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裸の仔馬


裸の仔馬

 その少女がゼームス塾のドアをあけて入ってきたとき、長太はてっきり塾に入っている生徒のお姉さんなのだろうと思った。女の子は男の子よりも実に早く成熟していく。美子は頭をちょっと振って、きゃしゃな手で長い髪をかきあげる。そのしぐさなんかももう十七か十八の娘のようにみえて、まだ彼女が中学二年生だと知らされたとき、思わず長太は驚きの声をあげていた。目鼻立ちのととのった美しい子で、しかもそこになにか影のようなものがただよっているから余計そう感じさせるのだ。
 長太はかならず塾にはいるとき、その子の内部を知るために作文を書かせるのだが、美子がはじめて書いた作文にも驚かされた。彼女はいきなりこう書いたのだ。
 
《私は小さい時からさびしい子だった。私の遠い記億のなかにいる父が買ってくれた仔馬のぬいぐるみをいつもだいてねむっていた。私のさびしさを仔馬はよく知っている。私のなみだをいっぱいすいとっているから。…………》
 
 美子の作文は子供じみたものから完全に脱していた。さらさらとなんの苦もなく書き綴っていく。彼女にとって作文とは、少しも苦痛ではなく、自分を表現するなにか一つの充実した時であるかのような様子だった。さらさらと書き流しているが、刻みこんでいる言葉の陰影は深かった。描く対象にざっくりと言葉をつきたてていく感受性の鋭さに、いくども長太ははっとさせられた。しかもきらきらとした色彩にあふれている。彼女は沢山の小説を読んでいた。例えば、この作文の冒頭に出てくる仔馬という漢字も、子馬とせずに仔を使っているあたりにも、彼女の読書量の豊富さがうかがいしれる。ときにはそんな読書生活からの影響を濃厚にただよわせた、背伸びした文章に出会うこともあったが、しかしそれもまた彼女の心の綾が陰影に富んでいたからなのだ。
 いまでは離婚した家庭などあちこちにある。それなのにまるで枕言葉のように複雑な家庭、複雑な家庭環境と表現する。父と母が離婚したから育つ環境が複雑になるわけではないのだ。しかし彼女の作文を読むとやっぱり、そのことが深い影を落としていることがわかる。例えば、
 
《……私には妹がいるけど性格も顔もぜんぜんちがっている。それは妹があの人の子であり、私はあの人を愛せないようにこの妹を愛することはできない。私のなかにずうっとあの人にたいする憎しみというものがあるからだ。だいいち私はあの人のことを一度もお父さんとよんだことはない。それはよべないからであり、私のこころはとけないからである。きっと私のこころは永遠にとけないだろう。とけてしまったら私は私でなくなるのだから………》
 
 母親にたいする深い憎悪というものもある。
 
《……私は不倫をした人間として、神にちかったのに父を裏切った人間として、母をゆるすことができないのだ。母には罪の意識というものが、いまでもみじんにもかんじられない。私のなかにいまでも残っているのは、母がすべてかざい道具を部屋からもちだしたあと、ぼっかりとあいた部屋のなかにひとりしょんぼりとすわっていた父だった。父は私にいった。元気でな。たまにはおれのことを思い出してくれと。それから二年後に父は死んだ。自殺だった。父を死においやったのは母なのだということ。それは私のなかにずうっとながれている血なのであり、その裏切りの血は私のなかにもまたながれていると思うとぞっとする。………》
 
 大人に対する反抗の季節だった。それはただ言葉による反発とか抵抗というものではなく、体の底でそのすべてがうけいれられないという生理的な嫌悪感といったものを伴う。彼女の母親に対する抵抗もまたそういう種類のもののようにみえる。しかし長太はそこに孤独な魂の叫びというものをみてとるのだ。いつもぬいぐるみの仔馬をだきしめてねむっていた彼女の魂の歌のようなものを。
 彼女もまた三年生になった。五月にはいると中間試験がある。その試験が終わったあとのぽっかりあいた時間に、いつも長太は作文を書かせるのだ。三年生ともなると、もう真剣に作文を書くという授業に立ちむかわなくなるが、その年の三年生はちがっていた。どの子も一生懸命に作文を書く。それはたぶん美子のせいかもしれなかった。美子はこの塾にはいってまだ半年もたっていなかったが、すでにそのクラスの核のような存在になっていた。作文の時間になると美子は、まるで指から文字がこぼれ落ちるように、鉛筆を原稿用紙に走らせる。
 その日も、次々に生徒たちは作文を書きあげて帰っていったが、ひとり美子だけ残っていた。美子はいつものように、ひたすらシャーペンを走らせてはいなかった。物思いにふけっているようであり、ときどき長太に目をむける。そんな美子をみて、
「もう十時になるね。続きはあさってにでも書けばいいよ。今日は疲れているようだからもう終わりにしよう」
 と言った。すると、
「ずるいよ、長太は! ずるいんだよ!」
 と美子は叫んだのだ。長太はびっくりして美子をみると、彼女はなにかはげしい視線をむけていた。
「どうしたんだい。なにがずるいんだ?」
「いつも、いつも、人にばっか作文書かせて。いつも、いつも、私たちのなかをのぞきこんで。長太は一度も心のなかをみせないでしょう」
「そうかな」
