幕末の動乱の世に、幾多の英才を生んだ適塾
適塾の青春
ケネス・Y・サガワ 古谷千里
最近、私は大阪に行ってきました。訪れた場所で思いがけずとてもおもしろかった所は,緒方洪庵という人が住んでいた古い家でした。緒方洪庵は1810年から1863年の人で、53歳で死にました。彼は長崎で蘭学を学び、大阪で開業医になりました。
私が彼の家を見てとてもおもしろいと思ったのは、彼が開業医をしながら「適塾」という学校を開いていたことでした。学生たちはその家の2階に住み、主に蘭学を学びました。オランダ語を読んだり理解したりできるようになると、彼らの大半は西洋について勉強し、わずかな人が西洋医学を学びました。
学生たちは、5日に一度、読解テストを受けました。テストの後、学生たちはその成績順に8つのグループに分けられました。そして3か月間続けてグループのトップの成績を取ると,1つ上のグループに進めるのです。
また、学生たちは1か月に一度、居場所を交代しました。学生には、それぞれ畳一畳分だけ与えられていて、そこに寝具類、小さな座卓と持ち物いっさいを置くことになっていました。良い成績を取ると、学生は、夏は窓際の陽当たりや風通しの良い場所を、冬は壁に近い、夜でも暖かい場所を取ることができました。
けれども、成績の悪い学生は、他の学生がいつも行き来する階段の踊り場近くや窓から離れた所、暗くて湿気の多い居心地の悪い所で、眠らなければなりませんでした。最初、私はこの学生の成績と居場所を結びつける考えにびっくりして、笑ってしまいました。けれども、学生がもっと勉強したくなるように仕向けるには、たぶんこれは良い考えだと、後から気がつきました。この、もっと良く勉強しようという欲求を、動機づけといいます。生活環境と勉強を結びつけることが、学生にヤル気を起こさせるにはおあつらえむきだったのでしょう。
この学校は武士の子弟だけのための寄宿学校だったので、私は「ああ、この学校はエリートの子弟のためのエリート校だったんだ。今でいえば、開成、灘、ラ・サール高校みたいなものだな。最近は、ああいう学校の生徒は中流の上の家庭の出身で、勉強すれば良い大学に入れてエリートの仕事につけるから、だからしっかりヤル気になっているんだなあ」と思いました。
けれども、適塾の学生は主に下級武士の出身で、しかもほとんどが、大変貧しい家の出身だったと知って、私はびっくりしてしまいました。武士にとって一番大切なものは刀ですが、この寄宿学校の学生全部の中で刀を持っていたのは3人だけでした。結婚式や葬式といった重要な儀式に出席しなければならないときには、その3本の刀の中から1本を借りて行きました。では、彼ら自身の刀は一体どうなってしまったのでしょう。実は、彼らはこの寄宿学校の入学金を払うために、刀を売り払ってしまったというのです。私は感動しました。
学生たちは大変貧乏で、満足な着物も持っていませんでした。大阪の暑い夏の間、彼らは裸に近い恰好で過ごしました。冬は、なかなか暖かくできませんでした。学校自体も、ろくにお金がありませんでしたから、食事は大変質素なものでした。メニューも限られていました。毎月、1日と10日のおかずは、玉ねぎと里芋でした。5日と15日はとろろ汁、3日と18日はしじみ汁でした。学生たちは、その献立を覚えていたし、いつも腹ペコでした。
時々、誰かのところに家から仕送りがあると、学生たちは大阪の魚の卸市場へ出かけて行き、魚の粗(あら)を買い、学校に持ち帰り、一番良いところは刺身にし、残りの部分は煮て汁にして食べました。学生たちにとって、これはご馳走でした。
私が一番感動したのは、ズッフェルームと名づけられた、四畳半の小さな部屋でした。この小さな部屋には、たった一冊、蘭日辞典だけが置いてありました。それは、ズッフェ編集の、大変厚くて重い辞書でした。学生たちは皆、これを使わなくてはなりませんでした。ですから、オランダ語を調べたい学生がいつも列を作っていました。そして、もっとも驚いたことには、学生たちは昼間だけでなく、一晩中、明け方近くまで並んでいたというのです。学生たちは徹夜で勉強したがりました。この辞書を使いたい学生がいつもいたので、この部崖の灯は消えたことがなかったといいます。
私は最初、学生たちが熱心に勉強したのは野心があったからだろうと思いました。将来出世したかったからだと思いました。けれども私はすぐに江戸時代には武士は社会的な地位を変えられなかったことを思い出しました。それでは,どうして彼らは必要もないのに一所懸命勉強したのでしょうか。
私に考えられる唯一の答は、学ぶことと新しい知識を吸収することが、彼らには嬉しかったのだということです。彼らは西洋について、未知の文明について、そして他の日本人が知らないことについて学んだのです。これは、現代において、宇宙やスーパーコンピュータや他の人々が知らないことについて研究するのと同じ喜びと感激だと思います。何か新しいことを学ぶというのは、刺激的で、楽しいことですよね。
学生たちは、卒業後すぐに仕事に就いたり、新しい知識を使えたわけではありませんでした。けれども、ずっと後になって、この学生たちは、適塾で得たものを活用することになりました。福沢諭吉は明治日本の多くの理念形成に寄与し、他の卒業生たちは政治家になったり、日本赤十字社や大阪医科大学の創立者になったり、さまざまな方面で日本の社会に貢献しました。
私は、100年以上も昔の学生たちをかいま見ることができた上に、学問の喜びと興奮が、あの辞書のある狭い四畳半の部屋の行灯(あんどん)の灯の中であかあかと燃えていたのを知って感動しました。また彼らがオランダ語ではなく、オランダ語を通して未知の文明を学ほうとしたということを知って、感動しました。私は今、日本中の小さな部屋で、単に英語を勉強するためではなく、将来アメリカの宇宙研究や、アメリカの医学を学ぶために英語を使い、いつの日か日本の社会に貢献しようと、英語の勉強に励んでいる学生がいますように、と思いました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?