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山里子ども風土記 第十の章 帆足孝治

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森と清流の遊びと伝承文化の記録


第十の章
「龍門の滝」の五三竹


秘境の滝を訪ねて

 最近、夏になるとよくテレビで大分の「龍門の滝」というのが紹介される。高さ三〇メートルほどの二段に落ちている滝だが、周囲を緑に囲まれた山紫水明の山奥にあるため、景色が美しいだけでなく珍しい滝滑りが楽しめるところが面白いというわけで、しばしばヒマダネの夏の風物詩といった格好で取り上げられるのである。

 場所は大分県玖珠郡九重町(ここのえまち)の谷奥。筑後川の上流、玖珠川の支流の上の方にある滝で、久大線豊後森(ぶんごもり)あるいは恵良(えら)が最寄りの駅で、今はバスも通う立派な道路があるし、タクシーでも二〇~三〇分もあれば楽に行ける。沖縄駐留アメリカ海兵隊実弾射撃の演習地になっているあの日出生台(ひじゅうだい)演習場の南外れに位置し、付近には山以外には他に見るべきものもないので、夏には近辺の子供や若者が滝滑りを楽しむくらいで、県外からわざわざ訪れる人は少ない。

 昭和二〇年代のこの辺りは、田舎でも格別に辺鄙なところで、私が腕白時代を過ごした森の上ノ市からは、標高六百メートルほどの小岩扇(こがんせん)と呼ばれるメサ状の岩山と、宝山(たからやま)の間を抜けて、山を越え、谷を下って四里以上も歩かなければ行けない秘境にあった。

 「龍門の滝」に初めて父に連れて行かれたのは、戦争が終わって間もないある暑い夏の日だった。その日は朝から天気がよかったので、東京から短期の帰省を楽しんでいた父もことのほか機嫌が良く、「今日はどこへでもお前の好きなところへ連れて行ってやろうと思うが、どこへ行きたいか?」と言い出した。そこで私は 「日田!(ひた、日田市のこと)」と叫んだが、父は[あんな所へ行っても面白くも何ともないぞ]と冷たく言う。

 「どこでもいいと言ったばかりなのに!………」と私ははなはだ不満だったが、仕方ないので今度は全くの口から出まかせで、「龍門の滝!」と言った。そうは言ったものの、その頃の私は自分でも龍門の滝がどこにあるのか、またそれがどんなところか全く知らなかったのである。

 ところが父は、今度は満足そうに「ほう、いいところを思いついたな。それじゃ、大滝君を誘って行って来るか」と言った。こうして「龍門の滝」ピクニックが決まったのであった。大滝さんというのは父の古い友人で、当時たまたま近くに疎開していた東京瓦斯の元野球選手である。戦争中、ふとしたことから軍部の批判をしたのが憲兵の聞きとがめるところとなって逮捕され、厳しい取り調べの後釈放されたが、その後も当局から監視されていたらしく失業し、仕方無く家族とともに九州の山奥の親戚を頼って疎開していたのである。

 大滝さんは法政大学の学生時代から優秀な野球選手で、ハワイに遠征に行ったこともあるので、自分の目で見たアメリカに日本が勝てるなどとは端(はな)から考えていなかったようで、山手線の省線電車の中で仲間に、新聞やラジオが伝える日本軍の派手な戦果について「あんな発表に騙されてはいけない。アメリカに勝てる道理がない。あんなのは軍部の宣伝デマだ」というようなことを喋ったのだそうだ。たまたま運悪くそばに特高が乗っていて、これを聞いていたためたちまち逮捕されるところとなり、父も参考人として何度も警察に足を運び、彼の弁護をおこなったのだという。

 さて、その大滝さんと三人でおにぎりと水筒をもって、羨ましそうに見守る近所の子供たちを後目にして出かけた。

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神王と「鬼が城」伝説

 大滝さん一家が借りていた家のあった栄町の警察署の横を、内部落の方向へ入って少し行くと森川にかかった木の橋があり、これを渡った所に川沿いに[原の車](原という家の水車小屋)へ行く細い道がある。原の裏手から山に入ってつづら道を小岩扇を目指して登って行くと、やがて見晴らしがよくなって善神王(ぜじんのう)様の社の上の松山に至る。善神王様は、この辺りでは牛馬の守護神とされ、今こそひっそりと静まり返っているが、昔はその祭礼には遠く日向の方からも牛馬を曵いた参拝者があったというほど知られた神社で、正面からはとても長い石段を登らなければ到達できなかった。