「またまた。そうやってごまかして」
「ごまかしているのかな」
「ごまかしているよ。一度も自分のこと話さないでしょう。離婚したんでしょう。どうして離婚したわけ? そのとき女の子がいたんでしょう。その子供はどうしたわけ? いまその子はどうしているわけ? その子に罪の意識を感じないわけ?」
 と美子は数々の疑問をはげしく叩きつけてきた。彼女のなかに、ずうっとわだかまっていた疑問が、一気に爆発したかのようだった。
「人にばっか書かせて。自分は一度も過去のこと話さないでしょう。そんなのきたなくてずるいよ」
 と彼女は言った。そしてがしゃがしゃと、シャーペンやら消しゴムを筆箱のなかにしまいこみ、ばたばたと本やノートをバックのなかにいれると、ばたんと音をたてて、椅子を机の下に押し込み、怒りを背中いっぱいにみせて部屋を出ていった。
 なんだか美子の放ったその言葉は、長太のなかにずしりと鉛を打ちこまれたような衝撃だった。彼女の言っていることは本当だった。彼は子供たちに自分は離婚をした人間だということを、軽い冗談めいた口調で話したことはあった。どうしてと訊かれたら、蝶ばかり追いかけていて、まあ、それで奥さんに捨てられたんだというふうに濁すのだった。それ以上のことを子供たちは訊くこともなかったし、彼もまたそれ以上のことを話したことはなかった。
 しかしいま美子が鋭くそのことに迫ってきた。私たちばかりに作文を書かせて自分はなにも語らないと。私たちのなかのぞいて、自分の内部を少しも見せないと。美子の作文は、自分の内部をしっかりと描いていく。けっしてごまかすことなく、自分を息苦しいばかりに語ろうとする。そして人に見せたくないような、いわば家庭の秘密のようなものも赤裸々に書いていく。そんな作文を書く美子の非難は、長太にはずしりとこたえるのだった。こんなに自分は心を開いているのに、長太は少しも心を開いていないと。
 長太は美子にこたえなければならない、自分の過去を語らなければならないと思った。その敗北を、その罪を、その傷を。彼はいつも子供たちに差し出す原稿用紙を自分の目の前においた。そして書きはじめようとした。しかし書けないのだ。何度書こうとしても書けないのだ。土曜日も、そして日曜日も、目の前に原稿用紙をおいてみた。やっぱり書けないのだ。ただの一行も書けない。
 彼はいつも子供たちに作文を書かせる。作文というものは漢字を練習することよりも、文法を学ぶことよりも大事なことであり、おそらく国語の中心は作文という活動なのだと。感じたことを、思っていることを、訴えたいことを、何行でも何枚でもいいから思いっきり書けばいい。書けないことはないはずだ。感じたままの言葉を書けばいいのだからと。しかしいざ自分の目の前に原稿用紙をおくとまったく書けないのだった。
 とうとう一行も書けずに、その週が明けてしまった。その日、授業が終わったあと、長太は美子に言った。
「この間の美子の宿題だけど」
「宿題って?」
「ぼくの過去のことだよ。ぼくの離婚のこと」
「ああ、あの宿題」
「そうだよ。ずるいって言われたじゃないか。ちょっとこたえたんだ」
「ああ、あれは冗談だから気にしないで」
「いや、あれは冗談ではないよ。美子の言う通りだと思ったんだ。それでぼくは書こうとしたんだ。美子のように、しっかりと自分の過去のことをね。しかし書けないんだ。どうしても書けないんだ」
「つらいから?」
「それもある。そいうこともあるけれど、あのドロドロしたものをどう書いていけばいいのか、結局、ぼくにはものを書くという才能がないんだな。ぼくにはあのドロドロしたものをきちんと書けないと思ったんだ。書けば書くほど嘘になるということもあるしね」
「そう言って、また逃げていくわけかな」
「そうじゃないさ。逃げないよ。だから提案があるんだけど、美子が訊くという方法はどうかな。美子がいろいろとぼくの過去をほじくりだして、ぼくがこたえていくという方法は。なるべくありのままのことをこたえるからさ」
「いいよ。それでも」
「そう。それでいいか」
「うん。それでいいですよ。長太のことが知りたいんだから」
「うん。それじゃそれでいこう。なんでもきいてくれよ」
 美子は、なんだかあらたまった口調で、
「じゃあ、最初にその人とは、どこで会ったんですか?」
「うん、そうだな……」
 長太が教育実習をしたとき、彼はすでに二十四になっていた。大学に入学したのが遅れたわけではなく、ずうっと留年続きだったのだ。どうしてそんなに留年が続いたかというと、蝶に狂っていたとしかいいようがなかった。彼は大学時代、すでに三度もアラスカに遠征したり、韓国や台湾などにも渡っていた。その遠征のための費用を稼ぎ出すためのアルバイトで、しぜん学校にいけなくなるのだ。その頃の彼には、飛翔する蝶の魔力の前には大学の講義などまったく魅力がないものだった。しかしそんな生活をいつまでも続けていけるわけにはいかない。彼は二十四の時、ようやく教員の免許をとるための教育実習に出かけた。その実習をした小学校で、やっぱり実習にきていた綾子と知りあった。
 長太が大学を卒業をしたのが、さらにその翌々年だった。卒業したその年、彼は蝶仲間と《蝶/バタフライ》という雑誌をつくった。それは詩名どおりマニアむけの蝶の雑誌だったが、全世界に蝶採集のネットワークをはる世界的規模の雑誌をつくろうと意気込んだものだった。そんな仕事をはじめたものだから、受験勉強が片手間になって、その年の教員採用試験をいくつか受けたのだがことごとく落としてしまった。
