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つがる海峡冬景色

 朗読活動はたった一人でできる。たった一人で朗読一座が設立できる。幟旗をたてて、全国各地に巡礼の旅のような公演活動ができるのだ。できるならば学校を訪れて欲しい。小学校に、中学校に、高等学校に。どんな山間の地にも、どんな孤島にも、そこに彼の朗読を待っている子供たちがいたらでかけていくのだ。いまの子供たちにとって朗読は必要なのだ。言葉によって彼らの創造力と対決するのである。朗読はコンピューターゲームやアニメ映画やコミック雑誌などに勝るとも劣らない、豊か大きな想像力をつくりだせることを子供たちに刻み込む活動である。それは言葉の力を復活させることであった。そしてそれは同時にその活動によって、俳優たちは俳優としての自己を確立していくはずなのだ。

エッセイの朗読である。このステージでは、小宮山量平さんの「昭和時代落穂拾い」の三部作から三編のエッセイをとりあげた。この落穂拾いという行為など、いまや日本人にはまったく消えてしまった。こういう発想さえも放擲してしまった。しかし歴史のかなたに立ち去るものたち、滅びいくものたち、消え去るものたちはなんと豊かな輝きを放っているのだろうか。いずれも新聞連載の七百字という制約のなかで刻みこまれた文章である。私はこの文章の厳しさを別のページでこう書いている。

「つがる海峡冬景色──新聞連載の六百五十字という制約のなかに刻みこまれた、これはまあなんという見事な世界だろう。わずか六百五十字ながら短編小説を読むような深い響きがある。あるいは小宮山さんがこよなく愛する、黒沢明の名画の一シーンそのもの。たった二、三行で出会った人物を描写していくそのスケッチの確かさ。人生の断面にすぱっと切り込む言葉の冴え。深い悲劇を宿した名画のように仕立てあげた造型力。波の音。漂う深い霧。その潮の匂い。小宮山さんはとうとう長き文章道の峠に立ったのである」と。

 朗読者たちは、すぐれた文章は言葉が立ち上がってくるという言い方をするが、まさにこれらのエッセイは言葉が立ち上がってくる。朗読者と伴奏者は、この立ち上がってきた言葉を、舞台という空間と時間のなかに立体的に刻み込んでいくことになる。

(チェロの伴奏がはじまる。懐かしい郷愁にあふれる曲が流れる。やがて朗読がはじまる。その音楽も消えている。言葉だけが空間に刻み込まれていく) 

小宮山量平作 昭和時代落穂拾いから

 米のとぎ汁 

 街道に落とされる牛馬の糞ばかりではない。朝夕に姉たちがとぐ米のとぎ汁の一番汁二番汁までは、決して捨てたりはしない。中庭の柿の木や裏畑のりんごの根方まで運ぶのが、子どもたちの仕事であった。だから、実りの季節の柿の甘さ、りんごの香り高いすっぱさは格別だった。
 後年、呉茂一先生の名訳で読んだギリシャの詩で、

 さながらに紅のりんごの
 色づいてみづ枝に高く 
 いと高い梢に高く。 
 摘む人のはて見おとしか……

 などというのを口ずさむたびに、わが家の裏畑の梢に残された木守りりんごのただならぬ甘さを思った。とりわけその詩が嫁ぎそびれた娘に寄せた父の想いであるなどと聞くと、太郎山の峯を背景として晩秋の空の青に浮くりんごの紅は、私の心の無上の名画だった。

 それにしても、商家の裏門つづきの畑に、よくもまあ、と思うほどに季節の果実が丹精されていた。梅、桃、桜ん坊、杏、すもも、かりん、ぶどう、柿、りんご……あれこそが心豊かな生活なのだ、と、当今のマーケットなどの氾濫の中を歩きながら、私は夢見る思いにふけるのだ。

 そんな丹精を重ねたのは子だくさんの父親の知恵であったかもしれいなが、それにも増して、わが長兄の心に、かの「ボーイズ ビー アンビシャス」で名高い北海道の農学校の火が燃えていたからだろう。今は東高校となっている上田の養蚕学校には、そんな先駆的な理想の灯がともっていた。その灯を慕って北辺の地に「新しい村」を開こうとした有島武郎や武者小路実篤の志が伝わっていた。
 後年長兄は、そんな理想の灯を遂うように北海道へと去った。

