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渡り鳥
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年が明けて、だんだん卒業式の日が近づいてくると、弘の耳に守が子供団をやめるとか、美雪も、かおるもやめるといった話がはいってくる。もう中学生になったら、子供団ではないというわけだ。そんな彼らのゆれ動く気持ちの背後には、親の圧力といったものがあった。中学生になったら勉強であり、子供団のような、いわば遊びに熱中するような活動からもう足を洗うべきだというのが、親たちの絶対的な価値観であった。その絶対的な価値観の前に子供たちはもろにさらされる。
もしうわさ通り、中学生になった子がどっとやめていったら、子供団は再起できないほどの打撃を受ける。とにかく樫の木子供団は、いまの六年生たちによって結成されたのであり、彼らの手によって活動は成長してきたのだ。しかも子供団を構成している団員のほぼ半分は、六年生たちなのだから、彼らがごそっと去ってしまったら、子供団は火が消えたようになり、その存続だってあやしくなる。
しかし弘はまた確信していた。たしかに子供団からあっさりと立ち去る子もいるだろう。しかしまたこの子供団に、とどまる子供もたくさんいるにちがいないと。道なき道をみんなで力をあわせて切り開いてきたのだ。深い友情で結ばれている彼らが、あっさりと子供団を投げ出すとは思えなかった。彼らは冷たい子供たちではない。
卒業式の終わった三月の下旬、子供団は卒業生たちだけで、丹沢の子供基地で合宿をおこなうことになっていた。卒業と入学を祝って、さらにこれから子供団をどう展開させていくかを話しあうために。
本厚木からバスで一時間ほどゆられる。バスを降りるともう丹沢の山中だった。そこから山を巻いて、丹沢山塊の奥深くへとのびる山道を、三時間ほど歩かなければならない。丹沢も春の気配があちこちに漂っていた。裸になっていた木立は、産毛のようなやわらかい葉をつけはじめ、草も青々と繁りはじめている。匂いたつような春の山を、幸治たちを先頭に子供団の一群はぐんぐん登っていく。彼らの足どりは、もう小学生ではないと言っているようだった。弘はすっかりたくましくなった彼らについていくのがやっとだった。
最後の峠をこえると、山道は小さな川に出会う。その川の成長とともに歩きながら下っていくと、ぱっと視界がひらける場所にでる。そこに山小屋ふうの建物がひっそりと立っていた。そこが彼らの新しい拠点となる子供基地だった。その小屋を、子供団と、ゼームス塾と、智子の分校の三者が共同で借りるという契約が成立し、今年の冬休みには、弘も長太たちとともにその小屋に泊りこみ、子供たちが合宿できるように補修工事をしたのだ。そんなわけで、春休みは、それぞれのグループが合宿することができるほどになっていた。
三月の下旬とはいえ、山はまだ冬の厳しさのなかにある。夜になると氷点下にまで冷えこむ。その小屋には大きなダルマストーブがはいっていた。持主の矢代さんが、製材所で使っていたものを寄附してくれたのだ。その夜、赤々と燃やした、そのダルマストーブを取り囲んでの会議だった。天井からつるされたランプのあかりが、子供たちの顔を浮かびだす。その顔はもう子供というよりは、若者の顔だった。女の子なんかは、はっとするばかりの色気さえもただよわせている。
「でも今度はさ、大人をいれたくねえよな」
「うるせえんだよ」
「ほんと、ほんと」
「最初さ、大人はぜったいに入れないというルールつくったけどさ。だんだんはいってきやがってさ」
「煙草のことだって、青谷のおばさんなんかに見つからなければさ、あんな騒ぎになんかならなかったよな」
「あのおばさんが、あちこち言いふらすから、いけないのよ」
「今度のキャンプはさ、完全に大人をいれないということにしては」
「そのへんはどうですか。弘は」
と夏子が弘にたずねた。彼女はいまなにを話さなければならないかをしっかりとおさえていて、脱線につぐ脱線から、話しをそこにひきもどしていくのだった。
「うん、そうだね。それはとてもよくわかるんだ。しかし一週間ともなると、やっぱり大人の協力が必要なんだよね。いろいろとあるわけだから」
「でもおれたちだけで、できると思うけど」
「できる、できる」
「みんなすごく成長したじゃないか。ノンコだとか、カズだとか、ゴボウだとかさ。なんにもできなかったやつが、いまでは飯だってたけるわけだからさ」
「私たちだって中学生だしね」
「でたよ」
「でたよ、中学が」
父母たちの活躍で、子供団もずいぶん助けられてきた。再び青春がやってきたと言わんばかりに、積極的に活動に参加してくる父母が何人もいた。それはそれで素晴らしいことだったが、ときには熱心なあまり、子供たちの活動に必要以上に干渉する。夏のキャンプでは、そんな場面が幾度もみられた。子供たちは、そのことにはげしい抵抗感をもっているのだ。
「それとさ、テントだけじゃなくて、自分たちで家を作るというのもいいと思うけど。ここは子供基地なんだからさ」
「それは無理だな」
「どうして無理なの」
「だって家でしょう」
「だからさ、家っていったって、大きなものじゃなくてさ。山にある木とか枝とかでつくるわけさ」
「雨ふったら、濡れるじゃない」
「そこは葉っぱを集めてさ」
「葉っぱ!」
「葉っぱかよ」
「でもさ、木の上の小屋なんていいよね」
「それ、いいよね。あたし、それってずうっとあこがれていたんだ」
「ロープのはしごをつくって、それで上がったり降りたりするわけよ」
「なんだか、いいよな、そういうの」
「ねえ、弘。それをやろう」
「それはできないこともないね。丸太とかを、木の上にあげるのは、ちょっと大変だけど」
「そこは大人にたのむんだよ」
「そうだ、そうだ、そこはおやじたちによ」
「そこだけやらせてさ、あとはいいからって」
「もう帰っていいよって言うわけか」
「なんだか、ずるいよね」
「でも、それが大人ってもんだよ」
