ウォルト・ホイットマンの人と作品 長沼重隆
アメリカ合衆国の生んだ最も偉大な国民詩人と呼ばれるにふさわしいウォルト・ホイットマンは、1819年5月31日、ニューヨーク州ロングアイランドのウェスト・ヒルズという小村で生まれた。ホイットマン家の祖先として知られている人は、1560年ごろ生まれた英国のアバイジャ・ホイットマンである。この人にゼカライヤ、ジョン、ロバートという三人の息子があった。そしてピルグリム・ファーザースが「メイフラワー号」で渡来した1620年に遅れること十五年ないし二十年の間に、この兄弟は次々とアメリカに渡ってきた。ところで、アメリカにおける詩人ホイットマンの直系の祖先となったのは、長兄のゼカライヤだったらしい。このゼカライヤから数えて六代目が詩人の父ウォルター・ホイットマンで、ウェスト・ヒルズで農業のかたわら大工をやっていた。母のルイザは、ウェールズ人の血のまじったオランダ系のヴァン・ベルザーというクェーカー宗の家の出である。詩人はもと父親と同じくウォルターと名づけられたが、家庭ではウォルトの愛称で呼ばれていた。
後年、彼が詩集「草の葉」の初版本を出して詩人として認められたころから、ウォルトの名を用いはじめている。ウォルトは自分の家族については、家族間で往復した手紙以外にはほんど触れていないが、「出歩く一人の少年があった」という自伝的な詩のなかでは、珍しく父母のことを語っている。母親については、純朴で優しい母性型の女性として描いているが、父親のことには、ほかは全く手がりのないその性質や日常の言動について、多少の誇張と作為のあとがうかがえるが、とにかくかなりはっきりと、しかも厳しく語っている。なお母親のことは、「あなたの門口にも死が」の哀悼詩が示すように、いかに深く母を愛していたかがよくわかる。
ホイットマンの一家は、ウォルトが四歳の時、ニューヨークのマンハッタンと川を隔てたブルックリンに移ってきた。そして彼は六歳の時から、初等学校や日曜学校へ通ったが、十一歳の時に退学して、医師や弁護士の給仕になった。こうしてウォルトは小学校程度の教育を受けただけだが、大体当時のアメリカの文人は、エマソンを中心としたニューイングランド派の人たちが、いずれも高等教育を受けているのに対し、ウォルトと同年生まれの「白鯨」の作者H・メルヴィルは十五歳で学校を退き、少しおくれてからのマーク・トウェーンも十二歳で学校をやめている。とにかく、ホイットマンにしても、メルヴィルにしても、マーク・トウェーンにしても、独学一本で一代の文豪になった人たちである。それも各自の経歴に応じて、独自の文学の領域を開拓している事実は興味深い。
さて、ブルックリンに移ったホイットマン家のことだが、当時人口が急増しつつあった町では、住宅の需要が多く、いわゆる建築ブームで、父の大工の仕事も多かったらしく、父は家を建て、しばらく住んでは売っていたとみえ、ブルックリンへきてからの四、五年間は、いつも住まいを転々としていた。しかし、家屋の建築も下火になったとみえて、移ってきてから十年目、すなわちウォルトが十四歳の時に、両親の一家はウォルトひとりを残して再びロングアイランドへ戻って行った(この年に末弟のエドワードが生まれた)。
年譜にあるように、ウォルトはその頃から印刷職工となって、あちこちの新聞社や印刷工場で働きながら独学に励んだ。アラビア千一夜物語、スコットの叙事詩、その他手当たり次第に文学書を耽読し、また自分でも詩や雑文を書いて、新聞・雑誌に投稿していた。またよく芝居を見たり、歌劇をきいたりした。それらは後年、彼の詩作の上に大きな影響を及ぼしたものだ。優れた男女の歌声、また名優の名せりふなどは、彼にとってロングアイランドの自然の印象──巻きかえす波の調べ、樹木をわたる風の音、小鳥の囀り、軒端の雨の声などとともに、いかに彼の詩心を目覚めさせたか、彼が書き残した幾多の文章によっても明らかである。また、繁華なマンハッタンの雑踏、それも彼の心をとらえた。要するに、将来のウォルトは、学窓から生まれたのではなく、街の子として、自然児として育ったと言ったほうが当たっている。