 綾子はそのときすでに小学校の教師になっていた。綾子が長太に惹かれていったのは、たぶん彼女がまったく自然のことに無知だったからかもしれなかった。彼女の自然にたいする知識というものは、すべて本からはいったものだった。しかしそんな知識ではすぐに底がわれてしまう。子供たちを自然のなかに導いていくには、体のなかからにじみでてくるような本物の知識が必要だった。彼女にはそういうコンプレックスがあったのだ。だからなのか彼女は長太の主宰する蝶の採集クラブに入って、いつも長太によりそって彼の知識を吸収しようとした。そこから愛というものが生まれていった。
 仲間とはじめたその雑誌はうまくすべりだしていた。もちろん赤字だったが、その雑誌が採算とれるようになるには、二、三年先とふんでいたから、そんな赤字は少しも苦にならなかった。彼らの目的はその雑誌で生計をたてるということではなかったのだ。彼らが目指していたのは、その雑誌を発行しながら力をつけていき、やがて彼らの研究を世に出したり、写真集を出版したり、さらには新しい蝶の図鑑やら事典を刊行しようという遠大な計画にあったのだ。だから仲間はそれぞれ職についていたが、一人長太だけが学生時代のままの家庭教師稼業だった。
 その雑誌づくりも、月日がたっていくと、次第に最初の情熟を失っていった。採算を度外視してはじめていったのだが、いつまでたっても部数は伸びず、累積していく赤字が次第に負担にもなりはじめていた。結婚して子供もできていくと、そんな道楽に資金を投ずる余裕もなくなっていくのだ。仲間は一人去り、また一人去りで、三年目に入った秋には、とうとうその雑誌にピリオドを打たなねばならなくなった。長太がゼームス坂に塾をひらいたのはその翌年だった。
 彼は学生時代ずうっと家庭教師を続けていた。卒業しても、結婚しても、彼の生活の糧は家庭教師稼業だった。彼が塾を開設したのもその延長だった。あちこち家庭をまわるよりも、いっそ子供たちを一つの教室に集めて教えるほうが効率がいいのだと。彼の目的とか志というのは、その程度のものだった。しかしそれでも、さすがに大きな金を投じて塾をつくる以上は、そこにやはりひとつの企みや理想というものを投入しようと思った。受験勉強だけでなく、もっと子供たちの骨や肉や血になるような活動を。
 しかし彼にはやはり蝶は捨てられなかった。塾の教師であるよりも、まず蝶採集家であり研究者であり続けようとした。だから塾の仕事はいつもそこそこで切り上げる。そして蝶を追いかけて、日曜日になると郊外にでかけ、長い休みには必ず外国にでかけていく。すでに子供が生まれていた。それなのに長太は、休日には蝶を求めて外出する。綾子の心が次第に彼からはなれていくのは当然かもしれなかった。結婚して六年目、愛と名づけた子が四つのとき、綾子は別れたいと切り出してきた。
 そんな過去を、長太はひとつひとつ丁寧にこたえた。ふと時計をみるともう十時近かった。
「ああ、もう時間だね。あとは今度にしよう」
「大丈夫よ。家なんて補習しているって言えばいいんだから」
「でも、もう十時になってしまうからな。まずいよ」
「またそうやって、逃げるんだから」
「逃げはしないよ」
「じゃあ最後まできちんと話して。一番大切なところでしょう」
「よし、わかった、こうしよう。美子の家まで送っていくことにしょう。歩きながら話すんだ」
 生ぬるい風が吹いている夜だった。二人は自転車を押しながら話す。長太はなんだかデイトしているような気持ちだった。そんな錯覚にとらわれるほど彼女が大人びていて、そして二人の交わす会話もまた大人のものだったからかもしれなかった。
「それで奥さんが別れようと言ったとき、その奥さんには新しい人との関係ができていたんでしょう」
「そこのところはわからないな。そんなふうに考えてみることもあったけど」
「きっとそうなのよ。だってその時期は一致するわけでしょう。その男の人との恋愛関係におちいった時期は」
「まあ、そうかもしれないけど。そんなふうに考えることもあった。しかしそう考えると憎しみをつのらせるばかりだし、自分がみじめになっていくだけなんだね。だからどうでもいいことだと、いまでは思っているんだ」
「そうなのよ。女ってずるいの。私が女だからよくわかるよ。母なんかみているとほんとうに女は、ばけものだと思うほど嘘がうまいんだから」
「それは男にだって言えるよ。嘘つき男はいっぱいいるんだ」
「私は女のほうがずうっと嘘がうまいと思う。その人はすごくずるいと思う。人間の信頼とか誓いを平気で裏切っでいくんだから」
「いや。彼女だけが悪いんじゃないんだ。そのころのぼくはやっぱり捨てられる理由がいっぱいあったんだ」
「例えば?」
「例えばさ、ぼくはいつも休みのたびに蝶を追いかけていた。北海道とか、九州とか、韓国とか、アラスカとか、ニューギニアとか。お金なんかないのにさ。生活のほうはみんな奥さんまかせ。子育てで一番たいへんなときなのに。いま考えると、ぼくはまったく夫としての資格がなかったと思う。ぼくは家庭をもつ資格なんてなかったんだ。あ、もう君の家だね」