そんな話をしながら、夜はふけていく。しんしんと冷えこむ夜だった。小屋は、夜の闇と、森の神秘につつまれていた。ぼんやりとあたりを照らすランプの下で、ストーブを取り囲んだ十一人は、絆をさらに深めるのだった。
結局、卒業生は一人も脱落することはなかった。春の合宿が終わると、新中学生となった彼らは、一人も脱落することなく団会にでてきた。子供団の活動は、いつも春から夏に向かって、盛り上がっていく。春の訪れに、眠っていた子供たちの野性の力が、湧き立っていくかのようだった。男の子も、また女の子たちもそうなのだ。女の子たちまで、なにか荒っぽい野生の血が騒ぐなんて、とても愉快なことだった。こうして子供団は一つの危機を乗り切った。
それは四月の終わりだった。弘が夕方、体育館にはいっていくと、小学生たちがどどっと走ってきて、
「弘、入りたいんだって、あの子。子供団に」
と口々に叫んだ。美雪とかおりが、その女の子の手をひいてかけてくると、
「未来ちゃんが、子供団に入りたいって」
「名前、未来って言うのか」
「そうよね。未来ちゃん」
「うん」
人形のように可愛い子だった。その表情、そのしぐさ、その全身が可愛いのだ。体育館の隅に、にこにこと笑顔をたたえて立っていた小柄な女性が、弘のほうにやってきた。その人が未来の母親だった。彼女もきれいな人だった。とても一児の母親に見えない。
「あんな小さい子でも入れるのでしょうか」
と未来の母親がたずねてきた。
「もちろんです。今度、二年生になったんですね」
「そうなんです」
「いま三年生になる子がいますけど、未来ちゃんが入ってくれば、だんだん低学年の子もふえていくと思います」
「三月に、こっちに越してきまして、まだ友達がいないものですから」
「でもあの子は、すぐに友達ができますよ。可愛い子ですね」
「可愛いんでしょうか。だんだん生意気になって」
「それがまた可愛いんですよ」
そして弘はざっと子供団のこと、会費のこと、父母会のこと、夏のキャンプのこと、子供団のめざすことなどを説明して、入団申込み用紙を渡した。
彼女はその欄に、まるでいまの女の子たちが書くような、まるっこい字で書き入れていったが、保護者の欄に西沢明美と書きこんた。明美とは彼女自身の名前にちがいない。その欄にはたいてい子供の父親の名前が書き込まれるが、自分の名前を書くということは、離婚でもしたのだろうか。そんな疑問にとらわれていると、彼女はさらに弘を戸惑わせることを言った。
「私は、夜働いているものですから、こういう活動があると、ほんとうに助かります」
「夜ですか、お勤めは?」
「ええ、水商売なんです」
未来は、たちまち子供団のアイドルになった。大変な人気だった。女の子たちは団会にくると、まっさきに未来ちゃんは、未来ちゃんは、とたずね、未来の姿が見えると飛んでいって、可愛いと抱きしめる。それは男の子たちも同様で、グループに分かれてゲームするときになると、真っ先に未来がとられて、まるで未来を守る騎士になったかのように、高揚した気分でその可愛い手を取るのだった。
未来の人気は、ただ可愛いからだけではなかった。いくらその姿が人形のように可愛くても、それだけならば、みんなのアイドルになりはしない。未来が子供たちの心をとらえたのは、未来という子供がとてもやわらかい優しい心をもっているからだった。
しかしこの未来の入団によって、また新しい問題も発生した。土曜日の団会が終わると、低学年の子を高学年の子供たちが、自宅まで送っていくことになっていた。未来は、家が同方向にある三人の女の子たちが送っていくことになっていたが、その子たちが未来のマンションにあがりこんでしまって、家に戻ってくるのがいつも遅く、ときには十一時過ぎに帰ってくることもあるというのだ。そのことが父母会の話題になった。
どうしてそんなことになるのか、未来を送っていく子供たちに訊いてみた。すると未来を自宅に送った子供たちは、未来の母親が家にもどってくるのがいつも一時過ぎになるから、学校の支度をさせたり、宿題を手伝ってあげたり、洗濯物をたたんだり、お風呂に入れてあげたりと、いろいろと未来の面倒をみているとこたえた。そういうことならば、少しも非難すべきことではなかった。しかし帰りが遅くなるのは問題だった。そこで未来を自宅に送りとどける役は、しばらく弘がするにした。
未来の住むマンションは、お寺の裏に建っていた。安っぽいつくりの六階建ての小さなマンションは、狭い地所からいかに高収益をあげるか、ということだけで建てられたような建物だった。未来の部屋は三階にあった。半畳ほどの玄関を入ると、厨房とダイニングルームといった部屋があり、その奥にもう一つ畳の部屋があった。すべてのサイズが、小さくコンパクトにまとめてあった。
「ここが未来のおうちか」
「うん」
「とても可愛いお部屋だね」
「うん」
弘はあの高志を思い出していた。高志の部屋は、木造アパートのわずか六畳一間だった。あの殺伐とした部屋にくらべたら、ここは色彩にあふれ、いかにも女性の部屋らしい、雰囲気にレイアウトされている。しかしこの部屋の空気は、どことなくあの高志の部屋に漂っていたものに似ている。ひんやりとした孤独の空気が。未来はこの部屋で、たった一人で夜をすごすのだ。
未来は、冷蔵庫からケーキを取り出してきて、小さなテーブルにのせた。
「これ、食べて下さいって」
「そうか。いつもお母さんは用意してあるのか」
子供たちが未来を送ってくる。その彼女たちのために、いつもケーキなどが用意されていたらしい。送ってきた子たちが、いつまでもぐずぐずして家に帰るのが遅れる原因も、このあたりにあったのかもしれない。
「お母さんも大変なんだね」
「そうなの。雇われマダムだから、大変だって」
「そうか。雇われマダムなのか」
「なんだかむずかしいって」
「そうかもしれないね」
雇われマダムなどという言葉など、未来にはわからないはずだったが、それなのに彼女もまたむずかしい顔をして言うのだった。小さなテーブルの上に未来にむけた書き置きがおいてあった。
未来ちゃん
さっきのつづきだけど、いろいろうまくいかなくて、
それでおこったわけだけど、ママってへんなの、
ママってときどきへんになるの。ごめんごめん
子供団おもしろかった?