ウォルトは十七歳から二年間、ロングアイランドの各地で、たいていは父兄の家に下宿して小学校を教えていたが、彼が教えた学校の一つで、ウッドベリー村に一室きりの学校の建物がいまもなお残っている。何学級かの十数名の生徒が一室で学ぶのである。そうした小学校教師時代には、各地で好学の青年同志と討論会のグループを作り、政治、経済、人生問題などについて熱心に討論しあった記録も残っている。
彼は青年時代に多くの詩や短編小説を書いたが、詩はともかく、短編小説の幾編かはかなり好評を博して、他誌に転載されたりしたものだ。ウォルトの最初の写真として残っているものに、顎鬚をはやし、髪を分け、細身のステッキをかかえ、上着の襟のボタン穴に花をさしたダンディー姿のものがある。十九歳ころのものといわれ、「草の葉」初版本の口絵にある労働者風のものとは似ても似つかぬものである。年譜にもあるように、彼は少年時代から働きながら、独学の結果、いつのまにか小学校教師となり、文芸作品を書き、新聞・雑誌の記者や編集者となったが、二十七歳の時、「ブルックリン・イーグル」紙の主筆になったころが、彼にとって最も得意の時代であったようだ。そこに二年ばかりいたももの、社主と政治上の意見の相違から退職を余儀なくされた。
が、あたかもよし、ニューオルリエンズで創刊される「クレッセント」紙に招かれ、十五歳の幼弟ジェフを伴って、当時フランス風の異国情緒ゆたかな南の海港都市に向かった。ところが、おることわずか三ヶ月で、同紙をやめてニューヨークへ戻ってしまった。南の都会でのごく短期間の滞在中に、ウォルトにロマンスがあったと伝えられているが、その真偽は疑わしい。この時代のウォルトの行動を、ジョン・アースキンが「大道への出発」という一編の小説に書いている。フィクションとしてもなかなか面白いものである。それは、同地でウォルトがゆくりなくも行きあった混血児の美女が、詩人の将来の大成をかたく信じて、愛し尊敬しながら身を引いてゆく場面を描いた、哀れな艶な物語である。そのなかで美女の話す奇妙なフランス英語の訛の会話は忘れがたい。
それはさておき、詩人の晩年、英国のJ・A・サモンズが「カラマス」詩篇のなかのウォルトのいわゆる「僚友の愛」なるものが、いかにも性的倒錯に似かようものがあることについて質問したのに対して、ウォルトが答えた有名な手紙がある。
「血気な壮年時代と中年時代に、南方に住んでいた時分の私の生活は、肉体的享楽を追ったものだった。そして、それはたしかに世間か非難される態のものであった。私は結婚こそしなかったが、六人の子供の親となった──二人は死んだ──南部に住んでいる一人の孫は立派な少年だが、時々手紙をくれる──ある事情(彼らの将来と利益との関係で)は、私たちの親しい仲を裂いてしまったのだ……」
このウォルトの告白について、いろんな論議が起こったことはもちろんである。二、三の人は、それはたんに耄碌した老人のたわごとだといい、ある人たちは、それはみずからの変態に対する詭弁であり、カモフラージュにすぎないとなした。晩年、ウォルトは親しいトラウベルに対して、子供が訪ねてきたこと、いつかこのことについて胸を割って話す、と言っていながら、ついに生前には実現せずに終わった。なにしろこの点については、我々はなんらの決め手をもたないのが実情だ。なるほどウォルトは一生独身で通した。しかも解せないのは、あのアン・ギルクリスト夫人の熱烈な慕情をあくまで拒否したことである。(ホイットマン全集の書簡集の編者は「夫人はホイットマン夫人たることを夢みて、恥も外聞も捨ててはるばるアメリカに渡ったが、結果は彼女の夢が破れただけだった」と書いている)。