 そこは煉瓦を貼ってあるしゃれたマンションだった。玄関の前には、賛沢な空間がとってあって、そこにガス燈を思わせる街灯が立ち、光のドレスアップもなかなかのものだった。そんな高級マンションをみただけでも、美子の家庭は相当レベルの高い生活をしていることがわかる。
「先生、私、ちゃんと聞いてあげたでしょう」
「うん。聞いてくれた」
「少しだけ楽になったでしょう。つらい過去を話して」
「そうだな。いままでだれにも話したことがなかったからね。美子にそのつらいところを話して、ちょっと楽になったような気がするよ」
「私もそうだったの。ずうっと心の底にたまっていたものを作文に書くたびに、なんだが澱んでいたものが流れていくような、自分が少しづつ新しくなっていくような気がしていたんだ」
 そして彼女は、手を差し出した。
「握手しよう。これで私たちは秘密を話せる友達になったわけでしょう」
「うん。そうだな」
 美子は差し出した長太の手を、ぎゅうとにぎりしめた。
「今度、長太の家に遊びにいくから。いいでしょう」
「それはいいけど、きたない部屋なんだ」
「じゃあ、私がお掃除してあげるよ」
 美子は自転車にまたがり、そのマンションのゲートに走らせていった。なにか春のそよぎのような甘さをたたえた官能の風が、さあっと長太のこころを吹きぬけていった。
 六月に入って最初の日曜日に、突然、美子が長太のアパートに姿をみせた。
 日曜日はたいてい野外に出かけているのに、この日はたまっている仕事を片付けようと家にいたのだ。彼の部屋は貧相な姿をした木造アパートの二階にあった。四畳半ほどの台所と、その奥に八畳の部屋がある部屋だった。なにかそのアパートはひと昔前の学生宿のようでもあった。台所も散らかし放題なら、八畳の部屋もところせましと本やら雑誌やらが、うずたかく積みあげられていた。そのなかに布団が敷かれてあるのだ。
「わあっ、なんてきたない部屋なの」
「突然、あらわれるなよな。くるとわかっていたら、ちゃんと掃除しておいたのに。まったく、電話でもいれてくれよ」
 と長太は、狼狽しながら、部屋のあちこちを片付けはじめた。しかしこれだけ雑然としていると、そう簡単に片付くものではない。みかねた美子も手伝いはじめていた。
「掃除機ってものはないわけ」
「そんなものはないけど、箒だったらあるよ」
「バケツとか雑巾ってものはあるわけ」
「雑巾はね、まあ、そこにあるタオルをつかってくれ」
 こうして二人は、ごみ置き場のような部屋を片付けだした。おかげで部屋はみちがえるばかりになった。部屋のなかの空気までも新鮮になったようだった。
「さて、ありがとう。ずいぶん、きれいになったね。よし、これから美子のためにおいしい物をつくろう。なにが食べたい?」
「地中海風長太鍋だな」
「ああ、地中海風プイヤベースか」
 それは生徒たちの間で評判だった。子供たちを集めて、いつもその料理をする。その話しを美子もきいていたからだった。
「よし。それにしよう。そいつをうまくつくるには、新鮮な材料が決め手なんだ。新鮮な材科を買ってくれば、あとはことこと煮るだけでいいという、まあ一種の手抜き料理なんだけど。いまから買い出しにいこう」
 そしてアパートの裏からおんぼろ自転車をひっぱりだし、そろそろと走らせると美子は後ろにとびのってきた。裏通りから裏通りへと自転車を走らせて、戸越銀座の商店街にむかった。なんだか長太には、とても甘い高価な時間がおとずれたように思えた。
 たっぷりと材科を買いこんでくると、さっぱりときれいになった台所で魚をさばいたり、野菜をきったりの共同作業で、鉄鍋にたっぷりと具をつめこんでぐつぐつと煮込みはじめた。二人はその鍋をはさんでいろいろな話しをしていると、
「私は高校にいかないつもりなの」
 と美子が言った。
「どうして?」
「中学を出たら働こうと思うんだ。あの家を出たいと思っているの」
「それは大変なことだよ。かんたんにはいかないよ」
「でももうあの家にいたくないの。家のなかの空気が腐っているのよ。あの家からはやく出たいと思うの」
「しかし一人で生活するのは大変だよ。どんな子もやっぱり高校にいくべきだとぼくは思っているんだ。昼間の学校が駄目だったら定時制でもいいから、とにかくもう少し職業につく前の、待ちの時間が必要だと思うんだ。というのは、まだ君たちの心と体は、しっかりと成長していないんだね。だからさ、勉強するためというのではなく、心とか体をつくるためにね。美子の心と体だってまだきちんと成熟していないわけだから。だからやっぱり高校にいく必要があると思うのだけど」
「でも高校にいっても、すぐにやめる子がいっぱいいるじゃない。やめたってしっかりと生きている子はいっぱいいるし。ちゃらちゃら高校生してる子よりも、ずうっとしっかり生きている中卒の子だっているし」
「でも美子には、中卒で働く理由なんてなんにもないと思うけどね」
「高校に入ったら、また無駄なことをいっぱい勉強させられて、試験試験で苦しめられて、大学受験だって追いたてられて、あっという間に三年が過ぎていく生活よりも、こんなぼろっちいアパートでもいいから、あ、本当のこと言ってごめんね、でもだれにも干渉されずに、いやな人たちの顔をみないで、自分のしたいことに打ち込んでいった方が、ずうっと充実していると思うんだ」
