山里子ども風土記 第三章 帆足孝治
山里子ども風土記 帆足孝治
森と清流の遊びと伝説と文化の記録
第3章 原子爆弾の地響き
機銃掃射の恐怖
日本が世界を相手に戦っていたとはいえ、当時の森町は山間の小さな町だったので、警戒警報や空襲警報がなっても実際にはアメリカ軍のB-29爆撃機も艦載機もほとんど来なかった。ただ終戦直前に一度だけ森機関庫が艦載機らしい敵機の機銃掃射を受けたことがある。グラマンだったかカーチスだったか知らないが小型の戦闘機らしい奴が単機で湯布院の方から線路伝いに来襲し、たった一回の機銃掃射を行っただけだったが、それでも大被害が出て、機関庫の職員の中から殉死者が出たほどである。森が空襲を受けたのは後にも先にもこの一回階同だけだった。
その日、家には大分から祖母の養女だった稗田の花江おばさんが来ていて、おばあちゃんもことのほか機嫌が良く、家の中は朝から何となく楽しい平和な気分が満ちていた。艦載機の機銃掃射は、そんなのどかな朝、全く突然にやってきた。
稗田の花江おばさんはそのころ大分に暮らしていたので空襲には慣れていたらしく、突然超低空でやってきた艦載機の凄まじい爆音と、まるで我が家を狙ってきたようなバリバリという機銃掃射の音を聞くと、実に手際良く、アッという間に押し入れの布団の中に潜り込んでしまった。
なにしろ突然の来襲だったので誰も敵機の姿を見たものはなかったが、敵機はどうやら最初から鉄道施設を狙っていたらしく、たった一回の掃射だけで西の方へ飛び去った。私は大急ぎで敵機の影を求めて表に飛び出したが、稗田のおばさんは「まだ出ては危ないよ、敵機はきっとまた戻ってくるから!」といって、何時までも頭から布団をかぶったままで震えていた。
この艦載機は、きっと大分の航空隊でも空襲したあと、余った弾丸を使ってしまうために東シナ海にでもいる機動部隊の空母に戻るついでに久大線に沿ってここまで飛んで来て、たまたま見つけた森の機関庫を銃撃したものに違いない。ここを最初から狙って来たのなら、たった一撃で帰ってしまうとは考えにくいからである。
戦争も末期になって、うちでは祖父がよくラジオをつけてニュースを聞いていた。ラジオは一日中、空襲のニュースを流していたが、放送は「ブーツブーツー」というブザーの音がしたあと。
「西部軍管区情報! 西部軍管区情報!」とアナウンサーの緊張した声が聞こえ、次いで「敵B-29四十機はOO上空を八幡、戸畑方面に向け北上中!」といった警報を伝えていた。山間の森町では、たまに銀翼を連ねてはるか高空をゆっくり通過してゆく編隊を見ることはあったが、実際にはどれがB-29なのか識別出来る人もいなかったから、それがどんなに大きな飛行機なのか想像もできなかった。
そのころ栄町の警察署の裏庭で、むしろの上に寝かされたアメリカ兵の捕虜を見にいったことがある。撃墜されたB-29の若い搭乗員を公開したもので、ここへ連れて来られるまで、どこでどんな扱いを受けていたのか、またどんなものを食べさせられていたのか、ずいぶん痩せていたが、私たちはアメリカやイギリスの兵隊のことを「鬼畜米英」と教えられていたので、最初その捕虜を見た時、頭に角がないのを不思議に思ったくらいである。
どこで撃墜されたのか、また、仲間たちはどうなったのか知らないが、こんな田舎の警察署にたった一人で留置されているのはさぞ心細かったことだろう。近くの広場には、撃墜された敵B-29爆撃機のタイヤが放置されていたが、直径が私の背丈ほどもある大きな破れたタイヤからたくさんのワイヤが覗いており、こんな大きな車輪をつけているB─29とは、いったいどんな大きさの飛行機だろうかと空想をめぐらしたりした。
戦局がいよいよ悪化してくると、こんな田舎町からもどんどん若者が出征していき、私が育った上ノ市からも、六ちゃんとよばれていた隣りの帆足六郎さん、ミノちゃんとよばれていた隠居の神田己信さんが戦地にいったまま戻らなかった。あのころは、おとな同士でもみんな親しく名前で呼び合っていたから、子供の私たちもそれを真似して、遥かに年上の大人をつかまえて「六ちゃん」とか「ミノちゃん」と呼んでいたが、やはり何となくはばかられて、困ったものである。
幸い、同じく戦争末期に応招した畳屋の「みっちゃん」こと長野光(みつる)さんは、戦闘帽にゲートル巻きで、コンペイトウとカンバンを土産に帰ってきた。私と同級生だった長男の光政くんは、よく「うちの父ちゃんは星を一つつけて帰ってきた」と言ってみんなを笑わせていた。
