落ちる頃だと言ってはくやしがっていた。

 私は前に一度、母と一緒にこの門の中に足を入れたことがある。出てきたのはやせて細い体の女の人であった。年齢は五、六十才ぐらいだったかもしれない。パーマをかけていない髪を一本の乱れもなく後ろで丸め、すきのない身づくろいで出てくると、手短に母と用件を交わした。
 母の用事とは、この家のお嫁さんに、洋服を作ってもらうためだった。殆ど着物で通していた母であったが、この頃、春から夏にかけて、洋服を着るようになっていた。それというのも、この屋敷に嫁いだ千秋さんの実母と母が知り合うようになり、その母親から洋服生地を買うことがあったからだ。

 千秋さんの家族は満州からの引揚者で、小さな弟は引き上げる途中に亡くなり、父親も戦死したという事で、千秋さんと妹と母親の三人で命からがら日本に帰ってきたという。そんな話を、母が父にしていたのを私も聞いている。
 千秋さんの母親は、家族の生活を支えるために、大きな風呂敷包みに洋服生地を入れ、それをかついで行商をして歩いていたとき、母が同情して生地を買ったのが始まりだった。千秋さんも母親を手伝って汽車に乗り、東京と東北のこの小さな町を何度か往復したというのだが、その時、汽車の中で千秋さんを見初めたのが、この屋敷の一人息子だった。

 息子は東京の大学に行っていて、卒業をひかえ、千秋さんとの結婚話を持ち出した。故郷に戻るなら、千秋さんとの結婚を認めてもらいたいという息子に両親が折れた形で、千秋さんと息子は晴れて結婚したのだという。
 ところが、結婚の条件として、千秋さんを古川市にある洋裁学校へ行ってもらわなければ息子とも釣り合いがとれないと息子の両親は言いだし、千秋さんは婚家先から学費を出してもらって学校へ二年間、通った。

 高校へも行かず、母親を助けて働いた千秋さんでは、嫁いだ家の息子の学歴や家の格式からみれば、釣り合いがとれないからだろう、と近所の人たちは陰で噂したものである。そして、あのしゅうとめに仕えるのは大変だろうと口々に大人は言っていた。
 朝一番の汽車で古川まで通うため、干秋さんは私たちの家の前をいつも走って通っていった。雪のふる寒い朝、息を白くハアハアさせながら、小走りに通り過ぎていく千秋さんを雪かきしていた父が見つけて「若いのに感心なことだ」とほめていたのを覚えている。

 いまだ星が見える早朝に起き出して、朝食の用意から後かたづけ、それに洗濯と、全てやり終えてから家を出るのだ。
 千秋さんが卒業する頃、母は千秋さんが洋服の仕立てをやりたかっているという話を聞いたのだという。母は千秋さんのお母さんから生地を買い、洋服を作ってもらった。それはグレーの無地のフランネルのワンピースで衿と袖口は黒いビロードでできており、モード雑誌に出てくるような洋服だった。
「千秋さんって本当にうまいわ」
 母が、縫い目を確かめながら言うと、千秋さんの母親はうれしそうに、
「あの子は私と違って頭がいいしね」
 と言った。

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 母に連れられて、私が千秋さんの住む屋敷へ行ったというのは、その後のことだった。この時出てきたのが千秋さんのしゅうとめで、千秋さんは留守だという。母は口よどんだが、仕立物の依頼に来たことを告げると、その人はまなじりを上げて、「お断りします」と言い切った。
 母親が生地を売り、その娘が洋服を仕立てて金儲けをするなどとは言語道断、そのために千秋さんを洋裁学校へ通わせたのではないというのである。

 大声こそ出さなかったが、ピシリと鞭を打つような物言いに、幼い私は身のすくむ思いで母の背に隠れた。毋と連れだって歩いていて、大人が私に声をかけなかったことなど、この小さな町ではあり得ないことだった。ほめられても叱られても、絶えず大人は子どもに関心を払っているものだと思い込んでいたのだ。

 しかし、この千秋さんのしゅうとめは、私などまるで目に入っていなかったのかもしれない。何の言葉ももらえず、存在を無視されて人の家を出るのは私にとって初めてのことだった。どんな軒下の低い、倒れそうな家に住んでいても、大人は子どもを無視したりはしなかったように思う。子どもが用事を言いつけられてその家を訪れれば、帰りがけに必ず戸棚を開けて、何もなければサツマイモのしっぽであれ、タクアンの一切れであれ、「食いながら帰らいん」と言って差し出したものだ。そしてそれが当時のこの町の大大たちであった。

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 それに慣れていた私には、この仕打ちは以外でもあり、この屋敷のまわりだけ異質な空間に感じられたのは、そんな理由からだったのかもしれない。
 その晩も、私たちはホタル狩りに出かけた。ぞろぞろ歩きながら用水に近づいてみると、用水の向こうの千秋さんの屋敷の所から、沢出の大たちが出たり入ったりしているのか見えた。いつも人気のない静かなところだっただけに、何か異常なことが起きているに違いないと、ピンと来るものがあった。

