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南の海の島 1

樫山英雄の卒業論文は「僻地教育論」だった。僻地社会では学校は攻撃的な役割を演じなければならず、学校と学校が生みだす青年たちが変革の主体になって、僻地社会の政治構造とか経済構造とか社会構造を変革していかなければならないと論じたものだった。そしてその論文のなかで組み立てた理論を実践せんと、郷里鹿児島の南方に横たわる南西諸島の小さな島に立つ学校に赴任したのだった。

遠く隔てた距離のために、彼と会う機会はなかったが、年賀状とか、あるいはちょっとした近況のやりとりは続けていたのだ。ところが三年前、ひどく謎めいた、なにかただならぬ手紙をよこしたあと、ぷつりと音信を断ってしまった。実際、その手紙は謎めいていた。分校をつぶしたとか、子供を殺してしまったとか、村をつぶしたとか、ぼくは裏切り者だとか、この罪を永遠に許さないといった言葉が書かれていたのだ。しかしそれ以上のことはなにも書かれていない。いったい村をつぶしたとはどういうことなのか、子供を殺したということはどういうことなのか、私は二度ならず三度まで手紙をしたためたのだが彼からの返事はなかった。

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 全身白く塗装した南海丸は二百五十トン、定員五十人という連絡船だった。この船が飛び石状に点在する七つの島を、五日間もかけて周航するのである。深夜の船出は、乗客がわずか十二、三人だということもあって、何やら密航船か落人たちを乗せた逃亡船かといったものさびしい風情に包まれ、腹の底に響く機動の音もどことなくたよりがなかった。

 月光があたりをこうこうと浮かび出す夜で、桜島が雄大な裾を夜の底にひろげていた。私はこの山を見るのがはじめてだった。デッキに出て、海の風をうけながらその山を眺めていると、学生時代に読んだホーソンの「ザ・グレイト・ストン・フェイス」という物語を思い出していた。巨大な岩壁に自然が人面の像を刻んである。何か永遠のあこがれのような気高さをたたえたその像を毎日見上げながら育った子供が、年老いてみると実はその像そっくりだったという物語である。それと同じようにこの地に住む人々には、桜島はただの一風物ではなく、精神の領域にそびえ立っているように思えた。

 あの風変わりな樫山英雄もまたこの山を見ながら育ったのである。いったい何度この山を友か恋人でも語るような熱い調子で語ったことだろう。なるほどいつまでも見飽きることがない。写真などで見る陳腐さはどこにもなく、ある精神を投映させる風格があった。樫山という男のあの不思議な深み、あのとらえがたい高みは決してこの山とは無関係ではないように思えるのだった。

 湾を抜け、大海原に出ると小さな船は大きく揺れはじめた。次第に気分が悪くなっていった私は、畳の上にごろりと横になっていると、酔い止めの薬がきいてきたのかいつの間にか眠りに落ちていた。幾度もなる汽笛の音で目を覚ましたときは、すでに夜があけていた。デッキに出てみると最初の寄港地である前之島が海上に寝そべるように横たわっていた。早朝の大気は南の海とはいえさすがに冷たかった。たったいま地平線を昇ってきたのであろう太陽の火の矢を斜めにうけた南海丸は、またボウーと汽笛を鳴らし、突堤をゆっくりと回って小さな港内に入っていった。

 人を下ろし荷を下ろした南海丸が前之島を後にしたころには、もう太陽は頭上に昇り、南国らしい熱い陽をちかちかと降り注いでいた。海は紺碧、空は抜けるような青で、雲一つなかった。次なる寄港地である平島の島影が、ぼんやりと地平線にその姿を見せている。ここは海の道だという。一つの島が消えると、次の島が現れる。羅針盤を持たぬ時代に生きた人間たちはこの海の道を通って、大陸にあるいは日本列島に渡ったのだ。

 海の道は美しかったが、うねる波、揺れる船にまたおかしくなってきた。船室に戻り、今朝飲んだばかりの薬を飲みこんでごろりと横になっていたが、吐き気と頭痛は興じる一方で、とうとう胃袋の中身をすべてぶちまけるように吐いてしまった。それからはもう地獄の苦しみだった。吐き出すものがないのに吐きつづけなければならない。ギシギシと揺れる船は全身をねじっていくようだった。樫山にはこの苦しみを乗り越えなければ会えないというわけだ。いまさらのように彼との距離の遠さを感じるのだった。

 樫山英雄という男を知ったのはもう十五年も前になる。学生食堂で食券を買うために長い列に並んでいるときのことだった。後ろにいた背の高い男が私の肩を叩き、
「どうですか? ぼくに五円を貸してくれませんか」
 と話しかけてきたのだ。一瞬私には「あなたに五円を貸してあげましょうか」というふうに聞こえてきたのは、軽い笑みをつくって静かに語りかけてきたその口調の高さが、どこか浮世ばなれした雰囲気を漂わせていたためなのだろう。そのころの学生食堂のランチには、三段階だか四段階のランクがあって、一番安いランチは五円という端数になっていたのだ。彼はその五円が足りないというのである。私は気前よくくれてやった。それから一カ月近くたったある土砂降りの日、講義を受けて二号館を出たとき、それこそ車軸を流すような雨のなかを、ずぶ濡れになって追いかけてきた男があった。
「君でしたね。ぼくに五円を貸してくれたのは。すぐに会えると思ったんですが、申し訳なかったですね」
 五円という金を貸したことも、それがどんな男だったかも忘れてしまった私は、すっかり驚いてこの男をまじまじと見つめたものだ。それが樫山だったのである。

 類は友を呼ぶで、その頃の私の友人といったらたいてい苦学生だった。樫山もまたたった五円の金に苦労するほどの学生だったが、ただ彼には教会に守られているということがあった。というのは関東一円に点在する教会のよごれけがれを洗い清めるというアルバイトで、四年間の学生生活を送ったからなのだ。あっちの教会、こっちの教会と、何週間かのサイクルで大掃除をしながら渡り歩くというアルバイトは、彼の所属した宗教部に脈々と流れる誇り高き伝統であったが、衣食住すべてを教会の世話になった豪傑は樫山を嚆矢とするだろう。それは多分、彼の人格というのを教会がおそれたからなのだ。だれだって彼の放つ強烈な光の刺激を、ちょっと手をかざして遮りたいと思うほどまぶしく感じるのだった。

 その頃から彼には、苦しみにあえぐ世界の果てに飛んでいく宣教師といった風情があった。春になれば交通遺児たちのためのバザーを開き、夏になれば僻地の小学校を回り、秋になれば障害者たちの文化祭に奔走し、冬になれば救世軍に身を投ずるといった具合で、大学には勉強よりもボランティア活動に挺身するために籍を置いているようにみえたほどだった。三年生になって宗教部の部長になると、その活動にさらに拍車がかかり、熱気というよりも一種異様な狂気といったものさえ帯びるようになった。そんな彼の情熱に煽られて宗教部は興隆し、一時は百人を越える部員をかかえ、傍目にもその熱気と高揚には圧倒される思いだった。

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