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ヘンリー・ソーロウの生涯 1     神原栄一

ヘンリー・ソーロウの生きた時代           

 ヘンリー・ソーロウは1817年、アメリカ第五代大統領モンローが就任した年に生まれた。それは第二次対英戦争(1812─14)の後、南北戦争の前で、彼に言わせると「まったくおあつらえむきの時期」であった。建国以来領土拡張政策を進めていたアメリカは、1803年にミシシッピ川とロッキー山脈との間の広大な地域をフランスから、1819年にはフロリダをスペインから買収した。
 1845年にはいったん独立を許したテキサスを合併し、翌46年にはイギリスとの協定でオレゴン地方を手に入れ、1848年に突入した対メキシコ戦争での勝利によってアリゾナ、ニューメキシコ、カリフォルニアを手に入れて、この時期にアメリカ大陸における現在の領土の所有を決定的なものにしている。1848年にカリフォルニアでの金が発見され、いわゆる「西漸運動」で各地に人口が増加して新しい州が誕生し、その歴史上比類のない速度で膨張した。
 『ウォールデン』が出版された1854 年までの25年間は、アメリカの物質文明が急速に近代性をおびた時期であった。各地の湖や川はすでに汽船が航行しており、ソーロウの言う「鉄の馬」なる鉄道は1830年頃から実用化されて都市を膨張させ、新しい都市を激増させた。1841年にはボルティモア、ボストン間に電信が開通され、大都市ではガスが使用されはじめた。すでに十八世紀末から胎動していた農業中心から工業中心への動きは、こうして第二次対英戦争を契機として本格的に前進しはじめ、産業革命の進行は、アメリカを工業国として疑うべからざるものに変えつつあった。

 当時の精神文化の中心はニューイングランドであった。ユニテリアニズムとイギリス文学の世界に生きていた知識人の間に、1820年頃からヨーロッパの新思潮が広がりはじめて、外国書の取次店はロマン主義文学と観念論哲学に新世界を求める人たちで盛況を呈していた。

ソーロウの住んだ町

 ソーロウの生誕地コンコードはマサチューセッツ州の東部、ボストンから二十マイルの所に位置し、人口は約二千人、民主的な気運に満ちた、独立戦争の古戦場である。森、池、動物など豊かな自然に恵まれた、四季の変化に富む、農業中心の静かな村で、その中心から四方に街路がのび、村はずれまでの通りは美しい町並みをなしていた。街路の集中する広場は繁華街であった。村の北東をコンコード川がゆったりと流れていて、その周囲は豊かな牧草地であった。南西にはフェア・ヘイブンの池が、そしてこの草深い池の東にソーロウの愛したベーカー農場があった。

 このあたりはケンブリッジの方向へ丘と湖沼が連なり、高地には家禽が放し飼いにされている農場が点在していて、ハックルベリー摘みの人、猟師、漁師がよく訪れた。ソーロウは生涯外国へ行くこともなく、その生活の本拠はあくまでもこのコンコードの村とウォールデン池、それにフェア・ヘイブンを中心とした一帯であった。彼はこの地をこよなく愛し、その自然と文化の恵みを受けて至上の幸福感に浸っていたのだった。当時コンコードにはエマソン、ホーソン、オールコットなど新時代を代表する文人たちが居を構えていて、互いに啓発しあいながらも各々が独自の世界を構築することに懸命であった。

コンコードと超絶主義

 こうした人々は、多数政治にともなう弊害に早くも気づいていた。また、加速度的に工業化するアメリカ社会には、後年「アメリカの悲劇」でドライサーが、「怒りの葡萄」でスタインベックが描いた資本主義のもたらす社会悪の萌芽があった。人々は蓄財興業を至上の天命と信じて疑わず、それに没頭して精神界の進歩向上を軽視していた。1820年からの40年間は社会改良志向が強く、精神的、身体的、経済的弱者の救済から婦人運動、労働運動、さらに平和運動が盛んで、中でも奴隷制反対運動はその中心的なものであった。宗教界ではカルビニズムの独断に抗して起こったユニテリアニズムも形式に傾きすぎて情熱を失っていた。ボストン第二教会の牧師エマソンが教会儀式の形式主義に失望して辞職し、思想家の道を歩きはじめたのもこうした事情を物語っている。