ちゃんとおふとんかけてねてよね、かぜひくとのどがいたくなるでしょう。
ぎゃおぎゃおライオンだ。
ライオンのイラストが笑いかけている。なんだかほのぼのとした書き置きなのだ。
「ママからのラブレターだね。素敵な手紙だね」
「ママってへんな人なの。だからいつもへんな手紙を書いていくのよ」
「でもこうして、ママは未来とお話しているわけだよ」
「そうかな。これはお話なのかな」
「お話なんだよ。未来が一人でちゃんと眠れるようにって」
「そうなのか。これはお話しなのか」
弘は最近つくった童話を話しはじめた。それはカラスの物語だった。近年、カラスたちは都会にはげしく侵略している。木立がこんもりと繁った都会の墓地に住みついているカラスー族の物語だった。その話をはじめると、未来はまるで物語に身をあずけるように聞いていた。悲しい場面には、涙さえもうかべ、どきどきさせる場面には、彼女もどきどきさせて、おもしろい場面なるとけたけたと笑いながら。ひたと瞳を弘にむけて一身に次なる言葉をまっている未来は、この物語をともにつくりあげていく人のように思えた。物語は聞き手とともにつくられていくにちがいない。
その物語を話し終えたとき、未来は深い溜息をつき、それからぱちぱちと拍手をして、
「ああ、おもしろかった」
と言った。弘は自分の作品の最高の聞き手に出会ったように思え、これから新作の童話を書き上げたら、まず未来の前で朗読してみようと思うのだった。
弘には今年一年生になった潤という男の子と、二つ下に望という女の子がいて、ときどき二人に出来上がった童話を話すのだが、彼らはあまり熱心な聞き手ではなかった。それがちょっぴり不満だったのだ。
未来とそんな時間を共有したこともあって、なんだか弘も帰れなくなった。未来一人部屋に残して帰るにはしのびないのだ。一人で眠れるのだろうか。ちゃんと布団をかけて眠れるのだろうか。なにかあったらどうするのだろうか。そんな不安がよぎるといよいよ帰れなくなるのだった。このときはじめてかおりたちが、未来の部屋に長居してしまう理由がわかるのだった。
夏が近づいてくると、子供団は燃え上がっていく。子供たちの体の底からなにかが燃え立ってくる。子供たちは野性的になる。やさしくなる。友情にあふれる。意欲的になる。生活が燃え立ってくる。向上しようと必死になる。子供たちのなかにあるエネルギーが全回転して、子供たちの生命力が躍動するのだ。それは学校教育では、けっしてつくりだせないものだった。なにしろその全部を、子供たちがつくりだしていかねばならない。そのためには子供たちは、あらんかぎりの力を、その計画に注ぎこまなければならないのだ。
たった一週間のキャンプだったが、それを実現させるためには長い月日を要する。その日に向かって、活動は綿密に組み立てなければならない。その組み立てをどこかで手を抜いたら、計画ががたがたと崩れていくのだ。だから一つ一つの過程を、きちんとこなしていかなければならない。そのことを子供たちは、さまざまな活動を通してからだで知っていた。子供団のキャンプは、子供たちにとって巨大な建造物を建てることと同じなのだ。
六月に入ると、キャンプづくりは、いよいよ忙しくなる。子供団新聞に、その計画がぎっしりと書きこまれていた。
六月
一週 キャンプの下見。テントの点けん。もっていく持物の点けん。
二週 キャンプの班づくり。リーダー会。キャンプファイヤーのイベントづくり。
三週 しおりづくり。食りよう計画の完成。班会議。キャンプ村の役員を選ぶ。
四週 宣伝活動。第三回キャンプの下見。リーダー会。班の旗づくり。
七月
一週 父母の説明会。参加費集め。キャンプの日程最終決定。
二週 買い出し。そうびの最後の点けん。個人がそうびするものの点けん。
三週 健康カードづくり。各班のイベントづくり、最後の追い込み。
四週 荷物の積みこみ。最後の打ち合わせ。
父母会もまたキャンプに向かって盛り上がっていく。なにやら今年の父母の参加者は、去年よりもふえそうだった。それはうれしいことだったが、弘には父母たちに牽制しておかねばならないことがあった。昨年は、父母たちを子供たちの活動のなかに、ずるずるといれてしまった。キャンプ場のスペースの問題もあったが、子供たちのテントの隣りに、ほとんど距離をおかずに父母たちのテントを張ったりしたものだから、子供の活動と大人の活動が混然となってしまったのだ。食事づくりなど、大人が手を出してはならぬのに、見るに見かねた何人もの親が、子供たちの食事をつくってしまう始末だった。
今年のキャンプでは、子供と大人の線をはっきりと引かなければならなかった。子供たちの活動に手を出してはいけない線を。どんなに子供たちが困っても、手を出してはいけないのだ。それはまた子供たちからの強い要求だった。子供たちはキャンプのときぐらい親の顔など見たくないと言うのだ。子供団の長期キャンプは、ある意味では、親からの独立宣言をする場、あるいはそのことを準備する場であったかもしれない。彼らが彼らの人生を一人で歩きはじめることを、われとわが身に刻印するための。それならば本当は、大人をまったく排除したほうがいいのかもしれないのだ。
六月に入って頻繁に開かれる父母会に出るたびに、弘はその話を切り出そうとする。しかし父母たちの熱気と高揚というものにふれると、なんだかいよいよ切り出しにくくなるのだった。
