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彼の目的地は、あそこだなと思った

 熊本県の全中学生と全高校生にパソコンが支給される。毎年そのパソコンの入札をめぐって納入業者がはげしい売り込みをかけてくるが、その年は「ソーテック社」という業者が落札した。「ソーテック社」はその見返りに五百万円を最終選定者である寺田教育長に献上したというシナリオが書かれた。そして寺田の繰り出す施策に文科省の指令通りに抵抗して左遷された熊本県の教育行政課の課長、課長補佐、係長、不正経理を行っていた「ソーテック社」、そして家宅侵入のプロにそれぞれ役割を担わせ、寺田を収賄罪で監獄に送り込むというプロジェクトが実行された。寺田は逮捕された。特捜チームは直ちに熊本県の教員委員会、彼の住むマンション、そして東京の自宅に家宅捜索の手が入り、その東京の自宅から「ソーテック社」の重役が証言した通り、紙袋に詰め込まれた五百万円を押収した。

 寺田を監獄に投げ込むプロジェクトは成功したかにみえたが、思いもよらぬところから破綻していく。そのプロジェクトの最大のハードルは、紙袋に入れた三千万円の現金を、品川の旗の台に立つ彼の実家に侵入して、彼の部屋のベッドの下に隠匿するという作業だった。その作業をなんと四百件もの家宅侵入歴をもつ前科九犯の斉藤隆という人物に五十万円で請け負わせたのだ。そこからこのプロジェクトは一挙に崩れ去っていった。この事件に疑念をもち追跡していた熊本日報の記者に、斎藤はそのことをばらしてしまったのだ。斉藤はただちに闇の底に消された。教育課の元係長は交通事故で死亡する。そして元教育課長は、寺田に復讐するためにすべて自分が仕組んだ事件だったとワードで打ち込んだ遺書を残して自殺した。

 熊本県の教育長に赴任したとき、寺田はその地で彼の果たすべき仕事をして、文科省には帰らないつもりだった。しかし彼の容疑は晴れ、十か月に及んだ拘置所から釈放されると霞が関に帰還した。それを強く望んだのだ。守旧派にとって彼の帰還は脅威だった。人事権を握っている守旧派は彼をただちにウィーンに飛ばした。ユネスコの事務局次長に。彼を外国に封じ込めるつもりだったである。寺田はウィーンに赴任した。しかし二年間のウィーン在任中にたびたび日本に帰還して、彼が熊本拘置所の面会室で七海に告げた彼がすべきことが果たされていた。

 山際大臣官房審議官は熱海にあるホテルの部屋で鴨居に首を括って自殺した。須藤大臣官房参事官は文科省庁舎の屋上から身を投げて自殺した。この守旧派の核のような存在であった二人を失って文科省の潮流は変わっていく。守旧派から改革派の潮流に。今日の教育改革が実現されるまでに、このような隠された権力闘争があったのである。その隠された闘争の歴史は決して表にあらわれない。

 その夜、寺田がサイドテーブルにのせた本はヘミングウエイだった。もう何年もサイドテーブルにはのせていなかったが、彼の青春の書であるその本で久しぶりに弦楽五重奏の奏でてみたいと思ったのだ。彼の心が乾いていたのだ。彼はもつとも彼が好きにページを開いた。そのページであり、彼が弦楽五重を奏でたのはこの一文だった。


The zebra, small rounded backs now, and the wildebeest, big-headed dots seeming to climb as they moved in long fingers across the plain, now scattering as the shadow came toward them, they were tiny now, and the movement had no gallop, and the plain as far as you could see, gray-yellow now and ahead old Compie’s tweed back and the brown felt hat. Then they were over the first hills and the wildebeest were trailing up them, and then they were over mountains with sudden depths of green-rising forest and the solid bamboo slopes, and then the heavy forest again, sculptured into peaks and then another plain, hot now, and purple brown, bumpy with heat and Compie looking back to see how he was riding. Then there were other mountain dark ahead.