隣りの六ちゃんが出征した日の記憶は鮮明だ。寄せ書きをした日の丸の旗をつけるためうちの裏にあったナンテンの木を切って竿にし、隣りの坪に集まった近所の人達を前に隠居の玖市おじいちゃんが、「帆足六郎君の武運長久を祈る、出征バンザーイ!」と大きな声で送り出した。今考えれば、六郎さんはまだ結婚して間がなく、一人息子の昭ちゃんが生まれたばかりだった。
隠居の玖市おじいちゃんは、そのすぐあとには自分の息子のミノちゃんを戦地に送り出すことになるのだが、その時はまだ、そんなことは考えてもいなかったはずである。
私は、ミノちゃんには一度だけ、その背中につかまって「つきばし」を泳いだことがある。ミノちゃんは私をその厚い背中にしっかりっかまらせて「つきばし」の深い淵を下から上へ泳いだが、まだ泳ぐことを知らなかった私はミノちゃんの体の下に見える青い底無しの「つきばし」の深い淵が恐ろしく、一層強くミノちゃんの背中にしがみついた。今でも夏の日差しに輝いていたミノちゃんの暖かく厚みのある背中の感触が残っている。
隣りの六ちゃんは終戦後すぐに戦死の知らせが届いたが、子供だった私は、隣りの家の仏間から、いつまでも奥さんの澄子さんのすすり泣く声がするのを聞いた。お母さんが余り泣くものだから、事情がよく分からなかっただろう一人息子の昭ちゃんも、一緒になって「父ちゃんがおらん、父ちゃんがおらん」と言って泣き続けていた。
禁止された厭戦替え歌
こんな田舎町にも敵の艦載機がやって来るようでは、戦局がいよいよ悪化していることは誰の目にも明らかで、近くの笠という家に住んでいた森本さんちの女祈祷師の子供などは、「これは内緒だが……」といって、お母さんの占いにはもう今度の戦争は負けるしかないとでていることを私たちに教えてくれた。
彼がお母さんの占いの結果として教えてくれたのは、「昔は富士山は雲の上に出ていたが、このごろは雲の方が富士山より高くなっている。これはもう、世界が終りに近づいていることを示す証拠である。さらに、昔は日本が国難に遭うと神様が味方をしてくれて必ず神風が吹いたものだが、このごろは、その神風さえも吹かない。これは神様が日本の国を忘れてしまったからで、これでは今度の戦争は負けるしかない」というものであった。
子供とはいえ当時はそんなことを外で喋るのは極めて危険なことであったから、その子もそんな話しは親しい友達だけに内緒で話していた。私には占いというのがよく分からなかったが、大人たちもそんな非科学的な論拠で占いを信じるようでは大したことはないなと感じていた。
その子の家は道路に面した角にあって、いつもお母さんがお祈りばかりしているので貧しい暮らしをしていたから、私は、お祈りもいいが、その合間に少しは近所の田圃の手伝いでもすればお米だって貰えるだろうに、なぜ働かないのか不思議だった。祈祷して報酬を貰っていたことを知らなかったからである。
私はいちどその家に入ったことがあるが、狭い家の中は薄暗く、ちょうど神様の前にその子のお母さんである女祈祷師が座っていて、見ると団扇太鼓をもっている左手の肘のヒに火のついた蝋燭を立て、太鼓を打ち鳴らしながら一生懸命に体を揺すって呪文を唱えていた。私はびっくりしてしまい、家に帰ってからおばあちゃんにそのことを話したが、おばあちゃんは、その女祈祷師の両方の肘は蝋燭でひどい焼けどをしているのに誰も口出しすることができないので、近所の人たちはみんな気にしているのだと言っていた。
女祈祷師だけでなく、今度の戦争は負けるだろうということは、塚脇の親戚のお爺さんも口癖のように言っていた。塚脇のお爺さんは若い頃、日露戦争で軍艦「出雲」に乗り組み日本海々戦にも参加したというベテランで、たまたま同じ軍艦に乗り組んでいた信号兵が、敵艦の放った弾丸に撃たれてマストごと海に落ちたのを救いあげたことがあった。その助けあげた信号兵が何と同じ大分県の宇佐出身だということがわかって、以来、日露戦争が終わってからも親密な友好関係が続いていたが、そのうちに「上ノ市」の帆足の家に東京からいい娘が来ているが、貴様の長男の嫁さんにどうだろう、良かったら口をきいてやってもいいが……」と言うことになった。私の一番上の姉、チエ子が宇佐に嫁に行ったのにはそんないきさつがあったらしい。