「このあいだ、佐野さんと宮沢さんで下見にいったのよ」
「ずいぶん歩くんだってね」
「歩く、歩く。歩くなんてもんじゃないよ。まったく山の中」
「猿が出てくるところだからね」
「しかし、いいところよ。まるでいいところ。それでね、宮沢さんが言うんだね。ここに風呂をつくったら最高だって。それでさ、ひとつおやじ会で風呂をつくろうじゃないかということになったのよ」
「風呂ですか?」
「ずいぶん俗な発想ね」
と桂子のお母さんからひやかされると、会長は、
「いやね、そこはもう風呂さえあれば、あとはなんにもいらないというところなの。風呂にのんびりつかって、酒をちびりちびりなんてもう最高」
「でもどうやって、風呂をつくるんですか」
「ドラム缶でつくるのよ。ドラム缶を運んでさ」
「それはおもしろい発想だけど、あそこまで運ぶのは大変ですよ」
「なにいってんの、先生。おれたちが運ぶんだよ。おれたちに不可能ってことはないの。子供たちにさ、やればなんでもできるんだってことを見せたいのよ」
「林道が通っていますよね。山のうしろのほうに。あの林道はあの小屋の近くまで入っているんですね。そこから入れば、二十分ぐらいで運びこめるはずですよ」
と銀行員の野口がビジネスマンらしく説明した。
「四、五人にいれば楽勝よ」
「だめだったら、お父さん全員、かりだせばいいんだからさ」
「楽勝、楽勝よ」
その風呂づくり作戦は、父親たちのあいだでもう相当進行しているようだった。風呂場の設計図が書かれ、資金の調達方法まで思案されていた。そんな計画を話すとき、彼らの目は青年のようにきらきらするのだった。弘はあらためて知るのだ。キャンプは子供たちだけのものではないことを。彼らもその活動のなかで生き生きと蘇っていくのだということを。そんな大人たちをどうして排除などできようか。それに今年は、大人の援護がなければできない所だった。いつもはトイレやら水道やら電気やらが完備したキャンプ場でのキャンプだった。しかし今年はそれこそなにもない山のなかだ。電気も水道もトイレもない。そこで三十人から四十人規模のキャンプをするには、大勢の大人たちの協力が必要だった。その日の議題も、膨大なキャンプの資材やら食糧をどのような体制で運びこむかだった。
「キャンプの最初の日が金曜日か」
「お父ちゃんたちは仕事だな」
「その日ぐらい、休みなさいよ」
「まあ、休んでもらわなければな」
「そうよ。資材を運びこまなきゃキャンプができないのよ」
「大変な量ですからね」
「最初の日は、いいのよね。お父さんもお母さんも大勢くるじゃない。去年だってたくさんきたでしよう。問題は帰る日なのよ」
「そうなんだよな。去年なんて、たった三人だったからな」
「あれはちょっと悲惨でしたね」
「そうなのよ。だから今年は入る日と、帰る日の人数きちんと確保しなきゃだめよね。帰る日も同じ数だけそろえなくちゃあ」
「父母会なんかに出てこない父母にたのもうよ」
「それはいいね。せっかくのチャンスだから顔を見せてくれなくちゃあね」
「そうよ。子供をあずけっぱなしなんて一番よくないわよ。みんな平等に仕事を分担しなくては不公平というものよ」
そんな風に話は展開されて、さっそく役割分担ということになっていった。
「野川さんなんて、一度も父母会にきたことないんじゃないの」
「あの人は、子供をあずけっぱなし」
「高柳さんも出てこないな」
「吉岡さんがいるじゃないか」
「そうなのよ。あれだけ立派なことを言うんだからさ、キャンプに一度くらいきてよ、重いもの運んでもらいたいわよ」
「まったくあの人、口だけだからな」
そうやって父母会に出てこない人たちを、非難めいた口調で挙げていくと、未来の母親もまたやりだまに挙がった。
「バーのママさんだって、日曜日ぐらい休みでしょうが」
なんだか明美に、非難と攻撃の矢が飛んでいきそうになったので、弘は擁護するように言った。
「いや、日曜日もやっているそうです」
「そこは自分の店なの?」
「いいえ。まかされているらしいですね」
「雇われマダムってわけだな。その店はどこにあるんですか」
「五反田だって」
「きれいな人よ」
「なかなか可愛い人よね」
「そし。それじゃこれからその店にいこうか」
「いいですね。会長。いきましょうか」
「なによ、それは」
「いや。さっそくたのみにいくんだよ。善は急げと言うからさ。なあ、久保田さん」
なんだか父親たちは、その夜、ほんとうに五反田にいきそうな気配だった。
今年の夏のキャンプはトイレづくりからはじまった。男の子だけならば必要ないかもしれないが、団員の半数を女の子がしめている。女の子たちのためにも、トイレをつくらねばならなかった。そんなわけで、基地に到着すると、すぐにトイレづくりスタッフは、穴ほり作戦の展開だ。穴など掘ったことのない子供たちにとって、身長が隠れるばかりの穴ほりは大事業だった。
それ以外の子供たちは家づくりだ。〈おっとっとあぶねえ班〉は、木立ちに竹を渡して、そこに小枝をずらりと傾斜をつけてたてかけるというひどく簡単な家だった。〈かめはころがっていない班〉は、力のある子が集まっているだけに、間伐された杉の丸太やら枝打ちされた枯れ枝を山から拾ってきて、それを釘で打ち付けたり紐でしばったりしての組み立ていく。〈いいかげん班〉は、基地近くに群生している竹を使った。支柱も屋根もすべて竹でできた家だった。
