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苦しい思い出でバージーニアの森をさまよったとき


新しいテーマに入る前に、ちょっと場面を切りかえて、みなさんのお手許に渡っている最初の詩を、ここでどなたかに朗読してもらってから、次のテーマに入っていきたいのです。最初の詩、ホイットマンの「苦しい思いでバージニアの森をさ迷ったとき」という詩ですが、この詩の背景というものを、少し説明しておきたいと思います。ホイットマンの四十二、三歳のころに書かれたと推察される詩ですが、彼はそのころ、一八六一年に起こった南北戦争にボランティアとして戦場に出向くわけですね。ボランティアとして戦場にいったということは、銃をとって戦争に参加したという意味ではなく、陸軍病院で負傷兵の看護活動を行うわけです。そのときの様子を、彼は日記に書いていますが、例えばこういう記述があります。
 
「病院や幕営や職場におけるこの三年間に、私は六百回以上の訪問ないし巡回をし、私の見積もりでは、しめて八万から十万の疾病兵の間を巡って、必要に応じて、精神と肉体のある程度の支えとなった。これらの訪問は一、二時間から終日ないし徹夜になることもあった。というのは、親しいあるいは重態の患者の場合には、大抵徹夜で看病したからだ。時どき自分の宿を病院内において、数夜続けて、そこで寝たり看護したりした。あの三年間は、私は最大の特典であり、私の生涯で最も深い教訓だったと考える。その奉仕において、私は自分の赴くところに横たわる人々を、南北を問わず、すべてを抱擁し、一人もおろそかにしたことはないと言うことができる。

……死者、死者、死者、我らの死者。南であれ北であり、みんな我らの死者だ。――みんな、みんな、結局わたしにはいとおしいのだ。東か西か、大西洋岸かミシシッピィ流域か、どこかで彼らはたった一人、繁みの中か、低い谷間か、山腹で、這って行って、死んだのだ。その奥まったところに、彼らの骸骨や、野ざらしの白骨や、髪の房や、ボタンや、衣服の断片などが、今でも時どき見つかる。かつてはあんなにも端麗で、あんなにも快活だったわれらの若者たちが、われわれから奪い去られた。母親からは息子が、妻からは夫が、親友からは親友が。ジョージア、南北キャロライナ、テネシーにある幕営墓標の群れ、森の中や路傍にぽつんぽつんと残る墓、数百、数千の無名のまま………」(杉本喬訳「ホイットマン自選日記」岩波文庫)
 

この詩は、おそらくそんな激しい看護活動──ボランティア活動の束の間、休息しようと森のなかに入って、落ち葉をけ散らしながらそぞろ歩いているときに、出会った光景だと思います。ですからこの「苦しい思いでバージニアの森の中をさまよったとき」とは、ホイットマンの苦悩そのものですね。目の前で傷ついた兵士たちが、激痛のためにのたうちまわっている。あるいは自分の腕のなかで、たくさんの若者たちが死んでいく。この詩にはそういう歴史や戦争といった重いテーマ、そして悲しみや怒りや絶望といったものが、重層的に縫い込められています。そんなことを言葉の背後にひそめて、朗読なさって下さればと思いますが、まあ、こんな余計なことをいうと尻込みなさって、だれも朗読したいなんて思わなくなるのでしょうが。まあ、そういわずに、どなたか前にでて朗読して下さい。二段構成になっていますからお二人で。
 
苦しい思いでバージニアの森の中をさまよったとき
 
わたしの足に蹴りたてられてかさかさ鳴る落ち葉の音楽にあわせ
(時はまさに秋であった)
苦しい思い出でバージニアの森をさまよったとき、
ふと見ると一本の木の根元に兵士の墓が立っていた、
いのちにかかわる傷を受けて、撤退の途中で葬られたのだ、
(何の苦もなく一切をわたしは理解することができた)
真昼時の小休止、そして出発の号令がひびいたとき、
もはや一刻の猶予もならず、
しかしただこの標(しるし)だけは残される、
板のうえに走り書きして、墓のそばの木に釘で打たれる
「大胆で、慎重で、誠実で、そして愛情ゆたかなわたしの戦友」
 
いつまでも、いつまでも、わたしは思いにふけり、それからふたたびさまよい始める、
それからさらに、変転絶えぬあまたの季節と、人生のあまたの場面がつづいたが、しかし変転絶えぬ季節と場面がめぐるさなかに、折にふれ、思いがけなく、一人でいても、雑踏する街頭にいても、
わたしのまえに立ち現れる、あの名も知れぬ兵士の墓が、立ち現れる、バージニアの森で見かけたあの粗野な碑銘が
「大胆で、慎重で、誠実で、そして愛情ゆたかなわたしの戦友」
(鍋島能弘・酒井雅之訳「草の葉」岩波文庫)



 
 

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