 縞馬はもう小さなまるい背中だけになり、うしかもしかが大きな頭だけの点になって長い指のようにひろがり、平原を横ぎって、のぼってゆくよう見えた。機影が近づくと、ちりぢりに散らばって、小さくなり、その動きも走っているようには見えなかった。平原は見渡すかぎり灰色かがった黄色だった。目の前には、コンプトンのツイードの背中と茶色のフェルト帽があった。やがて最初の山のつらなりを越えた。うしかもしかが、あとを追ってきた。やがて、こんもりと茂った緑の森林のある深い谷間や、斜面にうっそうと竹の生い茂った山々を越えた。つづいて、峰や窪地に刻みこまれた深い森林が見え、それを越えると、丘が、なだらかに低まり、ついでまた平原になった。暑く、紫がかった茶色の平原で、熱気のために動揺がばけしかった。コンプトンがふりかえって彼のようすをみた。前方に黒く別の山脈がそびえていた。(大久保康雄訳)
 
縞馬はぽつぽつぽつと丸めた背中だけが見え、牛羚羊は頭でっかちの斑点で、長い指のように列をなして平原を横切る姿が上に登って来る感じだが、機影が近づくとばらばらに散り、小さく縮んで、飛んで走るスピード感も消え、ついで見わたす限り、灰黄色の平原となり、すぐ目の前にはコンプトンのツイードの背中と茶色のソフト。と、最初の丘の列を越え、牛羚羊がぞろぞろと登って行く。ついで山並みの上にさしかかり、ところどころが急に落ち込んで、緑に伸び上がる森、密生する竹藪の斜面、再びこんもりとした森、と、山越えが終る迄凸部凸部の彫り模様が続いてから、麓の丘の下り坂、そしてもう一つの平原が、今度は暑さの中に茶紫色に拡がり、熱気のために機ががたがた揺れ、コンプトンは彼の様子を案じて振り向く。やがて前方にまた山並みが暗い姿を現わす。(沼澤洽治訳)
 
シマウマの丸い小さな背中が見える。かと思うと、ヌーの群れが長い列をなして平原を移動しており、大きな頭のみが目立つ点になって、こちらに上昇してくるように見える。機影が接近するにつれて彼らは散り散りになり、いまや小さな点と化した。その動きは緩慢だった。やがてやがて下には目路の限り灰黄色の平原が広がり、すぐ前にはコンピーのツイードのジャケットの背中と茶色いフェルト帽子が見える。次の瞬間、機は最初の丘陵の上にさしかかった。緑色に盛りあがった森林が深く切れ込んでいる谷間や、竹の密生している斜面が見える。それからまた、鬱蒼たる森林が峰や窪地に刻み込まれていて、その上をまたぐと、丘陵がなだらかに下降し、新たな平原が広がっている。見るからに暑そうな、紫がかった褐色の平原で、熱気のために機が動揺した。コンピーが振り返って、こちらが耐えているかどうか、確かめた。ほどなく前方に、またしても黒い山影が見えてきた。(高見浩訳)
 
いまは背中が丸く見える縞馬、それにヌ―の群れ、大きな頭を持った点が群れていて、それは空に駆けあがろうとしているように見えた。かれらは指が分かれるようにいくつかの列を作っていたが、いま影が自分たちのほうに向ってくるので、散らばりはじめていた。いまかれらはとても小さかった。そして駆けているのかもう見分けがつかなかった。古馴染みのコンピーのツィードの背中と茶色いフェルトの帽子の前方に、灰色がかった黄色を帯びた平原が、視界の際までつづいていた。それからふたりは最初の丘陵を越えた。斜面をヌーの群れが登っていた。そしてそれから山脈を越えた。山脈には不意に深くなる谷があり、斜面は緑の木々で膨れていた。びっしりと竹に覆われた斜面もあった。それから峰や谷を装飾するように交錯して広がる深森がふたたび現れた。そしてなだらかになっていく山並み、新たな平原。それは熱気を堪えているようで、紫がかった褐色を呈していた。熱気のためた突風があり、コンピーは客がどうしているか振り返った。それから前方にべつの暗い色をした山脈が現れた。(西崎憲訳)

 
And then instead of going on to Arusha they turned left, he evidently figured that they had the gas, and looking down he saw a pink sifting cloud, moving over the ground, and in the air, like the first snow in a blizzard, that comes from nowhere, and he knew the locusts were coming up from the South. Then they began to climb and they were going to the East it seemed, and then it darkened and they were in a storm, the rain so thick it seemed like flying through a waterfall, and then were out and Compie turned his head and grinned and pointed and there, ahead, all he could see, as wide as all the world, great, high, and unbelievably white in the sun, was the square top of Kilimanjaro. And then he knew that there was where he was going.