どれもこれも家と呼ぶにはほど遠い幼稚なものだったが、しかしそれがまたいかにも子供の基地といった感じでなかなか素敵だった。そんな子供たちの活動をながめながら、今年は創造と建設のキャンプだなと弘は思うのだった。
大人たちもまた負けてはいなかった。毎週のように集まって練り上げる彼らのプランはだんだんふくらんでいって、どうせなら男子用と女子用の浴槽を作ろうということになり、さらにそこに雨をしのぐ屋根も設営しようということになった。そして七月に入ると建設資材を購入し、誠の家の地下駐車場に夜な夜な集まって、製作をはじめていたのだ。
膨大な量の食糧やらキャンプ資材と一緒に、風呂づくりの材料も三台のトラックで丹沢に運びこまれた。その林道は、山の奥深くまで入っていたが、そこから子供基地まで運びこむのがまた大変だった。歩いていくだけでも二十分はかかる。食糧やら資材は子供たちが二往復するだけですべて運びこまれたが、ドラム缶のほうは容易ではなかった。山道は狭く、しかも勾配が急だった。その日に参加した九人の父親たちは、二つのドラム缶や材木を二時間近くもかけて子供基地に運びこんだのだった。
それからすぐに作業がはじまった。ブロックを積み上げて、セメントを流しこんで土台をつくるグループ、そのかたわらに洗い場をつくり、柱を立てて屋根をつくるグループ、さらにはゴムホースを上流から引いて水道の装置をつくるグループと別れての作業だった。父親たちが汗をふきだしながら、しかし楽しそうに作業に没頭している様子をみて、弘は胸が熱くなるのだった。普段職場のなかに埋没している父親たちは、いままったく日常とちがった輝かしい時間を生きているのだ。
ドラム缶風呂が出来上がったのは、二日目の夕方だった。上流からひかれたゴムホースから、水がどどどっとドラム缶のなかに流れこんでくる。かまどでは赤々と薪がたかれはじめた。その時間、子供たちは夕食づくりの真っ最中だったが、みんな風呂のまわりに集まってその様子をみていた。火がどんどんたかれていく。お湯がだんだん熱くなっていく。そしてもういいぞという声があがり、友和と守がとびこんだ。守が大声で歓喜の声をあげた。
「あったけえ!」
女子用のドラム缶には麻理と未来がはいり、麻理は、
「やったね!」
と両手でVサインをつくった。大人たちから子供たちから、いっせいに拍手が湧きおこった。
日曜日にドラム缶風呂をつくりあげた父親たちが山を降りていくと、入れ替わるように母親たちの一隊が山に入ってきた。そういうローテーションが組まれていたのだ。
キャンプも三日目に入ると、ぼつぼつ体調を崩してくる子が出てくる。その日は、四年生の正美と三年生の和夫が、体の不調を訴えてきたので、二人をその日の活動からはずして休養させることにした。その日の活動は山登りなのだ。
夕方、二人の看護をたのんだ徳子たちに様子を訊くと、
「大丈夫よ。熱なんかないの」
「そうですか、ちょっとふたりとも下痢ぎみだっていうし」
「大丈夫よ。あの子たちちょっとアマちゃんだから」
と徳子は言い、そして、
「でも、未来って子は、よく面倒みるわね」
かたわらに登や梨果や真由美の母親たちがいたが、梨果の母親が、
「サービス精神旺盛なのよ」
と言い、登の母親もまた、
「たいしたものよ」
それは弘も目の当りにしていた。正美と同じ班の未来は、しきりに正美を気づかい、何度も川に降りてタオル冷やしてきては、正美の額にのせているのだった。食事のときも自分のことよりも、真っ先に正美が寝ている番小屋のなかに食事を運んでいく。未来が子供たちのアイドルになったのは、彼女のそんなやさしさにあるのだった。
しかし母親たちが未来のことを話題にしたのは、まったく別の意味だった。彼女たちは未来をほめているのではなく、痛烈な皮肉を放っているのだった。彼女たちの話は、こう展開していく。
「五反田に、松本さんの御主人が、入りびたっているという噂よ」
「いやに五反田が盛り上がったらしいわね」
「毎週のようにいってたようよ」
「ほんとうなの」
「そうよ。ドラム缶風呂づくりの会議だって言って、五反田詣でなんだから」
「ずいぶんのめりこんで散財しているらしいわね」
「お店、はやってないんですって。だからおれがいかなければつぶれるって言うわけよ。飲みにいくんじゃなくて、慈善事業しているんだって」
「ものは言いようよね」
「まったく調子いいわね」
「それで、だれが一番はやくママを陥落させるかという競争もしているらしいから」
「本気なの」
「冗談半分だけど、でも半分は本気なのよ」
「いやねえ、男って」
という話を弘の前でするのだった。
その年のキャンプもまたたく間に最終日になってしまった。最終日のキャンプファイヤ一は圧倒的に盛り上がる。班ごとにくりだすイベントの戦いがあるからだった。各班は出し物の練習を、東京にいたときからしていて、その日に備えている。赤々と燃え上がるファイヤーの前で、〈いいかげん班〉が、〈かめころ班〉が、〈あぶねえ班〉が力をふりしぼって演じるのだった。