「行ってみっぺ」という誰かの声に、ハタハタと私たちは走り出していた。近づいていくと、大人や子どもか、塀のそばや道のあちこちで数人ずつ固まって立ち話をしている。隣の町内の人たちだったか、何人も知っている顔がそこにはあった。
「全くかわいそうで見ていらんねえよ」
 と腕組みしていたおじさんが言っている。
「えっ、首つったて?」
 中学一年になるきのえの兄さんが、大げさに叫んだ。それを聞いていたおじさんか、チッと舌打ちして、きのえの兄をにらみつけ、大声を出すなと目くばせしている。

 とたんに、私たちの町内の子どもが何人か、バタバタと自分の家の方へかけ戻っていった。知らせに行ったのだ。
 まもなく、私たちの町内からも人がどんどん集まってきた。蒸し暑い夜である。よごれたランニングシャツの男の人や、浴衣姿の女の人たち、それに子供達が群がって、この屋敷の前はまるで宵祭りのようなにぎやかさとなり、私たちはおおっぴらに夜道ではしゃいで遊べることに興奮していた。

 自殺したのは、息子の嫁である千秋さんだった。母親の行商を手伝っていた頃は、みずみずしい果実のように太って輝いていたほほが、結婚と同時にみるみるやせ、近所の大人たちは皆、彼女の苦労をそれとなく感じていたらしい。
 しゆうとめが母の頼んだ仕立てを断ったあと、千秋さんの母親が私の家に来て、泣きながら母に訴えていたのを私は見ている。
「私だって、夫が生きていたら、こんなみじめな思いをしないでよかったんだよ。満州では人も使って、私は箸より重いものを持つたことのない生括をしていたんだもの。千秋だって‥‥」

 めったに愚痴をこぼさない千秋さんの母親だったらしいが、娘が嫁ぎ先で一円のお金も自由にならず、仕方なく始めた仕立てまで止めさせられたことを私の母に訴えていたのだ。
 この屋數のまわりが、その夜ほどにぎわったことはかつてなかったことである。
「千狄さんの結婚式の時でさえ、こんなに人は集まらなかったな」
 誰かの声がする。みんなが口々に言う言葉はただ一つ、「かわいそうに」だった。

 いつまでも帰ってこない私たちを心配して、母が迎えに来たのは、八時半近くではなかっただろうか。八時にはいつも床についていたから、相当眠かったはずである。母が私のところに走ってくるのを見つけたとき、私はおんぶしてくれとせがんだことを思い出す。
 母はこの時初めて千秋さんの自殺を知った。用水の橋を渡ると、やはりホタルが昨夜と変わらず乱舞している。少しでも早く帰って寝かせつけようとしている母に、私はまだ一匹もとっていないのだから、ホタルを捕っていくとだだをこねて困らせた。

 姉がウチワでたたいて、一匹だけホタルをとると、紙袋に入れて私に持たせてくれた。
 翌朝カヤの中に放しておいた一匹のホタルが、私の枕の横に落ちて死んでいた。母がカヤを片づけるとき、それを見つけて「千秋さんみたいだ」と呟いた。

 私たちはそれからしばらくは、大人たちの口ぶりと同じように「かわいそうに、かわいそうに」と何かにつけてそう言って遊んだ。
 しかし、千秋さんを本当に可哀想と思ったのは私が、あの頃の千秋さんと同じ二十三才ぐらいになってからである。
 古い茶箱から、千秋さんの仕立てたグレーのワンピースか出てきたとき、私はあのホタルの乱舞する岩出山の夏の夜を思い出した。そして几帳面にきっちりとそろった縫い目を見ているうち、まだ若い千秋さんが背負っていた人生の重みを感じて胸をつかれた。

 習った洋裁で、千秋さんは、一度も自分のスーツやワンピースを作ることなく、死んでいったという。
 「あんな思いまでしてやっと帰ってきたのに、なして、なして、死ななくちゃなんないの」
 葬式の日、棺にとりすがって千秋さんの母親か叫んだ言葉を、四十年経った今でも覚えているということは不思議である。

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菅原千恵子さんについて
それは1994年だった。一冊の驚くべき本が読書社会に投じられた。菅原千恵子著「宮沢賢治の青春」である。おびただしいばかりの宮沢賢治を書いた本がでているが、菅原さんが投じたその本は、いままでだれも書いたことがないことが書かれていた。まったく新しい宮沢賢治が現れたのだ。この本を契機に、「草の葉」と菅原さんとの交流が始まり、彼女の作品が「草の葉」で連載された。そして一千枚になんなんとする大作「愛しき日々はかく過ぎにき」が投稿されるのだ。その数年後に御夫君から葉書が届けられた。「妻千恵子は数十万人に一人の難病を患い、読み書きが不能になりました。これまでの妻とのご交誼、深く感謝いたします」。彼女は驚くべき作品を私たちに託して立ち去っていった。「愛しき日々はかく過ぎにき」は昭和の時代を描いた、永遠に読み継がれていく名作である。



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