新編竹取物語の作者円空
今、このような論を展開していくのは、なにもかも二年前に明科神宮寺の蔵より発見された古文書「三浦家所蔵新編竹取物語」のためなのだ。文字も消え入り、判読不明な箇所が何百とあり、その解読作業にはずいぶん手間どったようだが、次第にその全貌が明らかになっていくのは、この古文書はまさに日本の文学の歴史を塗り替えるばかりの衝撃的な発見だったということである。
この文書には「三浦家所蔵新編竹取物語」という詞書がつけられている。この三浦家とは、鎌倉時代に三浦半島に興隆した一族であった。源頼朝とともに鮮やかに歴史に登場しきたこの一族は、鎌倉幕府をささえる主要な後家人の位置を占めていたが、宝治元年、ときの執権北条時頼に反旗を翻して立ち上がる。宝治合戦と名づけられたその戦闘を、三浦一族は果敢に戦うが、幕府軍の追撃きびしく、次第に追い詰められると、一族五百余名は法華堂にたてこもり、そこで女子供まで一族すべてが散り果てる。
このとき一族の棟梁である三浦泰村は、すでにその敗北を予知していたのか、三浦家再興のためにと、その戦端を切り開く直前に、一族の財宝や重要文書などを、はるか遠方の信州の地にまで運ばせていた。「三浦家所蔵新編竹取物語」は、おそらくそれらの財宝や文書のなかに紛れこんでいたと思われるのだ。もともと明科神宮寺は、鎌倉時代に三浦一族によって建立されたという言い伝えがあったが、この文書の発見によってその伝承が裏づけられたということにもなる。宝治一年とは西暦に直すと、一二四七年であるから、「三浦家所蔵新編竹取物語」が、そのときたしかに鎌倉より運ばれてきたのであるならば、実に七百五十年も明科神宮寺の蔵の底に眠っていたということになる。
この物語がなぜ三浦家だけに所蔵されていたのか、なぜ三浦家の財宝とともに信州の地まで運ばれてきたのか、なぜこの物語は封印されたまま眠っていたのか、いまとなってはそれらの謎に光りをあてる手がかりがない。この物語の作者として、円空という名がたしかに記されているが、この人物がいかなる人物か、彼に関する歴史資料もまた絶無である。しかし作家というものは、その人生を作品のなかに織り込んでいくものであり、作家の人生がその作品に色濃く反映されていくものである。とすると、この長大な物語を子細に検討していくと、ほのかに歴史の闇のなかから、その人物の像が浮かび出てくるのかもしれない。
頼朝が鎌倉に幕府を打ち立てたとき、頼朝は多くの人材を京都から招聘したり引き抜いてきたりした。政所別当として、鎌倉幕府の骨格をつくった大江広元も、また公文所の長官として法律の整備をしていった中原親能(ちかよし)も、朝廷の官僚であった。役人たちだけではない。僧侶も、武者も、神官も、大工も、職人も、農夫も、商人も、勃興していく鎌倉へと流れていったのだ。この円空なる人物もまた、京から鎌倉に下ってきたのではないのだろうか。さらに推測と想像をめぐらすのだが、この円空は貴族の出ではないのだろうか。それというのも、この物語に描きこまれた生々しいばかりの貴族の像は、自身の生活体験がその背後になければ、とうてい描き上げることができないと思えるのだ。
作者は円空と名乗っている。ということは、あの西行がそうであったように、なにか貴族生活を破綻させるような事件に遭遇したのだろうか。あるいは剃髪しなければならぬ、深刻な煩悶に襲われたのかもしれない。ともあれ彼はなんらかの理由で、貴族生活を捨てた。そして諸国の寺院を遍歴しながら、鎌倉へ鎌倉と足を運んだのかもしれない。あるいはまた、当時洛南に立つ園城寺は、貴族出自の僧侶たちがごろごろしていた。彼もまた園城寺の僧堂で修行を積んでいるとき、その力量を買われて鎌倉幕府から招かれたのかもしれない。
どのような道を通ったにせよ、円空は鎌倉の空の下に立つのだ。深い教養と識見をもつ円空は、無骨でむしろ粗野な鎌倉の後家人たちのなかで、精神の師、あるいは魂の教導者としての役割を担ったのかもしれない。彼のために寺院を建造するという後家人があらわれても不思議ではない。その後家人の一人が、三浦家ではなかったのだろうか。当時三浦家は、北条一族につぐ一大豪族であった。
勃興する鎌倉に居を構えた円空に、むくむくと湧き立ってくるものがあった。彼の教養は、貴族文化のなかで育てられたものだったが、しかし彼のなかに、貴族社会と貴族文化にたいする、激しい嫌悪があったように思われるのだ。自身のなかに流れる、貴族の血と、貴族文化を消し去るにはどうしたらいいのか。道はたった一つしかない。まったく新しい人生と、新しい文化を自身の手によって打ち立てる以外には。