弘もこの夜になるとほっとする。とにかくこの長期のキャンプが終わって体重計にのってみると四、五キロも痩せている。それほど体力と神経を使う。いつも眠るのは深夜になり、朝は五時に起きなければならない。実際の睡眠時間といったら、連日三時間か四時間だった。そんな日も今日で終わると思うと、一人しみじみとビールでもすすろうという余裕もでてくるのだった。
弘は番小屋からちょっと離れた木立のなかに、一人でテントを張っていた。そこが彼の森での棲家だった。団体のなかにいるとき、どうしても一人になる時間、一人になる場所が必要だった。そのテントのなかに入ると、やっと自分をとりもどすことができるのだ。
彼がそのテントに向かっていく途中、河原に目をやると、キャンプファイヤーの残り火の前に、だれかがぼんやりとすわりこんでいた。弘はだれなのだろうと思い、ちょろちょろと小さな火が揺れる河原に歩いていくと、その黒い人影が顔をむけた。西沢明美だった。彼女はこの日の朝この基地に入ってきたのだ。
「まだ眠らないんですか?」
と弘は彼女のかたわらに座ると言った。
「眠るのがもったいなくて。静かな夜ですね」
「ええ。こわいほど静かです」
「私はこういう時間を忘れていました。ものすごくぜいたくな時間ですね」
「そうですね。たしかにぜいたくな時間ですね」
「石、緑、川、森、空、星、草、小屋、心にしみ入るものがいっぱいです」
「ああ、それは言えますね」
「なんだか都会での生活が、きれいに洗らわれていくようです」
「それはぼくも山にくるたびに感じます」
「素晴らしい夜でした。素晴らしい子供たちですね」
「まあ、みんながんばっていましたね」
「涙が出てきて困りました。ああ、なんて素晴らしい子供たちなんだろうって。生きるって、こんなに素晴らしいことなんだって」
「未来も一生懸命でしたよ」
「ええ、一生懸命やっていましたね」
そして弘は未来のことを話した。未来が子供団のなかで、どんなに人気者であるかを。その人気はただ可愛いからということではなく、やさしくていつも他人のことを思いやる子だからといったことを話すのだった。
「未来には父親がいません。あの子を生むとき、そんなことを深く考えませんでしたけれど、やっぱり世間の風は、あの子に冷たいんでしょうね。あの子なりにいやな思いもたくさんしているようです」
「そうかもしれないけど、あの子には、そんな影なんて微塵も感じられませんよ」
「もともと私が単細胞だから」
「でも、未来は単細胞じゃありませんよ」
「そうですね。あの子なりに考えるんですね」
「人のことをとても気づかう子です」
「そういうところがありますね。それでかえって疲れてしまって」
「ああ、なるほど」
「私なんかも、単細胞のくせにうじうじと考えるんです。どんなふうに生きていけばいいのかって考えると、眠れない夜もあります」
「そうですか」
「私がだらしない母親だから。ずいぶんあちこち引きずりまわしました」
「そんなに引きずりまわしたんですか?」
「ええ。赤羽、駒込、上北沢、大森。流れ流れ、転々として。こんな生活ぜったいによくないんです。だんだん仕事も水商売っぽくなって。いまでは完全な水商売。よくありませんねえ」
「よくないですか」
「よくありません。やればやるほど自分には向いていないと思うばかりで」
「なんだかそんな感じがします。ぼくも」
「男の人の仕事って、いくらでもあるんでしょうけれど、女の仕事って、ほんとうに少ないんですよ。あるのはパート。パートでは親子二人、食べていけないんですね。お家賃を払うだけで足がでてしまいますから」
「ほんとうにそうですね」
と弘はなんだか苦しくなって、そういう相槌を打った。
「お店を任すからなんて言われて、その気になって。ほんとうに水商売にどっぷりつかってしまって」
「お店はうまくいっているんですか」
「いっていません。きびしいですよ」
弘も黙りこんでしまった。すると明美は、
「ごめんなさい。こんなつまらない話しになって」
「いいえ」
「こんな素敵な夜に、なんてつまらない話をするんでしょうね。ごめんなさい」
とあやまるのだった。
弘はまた高志や彼の父親のことを思い出した。あの父親もそうだった。あの父親もまた深い孤独と悲しみのなかにいた。一人で生きるとは、こういう悲しみと孤独をいだくことなのだろうか。いったい明美のような人は、いつどこで救われるのだろうかと、弘はテントのなかでもしきりに思うのだった。
キャンプの最終日は、大変な雨になってしまった。荒れ狂うばかりに雨がたたきつける。何時間待ってもいっこうに雨はあがる様子はない。キャンブの閉村式を小屋で行って、十時すぎに退却の仕事にとりかかった。運びこんだキャンプの資材はたくさんあったから、それを林道までおろすのが大変だった。子供たちも大人たちも何往復もしなければならなかった。山道に雨水が流れこんできて川のようだった。そうでないところは泥の道だった。ちょっと油断すると、すってんころりところがる。しかも持物は雨水をすって重くなるばかりだった。
弘がテントを担いで下っていくと、明美が大きな鍋にこまごまとした食器類をたくさんいれて、そろそろと歩いていた。レインコートを着ていなかったから、全身ずぶ濡れだった。弘は追いついて、
「風邪をひきますよ。ぼくのを着て下さい」
「いいんです。先生こそ風邪をひいたらいけないわ」
「予備がありますから」