 父が思いついたように、「ついでだから、ちょっと鬼が城を見て行こう」と言い出した。私は「鬼が城」については噂には聞いてはいたが、それまで実際に見たことはなかったので、それがどんなものなのか大いに興味をそそられた。父を先頭にして左のわき道に入り、少し松林の中を探し回ったが、やがて少し開けた所に炭焼小屋より大きいくらいの雑草に覆われた小山が見えた。小山の正面に回ってみると、そこにはクレーンを使っても組み立てるのが難しいような大きな岩を重ねた入り口が黒い口を開けており、入り口の岩には誰かが焚き火をした跡らしい汚れが見えた。物音ひとつしないから、まさか鬼が棲みついているとは思わないが、万一、中に熊や山犬が潜んでいたら大変である。

 近年、この入り口に教育委員会が説明板をたてているが、その説明には石器時代の住居か古墳だろうと書かれている。しかし、当時は地元の子供たちもそんなことは知らなかったから、本当に鬼が棲んでいた城の跡だと信じていたものである。

 おじいちゃんが元気だったころ、私はこんな言い伝えを聞かされたことがある。昔、この辺りに鬼が出没して里の女や子供がさらわれることがあった。そのころ、仲哀天皇につかえていた善神王は三百才までこの地に住まわれていたが、ある日のこと、裏山でコロンコロンと天地を揺るがすような地響きがするので、何事だろうと山に登ってみると、恐ろしい形相の赤鬼や青鬼が岩扇の崖下から大きな岩を転がし落としていた。善神王は知恵も勇気もある神様だったので、鬼たちに向かって「何をしているのか?」とお尋ねになった。鬼たちは、「この岩で棲家を造っているところだ」と答えた。

 善神王は大変驚いて「このまま鬼どもがここに棲み着いてしまっては、里の民にどんな悪さをしでかすか知れない。何とか鬼どもを追い払う良い知恵はないものか」と考えた。そして、鬼たちに一つの難題を持ち掛けることを思い付いた。

 善神王は鬼たちに言った。「この平和な土地にお前たちが棲み着いては、里の民は安心して暮らすことができなくなる。すぐにも出て行ってもらいたいところだが、お前たちも、せっかく手掛けた棲家をあきらめるのは辛らかろう。そこで提案だが、もし明朝までに城を完成させることができたら、わしはお前たちがここに棲み着くのを黙認しよう。しかし、もしも明朝、一番鶏が鳴くまでに完成させられなかったなら、お前たちは直ちにここを立ち退かねばならない。どうだ、約束が守れるか?」

 もともと鬼たちは約束を守ることにかけては潔かった。「よし、明朝、一番鶏が鳴くまでに、必ず完成させて見せようぞ」ということになり、鬼たちはせっせと働きはじめた。 善神王は、「幾ら鬼でも、明朝までにあの巨岩を積み重ねて城を築くことはできないだろう」と考えたのであった。しかし、何しろ相手は鬼である。そうは約束したものの善神王は心配になって、何度も鬼たちの働く現場をのぞきに行った。

 夜半になって、何度目かの覗きに行った善神王は驚いた。何と城がほとんど出来上がっているではないか。このままでは鬼が城は一番鶏が鳴くより前に出来上がってしまう。そこで善神王は一計を案じた。彼は社から二枚の団扇を持ち出し、わざと鬼たちに聞こえるようにハタハタハタハタと大きな音をたてたあと、思いつ切り大声で「コケコッコウー」とやったのである。

 さあ、鬼どもの驚くこと、まだ夜中の筈なのにと鬼どもは大慌てで、半完成の城をそのままにして、真っ暗な山の中を走って逃げて行ったそうだ。東の空が茜色に染まってきたのは鬼たちが犬飼(いぬかい)辺りに達してからだったそうだ。

 「うぬっ、騙されたか!」と、さしもの潔い鬼どもも大いに悔しがったが、善神王の知恵には降参したというのである。鬼がこのように騙されて途中で逃げたという伝説は、久留米市御井町の高良山、豊後高田市の熊野の胎蔵寺、庄内町の熊群山、亀川の竃門八幡神社などにも残っている。

