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豊後森の機関車   帆足孝治

あいらえ3

  山里子ども風土記  帆足孝治


 そのころ豊後森の機関庫にはいろんな形式の蒸気機関車がいたが、中でも最もポピュラーなのは大きな動輪が三つある九五〇馬力のテンダー機関車C58だった。私はこのC58の絵を描くのが得意だったから、友達を誘ってよく機関庫にC58を観察しに行った。

 大きな除煙板(デフレクター)を持ったC58機関車は、久大線のような山間部を走るのに適した比較的軽量の蒸気機関車で、きっと線路の強度がこのクラスの機関車を受け入れるのがやっとだったのだろう。実際、日豊線などではもっと大型で重量感のあるC55やC57、C59などが走っていた。

 豊後森の機関庫は最近では相当痛んでしまったが、もう全国でも珍しくなった半円形の車庫の建物が今でもそっくり残っており、かつて蒸気機関車の全盛期には機関車の向きを変える転車台(ターン・テーブル)が蒸気機関車を乗せて一日中忙しくぐるぐる回っていた。

 小さいながらも貨車の操車場にもなっていた森駅構内では、貨車の入れ変え作業も盛んに行われていたが、そのほかにここでは機関士、機関助手の教育・訓練も行っていたから、そうした実地訓練にも機関車が動いていたのだろう。

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 一度、学校から社会科の時間に機関庫を見学に連れて行かれたことがある。私たちは木造の機関庫の二階に上がって、区長さんから踏切りを渡るときの注意や機関車のブレーキの話、機関士や機関助手の苦労話しなどを聞いた後、十人づつに別れて8620型機関車の運転台に乗せてもらった。運転台は子供たちが十人入ってもまだ余裕があるくらいの広さがあり、機関助手が石炭をほうり込むため罐口をあけると石炭が真っ赤に燃え盛っているのが見えて、後ろに下がっても顔がほてるくらい熱かった。

 実際の機関車に乗ってみて意外に思ったのは炭水車(テンダー)の構造である。地上から走っている機関車をみると、後ろの炭水車にはよく石炭が山盛りになっているので、炭水車の箱の中は石炭がぎっしり詰まっているのかと想像していたが、実際は炭水車のほとんどは水を入れるタンクになっており、石炭はその水タンクの上の浅い鉄床の上に申し訳程度に積まれているだけである。だから大量の石炭を搭載するには山盛りにするよりないのである。

 機関士は私たちを乗せたままゆっくり機関車を動かしてみせ、入れ替え線の転轍器まで行ってまたバックした。私たちは、高い運転台に乗り込むために用意してくれた踏み台から乗り込んだのだが、前もって区長さんから、機関車を定められた位置にピッタリ停車させるのが如何にむずかしいかを聞かされたばかりだったので、その機関士が最後に機関車をゆっくりバックさせて、踏み台にぴったり着けたのには感心した。

 機関区の木造二階建ての大きな建物の中では、罐の焚口に石炭をいかに早く、いかに燃えやすく上手に入れるかを訓練する実物そっくりの施設があって、幾人もの機関助手がストップ・ウォッチを手にした教官の見守る前で真剣に石炭くべを訓練していた。

 久大線の野矢と由布院の間の「水分峠」の急坂を登るときなど、C58機関車の機関助手は一分間に三〇杯もの石炭を投入しなければならないそうだが、そんな急勾配区間を抱えた久大線ゆえに、ここでは常にそうした上手な石炭くべの研究と練習が行われていたのである。機関助手は、決められた時間内に決められた回数だけ、石炭が一か所に固まらないように、右手にもったシャベルで後ろの石炭を掬うと、スナップをきかせるように焚口から罐の中に石炭を均等にばら撒くように投入する。これを延々とやるのだから機関助手は大変な重労働である。

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 昔は、機関士と機関助手とは完全な上下関係であったからあまり問題もなく、機関助手は機関士のいう通りに働いたが、戦争に負けてからはそのような不合理は通らなくなって、機関士と機関助手との関係はかなり複雑になっていたらしい。
 稗田のおじさんがまだ鉄道にいた頃聞いた話だが、久大線で一度、機関士と機関助手とが走行中に石炭の燃やし方で口論し、その揚げ句に喧嘩をして機関助手が機関車を降りてしまったことがあったそうだ。

 その機関助手は、蒸気機関車が間もなく急坂にかかるので、それに備えて燃焼効果が一番出るように焚囗の中に石炭の山を作るようにくべていた。ところが、相棒の機関士の運転が下手だったのか乱暴だったのか、急加速して動輪を空転させたりするので、何回やってもその山が激しい振動で崩れてしまったらしい。たまりかねた彼は機関士にそれを咎めたのだったが、もともと自分の方が機関助手より立場が上だと思っている機関士には助手の言うことなど端から聞くつもりがなく、「つべこべ文句を言わずにしっかり炊け!」とかなんとか言ったらしい。それで怒った機関助手は「お前のような運転の下手くそなやつと一緒に乗務するのは真っ平だ! 俺の炊き方が気にいらんのならお前が石炭くべもやったらいいだろう!」と言って機関士の頭を一つ殴って、さっさと機関車を降りてしまったのである。

 いくら機関士が威張ってみても、石炭をくべる機関助手に逃げられてしまっては一人で機関車を走らせることはできない。とうとうその列車は立ち往生してしまい、喧嘩したことが公になってたいへんな騒ぎとなってしまった。結局、駆けつけた駅員らのとりなしでその機関士が助手に謝ったので、機関助手も機嫌を直してどうにかその場はうまく治まり、列車は終点まで運転されたが、それ以降は、昔に比べると機関助手がずいぶん威張るようになって、機関士稼業も昔のように楽ではなくなったと言っていた。

 一人で運転できる電車や電気機関車では考えられない、蒸気機関車の時代ならではの逸話である。

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