また、青年ピーター・ドイルを溺愛したこと、のちにはスタッフォード家の息子ハリーを愛したことなど、問題にすれば不思議に思われる点がないではない。ドイツのエヴァルド・ベルツや英国のW・Cリヴァースなどはこの問題についての著書まで出している。現代でもM・コーリーなどはいくらかそれを信じているようだが、これに対して、ホイットマン研究のエモリー・ハロゥエー教授は、真っ向からウォルトが性的に正常だったことを主張している。しかし、双方とも決定打を出していないというのが私の見方である。ウォルトは「カラマス」のような詩篇を書いている一面、「アダムの子ら」詩篇において、女性礼賛と性生活の厳粛さを大胆に歌っている。
さて、南部から帰ってきたウォルトは、週刊誌「フリーマン」の主筆として、当時ニューヨークに住む文人、新聞記者、画家などが集まるドイツ人経営のレストラン「プラァフ」によく出入りしていた。このころの彼は身長六フィートゆたか、体重二百ポンドという堂々たる体躯の持ち主だった。また、当時は奴隷問題が全国の関心事であって、彼はその反対論者の一人、他の文人の多くは、特にエマソン、ソロー、ホイテァなど、いずれも熱心な奴隷反対論者であった。「フリーマン」をやめた後は、例のごとく各新聞にフリーランサーの形で書きながら、父を助けて家屋の建築に従っていた。そのころは父だけがそのためにブルックリンへ来ていたもののようだ。とにかく、ウォルトが1852年に書いた見積書や請負の者との契約書などが、現在デトロイト市のチャールズ・フェンバーク氏の収集文献のなかに残っている。
ところで、1855年、ウォルトが三十六歳の時(詩の中には三十七歳といっているが)ブルックリンのフルトン街とクランベリ街の角にあるローム兄弟の印刷所で、自分も手伝って詩集「草の葉」Leaves of Grassを出版した。七月四日前後のことである。発売所はスウェーンとファラー・アンド・ウェルズー。序文細字二欄組で十頁、全頁九十三頁、薄い四つ折版。装丁は数種あって、布表装のものは濃緑の地に金版で草の葉の模様を印し、表紙中央に「草の葉」の書名が金文字で図案風に出してある。収める詩十二篇、いずれも無題、ところどころに「草の葉」の題が挿入してあるだけ。著者の名はなく、ただ扉裏の発行登録の所にウォルト・ホイットマン、それから二十九頁の詩の中で「ウォルト・ホイットマン」とあるだけである。この十二篇の詩は、翌年の第二版にはいずれも題がつけられたし、その序文はその一部が「蒼茫たるオンタリオ湖畔にて」という長詩に変貌している。この1855年の初版本の巻頭の長い詩は現在の「私自身の歌」と題されるものだが、それは次の第一節をもって始まる。
私は自己を礼賛し、そして私自身を歌う、
そして、私がわがものとするものは、また君のものとするがよい、
思うに、私に属する一切の原子は、等しく君にも属するものだから。
あてもなくさまよい歩いて、わが魂をさし招き、
気の向くままに、あるいは寝そべり、またぶらつき、夏草の穂にじっと眺め入る。
私の言葉、私の血潮に流れる一切の原子は、この大地、この大気から作られたもの、
ここに私は両親から生まれ、両親はまたその両親から、そのまた両親もまたさらにその両親から
完全な健康体で、ここに三十七歳を迎えた私は今日から始めるのだ、
死の日までやむことなきを希(こいねが)いながら。
宗門も、学派もしばらく措く、
そのあるがままに任せて、しばらくそれから遠のき、しかも決して忘れることなく、
清濁併せ呑む私は、万難を排して思う存分語ってゆこう、
本然のエネルギーを具え、融通無碍の私の天性を。
彼はこうして、新世界における新しい種族の詩人として、その第一声を放ったのである。また、同じ詩の第二十一節の一部に、