塚脇のお爺さんは海軍に入りたてのころ遠洋航海でオーストラリアに行ったことがあるらしく、そのときに写したという現地の若い水着姿の金髪娘との記念写真を大事に保管していて、私か遊びに行くと、よくその当時のアルバムを見せてくれた。アルバムには彼が若いころ乗り組んでいた二等巡洋艦「出雲」の絵葉書や写真がいっぱい貼ってあって、私は明治時代の水兵さんなんてチョン髷でも結っているのかと思っていたから、大日本帝国海軍の水兵さんが日露戦争前から外国の水着の金髪女性と並んで写真に写るほどモダンだったことを知って驚いた。
塚脇のお爺さんは、私が田舎に行った頃はもう七十に近かったはずだが、昔の海軍軍人ということで口喧しいことでは近所でも有名だった。その塚脇のお爺さんがいつも言っていたのは、「今度の戦争はきっと負けるだろう」ということだった。塚脇のお爺さんが言うには、そのころ演習に来ていた陸軍の兵隊たちがお伊勢様の石段に腰を下ろして休んでいたそうだが、その連中が通りかがったお爺さんに聞こえるように「ああ、腹が減った!」と言った。きっと通りかかった田舎のお爺さんをからかう積もりだったのだろうが、それを聞いたお爺さんは怒って、「私は今は引退しているが、これでも若い頃はロシアと戦った海軍の兵隊だ。腹が減ったとは何事だ! 若いお前たちがそんな情けないことでどうする!」と、その兵隊をたしなめた。
それ以来、塚脇のお爺さんは、「こんな兵隊がいるようでは戦争に勝てるはずがない」と思うようになったらしい。私の祖父が「どういう理由で日本が戦争に負けるとおもうのか」と確かめると、「兵隊が腹を減らしているというのは兵糧の補給が旨く行っていない証拠で、これでは勝てるわけがない。われわれが日露戦争を戦った頃は、兵隊が腹を空かすなどということは絶対になかった」と言っていた。
戦局が悪化してくると銃後は乱れるもので、この頃は子供たちの間でも弱い日本軍を比喩するような話しや替え歌が流行っていた。私もh級生たちに教わったいい加減な替え歌を、わけも分からずよく歌ったが、各家庭や学校には、警察から「子供に悪い替え歌を歌わせないないように」という通達があった。
そのころ私たちがよく歌った歌に「もしも米英が勝ったなら」というのがあった。航空部隊の勇姿を歌った軍歌をもじったもので、その歌詞は
もしも米英が勝ったなら
死んだ魚が泳ぎ出す
絵に描いたダルマが踊り出す
電信柱にや花が咲く
一日 地球が百回まわる
ぶうぶう豚の子空を飛ぶ
というものだった。これは、日本はアメリカやイギリスを相手にしたくらいでは負ける筈がないという意味の替え歌の筈だったが、内容自体が退廃的であるということで歌うことが禁じられた。
もうひとつ、「名誉のトン死」という歌は、高峰三枝子の「湖畔の宿」をもじった替え歌だったが、こちらの方はもう少し過激で、その歌詞は、
きのう産まれた豚の子が
蜂に刺されて名誉のトン死
豚の遺骨はいつ帰る‥‥
というようなものであった。別に「ランプ引き寄せシラミ採り……」と言うのもあってこれも厭戦気分あふれる反戦歌だったが、これはその内容からして当時の警察が取り締まったのは当然だったろう。そのほかにも、「ラバウル小唄」をもとにした替え歌、「汽車は出る出る 大分の駅を、しばし別れの涙がにじむ‥‥」というのも流行った。
恐ろしかった地鳴りと地震
森町の北東側には、向かって左から大岩扇、小←岩扇、宝山と、海抜六〇〇~八〇〇メートル級のメサ状の岩山が連なっており、その裏側の高原は日露戦争以来の陸軍演習地となっている日出生台(ひじゅうだい)につながっていた。そのころ、この演習地にどんな施設や装備が展開していたのか、子供だった私は知る由もなかったが、ある暑い日の朝、この日出生台の方角から恐ろしい地響きが伝わってきたことがある。
それはよほど遠いところがひどい爆撃を受けているようなズズズズーンという地響きを伴った連続的な音で、およそ十秒くらいも続いただろうか、家中のガラス戸が長い間カタカタと鳴って恐ろしかった。東側の縁側にいた私は、そぱにいた祖父と黙って顔を見合わせた。私たちは何か黒い煙でも見えるのではないかと岩扇の方を見やったが、そちらの空には何の異変もなかった。どこかもっとずっと遠いところで大爆発でもあったのだろうか。今となってはその日が八月六日だったか九日だったか全く記憶がないので確かめようもないが、ずっと後になって考えると、どうもあれは原子爆弾が爆発した響きではなかったろうかという気がしてならない。それにしてもあの原子爆弾によって、長崎からは直線距離で一三〇キロ以上、広島からだと一六〇キロ以上も離れた玖珠までも、体に感ずるほどの地震が伝わるものかどうか私は判断出来ない。終戦直前のある朝のできごとであった。