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五三竹の夢

 さて、龍門の滝を目指して歩き続けるわれわれのリーダーたる父も、じつは子供の頃に一度行ったことがあるというだけで、確かな道は知らなかったらしい。それで何度も道を間違え、思わぬ大きな堤(農業用水を確保するための人工の湖)に出くわしたり、見知らぬ祠へ通ずる細道に迷い込んだりしながらも、無事に田代を左手に見下ろしながら田尻部落を越え、昼過ぎには何とか「龍門の滝」にたどり着いた。

 当時の「龍門の滝」は上の市から見ればいわば秘境で、実際に滝を目にした人は少なく、ただその水が冷たく美味しいことで良く知られ、最近のように滝壺で泳ぐなどということはもちろんのこと、滝滑りを楽しむなどということは考えつきもしなかった。  「龍門の滝」という名前の由来は、寛元四年、鎌倉幕府の招聘に応じて蜀(中国)からやってきた闌渓道隆禅師(らんけいどうりゅうぜんし)という高僧が博多湾に上陸し、上京の道すがら南耶馬渓を通ってこの滝に遊んだことがあったが、禅師はこの滝周辺の景色が自分のふるさと河南省竜門によく似ているとして、これを竜門と名づけたのが始まりだという。

 滝を真っ正面に見る対岸には龍門寺があり、今は川の中を歩いて行ける滝壺も、当時は寺社の左手の、昼なお薄暗く滑りやすい崖を伝って、肝を冷やしながら恐る恐る下りて行ったものである。いつもほとんど人影など見なかった場所だから、滝壺に近づくのは、いかに父と一緒とはいいながら、子供ごころにも聖域を犯しているという後ろめたさがあり、あまりいい気持ちはしなかった。竜門の滝の岸辺に建つ竜門寺は、かつては十二の末寺を有する名刹として知られたところで、その風光や環境が仏法修行の霊場として優れていることから全国各地から名僧識僧があつまったといわれる。

 滝に近づくにしたがって滝飛沫が運んでくる冷気に思わず身震いしたのを思い出す。その滝壺はどれくらいの深さがあるのか青々とした水をたたえて、如何にも龍が潜んでいそうな雰囲気を漂わせていた。伝説では、昔この滝壺には龍が棲んでいたとされ、享保年間のこと、豊前中津藩の丸山三平という武士が、当時この滝壺に棲みついているといわれた龍を退治しようと、刀を背にザンブと飛び込んだまではよかったが、結局、龍を退治するどころか逆に龍に追いかけられて頓死するという事件があった。

 さて、滝壺の緑に腰を下ろした三人は早速冷たい水で水筒を一杯にすると、滝飛沫と夏の輝くばかりの陽光をいっぱいに浴びながら、持参したお握りの包みを開いた。

 その後、父と大滝さんは、耳を弄するばかりの滝壺で長い間、何やら難しい話をしていたが、私は滝壺から溢れ流れる清流に鱗を光らせるハエ(ハヤ)やエノハらしき魚影が気になって、釣り竿を持ってこなかったことを悔やんだ。水面を透かしてみると、アサセやビナセ、カマツカなども見える。アサセというのは婚姻色をまとったハエのことで、産卵期になるとオスのハエは背鰭や腹鰭が大きく伸び、全身を青やピンクの美しい虹色に光らせるようになる。口の周りは真っ黒になって、堅いブツブツがいっぱいできる。もし素手で掴まえると、伸びた鰭をさらに張って、まさに川魚の王者の風格である。

 釣竿もないので、清く澄んだ川底に見えるアサセを捕らえる方法はない。その時はよほど悔しかったのだろう、それから長い間、あの清流を溯る美しいアサセの勇姿を忘れることができなかった。

 さて、この滝壺の上の崖には、根元に見事な皺が寄った五三竹(ごさんちく)が密生していた。どんな字が当てはまるのか私は知らないが、昔から近所の大人たちは「ごさんちく」と呼んでいたから、ここでは「五三竹」としておく。関東で杖などに使う「布袋竹」がこれに似ているが、同じものなのかどうか、私には判断する材料がない。筍が美味しいことで知られる竹だが、当時この竹は釣竿にも最適とされていたものである。美しくみずみずしい若竹は、その葉が涼しげに青々と茂って、釣り竿にする際に落とす枝のしなりは何とも言えない感触であった。

 私の家の近くの山には竹が多かったが、どういうわけか五三竹はほとんど見掛けなかったし、これほど見事に群生した五三竹を見るのは初めてだった。すっかり興奮した私は、何度も五三竹の見事さを話題に出したが、父は大して感動した様子もなく、まして竹を取って来いなどとは言わなかった。神城で竹を切るなどという行為は考えつきもしなかったのだろう。家に帰ったあとも、長い間あの五三竹のことが忘れられなかった。