私は肉体を歌う詩人であり、そして、また霊魂を歌う詩人である、
天国の愉楽は私とともにある、そして、煉獄の苦悩も私とともにある、
私は前者を私の接木として増殖してゆき、後者をば新しい言葉に翻訳する。
アメリカのイルバート・ハッバートは言った──「ミルトンは天国について何もかも知っており、ダンテは我々を地獄へ案内する、しかし地上について我々に語ることはホイットマンに残されていた」と。まことにホイットマンは、地上における我々人間に、自己の尊厳、霊肉合致の妙諦を歌ってくれた詩人であったが、その詩は、当時の詩壇の常識となっていた律格や詩の内容からいえば、全く異端的な出現であった。したがって新聞・雑誌の批評は、嘲笑以外のなにものでもなかった。だが、幸いにも、少数ながら理解者がいた。特にコンコードの哲人エマソンはじめ、H・D・ソロー、B・オルコット、ダンテ学者のチャールズ・E・ノートンらが、これこそ新世界の仰望する文学だと賞賛した。
ホイットマンから「草の葉」を贈られたエマソンは、直ちにこんな書き出しで礼状をかねた讃辞を寄せた──「私は『草の葉』のもつ天賦の価値に対して盲目なるものではありません。私はこの一書が、アメリカがこれまでに寄与した機知と叡智とからなる異常なる作品であることを認めるものです。あたかも偉大なる力が、我々を幸福にするように、私はこれを読んで非常に幸福に感じています──(中略)私はかかる出発は、どこか永い準備時代があったに相違ないと思われる偉大なる前途の冒頭における貴下にご挨拶申し上げます──」とにかく、詩篇「草の葉」は、かように、一方的には祝福され、一方には排撃されながらも、彼は一巻の詩集に運命を託して、世評をよそに、その死に至るまでの永い多難ながら力強い出発をしたのであった。
ここで一つの問題がある。これまで印刷工、大工などをやり、新聞・雑誌記者といっても二流程度にも及ばないそれであり、詩・短篇作者としても二流にもゆかなかった彼が、突如としてエマソンたちを感嘆させた「草の葉」の詩人たり得たのは、そこに何かの原因があったのでなかろうか。動植物の世界では、異常発生といういうような現象があるときくが、ホイットマンの場合では、はたしてどうだったのであろう。
詩人の親友で遺稿管理者の一人R・M・バック博士は、その著「宇宙的意識」のなかで、「ホイットマンの『草の葉』を創刊に至った機縁は、詩人が、ある霊感による新生であり、一種の解脱の境地が新しいホイットマンを生んだのだ」と述べている。また、フランスのジャン・カテルは、この驚異的現象を探求するために、『草の葉』出版までの詩人の生い立ちから生活環境の詳細な研究を発表している。これとは反対に、アメリカ外におけるホイットマン研究の権威の一人、ソルボンヌ大学のアッセルノー教授は、その著書「The Evolution of Walt Whitman」の序文で、ホイットマンの研究は1855年『草の葉』初版本出版後から始めるべきである。この画期的な詩集の出現の原因を究めることはほんど不可能で、その努力は無駄である、さえ言っている。私はこれらの異論のいずれをも肯定も否定もしない。学者はそれぞれの見解と信念をもって研究を進めるべきではあるまいか。
ホイットマンの年代的の経歴については、簡単ながら後出の「年譜」にゆずるとして、彼が詩人として認められるようになってからは、同時代の文人たちと多かれ少なかれ交友関係があったが、同年生まれのH・メルヴィルや、詩人J・R・ローエルとはかけ違って面識がなかった。その一方、海外には、特に英国には多数の知己が出来、知名の人々でわざわざキャムデンの小屋に彼を訪ねる人が多くいた。また彼の詩も、英国はじめ、フランス、ドイツ、デンマーク、イタリー、ロシアなどに生前すでに次々と紹介され、なかには熱心な傾倒者も少なくなかった。そして『草の葉』は、まるで樹木の年輪の増すように、年を経て版を重ね、そのたびに詩篇の数を加えていったが、1880年代になると、肉体の衰退とともに創作力も衰えていった。だが、彼の生涯のなかでの大きな事件で、彼の心を揺り動かし、その詩作に多大の影響を及ぼしたのは、なんといっても南北戦争であった。それは、彼がしばしば、「自分のこの本は戦いのなかから生まれたもの──」と言っていることでもわかる。