それはちょうど、運慶が直面していた精神の危機でもあった。運慶の父、康慶(こうけい)は奈良仏師の一大権威であった。とうとうと流れてきたその伝統は、父の代に一つの頂点を迎えていたのだ。慶派(こうは)が彫り込む仏像は、どこまでも優雅華麗であり、その流れる線はまるで女性の肉体のようであり、かすかに微笑む面貌は、気品と平安と慈愛の輝きでまぶしい。しかし運慶はそれらの像を嫌悪したのだ。人生は苦しみに満ちたものであり、絶望に打ちのめされるものである。この生々しい人間の苦悩が、それらの像には、どこにも彫りこまれていないではないか。
ではどうしたらいいのか。どのような像を彫り込んでいけばいいのか。若き運慶にはそれがわからなかった。悶々と苦しむそんな運慶に頼朝から誘いがかかるのだ。運慶は鎌倉に渡った。あらゆるものが力強く勃興していく。貴族政治や貴族文化を断ち切って、新世界が誕生していく。運慶はこの鎌倉で開眼したのだ。女性的な曲線ではなく、むき出しの直線で、優雅華麗ではなく、荒々しいばかりの面貌で、生命力をもった彫刻群を次々に彫りこんでいったのは、彼が鎌倉と出会ったからだった。
円空の内部にも、また運慶とまったく同じ精神の律動が起こったのではないのだろうか。彼はもともと文芸の人であった。その文芸の人としての彼の創造力が、荒々しく勃興していく鎌倉に激しくかきたてられた。そして退廃の貴族文化を打ち倒し、新しい文芸の波をつくりださんと、その素材にしたのが「竹取物語」だったのではないのだろうか。
「竹取物語」は、近代の数々の物語を鑑賞した者にとっては、実に陳腐である。物語としても未成熟ならば、その底に流れている精神は貧弱であり、なにやら貴族文化の退廃と腐敗がにおってくるばかりだ。そのことをすでに、この鎌倉時代の作者は嗅ぎ取り、徹底的に批判することによって、彼の「新編竹取物語」は書かれていったのではないのだろうか。彼は貴族たちをこの物語のなかで、それはすさまじいばかりに自爆させている。それはあたかも貴族文化や貴族政治の終焉のほら貝を高らかに吹き鳴らしたのかと思われるばかりだ。
事実、貴族政治は、武士たちによってピリオドを打たれた。それならば円空は、貴族政治にピリオドを打った武士たちを、その物語に鮮やかに登場させるべきであった。しかし彼はそうしなかった。実に驚くべきことだが、円空は、時代の苦悩を背負う者として、時代を切り開く者として、貧しき村の貧しき樵を登場させるのだ。かぐや姫の恋の相手になるのは、帝でもなければ、貴族や武士でもなかった。社会を変革していく主体として、杣(そま)を業とする若者を登場させ、その樵とかぐや姫の悲恋の物語にすることによって、円空は新しい時代を切り開く文芸の波をつくりだそうとした。もしそうであるならば、はるか鎌倉の時代に、すでに円空は人間は平等であるという今日の思想を、すでに先取りしていたということになる。
円空はこの物語を書き上げた直後に、忽然と世を去った。三浦家は彼の逝去を悲しみ、盛大な葬儀で送り出した。そのとき彼の書院の卓の上にのっていたこの長大な物語を、三浦家は家宝として蔵深くにしまい込んでしまったのではないのだろうか。もし他者にこの物語が読まれていたら、かならず世に伝播していったはずだが、歴史はその存在を無視したままだったところをみると、この推測は十分に成り立つ。そしてあの宝治合戦で、三浦家が歴史から消え去る直前に、三浦家を再興させるための家宝として信州の地に運び込まれると、そのまま七百五十年の長きに眠りについていたと推測と想像の翼をはためかせるのだが、果たして事実はどうであったのだろうか。歴史の闇をどんなに見事に推測しても、的中する確率といったら宝くじを当てるようなものであろうが、しかしその謎が魅力的であるとき、人は懸命に想像の空を飛翔するものである。
ともあれこの驚愕すべき「新編竹取物語」は、私たちの手に渡った。もしその全編を朗々と朗誦したら、ゆうに五時間を越えるだろう。皇子たちは、海を、陸をかけめぐり、かぐや姫は月に帰っていく。まさに宇宙的規模をもった壮大な史劇である。どんなに深く土中に埋もれていようとも、すぐれた玉は自ずから光を放っていくのであり、眠りから覚めたこの史劇もまた、自らの力でかならず世に広がり渡っていく。しかしこの作品は、明科町で発見されたのである。したがって、この作品を世に送り出す最初の舞台は、明科町でなければならず、最初に朗誦する人は、明科町の人々でなければならないと思うのは、僭越というものなのだろうか。