「もうこんなに濡れてますから、いいんです。素敵ですね。こんなふうに雨に打たれて歩くなんて」
「素敵だなんていう人に、生れてはじめて会いましたよ」
「よごれたものが全部洗われていくようで。ほんとうにいろんなものが洗い流されていきます」
雨に打たれた明美の細いしなやかな体の線があらわになって、なにか男の心をひきこむような官能がただよっている。子供団の父親たちが、しきりに五反田に通うのもわかるような気がした。男たちを魅了するなにかフェロモンといったものをあたりに発散するのだ。
キャンプが終わったあとも、その一週間の感動と興奮の余韻は、二学期がはじまるまでつづく。七日間の活動でむすばれた子供たちは、東京にもどってからも、なにかあると集まっては一緒の行動をする。そんな熱い余韻がくすぶっているうちに、キャンプの記録集をつくることになっていた。感想文を全員に書いてもらったり、写真を整理してアルバムをつくったり、ビデオの編集をしたり、と。
そして九月になった。新学期がはじまったその日だった。紀子や貴美子やゆかりが、ばたばたと児童館にかけこんできた。
「たいへん! たいへん!」
「弘、大事件!」
「もうたいへんなんだから!」
弘は子供たちを落着かせるように、
「どうしたんだい? なにが大事件なんだい?」
「驚ろかないで」
「もったいぶらないではやく言ってくれよ」
「あのね、未来ちゃんがいなくなったんだ」
「どういうこと?」
「あのマンションから未来ちゃんが消えたの。学校にもきていないわけ」
「どういうことなんだ?」
「うちのお母さんは、夜逃げしたんだろって」
仕事の最中だったが、弘は自転車で未来のマンションにとんでいった。三階にあがっていくと、その部屋のドアから西沢明美というプレートがすでにはがされていた。インターフォンを押してみると、部屋からは呼び出す音がむなしくこぼれてくるばかりだった。
未来が忽然と消えてしまったというニュースは、子供たちにとって大きな衝撃だった。子供たちが入れかわり立ちかわり児童館にやってきて、未来の消息をたずねるのは、彼らがどんなに深いショックを受けているかのあらわれだった。その週の団会で、かおりは目に涙をにじませてその報告をした。そして次第に言葉がつまると、もうぽろぽろと涙をこぼしている。それでも気をとり直すように、
「未来ちゃんがいなくなりました。どうしたらいいと思いますか?」
と問題をみんなに投げかけた。子供たちは立ち上がって次々に発言する。自転車でみんなで探すという三年生の次郎が発言すると、ばあかとか、まじかよとか、お前だけやりなとかいった猛烈な失笑と非難が上がるのは、それだけ彼らが真剣なことだった。学校の先生に転居先をきくとか、警察に調べてもらうとか、新聞社にたのんで記事にしてもらうとか、荷物をはこんだ引越し業者をみつけるとか、五反田のバーにいってみるとか、子供たちはさかんに発言するのだった。
それはまた父母の間にも、複雑な波紋を投じていくのだ。その日の団会が終わったあと、弘はあゆみを家に送っていくと、そこに徳子から電話が入っていることを告げられた。あゆみの家にあがって受話器をとると、
「弘さん、ちょっと面倒なことがおこったのよ」
「なんですか」
「あのね、あの西沢さんのことだけど」
「ええ」
「あの人、あちこちでお金借りているのよ」
「だれにですか」
「お父さんたちによ」
まさかという思いだった。あの人がそんなことをするだろうか。
「源さんとか久保田さんとか、あのまじめな斉藤さんもからも」
「いくらぐらい借りているんですか」
「それがちょっとした金額なのよ」
弘は徳子の声から、百万とか二百万とか、そういう大金なのかと思ったが、
「四万とか、七万とか、一番多いのは斉藤さんが、八万三千円ですって」
「なんだか、それはまたずいぶん半端な金額ですね」
と弘はちょっとおかしくなって、笑ってしまった。
「ちょっと弘さん、笑ってる場合じゃないでしょう」
「ああ、すいません」
それはなるほど笑いごとではなかったが、その程度の金額なら、悪質な方法でだまし取ったということでもないような気がする。しかしそれにしてもあの明美が。あのはげしい雨のなかを、ずぶ濡れになって大きな鍋をかかえて山道を下っていた明美の姿が、ありありと蘇ってくるのだった。
「それで、いま源さんのお店に、みんな集まっているけど、弘さんにもきてほしいのよ」
弘が《花活》に入っていくと、奥の座敷に子供団の役員や金を貸したという斉藤やら溝口がわいわいとやっていた。
「かわいい顔をして、ああいう人が危ないんだよ。あんたたち」
と陽子の母親がそれみたことかというように言った。
「しかし、ああいう迫り方されると、ちょっと断われねえんだよね」
「だからあんたたちは、甘いと言うのよ。まったく美人には甘いんだから」
「前田さんも貸したんですか」
「いや私は、ほんの五万円だけどね」
「それじゃあ、おれが一番のカモにされたってわけだな」
「斉藤さんが、一番やさしいのよ」
「いや、そうじゃねえな。この人が一番スケベ根性があったということじゃねえかな」
「会長、ヘんなこと言わないで下さいよ」
「まあ、ともかくこれは悪質な詐欺よ」
と母親たちは言った。
「詐欺になるのかな」
「詐欺に決まってるでしょう」