 ノコギリさえあれば、そして自分一人だったら、あの根元の節皺が如何にも握りやすそうに丸く膨らんだ五三竹を、三~四本は持ち帰れただろうに、本当に惜しいことをした。何時の日か、きっと大人抜きで「龍門の滝」まで行って、存分に竹を選んで切ってこようと心に誓ったのだが、この夢は今もって実現しないでいる。このことは東京に出てきてからもずっと気になっていた。

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釣竿を作る

 今でこそ釣竿はグラスファイバーの軽くて丈夫なものが手軽に買えるが、昭和二〇年代までは釣竿は自分で作るものであった。手頃な竹を切ってきて、まず先端の葉っぱ二~三枚だけ残して枝葉をすべて取り去る。左手で幹をしっかり支え、竹の根元に近い方から順々に枝を落としていく。右の手のひらでしっかりと枝を握ってから一気に手元に引きつけるように力を入れると、枝はすぱっ、すぱっと簡単に取れる。この握り方や力の入れようが悪いと枝はなかなか取れないので、ナイフや鉈を使わねばならなくなる。

 枝葉を落としたあと、たまった葉っぱに火をつけて焚き火をし、これで枝葉を落して丸裸にした竹軸をあぶって油抜きをする。私は、夕方風呂を沸かす時に、よく退屈しのぎにその火で竿をあぶった。

 炎の中に竹をかざして熱し、表面に油が滲み出してくるのを、すすごと根気良く布きれで拭き取るのである。これを何度も繰り返しながら節ごとに曲がっている竹の癖を直してやる。切ったばかりの竹は真っ直ぐに見えても、いざ枝葉を落してみると意外にクネクネと曲がっているのに気が付く。

 力を入れてこれを無理に直そうとすると、大事な竹を折ってしまうことになりかねない。だから丹念に火に炙りながら、少しずつ曲がりを正しつつ、癖を直していく根気が必要である。目を近づけて、根元から先端の方を眺めつ、すがめつ、竹を鞭のようにしならせながらビュウビュウと振ってみる。振っては炙り、また炙っては振るのである。五三竹は、このしなりの良さが特徽なのだ。

 さて、油抜きが終わったら、この竹をもって近くの登りやすい柿の木などに登り、竹の根元を上にして枝から吊り下げる。そうしておいて木から下りて、今度は残しておいた竹の先端の葉っぱにレンガくらいの石を紐で結び付ける。重りである。
 こうして二晩くらいぶ下げておけば、あの青々していた竹はすっかり茶色の釣竿らしい色になる。重りを外して手にとって振ってみれば、見事なしなりを見せるはずである。こうして手づくりの釣竿が完成するのである。

 私は、クヌギの太い薪を燃やして風呂を沸かしながら、手ずくりの釣竿をビュウビュウと振ってみた。当時、家の池には大きな真鯉、斑鯉、緋鯉、フナなどが放ってあって、周囲の石垣には蛙がいっぱい棲みついていた。その蛙をねらって夕方などガラス蛇がよくやってきた。この辺りではヤマカガシをガラス蛇と呼んでいたが、別にこの辺りには全身まっ黒ろなヘビもいたので、これこそ本当のガラス蛇ではなかろうかと思うのだが、これはクロヘビと呼んでいたようである。

 蛙を狙ってやってくるガラス蛇は、近くに人がいてもあまり気にする様子もなく、池の下手の草むらから池に近づき、音もなくそっと水の中に体を入れる。水中を潜るくらいは平気でやってのけるので、蛇ににらまれた蛙に逃れる術はない。へびは泳ぎながら蛙の潜んでいそうな石垣の隙間一つづつに首を突っ込んで調べる。大抵は一つのくぼみに三匹も四匹も隠れているので、突然ヘビの頭がニュッと出てくると蛙たちはびっくり仰天して水の中に飛び込んで逃げる。最初からヘビは一匹だけを捕まえるのが目的で、他は逃げてしまってもいいのである。

 私は余り蛙が好きではないが、無力で逃げるだけしか手段のない蛙を食べにやってくるヘビが憎くてならなかったので、そんな時、よくヘビ釣りをやった。ヘビは目が悪いのか、それとも池の中は天敵がいないせいか、池に入ってからも傍若無人にふるまった。