終戦当日の想い出は鮮烈だ。朝、駅前の商店街まで出かけていた稗田のおぱさんが急に戻ってきて、「大変じゃアー どうやら日本は戦争に負けたようじゃワー」とみんなに告げた。どうしてそんな情報が伝わるのか、駅の周辺ではみんなが集まってそんな噂をし合っているといい、お昼には天皇陛下の重大放送があるということまで聞いてきた。
そのころ上ノ市部落でラジオのある家は、うちと電気会社に勤めていた神田悦治さんのところだけだったから、放送が始まる頃には近所の人がうちにいっぱい集まってきた。
我が家のナナオラー35型ラジオは性能が良いのでおじいちゃんの自慢だったが、その日の天皇陛下の玉音放送は内容が難しいうえに雑音が多くて聞き取りにくく、放送を聞き終えた大人たちにさえ、いったい何か起こっているのか、これから先どうなるのか、よく理解できていない様子だった。祖父は見ていても気の毒なほど興奮し、拳を握りしめて震えながらラジオに聞き入っていた。
進駐軍がやってきた
進駐軍というものがやってきたのは九月も終わり近くなってからだった。そのころ東京っ子ということでいつも同級生からいじめを受けていた私は、学校帰りもみんなとは別の道を通っていたので、その日も栄町まできて、警察の前に見なれない幌がついた草色のトラックが二台止まっているのを不思議に思いながらも、みんなと同じ道は帰れないので仕方なく警察の前を遖って帰ることになった。
近付いてみるとトラックには初めて見る背の高い赤ら顔のアメリカ兵たちがたくさん乗っており、たった一人で通り掛かった私は生きた心地もしなかったが、それでもいじめっ子たちのところへ戻るよりはましだと思って怖さを我慢して通り過ぎた。初めて見るアメリカ兵だったが、私はそばを通ってみて何となく彼らが敵ではなく、暖かみのある味方のように思えたのを覚えている。明確な理由はないのだが、何となく日本の兵隊より親しげに思えたのは不思議である。
その後、進駐軍のジープやトラックが町にもしばしばやってくるようになり、ある日とうとう我が森小学校にもやってきた。ジープは校庭の正面からやってきて、講堂の前の急坂を難なく登ってきた。当時はこの田舎では自動車さえほとんど見ることがなかったので、ジープの下駄の歯のような模様のタイヤの威力にはすっかり度肝を抜かれるとともに、その威力にいい知れぬ憧れを抱いたものである。
町では、進駐軍の横行に対応するため、若い女性はなるべく表に出ないようにとか、アメリカ兵の見ているところでは紙飛行機を作ってはいけないとか、進駐軍に対して人差し指でゆび差しするのは危ないから止めるように、とかいった注意を呼び掛けていたが、中には怪しげなものもあって、進駐軍は赤い色が好きだから、無理を言われて困ったりしたら赤い布を渡すといい、などいうものもあった。
マッカーサー司令部から「人は右、車は左!」という命令が出され、やがてそれが「人は左、車は右」に改められた。どちらにしても森町ではバスやトラックを除けばまだ自動車はほとんどなかったから、人が右を歩こうと左を歩こうと、交通事故が起こるような心配はほとんどなかったが、大人たちは[右だといったり、いや左だといったり、一体どっちなんだ、いいかげんにしろ!]と憤慨していた。うちのおじいちゃんなどは「なに、日本は戦争に負けたんだから、いくらアメリカやイギリスが好き勝手なことをいってもそれは仕方がないさ、怒るほうが間違っているよ」といって笑っていた。
その頃、家には秀ちゃんという親戚の青年が居候をしていて、道路を進駐軍のジープやトラックが通るとすぐ僕を連れて飛び出していった。アメリカ兵がしばしば煙草を投げ捨てるので私にそれを拾わせるのである。秀ちゃんは自分で吸い殼を拾うのは恥ずかしいものだから子供の僕に拾わせ、それをあとで取り上げて吸うのである。秀ちゃんは、おろいい(ずるい)人ということで皆んなから敬遠されてはいたが、私には優しかったので私は彼が大好きだった。若いのに何もしないで毎日ぶらぶらしているので、祖父母は彼が家に出入りするのを嫌ったが、彼は祖父母の目を盗んではやってきて家に上がり込んだ。彼はどういう訳か私だけはかわいがってくれ、よく天ケ瀬の温泉に連れて行ってくれたりしたので、私は祖父母の目を盗んでは彼についていってよく遊んだ。
何がいけないのかよく理由は分からないまま、しまいにはとうとう祖父母は私に彼と遊ぶことを禁じたが、そんなことでくじけるような僕たちではなかった。彼は性懲りもなくやってきては私に祖母の引き出しからお金を抜き出させたり、叔父の煙草を盗ませたりした。私はいつもそのミッションを見事にこなして秀ちゃんの信頼を裏切らなかった。