 彼女は頭のいい子だった。ちょっと勉強すれば、相当偏差値の高い高校にだって入学することができる子だった。そんな美子が高校にいかずに働きたいと考えたのは、彼女がたえられないと感じている家庭のためかもしれなかったが、その背後にあるのは、青春の心がもつ危機感というものだったかもしれなかった。彼女の心は急激に大人になろうとしているのだ。
 それから美子は、しばしば長太の部屋をたずねてきた。そして部屋の掃除をしたり、食事を作ったりする。長太はそんな美子にちょっと困惑しながらも、しかし彼もその幸福な時間を、待ち望んでいるのだった。
 それは期末のテストが終わった日だった。授業が終わって一人残った美子は彼に封筒を手渡した。
「これ……」
「なんだい、これ?」
「切符なんだ」
 その封筒のなかには新幹線の切符がはいっていた。新花巻までの指定席だった。そういえば彼女は、しきりに長太の夏休みのスケジュールをきいていたが、このことだったのだ。
「どうしたの、これ?」
「もちろん買ったんでしょう。ゆっくりと宮沢賢治の故郷をたずねて、あのあたりをのんびりと歩いてみたいって言ったでしょう。だからいこうと思って」
「うん。そうなんだ。ぼくはまだ一度も花巻にいったことがないからね。いってみたいんだ」
「だから、でしょう」
「うん。それはいいな」
 そのとき長太は、まったく軽く考えていたのだ。しかし彼女が帰ったあとに、なにかその切符にたじろぐのだった。次に会ったとき長太は美子に言った。
「あの旅行だけど」
「うん」
「もう一度、考えてみようと思うんだ」
「考えてみようって、いかないってこと?」
「なんだか周囲に誤解を招くということもあるじゃないか」
「そんなことどうでもいいことでしょう。周囲の目なんて」
「例えば、君のお母さんとかお父さんにはなんて言っていくわけ」
「塾の先生と花巻にいくって言うよ」
「でも二人だけでいくわけだからね」
「それでいいでしょう。そうしたいんだから」
「そう言ったら、きっと反対するよ」
「反対なんかしないわよ。おかしいよ、長太は。周囲のことなんかどうでもいいことでしょう。いかないなんて、ずるいからね」
「しかしね……」
 長太が言いたいのはこういうことだった。もしそんな旅にでたら、いよいよ長太の心は、この少女に傾いていくかもしれなかった。彼もまたさびしい人間だった。彼もまた男だった。彼は教師であったが、その裏側には性に飢えた男がいるのだ。
「そんなのずるいからね」
「そうかな。ずるいかな」
「もし長太がこなかったら、私、グレるからね」
「どうしてグレてしまうわけだ」
「私はもう半分グレてるんだから。もし長太がこなかったらほんとうにグレるからね」
 それは若い生命を投げ出すような捨身の力がみなぎっていた。そんな美子に長太はたじろぐばかりだった。この若い力におれは向きあえるのだろうか。いったいこの力と向きあうとはどういうことなのだろうか。
 その日はあっという間にきてしまった。その日まで長太は美子と話す機会がほとんどなかったのだ。というのは長太のためらいを拒むかのように塾にこなくなっていたのだ。美子はその前日に電話をかけてきた。
「あすの八時だからね」
「うん。そうだね」
「ちゃんときてよね。遅れないでよ」
「うん。わかったよ」
「こなかったら。私、グレるんだからね」
「そんなにおどかすなのよ」
「じゃあ、ね」
 と言って電話は切れた。その電話でもう長太の心もふっ切れていた。美子と旅に出ようと。そういうことがあってもいいのだと。長太が宮沢賢冶を熱心に読むようになったのは、弘の影響だった。弘はなにかというと賢治の深さと広さと大きさをひきあいに出す。そんな弘の影響で、あらためて宮沢賢治の詩や童話を読みはじめてみると、それまで見えていなかったものが、なるほど大きくはげしく長太の心に迫ってくるのだった。ポランの広場とか、オランダ海岸とか、イーハトーヴの里とか、どんぐり山とか、岩手軽便鉄道とか、銀河鉄道とか、小岩井農場とか。そんな宇宙をつくりだした賢治の世界にふれるたびに、彼の生きた土地と空気のなかをのんびり歩きたいと思っていたのだ。
 賢治はいわば彼の同業者だった。賢治もまた羅須地人協会という塾を開いたのだ。ゼームス塾ができてからもう八年目にはいっていく。いろんな意味で一つの大きな壁につきあたっていた。この壁をどのようにして乗りこえていくか長太にはまだわかっていなかった。しかし確実にわかることは、もう脱皮しなければならないということだった。脱皮するということはどういうことなのだろうか。自分はいったいどこにむかって歩いていけばいいのだろうか。長太は賢治の里を歩きながらそんなことを思いめぐらそうと思った。
 しかしその朝、彼がはっと目をさましたとき、すでに七時三十分だった。起きなければならない六時に、目覚ましをセットしていたのに、なんと電池が切れているのだった。その前夜は蝶の雑誌づくりに熱中して、眠りについたのが五時前だった。そんなことでぐっすりと眠りこんでしまった。
 彼はそのときはげしく迷った。美子は電話をしてくるにちがいなかった。それまで待つのが賢明だと思った。しかしプラットホームで思案にくれている美子のことを思うと、一分でも早く家を出たいと思った。その誘惑に勝てずに彼は家を飛び出していた。