 蛇釣りには釣針はいらない。蛙の足をテグスの先にしっかり縛りつけて、これを継ぎ竿でヘビの目の前にぶら下げてやると、ヘビは何の躊躇もなくその蛙に噛みつく。私はヘビが蛙を十分くえたところを見計らって、竿を上げる。テグスを引っ張っても、一度捕らえた蛙はどんなことがあっても放さないのがガラス蛇の習性だから、強く竿を上げようとすれば勢い蛇もついてくる。私はそんなガラス蛇が、蛙をテグスごと呑み込むまでじっくり待って、蛇が蛙を呑み下すやいなや、竿をあげて蛇を釣り上げるのである。そして、いま呑み込んだばかりの蛙を蛇の口から引っ張りだすのである。

 蛙は呑み込まれた瞬間から消化され始めるので、すぐ引っ張りだされても大抵はすでに窒息死しており、蘇生することはないし、すでに皮膚も白く溶けかかって、触るのも気持ちが悪いくらいである。

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風邪薬になるカブト虫の幼虫

 クヌギという木はこの辺りでは、カシと並んで非常に貴重な木である。ともに非常に硬い木で、鎚の柄や鉋の台など大工道具や拍子木などにするのに最適で、最良の薪にもなる。クヌギの炭は火持ちが良く、その消し炭は炬燵に入れたり餅を焼いたりするとき威力を発揮する。またドングリの実は子供たちには格好の遊び道具である。この辺りではクヌギの実だけをドングリといい、シイやカシの実はドングリとは言わない。あくまでもそれらは椎の実、樫の実である。ドングリはシイの実と違って食べられないが、形が丸いのでビー玉の代わりになる。楊枝を刺してコマにすることもできる。
 
 秋になると家では祖父と叔父が一緒になって冬に備えて大量の薪を作る。うちのクヌギ林は小迫へ行く途中の斜面にあり、八幡様のお祭りが終わる頃から薪用に何本かの木を切り倒す。クヌギは硬いので、鋸一本でこれを倒すまでは大変である。特に直径四〇センチ以上の木になると、一本の木を切り倒すのに一日かかってしまう。切り倒したクヌギはその場で枝を払い、幹はノコギリの長さに合わせて輪切りにしていく。全部切り終わると、これを車力に乗せて家へ運び、斧と楔を交互に使って割るのである。祖父と叔父は向かい合わせになってクヌギの丸太に斧を打ち込む。クヌギは硬いので、よほど注意してバッジと打ち下ろさないと刃が刺さらない。下手をすると斧を跳ね返すので、思わぬ大けがをし兼ねない。

 旨く一人が斧を打ち込むのに成功すると、その斧をくわえた割れ目近くにもう一人がまた斧を打ち込む。うち下ろした斧が跳ね返されることなく突き刺さると、打ち込んだ斧の刃は硬いクヌギの木にがっちりとくわえられてビクとも動かなくなる。大人が少々梃子のようにうごかしたくらいではとても抜けるものではない。そこで、用意した大きなクサビを斧をくわえているクヌギの割れ目に打ち込む。クサビを一本、二本と打ち込むうちに、クヌギの割れ目が少しだけ押し広げられてどうやら斧の刃を外すことができる。

 そこで今度は、その斧跡のすこし上にまた斧を打ち込む。次がそのまた少し上に打ち込む。斧はまたくわえられてしまうので、再びクサビを打って斧をはずす。これを何同となく繰り返しているうちに、さしもの硬いクヌギの幹もしまいにはパックリと二つに割れるのである。一つに割れた木は、今度はその内側を上にして、これに斧を打ち込んではクサビを打ち込んで割っていく。これをくり返してクヌギの薪を作っていくのである。

 こうして家の軒下には、冬がくるまでに背丈よりも高く薪が積みhげられる。こうしておけば、風で薪は乾燥するので、冬には上等の燃料となって農家の生活を支えるのである。子供は危ないので、この薪割りをしているときには少し離れた所にいなければならない。「危ないから、あっちに行ってなさい!」と何度注意されてもそこを退かないのは、ときどきクヌギの木の中から大きな白い幼虫が出てくるからである。カブト虫の幼虫だろうが、これを摘んだ時のあのブヨブヨした生暖かい肌触りは何とも言えない。これをたべると風邪を引かない元気な子になれるということで、子供たちはその幼虫が出てくるのを根気よく待っているのである。運がいいと一つの穴から一度に二匹も出てくることがある。