彼には妹と弟が一人ずつあったが、早く両親をなくしてしまったので兄妹弟の三人だけであの苦しい時代に生きて行かなければならず、ずいぶん苦労をした筈である。特に長兄ともなれば、あの終戦直後のみんなが自分のことで精一杯だった苦しい時代では、蓄えはないし、もちろん仕事も収入もなかった筈だから、妹や弟がなんとか生活して行けるようにしてやらなければならないという焦る気持ちはあっただろうから、ずいぶん辛い思いをしたに違いない。幼かった私にはそんな彼の苦悩など考え及びもしなかったから、ただ彼が私を可愛がってくれるのが嬉しくてたまらなかった。想像するに恐らく、たまたま両親から遠く離れて田舎に預けられていた私の境遇が、若くして両親をなくしてしまった秀ちゃんの境遇に似ていたから、特に私を可哀かってくれたのではないだろうか。
私の祖父母は、親戚のことなので放っておくわけにもいかず彼が家に居着くのを黙認していたが、家の百姓仕事を手伝わせようとすれば文句を言うし、米やお金は黙って持ち出すし、肝心の秀ちゃんがそんな風で、素行が悪いのにはほとほと閉口したようだ。私は彼がおじいちゃんにお説教を食いながら、本当に後悔しているようにしくしく泣いているのを何度も見掛けたが、よくお説教をされていた割りには、その後で私の顔を見るとバツが悪いのかペロツと舌を出したりして、なかなか素行の改善は見られなかったようである。
そのころは家は広かったし、広大な田圃や山をもっていたので、食糧事情が悪化しつつあった東京や大分や杵築などから、どういう訳かいろんな人達が集まっていた。それらは、あるいは親戚だったり、知り合いだったり、親戚のまた親戚だったり、その関係はまちまちだったが、祖父は寛大な人だったから困っている人は誰でも受け入れた。秀ちゃんもそんな中の一人だったのである。
別に引揚げ者の夫婦もいたから、一時は二五人もの人がこの家で寝起きしていたほどであった。祖父の自慢は、そんな戦時下にあっても、うちで暮らした人にはみんなに白米御飯を食べさせ続けたことである。
運動会の憂欝
森小学校の校庭は広かったので、学校の行事のほか、ここでは町のいろいろな行事も行われたが、終戦直前には一度ここで焼夷弾の実験が行われたことがあった。東京や大阪は敵のB129が落とす焼夷弾で壊滅的な被害を受けているため、この森町でも焼夷弾の恐ろしさを町民に認識させ、その対策を教えて置こうと、軍がそのデモンストレーションを計画したものであった。一週間ほど前から校庭の講堂寄りの隅に建てられていた模擬家に対して、焼夷弾の威力がどれほどのものかを実験してみようとしたのである。
当日は、町の住民に混じって私たち生徒も整列させられてこのデモを見せられたが、まず説明役の陸軍の軍人が、集まった人を前にひらひらと赤いリボンのついた六角形の筒になった焼夷弾を掲げて見せ、その構造と威力について説明したあと、これを模擬家の中に据えて導火線にマッチで火をつけることになった。最初なかなか火がつかないようだったが、係員たちがさっと引き下がると突然模擬家の障子越しに内部がパッと明るくなり、素晴らしく鮮明な火柱が立った。今考えると、はたしてあの軍人は本当に焼夷弾の威力を知っていたのだろうか、彼はすっかり慌てて、転がるように火の中から逃れ出てきた。笑いごとではなかった。
焼夷弾からはまるで大きな花火のように明るい火の粉が吹きだし、その模擬家はたちまち炎に包まれてしまい、まごまごしていれば危うく関係者も大やけどを負いかねない状況だった。いざというときのために、側にはバケツに汲んだ水が用意されていたが焼夷弾の炎は予想以上の威力で、模擬家を突き抜けて、あれよあれよ言う間に側にあった大きなイチョウの木の枝に燃え移った。それはほんとうにアッという間のできごとだった。
これにはさすがに関係者も大慌てで、高箒でイチョウの枝をはたいたり、バケツの水をかけたり、大いに焼夷弾の威力を見せつけられたデモンストレーションであった。幸い炎はイチョウの葉をかなり焼いたものの、生木のイチョウの大木までを焼くには至らずにやがて鎮火したが、私たちは偉そうにしていた陸軍の軍人が大慌てで箒で火をたたき消そうとしていたのには呆れてしまった。
結局、終戦まで森町に焼夷弾が投下されることはなく、あのデモンストレーションは無駄に終わったが、戦争が終わって平和の時代になってみると、少し前までここでそんな馬鹿げたことが行われていたことはすぐ忘れられてしまった。