 新幹線のホームのどこにも美子の姿はなかった。美子は一人で八時発の列車に乗ったかもしれない。そう判断すると長太はプラットホームに停車している列車に乗りこんだ。もしかしたら花巻の駅で待っているのかもしれないと。しかしそれもまた当然のことだったが、新花巻駅のホームにも彼女の姿はなかった。
 美子と電話で話すことができたのは、夏休みの後半丹沢の基地から東京にもどってきた八月の半ばだった。
「寝ぼうしてしまったんだ」
 と長太は言った。
「うそ」
「うそじゃないよ。あれからぼくは一人で列車にのって花巻にいったんだ。美子が花巻にいっていると思って」
「そんなことするわけねえだろう。一人であんなドイナカにいくかよ」
「とにかくあやまりたいんだ。寝ぼうしたぼくが悪かった」
「もうどうでもいいの。あんたは裏切ったんだから」
「裏切ったんじゃないってば」
「いいの。もう私はグレるって言ったでしょう。もう電話なんかすんなよ」
 と言って、がしゃんと受話器をたたきつける音が長太の耳を打った。
 夏休みがあけても、彼女は塾に姿を見せなかった。九月があっという間に去り、十月に入っても姿を見せないのだった。しかし塾をやめたわけではなかった。毎月きちんと授業料は払いこまれているのだ。
 十月ともなると、三年生の目つきは変わってくる。ようやく受験という緊張のなかにたたきこまれるのだ。勉強しなければならないという重圧が、彼らの背にぐいとのしかかってくる。
 美子はどうしているのだろうか。彼女は勉強しているのだろうかと気にかかる長太は、幾度か電話をいれようと思った。しかし下手に誘えば、二人の関係は徹底的に駄目になってしまうこともある。そう思うと電話もできなかった。ひたすら待つ以外にないのだ。
 美子が現れたのはあと三日で十一月に入ろうとする日だった。生徒たちがみんな帰っていった後のひんやりとした部屋に、ふらりと彼女があらわれたのだ。久しぶりに見る美子の表情に生気がなかった。暗く沈みこんだその表情に、若い輝きというものがなかった。なにかその全身が疲れているという様子だった。
「どうしたんだい。ずうっと姿をみせないで」
「ここやめたわけじゃないんだからね」
「そうさ。ぼくはずうっと待っていたんだよ」
「そういう言い方しないでよ」
「うん。そうだな。しかしずうっと美子のことが気になっていたんだ」
「私、言ったでしょう。グレるって」
「言ったね」
「だからこの夏、徹底的にグレたんだからね」
 そして美子は、一つの言葉を、長太のなかに突き立てるように言ったのだ。長太は、その衝撃に、たじろぐまいとするかのように思わず聞き返した。
「何度も言わさないでよ」
「妊娠してしまった、わけ?」
「妊娠したのよ」
 三十五年というけっして短くはない長太の人生のなかで聞く、おそろしい言葉の一つだった。長太はいまの中学生たちの性が、彼が生きた中学時代とはくらべものにならないくらいに開けていることぐらい知っていた。男の子も女の子も深くためらうこともなく、なにか手をつなぐように、肉体を契ってしまうという話をきく。そしてその結果、女の子が妊娠する。そんな話をいくつも耳にしていた。しかしいまそのことが、具体的に彼の目の前に投げ出されたのだ。長太はまったくおろおろしてしまった。
「それで、どうするの?」
「どうするのって?」
「その子だけど」
「きまってるでしょう。おろすことに」
「おろすのか」
「それ以外にないでしょう」
「そう簡単に言うけど……」
「簡単にしなければ、私が死ぬ以外ないでしょう」
 彼女はそのことに苦しんだのだろうか。いや、そうにちがいない。どうすべきかぐるぐると迷い続けたからこそ、いま救いを求めるように長太のところにやってきたにちがいなかった。
「それで……」
「それで、それでばっか言わないでよね」
「そうだな。それでさ、おろすってそんなに簡単にできないと思うけど」
「だから長太にたのみたいわけでしょう」
「そうだね。わかったよ」
 と長太はおろおろしながら言った。智子のことが脳裏に浮かんでいた。彼女に相談する以外にない。彼女ならば切り抜けていく方法を教えてくれるだろう。
「このこと、うちの母に言わないでね」
「しかし………」
「言ったら、私、死ぬからね。ほんとうに死ぬからね」
 ああ、この子はそこまで迷っていたのだ。死を決意するほどに。そこまでこの若い生命は、迷い続けていたのだとはっとするのだった。
 美子を帰した後、長太はすがる思いで智子に電話をいれた。そして智子の家に自転車を飛ばしていった。智子は一通り長太の話しをきくと、
「急いだほうがいいですね」
「そうですね」
「できるだけ遠い病院がいいと思いますよ。どんなに隠していても、この近辺ですと、いつのまにか噂が流れていきますから。ほんとうにこんな噂って、またたくまに広がっていくんですよね。そんな噂で一層傷ついたりするから。そうだわ。藤沢にしましょうよ」
「あ、谷岡さんのところですね」
「ええ。谷岡先生に紹介してもらいましょう。きっといいお医者さんを知ってるはずですよ。子供の心をしっかりとわかってくれるお医者さんを。明日にでも私から電話しておきますよ」
「そうですね。お願いします」
「それと、お母さんの件ですけど、やっぱりお母さんの承諾が必要だと思うのね」
「そうなんでしょうね」
「法的な手続きということもあるし、それだけではなく、やっぱりお母さんに話しておかねばならないと思いますよ。なんといってもまだ未成年ですから。美子ちゃんを裏切ることになるかもしれないけれど、それはやっぱり必要だと思います」
