戦う教師 二宮尊徳像撤去に反対する
石が発言した。
「この二十枚に及ぶプリントは、マルクス主義や、社会主義や、共産主義を信奉する日教組の御用学者たちの書いた文章をさかんに引用して、それらをのりで貼りあわせて、ただ一つの結論に向かって走っていく。人間は平等である。それなのになぜ人間は階級化されるのか。どうして農民が最下等の階級に位置し、その階層に生まれた子供は薪を背負ってしか本が読めないのか。このような不平等な社会の仕組みを暴いていくことこそ教育の目的である、真理は人間を解放していくものである。しかし尊徳像は、人間を解放していくその真理を覆い隠さんとする国家権力の卑劣なる意志を彫りこんだ銅像なのである。農民という階級で生まれた以上、その運命を全身で受け止めよ、その与えられた運命のなかで刻苦勉励せよ、そうすれば一人一人の道が見えていくという思想がその銅像に塗り込められている。換言すれば、人間は階級社会を疑ってはならぬ、真理に目覚めてはならぬという銅像なのである。このような卑劣な国家権力の思想を彫りこんだ銅像はすみやかに撤去すべきなのだと。これがこのプリントの語ることの全貌であり、目的であり、ゴールである。
このプリントには、人間がいない、教師がいない。一人の人間の、あるいは一人の教師としての人間の苦しみや思考がない。それはそうだ。何も考えない。何も考えることができない。すぐに政治的スローガンや思想的メッセージに飲み込まれる単細胞の人間たちを抱きこみ、組織化して、政治的活動させるために書かれたアジテーションなるプリントだからである。こんなマルクス主義的、社会主義的、共産主義的偏見に満ちたプリントをテキストにして、二宮尊徳銅像撤去闘争に乗り出す諸君はおめでたい限りだが、しかしこのプリントの授業を受ける子供たちはたまったものではない。悲惨の一語に尽きる。ついに日本の教育はここまできたのかという暗澹たる思いがある。
諸君にたずねるが、諸君は日教組の御用学者たちが書いた本や文章からではなく、直接に二宮尊徳という人間に向き合ったことがあるのだろうか。彼がどのような境遇に生まれたのか。なぜ彼は薪を背負わなければ本が読めなかったのか、彼はその後のどのような人生を歩いていったのか、一人の人間としてこの二宮尊徳という農民と対峙したことがあるのだろうか、もし諸君が二宮尊徳が歴史の残した足跡を、裸の眼で見ることのできる教師であったなら、このような愚かな撤去騒動などおこらなかったはずだ。ただただ階級論的議論、マルクス主義的理論、共産主義的思想で尊徳像を撤去せよと叫ぶ諸君のノータリンぶりにあきれるばかりだった、これほどまでに日本の教師は低能になったのかと思うばかりだった」
とうとう論じる石の発言に教師たちから怒りの声があちこちから上がり、議事進行者もたびたび彼の話を中断させようとしたが、しかし石はそんな声を払いのけて、これだけは言っておかねばならぬと話し続ける。
「ボタンの掛け違いという言葉あるが、この闘争はボタンの掛け違いどころか、諸君は着るべき衣服を間違えたのだ。いや、間違ったのではなく、巧妙なる政治的戦術を組み立てたというべきなのだろう。諸君が本来着用すべき衣服は、校長を排撃することにあった。新校長が赴任してきて、学校変革、教育改革なるものを手がける。諸君の授業にも口をはさみ圧力をかけてくる、組合活動なるものも敵視していて、さまざまな横やりを入れてくる、あちこちでトラブルが発生する、諸君が立ち上がって闘争を組むべきものは、この校長に対してであった。しかしそれらの小さなトラブルは個人的なもので、大きな闘争に組み立てることはできない。
しかし今日流行の尊徳像撤去という闘争に仕立てれば、大きな社会的教育的闘争になる。さすがに日本の教師たちを組織してきた日教組である。校長は何度も警告を繰り返す。この闘争は違法行為であり、この闘争にかかわった教師はすべて処罰されると。校長はまんまと諸君の組み立てた挑発にのせられたということだった。したがってこの撤去闘争の本質というものは、校長と日教組の政治闘争であり、日教組活動を敵とみなす校長と、校長に排撃しようとする日教組とがぶっかった権力闘争なのである。私がいま反尊徳像撤去の声を上げるのは、学校を政治闘争や権力闘争の場にしてはならぬということだが、それだけではない。日教組的階級理論から尊徳像を論じるのではなく、一人の人間として、一人の教師として、私たちはいまこそ二宮尊徳という農民の人生を学ぶときなのだということを、ノータリンになっている諸君を覚醒させんとすることにあるのだ」
石の話がひとまずピリオドが打たれると、果たして教師たちの手が次々に上って、石が放った攻撃よりも何倍も激しい非難と反撃が石に浴びせられた。それは石が提示した反銅像撤去への反論というよりも、石という教師としての存在に対する批判で、やれ石は戦前の教育勅語を骨の髄までしみこませた教師あるとか、男子には武士道教育を、女子には華道や茶道さらには長刀を教えるべきだという教育思想をもつ右翼的教師であるとか、日教組を敵視している反動教師であるとか、民主主義を否定する一種ファシスト思想をもった危険な教師であるといった批判だった。それはいかに石がその学校で浮いた存在であるかを語っていることであり、石の側からみるとひたすらわが道をいく孤独の深さを語っていることでもあった。
撤去闘争に一人の反対者がでたといっても、もともと石の存在など最初から眼中にいれていなかったから、その闘争の戦術どおりに展開されていって、シンポジュームを行うという四番目のステージまできたのは、その前年に革新市長が誕生していたということにあった。教育委員会の委員も全員が入れ替わり、市政は極めて革新色の強い政治がおこなわれるようになっていたのだ。二宮尊徳像撤去闘争はそういう政治的背景も十分に読みとって組み立てられていたのだ。校長もこういう政治的状況では妥協につぐ妥協で、きわめて政治色の強いシンポジュームが、その学校で挙行されることになった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?