 幼虫は家に持ち帰って七輪に餅焼き網を乗せて焼くのである。もぞもぞと動く幼虫を箸で押さえながら焼くと、だんだん香ばしい甘い匂いがしてくる。表面がこんがりと茶色になるまで焼いたら、これに醤油をまぶしてまた網に乗せて醤油が乾くまで焼く。焼けたら熱いうちに食べるのである。表面はカリガリに焼けているが、噛むと中から卵の黄身のような熱い汁があふれ出る。これが甘くて堪らない美味しさだ。
 私は、初めてこの幼虫を見たときから随分美味しそうな色をしていると思ったが、これを焼いてもらおうと両手で家に持ち帰ったところ、姉は「キャッ」といって逃げて行ってしまった。

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ダンゴバチの痛烈なひと刺し

 上ノ市部落と平部落の境目にお伊勢様という小さな神社がある。なぜこんな所にお伊勢様があるのかそのいわれは知らないが、こんな山里では伊勢神宮に参ることもなかなかできないから、きっと伊勢神宮の方をここへ持ってきて祭ったのであろう。ちょうど平の部落と上ノ市部落との間の家並が切れて寂しいところにあったので、子供が夜遅くここを通るのは勇気が必要だった。

 お伊勢様は一〇〇段以上もつづく長い石段の上に祠があって、もちろん無人だがその境内には松の大木が聳えていたりして、神々しい雰囲気があった。下から石段を上がって行くと左側は杉山で、右側の斜面にはこの辺りでは珍しい雑木林が茂っていた。その中には珍しい肉桂の木があって、藤の太い蔦が下かっていたりしてターザンごっこには恰好の場所だった。私は緑濃いこの照陽樹の森が大好きで、よく一人でこの小さな森の中に潜り込み、じっとしゃがみ込んでは緑の木陰にトラやヒョウが隠れているシーンを想像して悦に入っていた。

 戦後すぐ、この石段の右側の杉林に大胆な伐採の手が入って、鬱蒼としていた杉の木を全部切り倒してしまったので、この辺りはすっかり明るくなってしまったが、上の方には切り倒された太い杉の大木が石段を跨ぐように横倒しになったまま長い間放置されていたので、参拝者はその大木の下をくぐるか、脇にそれて回り道をしなければ登って行けなかった。お伊勢様の境内は子供たちのいい遊び場になっていたので、もちろん子供たちは回り道などしないで、みんなこの木をくぐって上り下りした。

 祭礼の日には、近所の人達が交替で、煮干しや干し大根、お強飯などを炊いて持ち寄り、祠を開いて神事を行った後、これらお供物をみんなに振る舞った。子供たちも、その時ばかりは神妙に頭を垂れて榊のお祓いを受け、手のひらにお供物を受けて有り難く頂いたものである。

 お伊勢様のすぐ裏は農学校の果樹園になっており、栗や桃が植えてあり、その間を抜けていくと向こう側に広い墓地がある。この果樹園は回りをゲズゲズと呼ばれたカラタチの刺のある木でがっちり守っているので、番人がいるわけではないが、悪餓鬼どももここに潜り込むことはあまりしなかった。桃や梨やクリが熟れているのが外から見えたが、こうはっきり保護されていると、これを破って盗むのはなかなか勇気の要ることだった。

 果樹園の隣りの墓地には上ノ市部落全体の代々のお墓があり、もちろん私の先祖もみんなここに葬られていたが、昼なお暗い墓地の側を通り抜けるのは怖かった。
 果樹園の裏側の森の中には、私だけが知っている大きな古いクリの木があって、秋になると小さな甘い実をつけた。木が古いので大きい割には実のなり具合が少なく、私はよく一人でこの木の下に行って栗の実を拾った。小さなイガにはササグリと呼ばれる比較的小粒な甘い実が入っており、たくさん拾った後はこれを剥いて食べながら帰った。

 この古いクリの木は幹から樹液が出ていたので、これを吸いに良く大きなアカバチが来ていた。私はこれを捕るのが上手だったから、捕まえたアカバチの剣を抜いてこれを上着にとまらせ、自慢気につけて歩いた。羽を少し切っておけば飛んで逃げる心配もなかった。

 ときどきはもっと大型のダンゴバチ(スズメバチ)もやってきたが、これを捕まえるのはなかなか厄介だった。黄色と黒のはっきりした縞模様の大きなハチは、落ちている枝で叩き落し、ショックで飛ぶのをためらっている間にこれを小さな棒で押さえる。ハチはその棒に向かって何度も何度も鋭い剣を出すが、相手は棒だからどうにもならない。ハチの尻から激しく出入りする黒い長い剣の動きをよく見定めて、タイミングよくこれを爪で押さえ、引き抜いてしまうのである。