 文学界にもクーパー、アービング、ブライアント、ウェストの出現をのぞいては低調であった。1836年9月、ハーバード卒業生の数名がヘッジを囲んで哲学、神学上の問題を論じあった。彼らの多くは牧師であったが、その奉じてきたユニテリアン神学とロック哲学に不満を表明した。ヘッジクラブなるこの集りは、その後リブレーやエマソン宅で七、八年継続されて超絶主義者と呼ばれる一群を形成するにいたり、ソーロウもこれに参加していた。

 彼らの目的とするところは、自己満足的、近視眼的思想と空虚な生活から脱却して、精神界をはじめとする文化生活全般の進歩を図ろうとすることにあったから、因襲を排して理性の声に耳を傾け、神、人間三者の関係を熱烈な態度で思索した。そこでは当然ながら世俗的な権威や名声の追及とは無縁で、日常経験を通じて真理と自由と真に人間的なものだけが探究され、機関誌『ダイアル』はその発表機関であった。こうして超絶主義者運動は当時のアメリカ思想界を導く星となり、コンコードは文字通りその中心であった。

ソーロウの生涯

 父ジョンは乾物商であったが、1823年から鉛筆の製造をはじめた。実直温和な好人物で、フルートを吹き、古典を愛読した。母シンシアは家計のやりくりと子供の養育に懸命なしっかり者で、恵まれない人たちへの同情心が強く、コンコード婦人慈善協会の副会長をつとめ、また、奴隷制反対婦人協会の創立にも参加した。事実を率直に口にすることをはばからないソーロウの性格は、この母ゆずりのものであったかもしれない。幼時のソーロウはかなり腕白であったらしい。五歳の頃、コンコードのはずれにあるウォールデン池に連れてゆかれて、そこがすつかり気に入った、と後日回想している。
 
 学校に通うようになって、積極的に遊び仲間にくわわらなかったせいか、「審判」、「鼻でっかちの大学者」などのあだ名をもらっている。頑迷、非情とも思われる一面があって、容易に内面を他人に明かしたがらなかったが、子供の心に自然愛を育てようと願う母が、子供たちを自然のなかに連れ出したときは、すべてをさらけ出しているようであった。

 コンコードアカデミーに入学して、その自然への関心を最初の作品「四季」に表明している。この頃も思索型の読書好きな少年で、授業にはさほど熱心ではなかった。最終学期が終わってボート作りに打ち込み、それを「放浪者」と名づけてコンコードの川や池に浮かべ、無心に波のリズムに身をまかせたりした。勝気な母の主張で一家はソーロウの進学を支援することになり、ハーバード大学にすれすれの成績で入学した。

 在学中の成績は平均以上で、卒業記念講演が認められるほどであったが、大学の枠にはまらない学生で、自分の興味と関心の対象であるギリシャ、ラテンの古典、英文学のとくに十七世紀の詩、インド、中国の経典や古詩、思想書を読むことに力を注いだ。在学中は大学の評価方式の改善を要求する陳情書に署名したりしたものの、ダンキン事件なる学園紛争では局外者的な態度をとり、独り離れて思索にふけったり、散歩をしたりで、学友には冷たい無表情な学生といった印象を与えていた。ハーバードの教育に興味を失っていたらしく、愛校心、クラス愛といったものとも無縁で、独りひそかに自分の人生観を築き上げることにつとめていた。

 卒業後、一時は教職についたが、体罰に反対して免職となり、父の鉛筆製造を手伝うことになる。『自然』の著者エマソンを師として超絶主義クラブのメンバーとなり、簡素な生活のうちに読書と思索に専念して、優れた著作を世に問おうと決心を固めたのもこの時期である。この頃から書きはじめた日記はその習作でもあり、後日の講演にはそれからの引用も少なくない。兄ジョンとともに理想の教育を目指して学校を開いたこともあるが、生徒のことよりも自分のことを考えている、などと言われた。



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