それから機はアルーシャへは向わずに左に機首を向けた。燃料は十分だと見きわめがついたのだろう。下を見ると、ふるいにかけたような桃色の雲が地上に近い空中を動いているのが見えた。どこからともなくやってくる吹雪の前ぶれの雪のようにも見えたが、それは南方から飛んできた蝗の群れだとわかった。機は上昇をはじめた。東方に向かうらしい。 まもなく急に暗くなって、嵐のなかへはいった。雨がはげしくたたきつけ、まるで滝のなかを飛んでいるようだった。やがて、嵐のなかをくぐりぬけた。コンプトンがふりかえって、にやりと笑い、向うを指さした。見ると、前方に、視野いっぱいに全世界のように巨大で高く広いキリマンジャロの四角い頂が、陽光をうけて信じられないくらい純白に輝いていた。そのとき彼は、自分が行こうとしているのはあそこなのだと知った。(大久保康雄訳)
 
と、まっすぐアルーシャに向かう代りに、機は左に折れた。コンプトンはガソリンが保つと思ったらしい。見下ろしたハリーの目に篩で粉をまいたようなピンク色の雲が見え、吹雪の先がけの雪のようにどこからともなく湧いて来た感じで地表と空中を移動して行き、彼は南部から蝗の群が来たなと知った。それから機は高度を上げ始め、東部に向かう感じになったが、やがて空が暗くなり、機は嵐の中に突っ込んで、滝潜りさながら一面の雨、が、やがて抜け出し、コンプトンは振り向くとにやっとして指さした──そう、前方の視野一杯、世界の端から端迄拡がって、壮大に聳え立ち、日の光を浴びて信じられぬ程の白さで見えているのは、キリマンジャロの四角い山頂。そして彼は自分の目的地はあそこだなと知った。(沼澤洽治訳)
 
そのうち、アルシャには向わずに、機は左に方向を転じた。たぶん、燃料は十分だと見きわめをつけたのだろう。下から見ると、ふるいにかけたようなピンク色の雲が地面の上を、また空中を、動いている。どこからともなく訪れる吹雪の前触れのようにも見えたが、実は南から飛来しつつあるバッタの群れなのだ、と彼にはわかった。それから機は上昇に転じ、東に向かって飛びはじめたかのようだった。やがて周囲は暗転し、機は嵐の中に突入した。しばらくは滝のような豪雨をついて飛ぶうちに、嵐を抜けだした。コンピーが振り返った。にっこり笑いながら彼が指差すほうを見ると、前方の視界いっぱいに、さながら全世界のように広く、大きく、高々と、信じがたいほど真白に陽光に輝いて、キリマンジャロの四角頂上がそびえていた。その瞬間、自分の向かいつつあるのはあそこなのだと、彼は覚った。(高見浩訳)
 
そしてアルーシャに行くかわりに、飛行機は左に進路をとった。コンピーは明らかに燃料が間に合うと判断したらしかった。見下ろしたかれの目に篩からこぼれたようなピンクの雲が映った。どこかともなくやってくるブリザードの最初の雪のように、それは地をなめるように空中を移動していた。それは南から飛んできた蝗だった。蝗の群れは上昇しはじめ、東に向かうように見えた。そしてそれから暗くなり、嵐のなかに突っこんだ。雨はとてもひどく、滝のなかを飛んでいるようだった。雨から脱出した時、コンピーは振り返り、にやりと笑って前方を指さした。そこには視界のすべてを覆って、世界と同じほど広く、高く、巨大で、陽光を集めて無窮の白さを放つものがあった。キリマンジャロの頂だった。その時かれは自分が向かっているのがそこであることを知った。(西崎憲訳)
 


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