「それはぼくもそう思います」
「私が美子ちゃんのお母さんに会って、私のほうから伝言というかたちで話してもいいですよ。そうすれば長太さんは、少なくとも表面的には美子ちゃんを裏切るということにはならないと思いますけれども」
 美子は感受性の鋭い子だった。見破られないように会ったとしても、たちまち彼女は見抜いてしまうにちがいなかった。ありのまま話したら母親は逆上するかもしれないのだ。それが普通の母親だった。しかしそうなったらすべてがぶちこわしだった。美子は衝動的に死へ走るかもしれなかった。彼女はいつも命を投げ出すようにひたむきなのだ。策のない長太には智子の案はまったくの救いに思えた。
「ええ。お願いします。そうしていただけるなら」
「いいですよ。そうしましょう。明日の朝にでも会ってみます。それで藤沢にいくのは明後日という段取りでいいですね」
 となんだか智子は、ビジネスライクに事を進めていくのだった。おろおろする長太には、まったくありがたいことだった。智子もまた教師時代に妊娠した子に取り組んだことがあるらしい。てきぱきとした応対は、そんな体験があるからかもしれなかった。彼女はその頃のことを話しながら、
「いま女の子たちが、すごく元気でしょう。女の子たちのほうからその壁を突き破っていくんですね。女の子たちの性にたいする考え方が、ものすごい勢いで変化しているから。でも結局傷つくのは女の子のほうでしょう。性というものは真っ直ぐに生殖というものと結びついているんですから」
「ええ」
「でも、だからといって性というものは、神聖なものであり、清純でなければならないという大人の性教育なんて嘘だということを、子供たちははっきりと知っていますからね」
「そうですね。おびただしいばかりのアダルトビデオがあったりして」
「過激な漫画や雑誌なんかがいっぱいあるでしょう。それはもう子供たちのほうがはるかに進んでいるんですよ、めまいを感じるほどに。こんな風潮にもろく崩されて、あっさりと男の子たちに体をゆるしてしまう」
 美子もまたそうだったのだろうか。彼女はしきりにグレると言っていたが、この夏、性の魔力に一気にわれとわが身が崩されていったのだろうか。
 次の日の昼近くだった。アパートの電話が鳴った。
「先生ですか。唐島です。美子の母ですが」
 実はその朝、智子からすでに電話があった。藤沢の谷岡と連絡がとれて病院の件はオーケーになったことを、そしていまから美子の母親と会うことになっているという電話をもらっていた。
 その母親からの電話だった。智子との話しがこじれたのだろうか。彼女はあまりのショックで逆上しているのだろうか。長太は思わず受話器をにぎりなおしていた。
「先生にお会いしたいのですが」
「はあ」
「明日、藤沢のほうにいかれるそうですね」
「ええ、そういう予定です」
 と警戒しながらこたえていると、
「お金とか、委任状といったものが必要だと思うのですが……」
 どうやら智子はうまく説得してくれたようだった。これなら会ってもかまわないかもしれない。しかし大井町あたりで会って、その場を美子にでも見られたら水の泡だった。そこでこれから出かけようとしていたお茶の水駅前にある喫茶店で落ち合うことにした。
 長太は実は美子の母親とは一度も会っていないのだ。美子が入塾するときお母さんと会いたいと言ったのだが、美子はいろんな理由をつけてとうとう母親を連れてこなかった。それでそのままになってしまったのだ。
 その喫茶店の窓ぎわのテーブルの椅子にすわっていると、その女性は迷うことなく長太の前にやってきた。彼女はすでに長太のことを知っているのだ。
 その女性は、長太がイメージしていた女性とまるでちがっていた。美子はその作文のなかで母親のことを、嘘つきだとか、裏切った女だとか、不倫した女だとか、なにやらひどく悪女風の像に仕立てていたから、長太もまたそんなイメージを抱いていたのだ。ところが実際にみるその人は、おだやかで誠実さをただよわせ、美子を彷彿とさせる美しい女性だった。
「私は母親失格なんですね」
 彼女はすでに涙ぐみ、つらそうな声で自分を責めるようにそう言った。
「そんなことありませんよ」
「いまあの子のそばにいなければならないのは私なのに。母親失格です」
 いきなり娘の妊娠を告げられたら、世の多くの母親は逆上するにちがいなかった。娘をはげしく責め立て、相手はだれなのと追及し、その相手の家に怒鳴りこんでいくのがよくあるテレビドラマのパターンだった。そんな風に展開していくのが世の姿だからだろうか。
 しかしいま長太の前にすわっている人の絶望の仕方は、まったくそうではなかった。悲しみと嘆きをわが身に突き立てている。
「あの子は、ずうっと心の底で私を許していなかったのです。あの子は、別れた夫、あの子の実の父親を心のそこにずうっと抱きしめて生きていたんですからね。あの子にいつも負目というものがありました。あの子が好きだった父親を、結果的には死なしてしまったのですから。そんなことで、ずうっとあの子と私のあいだには深い溝があったのです」
 長太もまたそのことは知っていた。美子の書いた作文で。