 剣を抜かれたハチくらいだらしのないものはない。さしもの大型で貫禄ある蜂の王者ダンゴバチも、剣を抜かれてしまってはどうにもならない。鋭い顎で賢明に棒に噛み付いたりするが、剣に刺される怖れがなくなっては、もうそれはハチではない。

 私は一度、家の裏の樫の木にやってきたダンゴバチの一匹を箒でたたき落とし、いつものように棒で押さえ込んで剣を抜きとろうとした。ところがどうタイミングを間違えたか、親指と人差し指でダンゴバチの剣を抜き取ろうとして誤って人差し指の先端を刺されてしまったことがある。ダンゴバチの一撃は強烈である。余りの痛さに激しく指先を反対の手で握って、しばらく呼吸も止めて堪えていたが、これを見ていた叔父が近付いてきて「小便をかけろ、早く、早く!」とせき立てた。私は半ば泣きべそをかきながら、したくもない小便を無理に出して指に掛けた。生暖かい小便は指先だけでなく、手全体にたっぷりとかかったが、痛みは少しも和らがなかった。

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敵中突破のお使い

 敗戦で、日本中が食糧不足にあえいでいた頃、祖父はこれからは山よりも田圃だと考え、山を売り払って田圃を増やした。結果的にはこれが失敗して、農地改革で地主はほとんどただ同然で田圃を取り上げられてしまった。これがよほどこたえたのだろう、祖父はそれ以来大農業をあきらめ、自分の家で食べるだけあれば十分として、三反のみを残して細々と稲作を続けてきた。

 当時の上の市部落周辺の田圃では、一反あたりの米の収穫量は八~九俵だったから、三反では二十四俵ないし二十七俵、つまり九石六斗ないし一〇石八斗で、昔から大人一人一年で一石の米を食べると言われていたから、大人四人と子供が三人程度が暮らすのなら、これでも一年間たべても十分余るほどだった。おばあちゃんの実家は伐株山の麓の大きな百姓家で、三町歩もの田圃を作っていたから、それに比べれば祖父の三反はままごとのようなものだった。

 田舎では何かことあるとすぐに餅をつく。正月はもちろんだが、やれお祭りだ、やれ節句だ、やれ結納だ、やれ里帰りだ、やれ子供の誕生だと、なにかにつけて餅をつく。 関東では、お餅は延べておいて後で切って食べるが、ここでは餅はすべて丸餅である。何も入らないシイラ餅でもアンコの入った大福でも、餅はすべて丸く作る。室蓋(むろぶた)にクズ粉を敷いておいて、その上に餅を並べ、涼しい場所においておき、少しずつ食べていく。

 八幡様のお祭りでは、おばあちゃんはよくモチ米でおこわごはんを炊いた。小豆にウズラ豆が混じったおこわは美味しかったが、おばあちゃんはそれを私によく一丁目まで持っていくようにいいつけた。

 上ノ市部落から一丁目に行くには、国道を南に下って十文字の久大線のガードをくぐり、春日町の商店街を抜けて、玖珠川にかかる脇心橋を渡り、塚脇の町を通り抜けてから北山田へ行く道に出て、これを西に下って行かねばならない。途中、だんだん大きく覆いかぶさってくるような伐株山の山容を確かめながら、適当なとろから田圃の中の道を左に折れて入って行く。そして、もう伐株山の麓に間近い早水(そうず)というところまできてやっと目的の家に行き着く。

 そこはおばあちゃんの生まれ故郷だったから、何かことあるごとにお餅やおこわごはんを持って行ったり、貰ったりしていた。私はそのたびに重箱に入れて風呂敷で包んだおこわごはんを抱えて、片道一時間以上もかかって歩いて行かなければならなかったので、お祭りやお祝いごとがある度に大人たちが、少しぼっちのおこわごはんやお餅を、こんなに遠いところまで持って行ったり貰ったりするのが無駄なことのような気がしていた。

 子供にとっては、上ノ市を一歩外に出るともうそこは敵地で、一丁目まで行くには幾つもの敵地を通り抜けて行かねばならない。特にすぐ隣の平部落には、よその子供が来るとすぐ苛める悪童たちがいたから、そこを子供だけで通り抜ける時は、その悪童どもがいないのを確かめてから急いで走り抜けたものだった。運悪く敵の歩哨に捕まったりするとややこしいことになる。