終戦の年の秋、この校庭で行われた森小学校の秋季大運動会は、久し振りに賑やかなものだった。春の学芸会とともに、運動会は森小学校と家庭にとって数少ない交流の場であったから、親たちは学校にいる自分の子供の元気な姿を見るために、朝からいっぱい御馳走を作って集まって来た。グラウンドの周辺には部落ごとに見物する場所が定められていたから、朝早くから茣蓙(ござ)をもった父兄たちが、御馳走のつまった重箱を抱えてやってきて、それぞれの場所に陣取った。春の運動会は小岩扇の山の上でやる山上運動会だったから、そちらの方は親たちが見ることはできなかったが、秋の運動会はいわば親たちに見せる運動会だったから、その日は子供たちよりも親たちの方が張り切っていた。
競技をする生徒たちは、大勢の観衆の中から自分の親を見つけ、その応援を聞いて奮起するのである。私は徒競走が苦手だったから駆けっこはいつも四等か五等で、ビリではなかったものの参加賞のエンピツをもらうのがやっとだった。三等までの入賞者には帳面やクレヨンなどの商品が貰えるのだが、クラスでは、実際の運動会が来るまでに何度も何度も繰り返し練習するので、本番でだれが入賞するかは大体見当がついており、わたしなどは端から入賞する見込みはなかったから、運動会など楽しい筈がなかった。
近所の人達が大勢見ている前で、負けるのが分かっているのに走らされる子供の気持ちが先生や教育関係者には分かっていたのだろうか。私にはどうも分かっていないようなので、いつも悔しい思いをしていた。もっともよく考えてみれば、勉強が不出来で運動会の駆けっこくらいでしか自分の存在をアピールできない子らにとっては、この運動会は大威張りでいられる楽しい一日である。先生や教育関係者は、私が考えるよりももっと高い次元でものごとを考えているのかもしれない。そう思えば、私の不満もいくらか和らげることが出来たはずだが、それはずっと後になってわかったことである。
私が森小学校に入学したのは昭和二〇年で、その秋は進駐軍がやってきて間もないころだったが、まだ競技種目には「騎馬戦」や「土嚢運び」や「棒倒し」などといったまだ戦時中の殺伐とした雰囲気を残したものがあって、なぜだかいつも白組が勝っていた。赤組に入れられると、みんな嫌がったものである。男が赤い鉢巻きなど恥ずかしくてできるか! といった風潮があったのである。
私たちは、教えられたこともない応援歌を、意味も分からず上級生が歌う通りに真似して歌ったが、歌詞にある「青森、コウモリ、ケンダンジイ」というのはどういう意味なのか、どうしても分からなかった。あとで分かったのだが、それは「ああ森校の健男児」という歌だった。
多年錬磨のこの腕を
試さん時は今日なるぞ
ああ森校の健男児
いざ立て奮るえ俥男児
正々堂々陣を張り
挙げよ 勝鬨勇ましく
ああ森校の健男児
いざ立て奮るえ健男児
という伝統ある勇ましい応援歌は、あの[立て万国の労働者]でお馴染みの節で輪唱のように歌うのだが、これがいつも私を奮るい立たせるどころか大いに縮み上がらせた。
もう一つの応援歌は、「天は晴れたり気は澄みぬ、日頃鍛えしこの腕を‥‥」というのだったが、私は運動会を迎えて気が澄んだことなど一度もなかった。
だから私は秋になって運動会が近づくと、「どうして世の中には運動会などという教育的でない、野蛮な行事があるのだろう?」と学校に行くのがますます嫌いになった。
いちど誰れか田舎の先生が考え出したものであろう、生徒ふたりづつを綱で縛り、それぞれに正面が見えないようにした目隠しをさせて地面をほふく前進させ、早く目標に辿り着いた方が勝ちという競技をやらされたことがある。軍隊で敵のトーチカに肉弾攻撃でもかけるときにやるようなことを真似た、まったく野蛮な競技だったが、私は運悪く、その頃クラスで最も力が強く乱暴者だった体の大きな子とコンビを組まされた。
スタートのピストルが鳴ると、その子は予想通りの馬鹿力を発揮し私をぐんぐん引っ張った。目隠しをされているうえ、ほふく前進をさせられるので、私はその子の引く力に負けてひっくり返ってしまい、そのままずるずると引き摺られてしまった。起き上がろうにも胴に結びつけられた綱が邪魔になって、容易に起き上がることができないまま私は何メートルも引き摺られてしまい、ゴールに達したときはシャツやパンツが泥まみれになって、ヒザを擦り剥いてしまっていた。