「新しい父親との関係もうまくいきませんでした。いまの夫を一度もお父さんと呼ぶことのない家庭だったんですから。下の子が生れて、余計あの子は心をとざしてしまって。あの子はいつも家庭という外側にいました。疎外されていたというか、自分からけっしてとけこもうとしなかったのです。ですからあの子にとって家庭というのは、心やすらぐ場ではなかったのですね」
「美子のなかにいつも深い孤独があると感じていました」
「そうなんです。とても孤独だったと思います。そんな負目からか、私もまた夫もあの子にはなんでも好きなことをさせたり、できるかぎり干渉することをさけたり、お小遣いを余分にあげたり。そんなことで代償するということがあったのです。それはいけないことだと思いながら。だんだんあの子が遠くなって、今年の夏はほんとうに手の届かないところにいってしまったんですね。何度も注意したんです。かなりはげしく叱ったり、私も泣きながらあの子を叩いたり。そしたらあの子は、あんたがだらしないから私もだらしない子になるのは当然でしょうって。あんたは平気でちがった男と寝る女なんだから、私だってだれとでも寝る女になるのは当り前でしょうって。でもそこで退かないで、もっとあの子に親として厳しくあたるべきだったのでしょうか。厳しくするということはどういうことなんでしょうか。なにかころげ落ちていくようなあの子に、母親としてどうむきあけばいいのかほんとうにわかりませんでした。いまでもわかりません」
 彼女の話から、夏の美子のグレ方がただならないものだったことがうかがいしれた。朝帰りなどしょっちゅだったかもしれない。それどころか家出同然に何日も家を空けたのかもしれない。髪を脱色し、爪をマニュキュアで真っ赤にし、その指に煙章をはさみこみ、缶ビールをラッパ飲みにしたのだろうか。あやしげな店で、性を売り物にするあやしげなバイトをしたのだろうか。シンナーやトルエンなどにも手をだしたのだろうか。母親はそのときすでに美子の今日を予感していたのだ。
 次の朝はやく、長太と美子は下りの東海道線に乗った。藤沢駅で降りて、駅前からタクシーにのって病院にむかった。タクシーは落着いた住宅街のなかにある、邸宅風の門のなかに入った。両側にポプラの木立が並んでいる道を、砂利をはじきながらすすんでいくと、円形の花壇があってそこをぐるりとまわると玄関だった。そこが谷岡が紹介してくれた木村産婦人科だった。
 扉をひらいて入っていくと、善意そのものの微笑みをうかべた看護婦がやってきて、
「唐島美子ちゃんね。さあ、こっちにいらっしやい」
 と言い、長太には、
「先生は、ここで待っていて下さい。終わりましたらお呼びしますから」
 そのすべてのことが、谷岡からこの病院の医院長に話されている様子だった。美子をいたわる配慮がいきわたっていた。
 待合い室の窓から玄関前の花壇がよくみえた。花壇には笹が一面に繁っていたが、冬の訪れを語るように、その笹の葉先が茶色に染まっていた。コブシやロウバイの木立もある。個人病院なのにたっぷりとした敷地だった。長太はそんな景色に目をやりながら、あのとき遅刻することなく彼女と花巻に旅立っていたら、こんなことにならなかったのだろうかと考えた。いや、そう考えるのはうぬぼれだった。いま彼女は診察台の上にのっている。その痛みを他人がわかちあえないと同じように、だれも彼女の世界に入っていくことはできないのだ。もしかしたらこの悲劇は、美子が美子となる道ではなかったのだろうか。
 看護婦がまた明るい笑みをうかべて長太をよびにきた。院長は誠実と素朴さを全身ににじませた六十前後の人だった。手術の経過を語り、これからの容態の状態を懇切に説明したあとに、
「はじめてですよ。男の先生がつきそってきたなんて。あなたはあの子によほど慕われているんですね」
 とあたたかく笑った。
 美子の寝かされている部屋に入っていった。ベッドが三つならんでいたが、そこにいるのは美子だけだった。毛布から顔をのぞかせている美子の唇は青ざめていた。
「やあ、がんばったね」
 ベッドのかたわらに椅子を運んですわりこんだ。そして院長が説明したことを話していると、ふと美子は言った。
「女の子だったんだって」
 すうっと彼女の頬に涙が走って落ちた。美子がはじめて長太に妊娠を告げたときのことだった。長太が赤ちゃんという言葉をつかったとき、彼女は赤ちゃんなんて言わないでよと叩きつけるように言った。そしてそんなもんおろすに決まってるでしょうと言ったのだ。そのとき長太は、なんと冷酷なのだろう、こんなにわりきって考えていいのだろうかと思ったものだ。しかしそうではなかった。この子は一生懸命に考えたのだ。体が張り裂けるぐらいに苦しんだのだ。
「先生」
「うん」
「ここで眠っていけって」
「そうさ。まだ寝ていたほうがいいさ」
「先生」
「うん」
「ちょっと手をだして」
「手をか」
「そう、ずうっと握っていて」
「うん、いいよ」
 長太は布団の下にちょこんと出した美子の手をそっとにぎってやった。長太はそのやわらかい手をにぎりしめていると、なにか美子のさびしさや悲しみや孤独にふれているように思えるのだった。ひょっとするとこの少女は、天性の鋭さで、ぽっかりとあいた長太の心を見抜いていたのかもしれなかった。長太もまた孤独でさびしい人間だったのだ。


 


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