ホイットマンの晩年にも幾多の著書が出版されたことは「年譜」のとおりだが、それらはほとんどみな、毎日のように老詩人を訪ねていた若き友(愛弟子といってもよい)ホレース・トラウベルの斡旋と労力によるものだった。トラウベルは1888年から毎日、詩人との対話やその言行を大小洩れなくひそかに手記しており(詩人も薄々は知っていたらしい)、それを「ホイットマンとキャムデンの在りし日」With Walt Whitman in Camden という膨大な著書にまとめ、これまで五巻出している。(トラウベルの生前に三巻、その後二巻出た)。その第五巻は娘のガートルードが編集して1964年に出版。なおまだ三、四巻分の手記・資料があるという。この著書はエッケルマンの「ゲーテとの対話」、ボスウェルの「ジョンソン伝」にも比すべき貴重なホイットマン回想録である。
ホイットマンは1891年(72歳)の11月17日、悪寒を覚えて床につき、直ちに肺炎を発し、病が重くなった。医師は、ロングエーカー、オスラー、マカレスターの三人がこもごも来診し、しかも一人として医療費を請求しなかったといわれる。翌1892年の初めには、もはや医師たちが希望を捨てたほどの重態に陥ったが、それでいて3月17日には妹ハンナに。「たくさんは書けない──四ドル封入──お前のよい便りが届いた──幸福を祈る」と、彼にとって絶筆となった手紙を書いた。3月26日夕、看護人のウォレンに“Warry, shift.”「ウォリー、寝返りさせてくれ」と言ったのが最後の言葉だった。午後6時43分、右手をトラウベルにとられたまま、眠るが如く大往生をとげた。外には雨が静かに降りしきり、黄昏の色が濃くなっていた。
ウォルトは生前、キャムデン郊外のハーレイ墓地に、千六百ドルを投じて自分や家族のために花崗岩の立派な墓を造っておいた。3月30日、墓前での告別式は哀悼の市民も多数集まり、荘重厳粛に行われた。最初にF・H・ウイリアムズが詩人の「リンカーン追悼詩」からの有名な「死の讃歌」を朗読ののち、トーマス・B・ハーネッドが「私たちは今日、ウォルト・ホイットマンの遺体を葬りに集まりました。死と不滅の偉大な詩人は、私たちの歓喜の言葉だけを語らせるでしょう」にはじまる弔辞を述べ、ついでウイリアムズが、孔子、釈迦、キリストからの言葉を朗誦。次に友人プリントンの弔辞があり、再びウイリアムズが「コーラン」「イザヤ書」「ヨハネ伝」からの言葉を読む。次にパック博士の弔辞。そのあとウイリアムズが「ゼンド・アヴェスタ」とプラトンの言葉を朗誦。最後に雄弁家として有名な無神論者のロバート・E・インガソールが「私たちはここに再び『生』の神秘のうちに『死』の神秘と体面することとなった。偉大なる人物、一人の偉大なるアメリカ人、この共和国の最も知名の市民は、いま私たちの前に横たわっている。私たちは彼の偉大さとその真価を顕彰するものである──」の言葉ではじまる切々たる弔辞で、亡き友、偉大なる庶民の詩人ウォルト・ホイットマンの霊をとむらった。
特集 ウォルト・ホイットマン
平等主義の代表者ウォルト・ホイットマン 夏目漱石
ワルト・ホイットマンの一断面 有島武郎
ホイットマン詩集 白鳥省吾
ホイットマンの人と作品 長沼重隆
ヴィジョンを生きる 酒井雅之
ウォルト・ホイットマン 亀井俊介
ホイットマンとドストエフスキー ヘンリー・ミラー