「まあ、金をだましとられたわけだからね」
「これはもう警察に届けるべきなのよ」
「ちょっと、待って下さい」
と思わず弘は話にわりこんだ。
「西沢さんが移転した先は、学校の先生たちは、知っていると言うじゃないですか」
「情報によると、どうやら岡山にいるようね」
「あの人の実家がそこにあるのよ」
「でもそれも内緒にしてくれと言われているようよ。サラ金に追われているからだって。あの人サラ金にも相当借りているのよ」
「サラ金じゃあ、どこにとんずらしても逃げられないね」
「これはもう警察に届ける以外にないわよ」
「それしかないのかね」
「ちょっと、待って下さいよ」
とまた弘は言った。そして、
「彼女は必ず返しますって、言ったわけでしょう」
「当り前でしょう。人はそう言って借りていくものよ」
「いや、そうじやなくて、あの人はいまでもそう思っているというか……」
「返せないから、とんずらしたわけでしょう。返すつもりなんて最初からなかったのよ。最初からだましとろうとしたのよ」
「あんな可愛い顔をして、やることは詐欺師そのものなんだな」
「ちょっと待って下さい。ぼくの言っていることは、あの人はそんなに信じられない人間だったのかと言うことですよ。あの人は必ず返すと言ったんでしょう。いまは返せないけれど、いまはどう生きていいかわからなくて、返すことができないけれど、少し余裕がでてきたら必ず返すって。そう言ったかどうかしらないけど、きっとそういう思いでみなさんに借りたんじゃないんですか。もしそれだったら、彼女を信じましょうってことなんですよ。お金を貸したみなさんだって、彼女を信じたからではないんですか」
弘はちょっとむきになって続ける。
「あの人が借りたのは、返すことができるような小さなお金でしょう。もしあの人がほんとうの詐欺師だったら、もっとあくどい方法で、みなさんからもっと大金をだましとったはずですよ。でもあの人はそういう人ではなかった。あの人は、ほんとうに困っていたんだと思います。商売はまるでうまくいかない。どうやって生きていっていいかわからない、そんなところまで追いつめられていたんだと思います。あの人にとって、みなさんからお金を借りたのは、たぶんぎりぎりの瀬戸際に立っていたからじゃないかと思うんですよ。だからきっと、あの人が立ち直ったら、真っ先にそのお金を返すんじゃないかと思います。あの人はそういう人だと思うんですよ。甘いって言われるかもしれないけれど、しかし警察なんかに届けて警察沙汰にしたら、せっかく立ち直ろうとしている人に、足をかけて転がすようなもんじゃないですか。そうなったらあの未来はどうなるんですか。あの子を罪人の子になんかしたくないでしょう」
と弘は言った。
子供団の人たちは、やっぱりやさしい人たちだった。彼らもまた最初から警察沙汰などにする気など毛頭なかったのだ。そんなことはわかっていることなのに、彼らは弘に賛成するように次々に言った。
「そうだね。おれたちも返してもらおうなんて思ってねえからな」
「いい夢をみたということで、いいんじゃないのかね」
「まあ、同じ釜の飯を食った仲だからな」
「あの風呂づくりの投資だと思えばいいんじゃねえの」
それから二週間後、児童館に明美から手紙が舞いこんできた。便箋三枚に書かれたその文字が、なぜか弘にはあの雨に打たれて歩く明美の姿とかさなるのだった。
《……さぞ皆さん、私をうらんでいることと思います。あんなに皆さんにかわいがってもらったのに、こんな消え方をして。毎日毎日未来からおこられています。もっといい方法があったのかもしれませんが、私にはこういう消え方しかできませんでした。私はほんとうにばかな女だと思います。自分にはとても向かないと思いながら、ずるずると足をとられていって、ぬかるみのなかでした。今度という今度は、私はああいう世界では生きていけない女だと思いました。お金に苦しむだけでした。あちこちに借金するばかりの生活でした。お金を借りるために、さらにお金を借りるというような生活でした。私はなにをしているのだろうと呪うばかりの生活でした。
あのキャンプで、私のなかの糸がぷつりと切れたのです。星がありました。川がありました。緑がありました。草が繁っていました。空気がすんでいました。あの焚火がありました。あの朝がありました。なんだかはじめてみるような風景でした。ああ、こういう生活があったのだという驚きでした。あの雨にうたれながら、けがれたものが、すべて洗い流されていくように思えたのです。
本当に申し訳ありませんでした。借りたお金はきちんとお返ししていきます。昔さんにあんなに親切にしていただいたのに、恩を仇でかえすようなことになってしまいました。でも私は生涯をかけてお返しするつもりです。望月先生、どうかゆるして下さい。昔さんにも私がお借りしたお金はかならず返すとお伝え下さい……》
その封筒には移転した彼女の住所がはっきりと書かれていた。彼女は逃げたのではない。彼女は再起するために東京を脱出したのだ。この手紙が届かなくても弘は明美という女性を信じていた。それは未来という子をみても、よくわかることではないか、と弘はあらためて思うのだった。
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