 捕虜が私のように小さい子なら敵も余裕がある。大将などが出てきて「泣け! 泣いたら通してやる!」などと優しげに言うと捕虜は本当に泣き出す。悪童どももさすがに泣く子には勝てないので、「よしよし、はやく行け!」といって保釈するのである。私は泣き虫だったことでは誰にも引けをとらなかったので、それほどひどい目にあった経験はないが、東京から一時引き上げてきていた私の兄などは、敵の大将に捕まりそうになり、耳を引っ張られながらも振り切って走って逃げたことがあった。

 そんな具合だったから、逆に敵の子供たちが何かの用で上ノ市に踏み込んできたりしようものなら、今度は我々の報復も強烈だった。ある夏、平部落の小学校四、五年くらいの連中が、何を思ったか五、六人、イカダを押しながら三味線淵から上ノ市橋をくぐり、大胆にも堰を乗り越えて溯ってきたことがあった。発見者からの伝令で敵の侵入を察知した上ノ市の悪餓鬼部隊はただちに橋の上に終結してこれを迎撃、侵入者どもに「何用あってかくも上流まで侵入してきたか、そのわけを聞こう! 理由次第ではただでは帰さんぞ!」と脅かした。

 敵は、意外に短い時間に大勢の子供が集まって来たことに驚いた風で、慌ててイカダを堰の上から下流に落とすと、大慌てで逃げていった。われわれ下級生も橋のうえから逃げる敵めがけて石を投げたりして、日頃苛められているうっぶんを晴らした。

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おこわと餅の話

 一丁目までたった一人で一時間以上もおこわごはんを抱えて歩くのは、男の子にはいかにも退屈なミッションである。私はよくふて腐れて寄り道をし、田圃から流れ落ちる水の溜りにいる小魚を追ったり、土手に小鳥を見掛けるとその巣を探したりしながら、ゆっくり時間を掛けて歩いた。ようやく一丁目の家にたどり着くと大岩扇や宝山ははるか遠くに霞んで、随分遠くまで来てしまったことを実感した。

 後になって三角乗りで自転車に乗れるようになってからは、私の一丁目行きはずいぶん楽になった。隣りの家にあった二十八インチの大人用自転車を借りていくのだが、未舗装だった道路を走って行くのだから、一丁目につく頃はおこわが餅のようになっていたこともあった。
 おこわばかりでなく、お祭りや節句には餅もよく持って行った。私はことのほか餅が好きだったので、暮れが押し迫って正月餅をつく日は嬉しかった。

 奥座敷に餅の入った室蓋が幾段も重ねられ、正月が来ると毎日雑煮が食べられるのが何よりも幸せだった。それでも旧正月になる頃にはほとんどなくなってしまうから、旧正月には新正月にもましてたくさんの餅をつく。旧正月には嫁さんを里帰りさせるので、そのお土産用に飛び切り大きな鏡餅をつく。大きな鏡餅を持たせることでその家の豊かさを鼓舞し、里の親は娘が大事にされていることを知って安心するのである。昔は嫁の里帰りには牛を引いていったといい、牛の背中に一斗餅を載せたものだそうだ。一斗の鏡餅とはどれくらいの大きさになるのだろうか。

 私は正月の雑煮が大好きで、子供のころは一〇個以上も平気で食べた。森の雑煮はお湯で餅を煮ておき、これをお椀にいれてから、上から椎茸、煮干しで出汁をとった醤油味のおすましをかけて食べる。ユズの皮と三つ葉の香りがするお雑煮は何よりのご馳走で、幾らでもお代わりができた。みんな食べ終わってもまだ足りないので、神様や仏様、お地蔵様、荒神様、水神様などに上げたモチを硬くならないうちに下げてきて頂いたりした。

 正月モチは暮れの十二月二十八日につく。二十九日につくのは苦モチと言って縁起が悪いから、昔から二十八日に決まっていた。朝早くから臼や杵をお湯で暖めておき、朝御飯を食べ終わると女手で蒸籠(せいろ)を何段も重ねてもち米を蒸し始める。やがて頼んでおいた男たちがやってくると、賑やかな餅つきが始まる。本家と呼ばれたうちが餅をつく時には村の若い衆がみんな集まって餅をついたから、わずか四斗か五斗の餅はあっという間につき終わった。

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