幸か不幸か目隠しされていたため私は観衆が見えなかったが、観衆の方からも誰れが誰だか分からなかったようで、昼休みになっておばあちゃんたちの待つ茣蓙のところへ行ったとき、誰も私が引きづられた子供であることに気づかなかったようだった。私は、皆んなが気をつかって気付かないふりをしているのかも知れないと思うといたたまれなかった。
運動会が終わって帰ってくると、近所の人は、鉢巻き姿で帰ってくる子供の誰れかれかまわず「今日は何等だった?」と聞くのが当たり前だったから、私はそれを聞かれるのが嫌やでいつも裏道からこそこそと帰ったものである。
忘れられない耕ちゃんの死
その頃の今でも忘れることのできない思い出は、大分の耕ちゃんが死んだ日のことである。大分の耕ちゃんは私より一つ年上で、同じように祖父母のところに預けられて私と終戦間際まで一緒に川や野山を駆け回って遊んだ仲よしであった。僕とは違って学校ではいつも級長をやるほどの優秀な子で、色白で大きな黒い目を持った利発な耕ちゃんは、お父さんが国鉄の大分駅にいて仕事場を離れられないために、両親のもとを離れてたった一人で田舎の家に預けられ、ここから森の小学校に通っていた。同名の私と区別するため皆んなが「大分の耕ちゃん」と呼んでいたのである。
私はいつも耕ちゃんと同じ仏壇のある座敷で寝起きしていたが、ある朝、耕ちゃんが起きるなり、ガラス戸の向こうの裏庭を見ながら、「ふぺ家の裏を頭をボサボサにした怪しい男が走り抜けていった!」と、おかしなことを言った。家の裏は細長く狭い庭になっており、その向こうは崖になって川に落ち込んでいるので滅多によその人が入ってくるようなところではない。まして早朝に知らない人間が通る筈はないし、だいいち、こんな村外れの川っぶちにある家の裏庭にわざわざ入ってくるような変わった人がいる筈がない。
私は、まじめな顔をしてそんなことを言う耕ちゃんが、なんとなく恐ろしくなった。私も目が覚めてからずっと裏庭の方を見ていたので、そんな怪しい人影が来れば気づいたはずである。何だか私には見えないものが耕ちゃんには見えたのかもしれない、とそんな気がしたからである。
そんなことがあったのも忘れて、やがて僕は学校に行った。耕ちゃんは、その日はお腹が痛いといって学校に行かなかった。耕ちゃんが死んだという知らせを受けたのは、その日の午後、私が学校から帰る支度をしていた時だった。最初、その知らせを聞いた時、だれかが悪い冗談で私をからかっているのだろうと思ったから、特に急いで帰ったつもりはないが、それでも帰り着くまでは何となく気にはなっていた。そして家に帰り着くと、どうも様子がおかしいのである。隠居のお婆ちゃんがいて、早く早くと手招きするので急いで座敷に行ってみると、大勢の人が集まった真ん中に布団が數いてあり、白い布を被せただれかが寝ている。
隠居のお婆ちゃんが白い布をとり、「ほら耕ちゃんだよ」と言って泣き出した。私は本当に驚いた。今朝はあんなに元気だった耕ちゃんが死ぬなんて、とうてい信じられることではなかった。耕ちゃんは今朝になって急に腹痛をおこし、昼過ぎには死んでしまったというのである。夕べ拾って食べた梅の実が悪かったらしく、急性赤痢にかかったらしかった。
耕ちゃんは、そんなことが起こっているなどとは夢にも考えなかったであろう両親と離れたまま、一人であっけなく旅立ってしまったのであった。寝かされた耕ちゃんの式刀を置いた枕元に両親が駆けつけてきたのは、その日の夕方だった。私は、声を上げて泣くご両親の悲しみも知らず、それよりも大勢の人が集まっていることが、むやみに嬉しかった。
私は、その後あの耕ちゃんと一緒に寝た座敷で一人で寝るようになってからも、もしかして、あの朝耕ちゃんが見たといっていた頭がボサボサの怪しい人影がまたやってきたらどうしようと、気になって仕方がなかった。その人影はあの世から耕ちゃんを迎えにきた使いの者だったのかもしれない。だとしたら、もし僕がその人影を見たら、今度は僕が死ぬ番ということになる。だから私は今でも田舎に行くと、そんな人影を見るのは嫌だから、朝起きてもすぐには裏庭の方を見ないようにしている。他愛ないことだが、いまでも朝一番にそちらの方を見るのは怖いのである。
耕ちゃんは、みんな戦争に駆り出されてしまい、町にはろくな医者も薬もなかったのでとうとう助からなかったのだが、当時まだ若かった耕ちゃんの両親にしてみれば、そんな田舎の祖父母に、大事な息子をたった一人で預けてしまったことをどんなに悔やんだことだろう。私は、字こそ違っていたが、同じようにみんなから「コウちゃん」と呼ばれていたから、耕ちゃんのお母さんが僕に向かって「コウちゃんが、耕一だったらどんなにか良かったのになア」と嘆きつぶやくのを何度も聞いた。僕に対してもいつも優しかった耕ちゃんのお母さんが嘆き悲しむのを見ていると、耕ちゃんは勉強もよくできたし、みんなから可愛がられた良い子だったから、死んだのが耕ちゃんではなく僕だったら良かったのかもしれないと、子供心にも本当に気の毒に思ったものである。