(間奏曲) 

 つがる海峡冬景色

 敗戦。それはただならぬ音響として甦る。「混迷」という主題を奏でれば、あんな騒音となるものか。ぐわーん、ぐわーんと、耳もとで鳴らされる銅鑼のひびきだ。秩序が崩れ去るときには、耳の内外には、あんな音が夜となく昼となくつづくものなのか。

 炭鉱での強制労働から解放された朝鮮人たちが、全身に活力をみなぎらせて歩き、日本人は肩をすくめて側道(わきみち)を歩く。背負い切れない程の荷を負って急ぐのは、復員してきた兵隊たちか。その後方にとぼとぼと従うのは、今日の糧を仕入れてきた女たちだ。

 函館駅には、次々と列車毎にそんな人びとが吐き出されては、構内の騒音を更にさらに高める。焼きイカの煙が立ちこめ、売り手の叫び声が高まる。誰が指揮するのでもなく、誰もが何かを待っている。ほんの少し動いた群衆が、ハイそこまで! と区切られる。一夜が明け、その日の夕暮れになってようやく最前列となり得たかと思うと、押され押されてようやく船上の人となった。 

 烈風吹く甲板からは、もう漁火(いさりび)の列が見えた。港外のその舟の列を割るようにすべり出た連絡船の船橋で、私は連れの老紳士を将校マントに包みこんでいた。小樽の財閥の頭領で貴族院議員なのだが、今やそんな身分や肩書の特権を行使する余地などは全くない。縁あって郷里柏崎までの同行を依頼されてはみたものの、ひたすら体温を伝えてやれるのみだ。 

「すまないネ」と私に凭(もた)れかかる相手を、「さあ、私に寄りかかって」と労った拍子に、胸の内ポケットの拳銃が凸起した。私はそれを取り出すと、そっと空の明りで確かめ、ひょい! と波の闇に投げ捨てた。つづいて方五センチほどの弾丸包みをも放った。それが軍隊と私との決別のしるしであり、いのちの甦りであった。──そんな気配を察してか、老人は頼りなげにひしひしと身をよせてきた。

(間奏曲。ここでは戦争の悲劇を歌うような激しい曲。ここでたっぷりと音楽に朗読させる)

 もの言わぬリンゴ 

 いつの日か私が戦後史について語るとすれば、話をそこから始めよう、と、長いこと心に描いていた風景がある。それは私が幼い日を過ごした望月という古い宿場町の、その家並み沿いに流れる鹿曲川に架かる中の橋の中ほどでのことだ。そこにマサ叔父が立っていた。

 母の生家は十二人きょうだいで、マサ叔父は、そのたくさんの叔父叔母の六番目だ。ある朝の目ざめのことで、ひどく鼻づまりで泣きやまぬその児の鼻を、その母なる祖母はけんめいにすすった。幼児の鼓膜が破れたのはそのためだったのか。マサ叔父は耳を失い、やがて当然口を失う運命を辿った。

 そんな運命がこの叔父を神の子のように育んだ。その宿場町で「マサさん」を知らぬ者は無い。誰もが思わず声をかけたくなる童顔で、それに気づくと叔父は、にっこりと微笑む。頬も瞼もサクラ色であったから、その微笑みはつねにほんのりと優しかった。

 やがてその町の製糸工場の罐焚きとなったが、そこの女工さんたちからは格別慕われたらしい。それというのも、さまざまの哀しみを胸に秘めた娘たちは、何によらずマサ叔父相手に打ち明けたがる。そのいちいちを叔父は聞いた。語り手が涙ぐむにつれて、叔父も涙ぐむのだった。 

 敗戦の年の暮れ、長年の軍隊生活から復員して先ず訪れたその家に、この叔父だけがいた。祖父母は共に戦中に他界していた。縁者のすべてが四散していた家は森閑としていた。「ただいま」という声にも、答えは得られなかった。

 疲れはて、絶望しきって引き返そうとする私を、マサ叔父が追ってきた。何ひとつ語ることもできないその手に、一個の真っ赤なリンゴがあり、それを受けた私の手の甲に一滴の涙が注がれた。アダムとイブの物語によりも重く、そのリンゴの重みは私の胸に刻みつけられた。それが、私の戦後の出発点となった。

(終曲、ふたたびのどかな郷愁を誘う音楽)





 



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