帆足孝治著「山里子ども風土記」 草の葉ライプラリー刊行
山里こども風土記 帆足幸治
森と清流の遊びと伝説と文化の記録
第一の章 こども豊後風土記
玖珠盆地と森町の歴史 為朝伝説山間の城下町 玖珠入りの頃 田舎暮らしの始まり ぼた餅の思い出 姉の結婚
第二の章 森小学校の思い出
歴史と伝統の名門校 兵隊サンススメススメ 講堂の想い出 防空頭巾のこと アマゾン川のワニ 掃除当番
第三の章 原子爆弾の地響き
機銃掃射の恐怖 禁止された厭戦替え歌 恐ろしかった地鳴りと地震 進駐軍がやってきた運動会の憂鬱 忘れられない耕ちゃんの死
第四の章 山里夜話
久大線の開通と豊後森駅 夜光虫の不思議 人魂を見た経験 手が出る学校 猪口山のトックリ蛇 東京の大学生との遠足 海軍宇佐航空隊 『銀河』の防弾ガラス
第五の章 水軍の山城
取り壊された森藩の陣屋 久留島公と三島神社 栖鳳楼の偽便所 「おやま」の井戸と清水御門 焼け不動にまっわる言い伝え 森城下の寺町
第六の章 進駐軍と「四つの自由」
初めての汽車旅行 ナトコ映画の不思議 憧れの美空ひばり 素人演芸会の夜 木炭バスの発動機馬車
第七の章 三味線淵の怪物
大水の恐怖 嵐の後に現れた巨大魚 叔父の「かしきり」網 カシバリの思い出 「つきばし」の大ナマズ 三味線淵での不思議な経験
第八の章 山間の清流魚
誤解多い魚たちの呼び名 イダ ヤマソ カマズカ ビセナ シマドジョウ アカハチ イショムショ カメション フナ ハエ
第九の章 曽田ノ池の猛魚の正体
玖珠盆地を囲む山々 大観峰と「フルーツみつまめ」 夕暮れの湖面の波紋 豪快なソウギョ釣り 怪しい水音アブラメと遊ぶ 母の思い出
第十の章 「龍門の滝」の五三竹
秘境の滝を訪ねて 善神王と「鬼が城」伝説 五三竹の夢 釣竿を作る 風邪薬になるカブト虫の幼虫 ダンゴバチの痛烈なひと刺し 敵中突破のお使い おこわ餅の話
第十一の章 ゆず里の秋
まんじゅう怖い 野球少年 ほたるの光 お墓と山芋の話 ゆずの味噌漬け 農学校の品評会
第十二の章 耶馬渓鉄道
子供の必携「肥後の守」 杉鉄砲遊びと罠かけ 懐かしの耶馬渓鉄道 叱られて自棄歩き 水車小屋物語 硫黄山の噴煙
第十三の章 鶏小屋の青大将
ヤワタロという名の大蛇 幸せタマゴ 水上のクロヘビ カワセミの巣 川辺の生き物 野鳥の古巣 吊し柿
第十四の章 田舎独楽の話
男の子の遊びの王様 コマ同しゲームの仕組み 攻撃の仕方 コマ回しの達人 性能の決め手は剣 良く澄むコマ 良いコマを育てるのは愛情 大事な紐の役割 厳しい足抜けのルール 消え行く「子供の遊び」という文化
第十五の章 玖珠高原の四季
小豈屆の野焼きと山火事 「自転車泥棒」の思い出 「かびん湯」の由来 城下町の祇園祭り「上げたへ、下げたへ」 「三日月の滝」伝説 ソリ遊び
第十六の章 すさまじい野ウサギの喧嘩
「焦げ淵」のナソ 忘れ難い石垣下の大ドンコ 浅瀬で眠る魚の夢 川底に栗を拾う名人芸 祖父の一撃二兎 父が愛した「池の原ッッジ」 アケビの実と大ムカデ 伐株山伝説と高洪寺の由来
第十七の章 モウガンコの下がる頃
岩苔入りのアイスキャンディー 飴形屋の仔牛墜死事件 盆踊りと盆タンゴ 担任先生との交換ノート インチキ釜鳴らし事件
第十八の章 峠越えのC58蒸気機関車
カブ式機関車 憧れの蒸気機関車 豊後森機関庫 玖珠盆地に響く汽笛 森機関区のモーターカー トロッコ少年のこと
第十九の章 修学旅行と俳句先生
竹瓦温泉姉が見た航空母艦 俳句先生のこと 宝物か埋まった森中のグラウンド 移動動物園 懐かしのカバヤ文庫 雨の晩の不可解な足音
第二十の章 童話祭りとキッネの嫁入り
ダンゴ汁と痩せ馬 桃太郎さんの銅像と三島音頭 ニカメイチュウ駆除 髪染め薬「るり羽」 ネズミ谷のキツネ 新緑の萌える頃 自転車事故
第二十一の章 中学生の農繁期
洗い場のドンコ 野ウサギの墓 危険な「木流し」の話 祖母の煙草盆 農繁休暇と農作奐の手伝い 心が和む牛洗いのひと時 平川の種牛
第二十二の章 赤ゴリラの巻
森の男は威張りすぎる? 親子関係に感じること 玖珠の方言について 人恋染めし初めの頃 田舎生活との別れ